2012年4月25日水曜日

車がスター


『毛皮、パッカード、映画スター』という三題噺の結びです。

第一の『毛皮』は、往年、ヒット流行歌を次々と世に送り出した作曲家、全盛期に毛皮のオーバーをまとい高級車パッカードを乗り回していた阿部武雄の回顧談(作曲家、服部公一さんの随筆)でした。

第二は、そのパッカード社の盛衰小史をお送りしました。

そして今回は、往年の映画スターや有名人が所有していた車のアルバムです。このアルバムで見る限り、車がスターで、実際のスター達は車の引き立て役を演じているにしか過ぎないような気がします。これに同感なさる必要はありませんが、『ステータス・シンボル(Status Symbol)』とでも言いましょうか、所有する車が持ち主の地位、人柄、そして趣味を代弁していることは確かです。編集:高橋 経   (Photos from Donald McAnulty)

チャップリン夫人、ポーレット・ゴダード(Paulette Goddard) とRolls-Royce Phantom II


エリック・フォン・ストロハイム(Erich von Stroheim)とCadillac

ハロルド・ロイドミルドレッド・ディヴィス(Harold Lloyd & Mildred Davis)とBuick

ジョァン・クロフォード(Joan Crawford)と1929 Ford Town Car

ベーブ・ルース(Babe Ruth) と1926 Auburn Roadster

ジョニィ・ワイズミュラー(Johnny Weissmuller)と1932 Chevrolet

クラーク・ゲーブル(Clark Gable) と1932 Packard

ローレル、ハーディ(Stan Laurel and Oliver Hardy) と1930 Buick Phaeton

ジョアン・クロフォード(Joan Crawford)と1931 Cadillac Fleetwood

アル・ジョルスン(Al Jolson) とMercedes Benz

ジーン・ハァロー(Jean Harlow)とCadillac

ゲィリー・クーパー(Gary Cooper w/ William Powell)とDuesenberg
手前はウィリアム・パウエル 

バック・ジョーンズ(Buck Jones)と1933 Packard Special

エロール・フリン(Errol Flynn) とPackard Sports

タイロン・パワー(Tyrone Power)とDuesenberg

ロバート・モンゴメリィ(Robert Montgomery)とCadillac Sport Phaeton

ジョアン・クロフォード(Joan Crawford) と1933 Ford Roadster

ジェームス・スチュアート(James Stewart) とPlymouth

ジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers) と1937 Dodge

ソニア・ヘニィ(Sonja Henie)と1937 Code

セシル B. デミル(Cecil B. DeMille) と1937 Code

リタ・ヘイワース(Rita Hayworth) と1941 Lincoln Continental

ビング・クロスビー、その他(Bing Crosby+) と1939 Oldsmobile Coupe

ケィリー・グラント(Cary Grant) と1941 Buick Century

ジョン・ウエインモーリン・オハラ(John Wayne & Maureen O'Hara) と1914 Stuitz Bearcat

2012年4月21日土曜日

名車パッカード

前回のブログで、服部公一さんの随筆を再録した。音楽家の阿部武雄の遍歴についてで、『国境の町』、『妻恋道中』などを始め、数々のヒット曲を作曲して世に送り出したという話題だった。随筆の中で、彼の最盛期に「毛皮のオーバーを身にまとい、運転手付きでアメリカの高級車パッカードを乗り回していた、、、」とあった。


パッカード(Packard)』の名を見た途端に、私はある感慨がこみ上げてきた。だが、その感慨はまったく個人的なものなので、ここであえて公開しないが、その代わりパッカードの小伝をご紹介する。 編集:高橋 経

パッカードの盛衰

パッカード社は19世紀の終わりに、オハイオ州ウォーレン市(Warren, Ohio)のジェームス・ワード(James Ward Packard)ウイリアム・ダウド(William Doud Packard)というパッカード兄弟と、ジョージ・ルイス・ワイス(George Lewis Weiss)3人が共同して自動車会社を設立した。目的はただ一つ『3人が満足でき、他社の車に負けない高品質の自動車』を製造することにあった。
1904 Packard Tourer

明けて19009月、オハイオ自動車会社(The Ohio Automobile Company)が発足し製造にとりかかった。パッカード車の出だしは好調で製品の評判も上々だった。それと同時に競争会社が続々と誕生し、いずれも新車の名にオハイオの名を冠し始めた。創立2年後19021013日、そうした紛らわしさを避けることと、「社名と車名」が違う不都合さもあり、正式に社名をパッカード・モーター会社(The Packard Motor Car Company)と変更した。

