2009年8月29日土曜日

麻薬、ドラッグ、覚せい剤:その3

麻薬には勝てない

ニコラス・クリストフ(Nicholas D. Kristof)
2009年6月13日; NY Timesに寄稿


[編集から註:筆者が「勝てない」と言っているのは逆説だとお考え下さい。]

今年はニクソン大統領(Richard Nixon上の写真)が麻薬絶滅作戦(Drug War)の方針を発表してから38周年になる。しかし、どうやら軍配は麻薬側に上がっているようだ。

元シアトル警察署長ノーム・スタンパー(Norm Stamper)は「我々はこれまで対麻薬作戦1兆ドルも費やした。これを何と説明したらいいのだ?今、
麻薬の在庫は需要に応ずるに充分の量があり、価格も下がっている。対麻薬作戦は大失敗だった」と私に語った。

という訳で彼は
麻薬を合法化することに傾いている。多分、麻薬販売を同州の酒類販売店や公認の薬局と同等に扱うことを考えているのであろう。他の専門筋では、麻薬の製造や販売は違反行為としたまま、麻薬の所有は罪に問わないことにするという提案もある。既に外国で実施されている基準と足並みを合わせるということらしい。

では、我が合衆国で過去38年間の対麻薬作戦の結果はというと、次の3つが挙げられる。


第一に、我が刑務所に収容されている囚人の人口が著しく増加した。合衆国における囚人の人口は世界各国の平均数の5倍となっている。つまり、麻薬法違反で投獄された罪人が、1980年の4万1千人から現在の50万人に膨れ上がった。対麻薬作戦が始まる前は囚人人口は各国並みだったのである。

第二に、わが国内では犯罪者が、海外ではテロリストが各々勢力を拡大している。だから経済専門家の多くは、麻薬統制法を緩和することが好ましいと思っている。つまり禁治産宣告法が
麻薬の価格を高騰させ、その利潤が南米の麻薬カルテルから、テロリストの本拠タラバンに至るまで、彼ら全ての資金を豊かにさせているからだ。それにどうやって対処するか、今年、メキシコ、ブラジル、コロンビアの元大統領たちは合衆国と協力体制で、一般の健康を考慮した禁煙キャンペーンの一環として、麻薬対策の新方針を検討している。

第三に、我々は資源を著しく浪費してきた。ハーバード大学の経済学教授ジェフリー・マイロン(Jeffrey Miron)によると、連邦政府、州庁、地方政府が、麻薬取り締まりのために年間441億ドル費やしてきた。我々は、麻薬の禁治産宣告、取り締まり、罪人収容に7倍も費やした。(州立監獄における14パーセントの麻薬中毒囚人の厚生治療も含む。左の写真:ドラッグ・ウォーで犠牲になった警察官の合同葬儀。メキシコでは2007年の1月以来、麻薬作戦に関連した双方で累計9903人が殺害された。)

私は
麻薬が人々を滅ぼした事実を知っている。私の出身地オレゴン州のヤムヒル(Yamhill)で、大勢の人々が精製されたメタンフェタミン(crystal methamphetamine: 興奮剤)の常用で人生を破滅させてしまった。一方で、有害な麻薬の影響を減らそうと躍起になっている人々に対して、もっと良い方法があると説得力を持つスタンパー元警察署長のような人にも巡り会えた。

スタンパーは、アメリカの麻薬規制法の大々的な緩和に賛成する警察官、検察官、判事、一般市民から成る組織『禁止事項を改正し法律を強化する団体(Law Enforcement Against Prohibition, or LEAP)』の活動的なメンバーである。彼は1967年にサンディエゴの若い意欲的な警察官だったが、次第に対麻薬作戦の成果に幻滅を感じてきた。(右の写真:作戦中、犠牲者の血が舗道を流れる。)

彼は当時を回想して「大麻を自分の家で精製(左の写真)していた19才の青年を、容疑の情報を基に、私は文字通りドアを蹴り破って逮捕し、重罪の廉(かど)で監獄に放り込んだ。その後、逮捕とそれに関連した書類の作成に何時間も費やした。そしてその瞬間に(書類作成が)事実上、警察官の仕事なのだと思い知らされた」と語っている。

