AP通信およびヘンリー・ファウンテン(Henry Fountain)の報告を統合
2009年11月12日 NYT
太平洋戦争は、1945年(昭和20年)8月15日に日本が無条件降伏をして終わりを告げた。


別の一隻は『イ-14号』(右の写真の後方)、全長400フィート(122メートル)という大型で速度は遅いが世界を一周できるだけの燃料を確保し、1,800ポンド(816キロ)の魚雷をそれぞれ装着できる艦上爆撃機、愛知製、M6M晴嵐(せいらん)を2機搭載していた。格納中は主翼を折り畳み、出撃時は甲板のカタパルトから発射(離陸または離艦)される。(唯一機だけ現存する晴嵐は、スミソニアン博物館: Smithsonian Instituteに保存)
時すでに遅く、日本海軍の潜水艦はアメリカにとって脅威ではなくなっていた。『日本の潜水艦勢力と第二次世界大戦』の共同著者の一人、オールド・ドミニオン大学(Old Dominion University)の歴史学教授カール・ボイド(Carl Boyd)の言によると「アメリカ海軍は日本の潜水艦の動静を常に監視していた」とのことだ。
戦後一年経った1946年(昭和21年)、上記の潜水艦を含む5隻は米側に拿捕(だほ)され、検閲の目的で真珠湾に運ばれ、その後オアフ島南沖で爆破され約2,600フィート(約792.5メートル)の海底に沈められた。(その乗組員について触れていないが、彼らは一時的に拘束された後、日本へ送還されたと思われる。) 爆破の理由は多分、戦後米ソ間で情報交換を協定していたが、調査結果をロシアに知らせたくなかったためであろうとボイドは推測する。それに、拿捕された時の潜水艦はネズミが走り回っていてむさ苦しく、保存には耐えられない状態だったそうだ。(右上の写真は在りし日の、中央の『イ-401号』と後方の『イ-14号』)

同深海調査艇のパイロットで研究部長のテリー・カービー(Terry Kerby)、およびマックス・クレマー(Max Cremer)は「オアフ島南沖の海底は、第二次大戦の巨大な博物館だ。遺物の発見は大成功だ」と異口同音に興奮している。同研究所は、ハワイ大学内に所在する国立海洋環境管理局(The National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)およびナショナル・ジオグラフィックから財政的に援助を受けている。
1992年(平成4年)以来、カービーは試験的に真珠湾攻撃を攻撃して沈んでいるはずの『人間魚雷(Midget Sub)』の捜索を始め、2002年(平成14年)に残骸を発見した。
2005年(平成17年)には、研究所の科学者たちが、航空機(多分艦上爆撃機であろう)を3機搭載した日本の潜水艦『イ-401号』の残骸を発見した。
NOAAの海洋保護計画に当たっていたハンス・ヴァン・ティルバーグ(Hans K. van Tilburg)は「これは、非核潜水艦では史上最大であろう。第二次大戦後期における日本の先進技術を示すものだ」と認めている。
1 件のコメント:
昭和30年頃、ある政治家が「もう戦後ではない」と言いましたが、太平洋戦争に関する限り、まだ終っていないようです。戦争の傷は深い。
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