2012年4月18日水曜日

夜の銀座で見かけた人


[はじめに:今回はある音楽家のお話で、作曲家の服部公一さんがその人を回顧した随筆を再録したものです。実のところ、編集としては『その人』より『その人が乗っていた車』に惹かれたのです。服部さんは、当編集者の「敵は本能寺」なる意図をご承知の上で、再録を許可してくださいました。編集:高橋 経 (イラストも)

夜の銀座で見かけた人
服部 公一(はっとり こういち)

あれは昭和40年頃のことだった。木枯らしの吹く夜9時すぎの銀座、資生堂のかど、ちょうど信号のかわり目にAさんを見かけた。
今日の銀座。昭和40年代にはまだ都電が地上を運行していた。
かのフランスの名優シャルル・ボワイエそっくりの顔立ち、決して大柄とはいえぬが、がっちりした身体を皮ジャンパーできっちりつつみ、左脇にははだかのバイオリンをかかえ同じ手先には弓をひっかけている。右手を軽く腰にあて、つかのま舗道にたちどまったその姿は、なんともキマっていたのである。かたわらにいる相棒の歌手らしき男が、なんとも矮小にみえて困るという図であった。

信号がかわり、彼ら二人は私が声をかける間を与えず、急ぎ足に銀座の華やいだ紅燈の小路へ消えていってしまった。バイオリンと銀座と皮ジャンパー、、、この組み合わせは、モーツァルトやバッハの音楽とはなじまない。明らかにこれは、もっと大衆的な音楽と相性がよいわけで、あの時彼らは、流しの音楽家であったはずだ。

しかしそれにしても、このボワイエの颯爽たる雰囲気、流しさんたちが共通に持っている何がしかの薄暗さがまったくなく、あのままパリのステージにのせてもそのまま通用する堂々たる貫禄であった。

私はAさんを認めた瞬間「あっ、悪いところをみたな、彼もだいぶ困っているのかな、、、」と思ったが、すぐに彼の相変わらずの意気軒昂ぶりを発見、ニヤリとしてしまった。

これが私のAさんを見かけた最後であった。その後二、三年たって、彼は亡くなった。どの新聞も小さな記事ではあったが、彼の死亡を紙面に掲載したのである。(註:昭和43年2月5日、享年66才。)

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Aさんは、主に私の叔父の親しい友人であった。共に山形が故郷であり、叔父は舞踊家、彼はバイオリニスト兼作曲家であったから、お互いご同業に近い存在であった。芸の上でこの仲間同士が切磋琢磨し合ったかどうか知らないが、十代からの遊び仲間で、いわゆる悪友だったのはまちがいない。大正末期、山形の活動小屋(映画館)『旭座』界隈にたむろして、不良少年めいていたのは叔父のはずだし、Aさんはそこの楽隊でバイオリンを弾いたり、活弁氏のカバン持ちをしたり、種まわし(フィルムを運搬する係)をしたりしていた勤労少年(?)であったのだから。

私がAさんを直接知ったのは、昭和13年頃の東京であった。その頃彼は大スターであった。アストラカンだかラッコだか銀狐だか、幼児の私にはわからなかったが、とてつもなくゴージャスな毛皮のオーバーをガバっと着込んだ外人風のおじさんが、ある日拙宅に現れたのである。そのおじさんは私におみやげと称して、金二円也をくれたのだった。生まれて初めて一円札二枚もらった私は、嬉しいより先にはなはだ当惑した。
またある日は、アメリカ車で最もカッコイかったパッカードの新車に乗って現れた。どうやら徹夜でバクチをやらかしての朝がえりで、叔父を送ってくださったらしいのである。この頃までがAさんの最盛期であったようだ。戦争になってしまっては、運転手つきのパッカードも毛皮のオーバーも不可能。Aサんも叔父も兵隊になるか、慰問団を組織して中国や南方諸島に前線公演をやりに行くしかなかった。