今日では、対麻薬作戦は失敗だったと大方が認めている。オバマ大統領が任命した麻薬取り締まり責任者ギル・カーリコウスク(Gil Kerlikowske)がウォール・ストリート・ジャーナル紙に語った所によると『対麻薬作戦』という用語を無くして囚人の教育や治療に力を傾けることになる模様だ。


麻薬規制法を緩和することの責任は重く、不確実性は高く、深刻な危害、、、麻薬常用者の増加を招くであろうことも考えられる。しかし過去における失敗に比べたら、その損失は微々たるものだ。麻薬が規制外だった1914年におけるコカインの使用量は今日の5分の1にしか過ぎなかった。大麻所有禁止令を撤廃した州では、その後の消費量は殆ど上がっていない。

メリーランド大学の犯罪学教授ピーター・ルーター(Peter Reuter)は、麻薬法強化を唱える
一部のグループの主張には懐疑的で「大麻禁止令を撤廃して結果が悪くなるとは思われない」と言った上で「或はほんの少し使用量の増加が見られるかも知れない」と付け加えた。

要するに、我々は理想的な観念論を引っ込め、過去の体験から割り出した上でアメリカにおける麻薬問題に対応できる方法を探すことだ。最初一州か二州を試験的に限定して大麻の合法化を試み、公認された薬局に販売させ、その使用量や犯罪傾向の動向を測定してから判断を下したらよいのではなかろうか。

麻薬問題に関して再考慮を促しているのは私だけではない。ヴァージニア州の上院議員ジム・ウェブ(Jim Webb)によると、麻薬問題を含めた犯罪法規のあらゆる項目を再検討する大統領委員会を結成する立法を後援し「オバマ大統領も賛同している」とのことで「わが国の傷だらけな麻薬法は、犯罪法規全体を再検討するための理由の一部である」ということだ。


それは政治家として勇気ある姿勢で、我々一般国民が、アメリカにおける麻薬対処の将来に必要なリーダーシップの存在である。


[編集から:『対麻薬作戦』の詳しい経緯にご興味がありましたら、下記のドキュメンタリー映画(2時間)をお奨めいたします。題名をクリックするとご覧になれます。但し、日本語の翻訳タイトルは付いていません。]
"American Drug War: The Last White Hope"

2009年8月26日水曜日

麻薬、ドラッグ、覚せい剤:その2

[序:麻薬が社会を蝕んでいる現象は、130年もの昔、19世紀から綿々とはびこっています。今回の記事は、小泉八雲ことラフカジオ・ハーンが1875年、25才の時、シンシナティ・インクワイアラー紙の記者として取材したものから抜粋しました。出典は、日本では『「怪談」以前の怪談アメリカではWhimsically Grotesque(< クリック可能)というタイトルで販売され、購入できます。いずれも英語の原文と、その完全な日本語訳が共編されております。編集]

アヘン(阿片)とモルヒネ
1875年 (明治8年) 3月14日

増加するその利用者。

シンシナティおよびその近郊での需要。

消費量と、その恐るべき因果関係。

(上の写真;左は1870年代『忌まわしい街角』と呼ばれたシンシナティ市の中心街。右は同地点の今日の風景。2004年撮影)

ーーーーー(
前略)ーー この都市の街路を歩き回ると、何時でも大勢のアヘンの奴隷たちに出会う。中毒者は、麻薬の作用に影響を受けているかどうかに拘わらず、ひと目で見分けることができる。もし麻薬の影響下にあるならば、その肌が生気や艶を失い、目つきが異常に欄々と光っていることに気が付くであろう。もし彼等が恐ろしい毒性の物質の影響を受けていない時でも、不快な表情、革のような肌、落ち窪んで目標を失った眼差し、それに気だるく不確かな足取りに気が付くであろう。彼等は奴隷、絶望的な奴隷、とてつもない拷問に苦しむ奴隷で、シンシナティのあらゆる街路にいる。

