三船敏郎のプロファイル
1920年(大正9年)4月1日、中国山東省で写真業、三船徳造(とくぞう)の長男として生まれた。三船敏郎は本名。父親から教えられ写真の技術を身に付けた。大連中学を卒業してから入隊、日本陸軍の航空写真を扱う偵察員となる。その後滋賀県八日市の「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、同部隊で鷺巣富雄(さぎす とみお)や、大山年治(おおやま としはる:東宝の撮影技師)と知己を得る。戦争末期、熊本、隈之庄の特攻隊基地で特攻兵が『死出の旅』に向かう直前の肖像撮影に従事中、終戦を迎えた。
復員し職を求め、東宝の大山を訪ねたら撮影助手の代わりに俳優志望をすすめられ、不本意ながらニューフェィスに応募し、黒沢明(くろさわ あきら)と山本嘉次郎(やまもと かじろう)の票を得て合格した。(その詳しい経緯は最下段の『余談』を参照)俳優としてのデビューは1947年(昭和22年)、谷口千吉(たにぐち せんきち)監督の『銀嶺の果て』。1962年(昭和38年)三船プロダクションを設立、1965年(昭和40年)東宝から独立、1981年(昭和56年)三船芸術学院設立。晩年は軽い認知症にかかっていた。1997年(平成9年)全機能不全で東京都三鷹市で没、享年77才。
代表的な出演作品(合計約150本の出演から)
黒沢明監督『酔いどれ天使』1948年(昭和23年:右の写真);『野良犬』1949年(昭和24年:左の写真);『羅生門』1951年(昭和26年);『七人の侍』1954年(昭和29年);『宮本武蔵』1954(昭和29年);『蜘蛛の巣城』1957年(昭和32年);『無法松の一生』1958年(昭和33年);『用心棒』1961年(昭和36年);『椿三十郎』1962年(昭和37年:下右の写真);『天国と地獄』1963(昭和38年);『赤ひげ』1965(昭和40年);『座頭市と用心棒』1970(昭和45年);など。外国映画に主演または出演した作品
『価値ある男(メキシコ)』1961年(昭和36年);『グラン・プリ(米)』1967年(昭和42年)『太平洋の地獄(Hell in the Pacific)』1968年(昭和43年);『レッド・サン(仏)』1971年(昭和46年);『ミッドウエー(米)』1976年(昭和51年);『太陽にかける橋(英)』1976年(昭和51年);『ウインター・キルズ(米)』1979年(昭和54年);『1941(米)』1979年(昭和54年);『将軍(米)』1980年(昭和55年);『仁川インチョン(米韓合作)』1980年(昭和55年);『最後のサムライ(米)』1980年(昭和55年);『カブト(米)』1980年(昭和55年);『シャドウ・オブ・ウォルフ(仏加合作)』1994年(平成6年);『ピクチュアー・ブライド(米)』1995年(平成7年);他。ヴェネチア国際映画祭で男優賞を2度受賞し、世界のミフネ』と呼ばれた。
素顔の三船敏郎
-----アラン灰田の回想-----
-----アラン灰田の回想-----
私は1975年まで、世田谷の成城、三船敏郎さんの近所に住んでいた。奥さんが生け垣の手入れをしているのを見かけることはあったが、あの大俳優と知己を得るなどとは夢にも考えていなかった。
1975年、私は子供をハワイで教育する目的でホノルルに引っ越した。それを知った伯父の高校時代の親友リチャード崎本医師が、コナの『世界カジキ・マグロ釣り』のトーナメントに参加するよう招待してくれた。崎本医師は2万人以上の赤ん坊をとり上げたベテランの産婦人科医師で、55フィート(約17メートル)の船を所有し、トーナメントの常連だった。魚釣りでは、私はむしろ潜って突く方が得意だったが、それ以来そのトーナメントに毎年参加し、1977年には、616ポンド(約280キロ)の大物カジキを釣り上げ、その年のチャンピョンとなり、デューク・カハナモク・トローフィーを獲得した。(右の写真は、受賞したアラン灰田。左はミス・コナに選ばれた女性。)