やがて終戦、叔父は舞踏はあきらめ、器用にまかせて寸劇グループ、、、今の何とかトリオ』とか『何々グループ』とかいうコミック・ショーをやる集団、、、などで細々と暮らしていた。その頃Aさんが何をやっていたか知らないが、奥さんが駅裏の闇市の一隅でスイトン屋兼飲み屋を開いていた。私は叔父につれられて、そこに行ったことがある。もっとも叔父はそこの客であると同時に、従業員であったらしい。その時、私は高校生だったのだが、それから十何年たって、前述の銀座街頭のシーンになるのである。

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若い頃の東海林太郎
テレビ華やかな1960年代にはいり、往年の名歌手たちがリバイバルの名のもとに、再びわれわれの目のまえに現れ始めた。なかでも東海林太郎さんはその目玉であった。彼が歌う『国境の町』、『妻恋道中』などは、若い世代に耳なじみ歌ともなり、日本国中に流れていた。

これらの作品こそは、あのAさん、、、つまり阿部武雄氏の作曲になる名作だったのである。東海林太郎氏があのリバイバル・ブームによって何程の大利益を上げたかは知らないが、作曲者阿部氏を再び十分にうるおすに至らなかったことは確かなようである。まあ、作曲者とはいつでもそんなものだが、、、。

阿部武雄の作品は、今でも夜ごとどこかのカラオケ・バーで流れている。それを聞くたびに、私はあのパッカードと毛皮と、最後の銀座での邂逅を思い出すのである。ちなみに、彼は混血だったそうで、それが彼のメロディの哀感と関わっていたように私には思われる。
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阿部武雄作曲の代表作品

  • 国境の町(昭和912月)[大木惇夫作詞、歌:東海林太郎]
  • 母を捧ぐる歌(昭和102月)[サトウ・ハチロー作詞、歌:東海林太郎]
  • むらさき小唄(昭和105月)[佐藤惣之助作詞、歌:東海林太郎]
  • 丹下左善の唄(昭和107月)[藤田まさと作詞、歌:東海林太郎]
  • お柳恋しや(昭和111月)[佐藤惣之助作詞、歌:東海林太郎
  • 江戸前みやげ子守歌(昭和113月)[時雨音羽作詞、歌:高田浩吉]
  • 吉さま人形(昭和115月)[土方喬作詞、歌:東海林太郎]
  • 妻恋道中(昭和124月)[藤田まさと作詞、歌:上原敏]
  • 蛇の目のかげで(昭和125月)[並木せんざ作詞、歌:日本橋きみ栄]
  • 流転(昭和127月)[藤田まさと作詞、歌:上原敏]
  • 裏町人生(昭和128月)[島田磐也作詞、歌:上原敏、結城道子]
  • おしどり道中(昭和131)[野村俊夫作詞、歌:上原敏]
  • 関の弥太っぺ(昭和136月)[藤田まさと作詞、歌:高田浩吉]

2012年4月17日火曜日

豪華ヨットの浸水式




パット・ハニガン(Pat Hanigan)提供
201249

ある人(匿名希望)が超豪華ヨットを特別注文した。

全長85フィート(26メートル)、客室4つ、最新技術を駆使した設備、GPSおよびレーダーによる航行指示装置、強力なツイン・スーパー・チャージのディーゼル・エンジン搭載、等々。

〆てお値段は747万4千7百93ドル(6億627万8千9百35円)なり。

乗船したのは某企業の幹部重役2名。クレーンで吊り上げ着水までの費用、1時間につき2500ドル。進水式に準備したシャンペーン、チョコレートで包まれたイチゴとクリーム、ドックの傍らで音楽演奏、『間もなくヨットの持ち主』になる某氏とその取り巻き数名。その経費、1万ドル余り。

2012年4月7日土曜日

復活祭、タマゴ、ウサギ、生誕祭



4月8日はイースター、十字架で処刑された筈のキリストが蘇ったという伝説から復活祭として祝福する伝統が起こり、今日まで続いている。

2012年4月3日火曜日

囚人から国会議員に


トーマス・フラー (Thomas Fuller)
4月1日付け、NYTの記事から

ミャンマー民主化へ移行の第一歩が始まった。

軍事独裁の圧政下にあり、ミャンマーの民主化運動を推進してきたダウ・アウン・サン・スー・チー(Daw Aung San Suu Kyi:66才)女史は、1991年、ノーベル平和賞を授賞した後、15年ほど軟禁されて口を塞がれ政治活動を抑えられていた。釈放され、民主国家連盟党(the National League for Democracy)から今回の選挙に立候補し、多数の支持者たちの投票を得て議員に当選した。