彼等は生ける屍 ----- 存在するだけで、その日々は断続的に襲ってくる鬱病の明け暮れである。彼等の幻覚には、白馬の騎士がしばしば現われるが、その不自然な死因審問の無言劇についての幻覚は余り知られていない。ひと度アヘンモルヒネの束縛を受けると、一部の例外を除いて、一生解放されることはない。彼等の肩に悪夢の重荷がかかる。その重みはタイタン(ギリシャ神話の巨人)の強靭さで乗りかかり、そこから脱出できる可能性は殆ど望めない。


ーー(合法的な商取引についての報告は省略)ーーーーーー医者の間では、皮下注射が手頃で一般的な投薬法となり、従ってより多量に
麻薬を保有する必要に迫られている。化学者たちは、自分たちにとって好都合な薬剤ということで、これまた、声を大にして必要性を叫んでいる。しかしこうした理由で、需要を異常に増加させることは正常な消費ではない。薬品の卸業者たちの一団は、その法外な消費が月々増加するにつけ、末端の薬局が、今の内に何とかしなければ飛んでもないことになると憂慮している。

シンシナティの薬品卸業者に記者が訪れ、彼等の年間アヘン販売量が累計1,955キロに上ることを突き止め、同時に年間 319グラムのモルヒネが卸売りされていたことも判明した。一卸売り業者だけでも、450キロのアヘンと、45.35キロのモルヒネを毎年卸していた。


麻薬の消費は疫病であり、機械職人、ビジネスマン、専門職などの間に普及し、特に女性の間にも広まってきた。シンシナティで、中毒者たちはこの恐ろしい有害な欲望のためにその影響を受け、卑屈な振る舞いが日常となり、また社会の上位で尊敬されるべき地位を占めている人々の中にもいることさえ判った。彼等の多くは、麻酔薬の罠にかかった後、除々にアヘンを常用する習慣に引きずりこまれていく。

更に多くの人々が、一旦
麻薬の味をしめると、その奇妙な作用に取りつかれ、自から進んで鎖に繋がれたくなり、目を見開いたまま蛇のようなとぐろに絡まれてしまう。或る者は、ケシのジュースを飲んで痛みを和らげ;また或る者は麻薬の作用を知りながら、怖いものへの誘惑に落ち込み、ほんの試しのつもりが習慣となり、破ろうと思ったら時はすでに手遅れということになる。

最高のオーソドックス教会の中にも、
麻薬の理解し難い魔力に心を奪われた聖職者が、首を吊って自殺したという事件があった。でもこの自殺の下手人が、アヘンだったということを、誰が知っていただろうか?その牧師は何年間も麻薬の奴隷に成り下がり、体内を走る血管の隅々にまでアヘンが浸透した時だけ何か束縛していた鎖が切れて解放されたような気分になり、再び人並みになったと感じて雄弁に説教ができた。 その後、常用していたアヘンの作用による刺激が切れると、惨憺とした恐怖のドン底を目のあたりに見た。彼は、そうした幻覚症状にある時は組合教会に顔向けができないことも、身に付いてしまった毒薬によってのみ常人のように振る舞えることも知っていて、まさに暗黒の世界の淵に立たされている心地だった。とうとう、死ぬより他に道がないと思い詰めてしまったのである。

下層階級の人々が住む地区では、アヘンの奴隷は100人単位で数えるほどいる。売春宿では、アヘンが君臨している。彼等はきっと忘却剤が欲しかったのだろうが、その目的など問題外だったようだ。
麻薬はその作用によって、知性を麻痺させ、霊妙な至福感を幻覚させる。

考えてもみ給え。僅かな時間独りぼっちにされた瞬間、あるいは無邪気だった子供の頃の思い出が頭の中を駆け廻る瞬間、暗闇と恐怖が消え失せていく瞬間、夜毎の景観が闇の空に浮かび上がる瞬間、あの『不幸な人々』がこの強力な
麻薬に虚ろな夢を求め、モンテ・クリスト伯爵まがいの莫大な富と華麗な奢りに満たされ、言語に絶する光り輝く壮観にして気違いじみた妄想の中にどっぷりと浸る、という幻覚がどんなことか考えてもみ給え。彼等の野心が消え失せ、道徳心を磨く意欲が萎縮してしまった瞬間、麻薬の作用により奴隷になり下がっていく様を考えてもみ給え。

