2012年12月26日水曜日

あくまでも透明なカレンダー・ガールズ


2012年もあと数日で終り、新しい2013年が始まります。

このブログは、オバマ大統領の第1期就任前に始め、丸4年経ち、300点余りの随筆、評論や訃報を発表してきました。これも読者の方々のご支援の賜物です。オバマ大統領、2期目の発足に足並みを揃え、多難な年にどのように展開するか、引き続きよろしくご支援をお願いいたします。
第二次大戦当時、アメリカ兵の間で最も人気があったBetty Grable
今年のブログ納めとして、来年のカレンダー・ガールズをご紹介いたします。今から80年ほど昔の1930年頃にモデルを撮った写真家(姓名不詳)は、多分この世に存在していないと思います。当時としては画期的なレントゲン写真の先駆者でしたが、あまり世間から認められなかった作品を、改めてご観賞ください。 編集:高橋 経

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2012年12月19日水曜日

哀悼回顧:ダニエル・イノウエ


ダニエル・ケン・イノウエ
1924年9月7日~2012年12月17日

ハワイ選出の上院議員、ダニエル・ケン・イノウエが昨日88才で亡くなった。

イノウエは、1924年9月7日、ハワイ生まれ、祖父はさとうきび農園へ働きにきた日本移民。

1945年12月7日(ハワイ時間)日本空海軍が真珠湾攻撃で日米戦争が始まり、日系アメリカ人は『敵性国民』と断定され、本土西海岸の日系人11万人が僻地に撤去させられた。

ハワイの日系人は、撤去の対象にはならなかったが、適齢期の二世たちはアメリカへの忠誠を示す手段としてアメリカ軍隊に志願した。イノウエもその一人で、訓練の後二世部隊の一員としてイタリア戦線に赴き『ゴー・フォー・ブローク(Go For Broke)』のスローガンを掲げて奮戦し、フランスを解放し、アメリカを勝利に導いた。二世部隊の働きはアメリカ陸軍史上で最も勇敢で英雄的な行動であったと評価され、数多くの勲章を授与された。

イノウエはこの戦闘中に重傷を負い右腕を失った。

以下イノウエの豊富な経歴を抜粋し、略歴だけご紹介する。

◆ 1947年、除隊。


マーガレットと結婚
◆ 1948年、マーガレット・アワムラ(Margaret Awamura)と結婚。二人の間には息子が一人。

◆ 1950年、初志は医者だったが、片腕では不都合な職業なので変更し、ハワイ大学で経済と政治学を学び、後にジョージ・ワシントン大学法律部門で学位をとって卒業した。

◆ 1954年、ホノルルで公共検事補佐を務めたあと、ハワイ選出の民主党代議士に選ばれた。

◆ 1959年8月21日、アイゼンハワー大統領時代、ハワイはアメリカ50番目の州に昇格。その1週間後、イノウエはハワイの代議員となった。

◆ 1962年11月7日、民主党の議席が空いたのでイノウエはその席に就き上院議員となる。日系人では初めての議席であった。

◆ 1968年8月26日、イノウエは、シカゴで開催された民主党全国大会で主席として演説する。この間、ジョンソン大統領、ハンフリー副大統領らと親交を持つようになる。


ウォーターゲート聴聞会:右端がイノウエ議員
◆ 1973年5月、ウォーターゲート事件起こる。テレビで公開された事件の聴聞会に上院議員の資格で委員となり、席上鋭い質問で追求し、頭角を顕わした。結果としてニクソン大統領はその地位から失墜した。


◆ 1987年5月、イラン+コントラ事件の公聴会が始まる。イノウエは議員で構成された聴聞委員会パネルの委員長を務める。イノウエはこの事件に関して「肌が凍るできごとで、不正きわまりない違法行為である」と決めつけた。


◆ 1988年2月:北アフリカの仏領からのユダヤ難民を北米に受け入れる問題に関して、イノウエ議員は、政治献金にからんで反対の立場をとっていたが、人道上の見地から考え直し、8百万ドル計上したユダヤ人教育施設の建設を支持することにした。


C-17輸送機
◆ 1993年6月:クリントン政権下で、軍隊のコントラクター救出にからんで、国防省がマクドネル・ダグラス製(McDonnell Douglas Corp.)のC-17輸送機を購入する計画を立て、議会はがそれを認める段階になっていた。当時軍部の支出を監査する委員パネルの委員長を務めていたイノウエ議員は国防長官宛に同機の購入をうながす書簡を送った。同社はその後15年間生産を継続した。

◆ 1997年10月24日:初任から40年間議員活動をしてきたイノウエ議員は、出身州ハワイのために多額の予算を獲得してきた。その支出には、豪華回遊客船とか、第二次大戦で奮戦した日系アメリカ人将兵を顕彰する博物館の建設などが含まれていた。

◆ 2000年6月:アジア系アメリカ人21名が功労を認められ、最高の功労賞が授与された。イノウエ議員も大戦中の英雄的行動が認められ、その授賞者の一人となった。


◆ 2008年11月:イノウエ議員は、議会で最も有力者である上院議員長の椅子に就いた。この地位によって、イノウエ議員に対する陳情その他、職責上の負担が重くなってきた。