その頃、三船敏郎さんが喜多川美佳(きたがわ みか)さんを連れ、彼が以前から懇意にしていた崎本医師の招待に応じてホノルルに現われ、トーナメントに参加した。会場はビッグ・アイランドのコナで、いつものように崎本医師は船をクルーに運ばせ、私達と共にホノルルから飛行機で合流した。その日は、私が三船さんをコナ空港へ迎えに行った。彼らのバッゲージ6点が全てルイ・ヴィトン製で、それらを三船さんがいとも無造作に扱っていたことに目をみはった。これが大俳優と知遇を得た時の第一印象である。(下左の写真:中央が三船、その右隣は崎本医師)
たまたま私がコナ沿岸に面した家を持っていたので三船さんと喜多川さんに泊まっていただいた。ちなみに、その家は以前ジョン・ウェインが結婚式を挙げたという曰く因縁が付いている。そこで前代未聞の饗宴が始まったのである。
先ず、三船さんが満州時代に身に付けたという9コースの中国料理のお手並みを見せてくれたこと。次に、三船さんがふらりと出掛けて行き、巨大なジョニィ・ウォーカーの瓶を抱えて帰ってきたこと。その大瓶を三船さんが嬉しそうにテーブルの上にドンと置いた時、私たちは思わず喝采を送った。その超大瓶のウイスキーは酒店の看板だったのを、店主にねだって買い取ってきたということだった。こうした三船さんの素顔に近々と接してみると、映画での登場人物そのままなのに驚かされた。
強烈に私の記憶に残っている三船さんの役柄は『無法松の一生』の松五郎だったが、目の前の三船さんのイメージと無理なく重なっていた。(右のポスター:大写しはマドンナ役の高峰秀子[たかみね ひでこ])そこで『無法松』のクライマックスでみだれ太鼓を打つシーンの裏話を聞いてみた。
あのシーンを撮影する3日前に稲垣浩(いながき ひろし)監督に太鼓の練習をしろ、と言われ、あわてて当時日本一と評判の高い師匠について三日三晩徹夜続きの猛訓練を受けた結晶だった、とのことだった。それを聞き私は、華やかに見える俳優にも知られない苦労があるものだと感心した。ところで、『無法松』は1958年のヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞している。
私たちは、三船さんと多喜川さんの二人のことは、できるだけ意識しないようにしていた。ある日、多喜川さんが沿岸で魚釣りをしたい、というので私が手を貸して餌も付けてあげた。首尾よく真っ赤な魚を釣り上げたまではよかったが、それを見た三船さん、「バカッ!金魚じゃないか」と一喝。気の毒やら可笑しいやら、、、スクリーン上の配役そのまま、三船さんの男性的な人柄は演技の上でも常に素顔なのだということを実感した。
余談:ニューフェイス、三船敏郎
1947年、撮影技師を志望していた三船が東宝の大山年治を訪ねた時、あいにく空席がなく「取り敢えず第一回ニューフェイス募集を受けてみろ。入社してしまえば 後で撮影助手に呼べるから」と説得され、不本意ながら俳優志望として面接を受けた。そこで審査員に「笑ってみて」と言われ「面白くもないのに笑えません」と答えて不合格になりかけた。たまたまその状況を目撃していたのが山本嘉次郎とその弟子にあたる黒沢明。黒沢は三船の素質を看破し、山本は「彼を採用して駄目だったら 俺が責任をとる」と断言したため、辛くも採用となった、という一コマがあった。
1 件のコメント:
三船の成功は『時、所、そして人』にも恵まれていたと思います。適材適所とでも言いましょうか、演技で売った森繁久彌と違って、役柄を地で演じてはまっていたのがよかったですね。
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