こうした人々は、飲んだくれがその悲しみをラム酒の中に沈めるように、この毒薬に同じ効果を求めている。ひと度
麻薬の魔力の奴隷になると、彼等はその作用なしでは拷問に身悶えする状態に陥る。 しかし麻薬の作用が働くと、彼等は苦悩の状態から神秘的に充足した幸福感に転化する。無意味な事柄が華麗な祭典に転じ、醜怪な物が深遠で美しい芸術に転じ、絶望のドン底にあった体験が祝福の美しい歓喜の絶頂に昇華する。

彼等は、いつでもそうなのだが、自分たちの周囲を取り囲んでいる死の霊気に反抗を試みる。しかし、この奴隷たちが体験した、かくも素敵で極端な状態も、いずれは単調な状態に萎縮してしまう。欲求不満がつきまとい、無関心さが彼等の唯一の指標になる。


彼等が摂取する毒薬の量は著しく増加し、信じられない量に昇る。記者が知っているあるシンシナティの市民は、重病人に投薬する強力な処方の100倍以上の量に相当する25グラムから30グラムのモルヒネを常用していた。そのモルヒネ常用者は間もなく、年令不相応に老化し、体格が萎縮し、エジプトのミイラのように皺だらけになり、シンシナティ市内病院に入院し、1日60グラムという途方もない量の
麻薬を摂取していた。

絶望的なアヘンを常習している奴隷の数は、アルコール中毒患者の100倍という恐ろしい数字を示している。後者のアル中は時に更生できるが、前者の更生例は皆無に等しい。アヘン常習者が更生することは極端に稀である。その例がシンシナティに一つだけあることが判ったが、その人がアヘンを止めたのは、他の強力な刺激薬(コカインと思われる)に乗り換えてその虜になったからに他ならない。

この
麻薬の奴隷たちは、ラム酒の奴隷のように乱暴にはならないが、束縛は強く;身動きができないほど固く縛られている。ひと度、その蟻地獄に引きずり込まれたら、地獄の一丁目から死神が救急車に乗って親切にお出迎え、という奉仕だけが唯一の救いになるであろう。

[編集後記:ハーンは、この数年後に他社へ移り再び麻薬の害について警告の記事を書いている。]

2009年8月25日火曜日

麻薬、ドラッグ、覚せい剤、その1

麻薬と私

高橋経(たかはし きょう)

麻薬が世界を蝕んでいる。
一口に麻薬と言うが、その種類はいろいろで作用や健康や精神に及ぼす影響も様々である。この記事では、その詳細はさて置いて麻薬が社会や個人に及ぼす害毒に焦点を当てるため、『麻薬』という言葉を総称として使わせていただく。ご存知とは思うが、アメリカでは薬一般を指す『ドラッグ』という同じ言葉が麻薬の総称になっている。

毎日見聞する新聞やテレビでの
麻薬に関する報道は世界中を覆って後を絶たず、その害毒は測り知れない。以下はそうした数々の報道から抜き取った見出しの一部。

★コスタ・リカから潜水艦で麻薬を輸送していた数人を逮捕。(右の写真)潜水艦は麻薬ごと押収。:(2007年:その潜水艦はフロリダ州の軍港に陳列されている。下の写真)

★世界的な
麻薬の消費で生産が落ちる(国連の報告):アフガニスタンでのアヘン(阿片)の生産が増産され、世界中で生産される麻薬の90パーセントを占める。一方、ヨーロッパでの麻薬の消費と、アフリカでの麻薬密輸販売が活発になっている。(2007年6月)

★医療を目的とした大麻の使用を合法化へ:州毎に合法化を可能にするため、オバマ政府の介入を避けようとする動きがある。(2009年4月)

麻薬法違反に問われて19年の禁固を宣告された男に執行猶予か?:被告の女友達が囚人の訪問を許可される可能性(2009年4月)

麻薬取り締まり強化でコロンビアの原住民に脅威(2009年4月)

★メキシコの
麻薬密輸ギャングの取り締まりから大量の殺人事件に発展:取り締まりに意欲を固めたメキシコ政府にオバマ大統領が協力体制を示す。(2009年5月)