◆ 2012年12月17日:50年余りに及びアメリカ政治界で議員として活躍し、近年健康を損ない治療を受けた末に死亡。

ダニエル・ケン・イノウエのご冥福を祈る。 編集:高橋 経

2012年12月17日月曜日

『金』そして『乱』

ゆく年の印象を一字で表す年中行事に『』が最高票で選ばれたそうだ。
(次のビデオは朝日新聞から拝借)


なるほど、そういうものかと対岸の火事の気軽さで『』という字を起点にいろいろと連想してみた。

』を[キン]と発音すると鉱物の『』で、『』とすると「鉱物一般」ということになる。『』とすると更に値打ちが出て、キラキラした『』の意味合いが強調されるので、おとぎ話や小説作家たちは好んで使ってきたようだ。勿論『』の値打ちはエジプトの太古から、カリフォルニア州の『ゴールド・ラッシュ』を経て今日まで、綿々として不動の価値を持続している。

』を[カネ]と発音すると、むしろ「通貨」という意味合いをもってくる。だが通貨としての『』は存在するらしいが、流通しているのかどうか、一度もお目にかかったことがない。江戸時代の通貨、、、といっても庶民には縁がない小判が『』で鋳造されていたらしいが『』ではなかったようだ。『』は『』その他の貴重品を仕舞っておく一種の[物入れ]だが、その名とは無関係で『』が収まっているかどうかは疑わしい。

』は化学的には『24』であり、の職人は仲間同士では[ヤキ]と呼んでいる。『の指輪』は、『』だと柔らかくて摩耗が早いから、わざわざ『にして『』の割合を減らして、18とか14にするのだそうだ。

』の字が付く名前、例えば『太郎』、『次郎』、『』、『』などは親達が子供を『持ち』にしよう願って付けたのに違いない。『』という女性名が見えないのは、[苗字]の『』に独占されたしまったからであろう。

いずれにしても、『』は『』にせよ、[通貨]にせよ、それをたくさん蓄えている人は『持ち』であり、そうなりたく追求に余念のない人々は『』主義者である。『』に縁のない人々は『は天下の回りもの』とうそぶいているが、待っているだけで『』が庶民の方に回ってくるとは思えない。

政治と『』は本来、無関係なはずだが、どうやら『回り』のよい政治家の方が[権力]を獲得するのに有利なようだ。日本では衆議院選挙で、アメリカでは大統領選挙でも史上最高の『』がバラ巻かれたようだ。再選されたオバマの競合相手だったロムニーは[億万長者]で、『』の使い方に関する限り、オバマを上回っていたので、マスコミの予想は互角で「若しかしたら、ロムニー大統領」が実現するかに見えたが、オバマの半分しか票が得られず、敗退してしまった。この結果は『』以外の不慮の理由があってもたらされたものだが、『権政治』は東西を問わず共通する現象のようだ。

他人の『』を預かって利益を上げるのが銀行であり、証券会社であり、ひいては資本主義国家の企業殆どである。彼らの目標は、如何にして[利益を上げるか]、、、つまり『儲け』をすることが第一で[社会への貢献]は二の次、三の次にされているのが情けない。いずれも近世の『術師』の集合である。騙されないようご用心。

かくして日本の善良なる国民の多数が『』の字に票を投じたのだろうが、『』を選んだ人々がいたことも忘れてはならない。日本の国会の様子を観察していると、正に『』の一字に尽きる。今回の選挙で、自民党が大勝したそうだが、『』に陥らず、『』や『』を匂わせず、原発の存廃を良識で処理し、沖縄の苦慮を自国の問題として対処してもらいたいものだ。  ------- 編集:高橋 経

2012年12月13日木曜日

追悼:ラヴィ・シャンカァ

ラヴィ・シャンカァ(Ravi Shankar: 92)
1920年4月7日~2012年12月11日

ジョージ・ハリソンとラヴィ・シャンカァ、1970年頃
インド人のラヴィ・シャンカァはしばしばパンデット(Pandit: 賢者)という敬称で呼ばれていた。シタァ(sitar)という長大な弦楽器を使い作曲し演奏し、伝統的な曲も含め、インド音楽を欧米に広め人気を博した。ビートルズ(the Beatles) が敬愛し、特に故ジョージ・ハリソン(George Harrison)がその楽器に魅了され、教えを乞い習得した逸話は広く知られている。

シャンカァは若い頃、兄のウディ・シャンカァ(Usaipur Shankar: 1900~1977)が率いる舞踊グループについてヨーロッパ演奏旅行に同行した。18才になって踊りを止め、シタァの指導を受け、その演奏法を習得した。1944年、24才になったシャンカァは作曲を始め、1956年までオール・インディア・ラジオ(All India Radio)を通じて発表した。

以後、活動的に欧米で演奏活動を続け、ヴァイオリニスト、メニュイン(Yehudi Menuhin)ビートルズ等と親交をもち交流するようになった。また欧米の音楽をシタァ向けに編曲し交響楽団と共演し、1970年代から1980年代にかけて国際的な存在となった。

本国のインドでは、1986年から1992年までインド上院議会の候補メンバーとして奉仕、1999年には市民では最高のバァラ・ラトナ賞(Bharat Ratna)を授賞した。

2000年代になっても引き続き演奏活動を続けていたシャンカァの死後は、共演していた娘のアノウシュカ(Anoushka) が、父親ラヴィの跡を継ぐことになる。

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“Ravi Shankar I Am Missing You” 『ラヴィ・シャンカァ、貴方を偲んで』3:58分をご観賞ください。

2012年12月11日火曜日

軍国日本の復活?!