★清純なイメージで売っていた女優某を覚せい剤法違反で逮捕:(日本、2009年8月)


幸いにして、今私の生活は麻薬とは全く関わりがない。しかし過去に麻薬と縁がなかった訳ではない。

東京が敗戦から立ち直り、復興し始めた1950年代、私は宣伝デザイナーとして独立していた。乱作で多忙を極め、しばしば徹夜の作業を余儀なくされていた。そんな時、黒木不具人(くろき ふぐと)と自称する悪友に覚せい剤を勧められた。覚せい剤と言っても、有名薬品会社が製造していた『ゼドリン』という気付け薬で、どこの薬局でも販売していた。ひたすらにその薬を飲んだが、疲れて眠い時には如何ともなし難く、目を開けていられなかった。黒木に「薬、飲んだのか?」と起されたので、その空き瓶を見せたら「お前、一瓶全部飲んじゃったのか!大変なことになるぞ」と狼狽した。その凄まじい狼狽ぶりを見て私は慌てたが、何故か何事も起こらなかった。


その黒木がある夜、東銀座の『馬車道』という深夜喫茶へ私を案内した。慣れているらしく、店には入らず脇の階段から屋根裏のような部屋に入っていった。そこにはマダムと覚しき中年の女性と若いハンサムな男が寝そべって『メイン』とか『静脈』とか言われる
麻薬の静脈注射の最中だった。彼らの腕の青い静脈には針を刺した穴による小さなかさぶたの点々が赤黒い線となり連なっていた。それを見て私は、黒木が店の表口から入らなかった理由を納得した。マダムは店の経営などお構いなしで麻薬の注射に耽っていたのだ。しばらく彼らが意味のない文学論を交わしているのを聞いていたが、次第に陰鬱な気分になってきたので機を見て引き揚げた。

それで
麻薬族とは縁が切れたと思ったていたが、ある日、神田に設定した私のスタジオに、森村と名乗る顔色の冴えない男が訪れてきた。『馬車道』のマダムに紹介された、と言い「何でも欲しいものがあったら一週間以内に探してあげる」と持ちかけてきた。まだモノが不足だった時代で、外国製の時計とかライター等の有名品は正規のルートでは手に入らなかった。「今のところ大体間に合っているから」と体よく断ったが、「それなら、、、」と言って「頭が冴えるイイ薬があります。いいえ、今日はお代は要りません。お気に召したら次に頂きます」と薬箱らしきものをチラつかせ、歌舞伎座に出入りし、名のある俳優たちがお得意客だとほのめかした。芸能界が麻薬で汚染しているとはかねがね聞いてはいたが、まさか誇り高き我が伝統芸能まで汚染しているとは信じられず暗澹たる気分にさせられた。幸か不幸か、その日の私は頭が冴えていたし、締め切り間際の仕事も抱えていなかったので「またいずれ」ということで売人(ばいにん)森村にはお引き取りを願った。

その後もチラチラと
麻薬の誘惑を受けたが「恐ろしい」というより「薬の力に頼る」ことに抵抗を感じて避け続けてきた。

数年後、風の噂によると『馬車道』のマダムは無一文となり路頭に迷った挙げ句行き倒れ、売人森村は麻薬取引きのいざこざでヤクザ仲間から刺し殺され黒木は31才の若さで麻薬中毒に加えてアルコール中毒の末期症状で焼酎を呑みながら入浴中に絶命した。いずれも人生の大切な意味に心を向けることなく、命と引き換えに束の間の陶酔に溺れていった連中だ。


あの時代から10数年経ち、私はニューヨークの会社でアート・ディレクターとして働いていた。コピーライターと協力して一つの宣伝物を作成するのが仕事である。そのライターの一人にヘイウッド(Haywood)という利発な男がいた。彼はある日「
麻薬は人間の創造力を刺激する」と言い、私に試してみろ、と誘いをかけてきた。私は即座に「もし君の言う通りクスリで素晴らしいアイデアが浮かぶのなら、それはクスリの功績であって君のアイデアではない。従って君の脳みそは空っぽで能無しだ」と激しく非難した。ヘイウッドを傷つける気持ちは毛頭なかった。むしろ私は彼の天性の才能を買っていたので麻薬から解放されてもらいたかった。

残念ながら、私の説得には耳をかさず、ヘイウッドは
麻薬に溺れ、会社から解雇され、噂でサンフランシスコの路上で宿無しの彼を見かけた、と聞いたのが最後だった。またそれが私にとって麻薬を誘われた最後でもあった。

2009年8月22日土曜日

ポンコツ車計画、成功裡に打ち止め

高橋 経 (たかはし きょう)

去る7月20日(月曜)、郵便物に混じっていた自動車の広告が目に止まった。普段なら、広告は無条件にクズかごに直行させるのだが、そのチラシは私の好奇心を誘った。一つには、日本製の車だったこと。我が家の近隣はアメリカ車の販売店ばかりで日本製やヨーロッパ製の車は近くでは買えない。それ以上に気になった二つ目の魅力は、宣伝文の内容だった。

「貴方がお持ちの車が25年物以内の『ガソリン垂れ流し』車で、ここに掲げた車を買うことによって1ガロンにつき10マイル(1リッターにつき4.2キロ)以上の燃費が向上するなら、アメリカの連邦政府が最高4,500ドルで買い取ります」とあったのだ。

私は現役時代、アメリカ車の宣伝を担当していた。それと日米経済摩擦時代を体験したことで、アメリカ車に忠誠を示す態度を維持していた。1994年に独立する寸前、シボレー製の商業用ヴァン(右の写真)を購入し、専ら引っ越し荷物や、日曜大工の材木などの運搬に利用していた。座高が高いから目線も高く、他の車を見下ろせる眺めに満悦していた。まだ、ガソリンは安く、燃費の心配をする必要もなかった。1ガロンで15マイル(1リッターで6.4キロ)の燃費は『ガソリン垂れ流し』と言うほどではなかったが、トヨタのハイブリッド、プリアス(アメリカでの発音)1ガロン50マイル(1リッターで22キロ)という走行距離に比べたら雲泥の差がある。それに20年物ともなると、エンジンとか車体に錆びが目立ってきた。愛着は大いにあったが、その日本車の広告文が本当なら今こそ手放す潮時だと決断した。

百聞は一見に如かず。翌朝、妻を同伴して我が家から112キロ北のトラヴァース市(Traverse City)にあるチラシの広告主ニッサンの販売店に出掛けた。広告に偽りなし、私のヴァンは資格に適合、最高4,500ドルの値引きで取引はトントン拍子に進み、2時間後には長年の愛車と別れを告げ、ニッサンの新車(左の写真:ニッサン、ヴァーサ・ハッチバック1.8L)を運転して帰宅した。

それから一週間、全米で私と同じような条件をもつ25万人の人々が販売店に殺到し、当初オバマ政府が用意した10億ドルが忽ち底をついてしまった。これが俗称クランカー計画(Clunkers Program:『クランカー』とは『役に立たない』,『ポンコツ』車のこと)と呼ばれる燃費向上対策の窮余の一策で、車の販売店も、オバマ政府も嬉しい悲鳴を上げ、この計画に更に20億ドル追加した。

それでも需要は高まる一方で政府の予算も限界に達し、8月24日午後8時をもって、計画を打ち切り幕を閉じることになる。


そもそも昨年来、フォード、GM、クライスラーのビッグ・スリーが没落した最大の理由は、『パワー』に溺れていたからである。経営上の『パワー』、エンジンの『パワー』、そして「大企業は盤石」という迷信に固執していたことに尽きる。高級車、大型車、トラックなど、利幅の大きい車の販売で莫大な利益を上げ、その甘い夢を見続け、石油の高騰による売れ行きの引き潮を過小評価していた。それでもフォードだけは小型車や経済車の生産もしていたので破産を免れたが、アメリカ自動車産業の人員整理や、ディーラー数の削減などによる大量失業、経済的な悲劇は末端にまで及んだ。

かかる非常時に選ばれたオバマ大統領は、ビッグ・スリーの没落輸入石油の高騰に業を煮やしていた。その二つの因果関係を一挙に解決するためと、消費者の意識を目覚めさせる必要性も感じていた。それには政府も本腰を入れて取り組まねばならなかった。