今を去ること67年前の1945年(昭和20年)、米英その他連合軍と戦っていた日本は惨敗を喫し、国土の大半は焼失して廃墟と化し、3百万人の生命が犠牲となり、北は樺太を含む島々を、南は沖縄以南の領土を失った。ダグラス・マッカーサー元帥を総司令官とする占領軍が日本の政治を司り、日本軍は全て武装を解除し、天皇は神格を放棄して人間宣言をし、新しい憲法が発布された。

沿岸警備船の訓練に派遣されたアフリカやアジアの代表
その新憲法の骨子は、「日本は武力を放棄して『永遠に』平和国家となり、一切の戦争に介入しない」ということであった。しかし、この憲法は『ザル法』だったようだ。敗戦の悪夢が覚めやらぬ内に、非常事態が生じた際の国防、という名目で『自衛隊』が誕生した。経済の復興に伴い自衛隊の軍備は増大し、曽ての大日本帝国陸海空軍の武力を遥かに凌ぐ戦力を備えてしまった。近代的武力で欠けているものといえば、『長距離弾道ミサイル』と『核潜水艦』である。
船内を見学し勉強する代表たち
だが北朝鮮からの脅威であるミサイルを、未然に空中で爆破してしまう『対空ミサイル』装置は確保している。
それでも自衛隊は、日本独特の天変地異が発生する度に出動し、被災者の救助に当たったため、国民は彼らの『武力』はともかく、『援助活動』には敬意を表し、感謝している。
かくして日本は敗戦以来67年間、世界のどこかで常に起きていた紛争をよそに、憲法を守り『平和国家』を享受し続けてきた。正に、古くはなったが新憲法サマサマである。ところが世界の情勢は、憲法をタテに他国の紛争に無関係でいられなくなった。それは多分、米英をはじめとする『大国』が、紛争に苦しむ『自由国家』を保護するために膨大な予算を費やし、軍隊を送っているのに、『経済大国』である日本が知らん顔をしているのは不都合である、という非難が出てきたため、敗戦以来、今年初めて自衛隊の海外派遣の予算が計上され、東南アジアその他の国々を援助し始めた。
東京湾でパトロールの実習中


こうした動向は敗戦で誓った『永遠の平和国家』の理想とは反するものであるが、中国の圧力に屈しないため、という理由もうなずけないことはない。殊に、東シナ海の無人島同然の尖閣島の所有権問題となると、『保護者』である筈のアメリカが後押ししてくれない限り、日本は自力で所有権を護らねばならなくなる。これが野田首相の言い分であり、『自衛隊』『国防隊』に格上げするだけで、『攻撃』でなくあくまでも『防御』が目的なのだというのである。
同時に『災害援助』から一歩進めて、他国の国防を援助する計画も進められている。その計画の内には、領海の拡張に積極的な中国の圧力から護るための水上飛行機とか、浅い沿岸を警備するに適したディーゼル発動機潜水艦を提供(有料で)することが含まれている。

これに対して国民の反応は半信半疑といったところだ。敗戦から67年経った今日、戦中戦後を体験した世代は2割前後で、以後この割合は減るいことはあっても増えることはない。とは言うものの、『軍国日本』の復活を戦争体験者が反対し、無戦派が賛成しているとは限らない。例えば、石原慎太郎は敗戦当時12才で敗戦の悪夢を体験しているはずだが、尖閣島問題に関する限り好戦的な姿勢を示している。
北京での反日デモ
中国での激しい『反日デモ』も日本を挑発するに充分な要素だ。
領土問題は尖閣島の他に、竹島問題あり、永年停滞し続けている北方領土、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)島など、日本にとっては頭痛の種が山積みしている。
もともと土地も海も、誰のものでもなかったのだから、誰も『所有』することなく、自由に上がって釣りなど楽しむことはできないものだろうか。いずれにせよ、武力で解決することを避けて、外交で妥協してもらいたいものだ。 編集:高橋 経 (写真、地図はニューヨーク・タイムズから。コー・ササキ撮影)

2012年12月6日木曜日

追悼:ディヴ・ブルーベック

第38回グラミー賞受賞式で演奏:1999年 

 ディヴ・ブルーベック

Dave Brubeck
1920年12月6日~2012年12月5日

売り出し当時のブルーベック:1950年代
生まれはサンフランシスコ湾岸地区。1960年代からジャズ・ピアニストとしては最も進歩的な作曲家として、92才の誕生日(12月6日)を目前にして亡くなるまで活躍を続けた。クラシックの素養を身につけていたが、飽き足らずジャズに熱中し、創作的なジャズの新風を巻き起こした。ブルーベックを一躍モダンなクール・ジャズのトップに不動の地位を築いた出世作はテイク・ファイヴ(Take Five)』。YouTubeでは、他の著名な音楽家たちも『テイク・ファイヴ』を演奏しているし、また2010年にブルーベック自身が再演している。だが、1966年に公演した『テイク・ファイヴ』のビデオがモノクロながら当時を偲ぶに最も適切だと判断したのでお贈りする。5分22秒、当時の観客と共に堪能し、稀代のジャズ作曲家の冥福を祈っていただきたい。 編集: 高橋 経


Paul Desmond−サックス, Joe Morello−ドラムス、 Brubeckの後ろは Gene Wright−ベース

2012年12月3日月曜日

ナイアガラの滝、101年前のできごと



ジェームス・ソマーズ(James Sommers)が、母親から聞いた話。


観光客で賑わうナイアガラの滝 

「あの頃,私の従姉のソフィア(Sophia)がナイアガラの滝の傍に住んでいてね、、、。ある朝、目が覚めた時、いつもと違う『何か』を感じてね。それが何なのか、直ぐには判らなかったんだけど、やっと、いつも聞こえる筈の『音』が聞こえないことに気が付いたの。その『音』とは、ナイアガラを流れる水が滝に落ちる時のすさまじい轟音を、ソフィアは絶え間なく聞いていたのです。
「奇妙に思って表へ出ました。もちろん冬の真っ最中、オーバーを着て、手袋をはめ、耳まで覆う帽子を被り、ブーツをはきました。裏庭を出ただけで目の下に見えるナイアガラの川と滝を見た時、ビックリして開いた口がふがりませんでした。川も滝もすっかり凍って動いていなかったからです。」

1911年、冬のできごとだった。





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発行編集責任者: 高橋 経

2012年11月28日水曜日

いつか溺れる自由の女神


この世の終りか、水浸し

水中に没するであろう『自由の女神』。空想科学小説ではない。Owen Freeman画く


最近、アメリカ東部沿岸を襲ったハリケーン、『サンディ』(Harricane Sandy)は、天文学的な数字に上る被害を残して去った。その被害の修復と復興には、莫大な費用と才月がかかるであろう。その詳細はマスコミの報道に任せるとし、ここでは、地球的な水害に焦点を当ててみる。

地球の温暖化が叫ばれて久しいが、改善はおろか、その現象を否定する人々,あるいは否定した方が都合が良い人々が多く、事情は悪化する一方である。今回、『サンディ』の被害で水害が目立ったが、これは温暖化で北極、南極の氷がどんどん溶けて流れ出した因果関係であり、それを否定することはできない。

ニューヨーク・タイムズ紙(11月24日付け)に、ジェイムス・アトラス(James Atlas)が評論を寄せ、その冒頭で:「この類いの水害はサンディが初めてではなかった。ヴェニスのピアザ・サン・マルコ(the Piazza San Marco)が水没したこと;暴風雨『カトリナ』でニュー・オーリーンズが水浸しになったこと;2004年の津波でインドネシアの沿岸が波に洗い流されてしまったこと、昨年3月、日本の東北では地震に続く津波で原発まで破壊され放射能が垂れ流しになったこと、などなどいずれも我々の記憶に新しい。昨年のハリケーン『アイリーン(Irene)』は北上しながらアメリカ東沿岸を襲って大損害を与えたが、ニューヨークは最悪の災害から免れた。T. S.エリオット(T. S. Eliot)は著書『廃墟(The Waste Land)』の中で、[水死の恐怖(Fear death by water)]を語っている。我々は今、その現実に直面しているのだ」と書いている。

一体、この先どうなるのであろうか?誰もが心配し、一部の科学者はその予測を算出した。ニューヨーク・タイムズ紙で発表されたその報告の一部をご覧いただきたい。

次の地図は、ニューヨーク市、ロサンゼルスとその近郊、サン・ディエゴとその近郊だけ選んでみた。それぞれ「現在の水位」を0メートルとし、「次の数世紀」には、水位が7.62メートル上昇する、という前提による比較である。薄い水色部分が浸食されて水没する。
左はロング・アイランド:右はマンハッタンとブルックリン地区の拡大
ロサンゼルスとその南、北、東の郊外
サン・ディエゴとその近郊
「100年も先のことだったら、自分には関わりない」などと考えめさるな。100年先に突然7.62メートル水嵩が増えるのではない。年々絶え間なく水位が上昇するのである。言いかえれば、沿岸が次第に浸食され、住居も何もかも水中下に沈んでいくのである。
これを防ぐには、地球の温暖化を食い止めるしかないのである。編集:高橋 経

2012年11月20日火曜日

宴(うたげ)のあと


志知 均 (しち ひとし)
2012年11月

都知事選を背景にした小説「宴のあと」の終わりのところで、三島由紀夫は、政治の泥沼の中では汚濁も偽善も人間性も、遠心分離の脱水機の中に放りこまれた洗濯物のように、早い回転で見えなくなってしまう、というようなことを書いている。
選挙戦中、民主党側から出された広報ポスター

投票日直前に二ユーヨークその他の東海岸を襲ったハリケーン、サンディ(Sandy)の被害まで加わった今回の大統領選挙の印象は同じようなものであった。オバマ(Barack Obama)ロムニー(Mitt Romney)も共に数億ドルの選挙資金を消費した長い選挙戦がデッド・ヒートになった10月後半以降は、相手の誹謗と揚げ足取りをテレビのスポット広告で繰り返す泥仕合になった。オバマの勝利で終わった選挙戦の成り行きを最後までつきあってうんざりしたのは私だけではないであろう。

今回の選挙は16兆ドルを超える財政赤字をどうするか、景気回復を促進し失業率を下げるにはどうすればよいか、など経済の問題が焦点であった。2008年に初当選したオバマ大統領は政府資金でまず金融機関と自動車産業を救済した。そのあと国民健康保険制度の改正に着手したが、それの立法化に月日をかけ過ぎたため景気回復が遅れ、失業率は上昇し、政府の財政赤字は大幅に増えた。その結果、経済問題を処理するオバマの能力に不満をもった国民は、2010年の中間選挙で共和党議員を多数下院へ選出した。その後も大統領選挙の投票日までGNP(Gross National Product: 国民総生産)は増えず、失業率もほとんど改善されなかった。したがって、ビジネスマンとして実績のあるロムニーの経済再建案に賛同するのは共和党支持者だけでなく、無党派のひとたちにも多かった。にもかかわらずオバマが再選された。何故か? 簡単に答えられる問題ではないが以下私の感ずるところを書いてみる。


ミット・ロムニー候補
今回の選挙結果は、現在のアメリカ社会が抱える問題の根が財政赤字額や失業率などの数字でみるものよりもっと深いところにあることを示している。オバマ再選が決定的になった時テレビに映ったオバマのまわりには白人よりも黒人やヒスパニック(Hispanic: メキシコ系、キューバ系など)の顔が多かった。他方、負けたロムニーを取り囲むのはがっくりした顔の白人男性が多かった。黒人、ヒスパニック、アジア人は少数派(minority)と呼ばれるが、その総数は多数派(majority)の白人人口をしのぐほど増えている。この少数派への働きかけに、オバマがロムニーより勝っていたのが勝利の一因であったことは明らかである。

黒人、ヒスパニックの少数派は社会の下層クラスに多く、政府の援助(食料品を無料で買えるfood stampや無料医療保険Medicaidなど)を受けている者が多い。保守的な白人男性は、この連中を社会の重荷だとみなしている。選挙戦の演説でロムニーが、「税金を払わないで政府援助で生活している47%の人たちはオバマに投票するであろうから、その人たちの支持は期待していない」という趣旨のことを言ってマスコミにたたかれた。確かに大統領候補者としては失言だが、現在のアメリカ社会の問題の本質に迫る発言で、たとえ人種差別の議論になろうとも、もっと掘り下げるべき問題だったと思う。

現在、全人口の16%が貧困と言われ、その階級を救済するのは急務である。また長引く不況で打撃を受けた中産階級への政府援助も必要である。しかしオバマ大統領の政策の方向は、富裕階級への増税、ビジネス、金融界への規制強化で、ヨーロッパ型の社会民主主義の拡大のようにとれる。それに対しロムニーは、連邦政府を縮小して、富と幸福を追求する個人の自由と権利に干渉しない------つまり伝統的な自由経済民主主義を強調する。オバマ的思考は民主党の進歩派に支持され、ロムニーの考えは共和党の保守派に支持される。進歩派と保守派の対立は新しいことではないが、今回の選挙はこの対立が際立ちアメリカが辿るこれからの方向を決める選挙だったといえる。共和党の地盤である南部(フロリダ、テキサスを含む)が、合衆国から独立したいという動きまであり、事情は違うが、南北戦争の確執がいまでも根強く残っていたのかと驚く。

オバマ大統領の当面の大きな課題は、Fiscal Cliff(財政上の絶壁)』をどうやって回避するかである。Fiscal Cliffというのは、2011年9月にオバマが政府支出を増やすための借入上限、つまり財政赤字の上限を上げるよう下院に要請した時、それを認める条件として、2012年の年末までに財政赤字を減らす法案を作ること、それができなかった場合には、2013年1月1日から強制的に政府支出を大幅にカットすることを決めたもので、軍事費、失業保険費などのカットと増税(90%の家庭の税金が平均3,700ドル増加)が施行される。もしそうなれば、2013年のGDP(Gross Domestic Product: 国内総生産)はマイナス1.3%に下がり、失業率は9.1%にはね上がると予想される。せっかく上向きの兆候がみえてきた景気も逆戻りするであろう。Fiscal Cliffを回避できたとしても、巨額(16兆ドル以上)な財政赤字の問題は続く。今回の選挙で大統領と上院は民主党、下院は共和党という構図は変っていない。民主党と共和党の対立は、オバマが大統領になってから激しくなり、ここ数年、政府予算は『前年比』を繰り返すばかりで立法化されていない。

誰の言葉だったか忘れたが、「Diplomacy is an art of compromise(外交は譲歩する技術である)」といわれる。大統領も議員たちも党の利益よりも国民の利益を優先し、お互いに譲歩して問題解決に取り組んでもらいたい。選挙前に誰かが車に貼り付けていた標語を思い出す。「Replace them all! (全員とりかえちまえ!)」。景気の回復が加速しなかったら、 国民は2年後の中間選挙でどんな裁断を下すだろうか?

2012年11月13日火曜日

日本人、ドナルド・キーン



マーチン・ファクラー(Martin Fackler)
2012年11月2日付け、ニューヨーク・タイムズの記事から抜粋

(東京発) 当年90才のドナルド・キーン(Dr. Donald Keen)博士、やや前かがみで小柄な容姿、そのつつましく謙虚な応対から、至って繊細で脆い印象を受ける限り、この人が敗戦で崩壊した日本に立ち直る勇気を与えてくれた人物だったとはとても考えられない。だがそうした外観をもつ生粋のニューヨーク子で、コロンビア大学の文学部教授から引退したその人は、今や、日本を終生の国として選んだのである。

昨年の地震津波、続く福島第一原発の放射能汚染などの災害以来、多くの外人居住者達が日本から逃れていったにも拘らず、キーン博士逆に意図的に日本へ戻ってきた。のみならず、博士は日本の市民権を獲得し、傷ついた日本に援助の手を差し伸べる意志を表示したのである。

こうしたキーン博士の姿勢は、日本で既に文化的知的層の間で尊敬の念を一身に集めていた人柄と相まって、喝采をもって新聞に取り上げられ、テレビのドキュメンタリーで放映され、博物館にまで掲示された。

太平洋戦争の末期、アメリカ海軍の下士官で、日本兵捕虜の訊問にたずさわっていたキーンは、合衆国で日本研究(founder of Japanese studies)を創設した。こうした業績が認められ、外人としては稀な賞を天皇から授与され、又その貢献により日本で最高の文学者たちと知遇を得ることになった。既に特筆に値いする経歴を持つもの静かで遠慮がちな笑みを浮かべる人が日本に帰化した事実は意外ともいえる絶頂期に立った。

キーン博士は現役中、しばしば日米間を往復した。日本に帰化するという行為は、日本に永年住んでいる多くの西欧人たちの殆どが避けてきたことだが、キーン博士にとっては帰化することによって日本人から「受け入れられた」ことの証左に他ならない。

帰化申請についてキーン博士は、「当初、私の申請に対して、大勢の日本人から『お前は大和民族ではない』という憤慨の手紙が殺到するのではないかと予想していました。私の予想に反して、皆が歓迎してくれました。多くの日本人は私の日本への愛着を察してくれたようです」と語っていた。

彼の日本への愛着は、昨年の東北大震災によって精神的に受けた打撃で沈んでいた日本人が自信を取り戻す勇気を与えてくれたようだ。その自信は、長期に亘る経済的な不安感にも救いになるであろう。

ホテルの喫茶店で私がキーン博士と対談している最中、テーブルの脇を通った人が、博士を認めて振り返って微笑んだ。この些細な一事でも、この年老いた学者が本国のアメリカより日本で名声を勝ち取っていたことが判る。インターネットやテレビ情報以前の古い時代の産物キーン博士は絶妙な話術をもち、生涯を日本に捧げて習得した彼の話術は聞く人を魅了しないではいられない。その話題は、博士が最初に日本に接した1945年、沖縄戦の最中のことであった。

キーン博士の顕著な人柄は、日本という単一民族の中にあって、謙虚な『ヨソ者』のまま、暖かく溶け込んでいったことであろう。今年、博士が日本国籍を獲得した時、日本の各大新聞は、彼が仮名(か漢字か不明、未確認)で書かれた『キヌ・ドナルド』なる手書きのポスターを掲げている写真付きで報道した。またこの目出たい話題を記念するため、新潟のある製菓会社は、キーン博物館を建て、ニューヨークに在るキーン博士の書斎を複製し展示の一部にする、と発表した。

博士は、将来いつか一般招待の講義をする考えがあるそうだ。過去の例から考えると、出席希望者が定員を超えるのが常だったから、入場は抽選で、ということになるであろう。

キーン博士は独特の控え目に、「私は今まで逢った日本人は、皆、感謝してくれました、、、(移民申請を扱う)司法省の係官以外はね」とユーモラスに漏らした。(国籍取得の手続きに必要な複雑な書類の提出、などの説明は省略)

ドナルド・キーンが日本へ憧憬の念を抱いたのは1940年(昭和15年)に遡る。コロンビア大学の学生で18才のニューヨーカーだったキーンは、或る日タイムズ・スクエア近くの書店で、日本では千年前の古典『源氏物語』の英訳本に遭遇した。その宮廷内の恋『物語』に魅了されて没頭し、既に国際的に緊迫していたヨーロッパやアジアの紛争から受ける恐怖から逃避することができた。

後年、キーン博士源氏物語から日本の繊細な美意識と、浮き草のように悲しい人生を甘受する情感が、彼の一生を虜(とりこ)にしてしまった。

アメリカが第二次世界大戦に参戦し、キーンは海軍に入隊し、日本語の教育を受け、情報部門の通訳となった。日本兵捕虜を訊問することを通じて、彼は日本人の心情を汲み取れるようになった。キーンが訊問した『捕虜第一号』は戦後、手紙を送ってくれたそうだ。

キーンは、その語学力を活用し、級友数名と共にアメリカでは初めての『日本を学術的な面から研究する(academic studies of Japan)』先駆者となった。アメリカ人の間では、キーンは日本文学について2巻に及ぶ翻訳と編纂を完成し、何世代もの大学生に紹介したことで知られている。彼によると、当時までアメリカ人の間で、日本文学は事実上殆ど知られていなかったそうだ。「私が思うに、私が欧米に日本文学を紹介するのに、それを大学の文学正典の一部とさせるという手段をとったのがよかったのでしょう」と言うキーン博士は、日本文学と歴史に関する書籍を25册も著述し発表してきた。

戦後在日中、キーン博士は時期が良かったこともあり、ちょうどフィクション小説の黄金時代に当たり、貴重な知識を吸収することができた。彼が知遇を得た小説家の中には
三島由紀夫、大江健三郎がいた。年配の文学者、谷崎潤一郎は気難しく、訪問者を避けていたが、キーン博士は例外扱いで招待された。キーン博士に言わせると、「私が日本の文化と真剣な態度で取り組んでいたからでしょう。私は日本語で文学を語る変わり者のガイジンだったのです」とのことだ。

小説家、辻たかし(?)は、キーンは日本人に日本文学の重要さと自信を蘇らせてくれました」と語る。は更に、キーン博士が日本人から受け入れられたのは、大方の西欧人学究徒は日本を研究する態度が冷静で客観的であるのに反し、彼の日本観察は暖かみがあり精神的に理解しようとしていたからで、そうした姿勢はむしろ日本人小説家以上の熱心さがあった、と説明した。そしては、同じことが、逆に超国粋主義者だった三島由紀夫の場合、欧米の文学傾向に影響されていたのと通じるものがあると言える。究極的に、「キーンさん」は情感的に立派な日本人なのだ、と結んだ。

さて、キーン博士、最後章の経歴に当たり、彼が日本人になったことで、彼は再び日本人に自信を取り戻させた。昨年コロンビア大学教授の職責から引退したキーン博士は、彼を日本人の一人として認めてくれたことへの返礼をしたい、と考えている。

「これ(89才で日本の国籍をとった)以後、アメリカ人であることを中止するわけにはいきません。でも私は色々な意味で日本人になりました。見掛けだけでなく、自然にです」とは、ドナルド・キーンの率直な気持ちである。
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編集註:ラフカジオ・ハーン(Lafcadio Hearn: 1850~1904) が日本文化を欧米に紹介し、日本人女性と結婚し、日本の国籍をとり小泉八雲と名乗ったのは一世紀以上前のことであった。

2012年11月1日木曜日

紙製の本は消え去るか?



今は読書週間の真っ最中で、今日11月1日は今年から新たに制定された『古典の日』である。日本なら『源氏物語』を、欧米だったら差し当たりシェークスピアをしっかり読もう、という企みであるようだ。

そうした結構な企画と呼応しているわけでもなかろうが、近年、電子書籍(electronic book: eBook)を含む電子出版が徐々に、そして確実に普及し始めている。当然、古典文学も含まれている。

つい先日、TIME誌(タイム)と一、二を争っている週刊誌の大手、Newsweek誌(ニューズウイーク)が、印刷雑誌を廃止して、全面的に電子版に切り替える、と発表した。
この傾向がさらに続くと、永年親しんできた『紙製の本』は消滅してしまうのではないか、と危惧する声が聞かれる。それに答える予測は後回しにして、電子書籍の歴史を振り返ってみよう。

◆ グーテンベルグ計画:1971年
グーテンベルグ

グーテンベルグ(Gutenberg: 1398~Feb. 3, 1468 )というと、1440年頃、活字(組み替えられるタイプ印字という意味)を実用化し、それまで僧侶が手書きで写経してきた聖書(Holy Bible)の多量な複製を可能にした人物である。そのことで彼は印刷業界の恩人とあがめられてきた。ちなみに、グーテンベルグが活字応用を実現させた年から遡ること300年も前に、ある中国人が陶製の活字を開発ている。また1403年には、ある韓国人が、グーテンベルグ活字の原型とも言える金属鋳造の活字製法を発明している。


鉛の活字
にも拘らずグーテンベルグの名前の方が印刷の歴史で重要視されているのは、何千とある漢字の数に比べ、たった26文字の組み合わせで文章を構成できるローマ字の方が、複製を迅速かつ能率的に印刷できたからであろう。この違いは、後世のワープロでも東洋語の電子化を遅らせた原因にもなったようだ。


グーテンベルグの「聖書」
いずれにせよ、1971年、マイケル・ハート(Michael Hart)の発起で、古典文書の保存を目的とし、それを電子化して収録し始めたのがこのーテンベルグ計画(Project Gutenberg)であった。電子化された古文書の中には、アメリカの『独立宣言(The Declaration of Independence)』が含まれていた。
現在同プロジェクトから、4万冊に及ぶ古典の電子書籍が無料で提供されている。

◆ インターネットの普及:1990年代初頭

1990年代以前には、インターネットはごく一部の専門家だけのものであったし、ISP (Internet Service Provider: インターネットを繋げる仲介業者)はコンピュサーブ社(CompuServe)がほぼ独占し、加入料金も高価だった。後に電話会社その他が続々とISPとして加わり、加入料金が下がって手頃になるにつれ、一般が続々と加入し始めた。インターネットの身近かな利点は、月々の基本料金は別として無料で文書交信ができる電子メール(eMail)である。これが加入者を急速に増やす原動力になり、それに加えて、あらゆる『情報』を容易に即刻に検索できるという利点が爆発的な普及につながった。それに派生して簡便な『買い物サイト』、友人の輪を広げる『社交サイト』、不特定多数への『発言の場ブロッグ』、個人、企業を問わぬ『自己主張、宣伝のホームページ』などなど、その利点は枚挙にいとまがない。

アマゾン・ドット・コム(Amazon.com)が書籍の通販を始めたのもこの頃であり、今ではインターネットでは最大の『売り手』に成長した。

◆ PDF (Portable Document Format)の登場:1993年

PDFは、ソフトでは業界最大のアドービ社(Adobe)が開発した『文書共有化』の形式である。それまでは、システムが違うコンピューターの間では文書の互換性がないという不都合な面があった。それを解決したのがPDFで、文書をPDFに変換すれば、受け取る相手のシステムが何であろうと文書、写真や映像を開くことができるようになった。これが、いわば『電子書籍』の基本的な構想となったのである。

◆ CD本の誕生:1990年代初期

CD (Compact Disc)は、既にLPレコードカセット・テープを駆逐し、音楽の媒体を占有していた。それまで『音』だけを収録していたCDが、文書や画像も収録できるようになった。これに従って、この以後に製造されたコンピューターにはCDドライブが内蔵されるようになり、CDの内容をスクリーン上で見ることができる。さらに音声も聞かれる『百科事典』や『雑誌』『カタログ』が発売され、また無料の宣伝材料にも応用されている。

◆ 電子書籍の静かな本格化:1999年


「開けゴマ!」ならぬ開けイーブック: Open eBook: は一般に知られないまま、古典文学や教科書の分野を開発し始めていた。まだ商業的な存在ではなかったが、、、。

◆ ソニー(Sony)とグーグル(Google Books) が電子書籍の商業化:2004年

ソニーのイーリーダー
先ずソニーがイーインク (eInk)と名付けた読書用の端末器を発売した。ほぼ同時に、グーグル(Google) が端末器ではなく、インターネットで電子書籍の販売を始めた。

◆ ソニー、二代目の端末器: イーリーダー(eReader):2006年

新しい二代目は、前記の eInk テクノロジーを活用し、今は亡きボーダー・ブックショップ (Border’s Bookshop)と提携し同社を通じて電子書籍の販売を始めた。

◆ アマゾンの挑戦:2007年

アマゾンのキンドル
紙製の書籍販売では独占的な販路を持っていたアマゾンが、キンドル(Kindle) と名付けた端末器で読めるeBook 販売を開始したのは、むしろ当然の成り行きだった。それまでに築き上げた広大な流通市場を利用し、アマゾンの電子書籍はたちまちトップの座に就いてしまった。

◆ スマートフォンの登場:2007年

アイフォーン
時を同じくしてアップル社 (Apple Co.) アイフォーン(iPhone)を発表した。このスマートフォンは基本的には携帯電話であるが、その多彩な機能は驚異的に豊富で、画面は鮮明、カメラやビデオまで組み込まれている。これが魅力で若者たちの間で爆発的に売れたことは周知の通りである。これはアマゾンの電子書籍と競合するどころか協調し、アマゾンから発売されている書籍をダウンロードして読める仕掛けになっている。これで、電子書籍の販路が大幅に拡大された。

◆ アップルの追い打ち、アイパッド(iPad)の登場:2010年

アイパッド・ミニ(手前)とアイパッド
スマートフォンは従来の携帯電話よりは大きいが、本を読むのにはもう少し大きければ読み易いのだが、といういう消費者の要望に応えたのがこの『タブレット(tablet)』型で、アイパッド(iPad)と呼ばれる形体の端末器である。これがスマートフォンと並行して、同様に爆発的に売れた。

消費者というものは勝手なもので、「大きければよい」と願った舌の根も乾かぬ内に「もう少し小さいと目立たなくて持ち運びに便利」なことを要求し、今年その小型アイパッド・ミニ(iPad Mini)が発表された。これは、もしかしたら消費者の要求に応えたというより、アップル社が販路を拡張するための消費者市場プラニングから生まれたのではないか、という観測もある。いずれにしても、『柳の下』にドジョウがいたようで、これも爆発的な人気を呼んでいる。

◆ 紙製の本は消え去るか?

いいことづくめの『電子書籍』の成長ぶりを観察してみると、紙製の本の将来は悲観的でしかないように思える。私は色々な理由で『電子書籍』を愛用し、友人にそれとなく推薦しているが、私の世代の老人ばかりでなく、若い世代の人々でも『電子』に抵抗を示し、『紙製の本』に執着している方がまだ大勢存在することは確かだ。

その理由は様々だが、一つには、『電子書籍』は端末器を介してのみ存在する、という不安定な面が否めない。一方『紙製の本』は『器具なし』でも手に取って直ぐ読めるという安心感がある。紙の「手触り」や「装丁」への執着も捨てられない魅力だ。

第二に、電子書籍』は貸し借りができないこと。『書籍』を収録している『器具』には個人的な情報が無数に入っているため、他人に貸与するわけにいかない。また収納された『書籍』を他器にコピーすることはできない。

というわけで『紙製の本』は次第に少なくなるであろうが、消滅することはない、というのが私見である。編集: 高橋 経

付記:毎年大赤字を計上している郵政省は、インターネットの普及による犠牲者(社)の最たるものではあるまいか。