まずビッグ・スリーに絶対要求をつきつけた。石油の輸入を減らすため、3年以内に1ガロンで最低35マイル(1リッターで15キロ)走れる燃費を持つ自動車を製造することを必須条件に掲げた。その要求を一般の購入者も含めて実現させるため、オバマ内閣は運輸局と協議し、US連邦車両報償リベート・システム(US Federal Car Allowance Rebate System: [CARS])を設定した。引き取ったポンコツは再利用することなく、特にガソリンを食うエンジン部分は粉砕すること、という厳しい条件がついていた。


沈滞していた車のディーラー達は、リベートの通達を受け、時を移さずプロモーションを開始した。前記の通り、消費者の反応は期待を大きく上回り、準備した10億ドルは一週間で底を尽き、さらに20億ドルが追加された。運輸局のレイ・ラフッド(Ray LaHood)
秘書官「この計画は自動車産業の活性化を促し、在庫の車が捌け、凍結していた生産工場が回転し始め、我々は山のようなリベート書類の処理に追われている」と語った。現在までの4週間に全米で売れた新車の数は16万台を超えている。

去る19日、オバマ大統領は「誰も予想していなかったほどの大成功」と計画の成果について満足の意を表明した。クランカー計画打ち切り後、業界が再び沈滞に戻ったら、その時こそ業界が自ら建て直す機会に敢然として立ち向かわねばなるまい。

そして驕れる敗残者ビッグ・スリーの経営者たちが、利潤の高い「売りたい車を生産」するのではなく、社会環境や消費者が求める「売れる車を生産」するよう目覚めることを願うばかりだ。

2009年8月19日水曜日

流れる星が降りそそぐ

クリストファー・コキノス(Christopher Cokinos)
ユタ州ローガン市(Logan, Utah)

[筆者はユタ州立大学(Utah State University)の英語教授で最近の著書に『落ちる天空:彗星との親密は歴史(The Fallen Sky: An Intimate History of Shooting Stars)』がある。なお、下の写真はNGSの『Night Sky』から]

夏のフィナーレを飾るのはパーセイド流星群(The Perseid meteor shower)であろう。毎年決まって8月の半ばに起こるから数日前のことである。(もし見逃したら来年を期待されたい。)

ここ何世紀もの間、キリスト教徒の多数は殉教者セント・ローレンス(St. Lawrence)の命日が8月10日であるのと重ね合わせてその流星群を象徴的に『セント・ローレンスの涙(the tears of St. Lawrence)』と名付けている。19世紀の半ばになり、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・シアパレリ(Giovanni Schiaparelli)が流星の正体は『彗星の塵埃(じんあい)』であるという結論に達した。つまり「彗星が軌道を走る時に放出する微小な物質」ということだ。

降り注ぐ流星の現象は、地球が一年の特定の時期に、特定の『連なった塵埃』の軌道を横切った時に起こる。パーセイド流星群の場合、(今年は)8月12日から数日にかけてがピークと観測され、その流星群はスイフト・タトル(Swift-Tuttle)彗星から放出された『塵埃』で、その残存物体は北の空に見えるパーセウス(Perseus)星座(下図の左右)からその下方に現れる。(上図:1.ガス状の部分 2.上部の尾 3.核 4.太陽に向かって)

実際の流星は『殉教者の涙』と言われるほど詩的な状景ではないが、それなりの物語りがあ
る。


そもそも太陽系の形成は塵埃から始まっている。(途方もない大昔に)星は消滅し、星は炸裂した。残存した星が遥か彼方から形成を始めた。重力に支えられ、最後に埃、ガス、氷、岩などが凝結(ぎょうけつ)し、惑星や彗星となった。その塵埃が時たま地球に降り注ぐことになる。

パーセイド彗星(上図)の塵埃は8月半ばにきらめくように燃えながら大気中を急速度で流れるので、我々の目にも止まるのである。他の宇宙の塵埃はもっとゆっくり移動する。その塊りは表面積の割には比較的小さいので、最も小さい粉末でも地球に向かって落下することができる。宇宙の塵埃粉末を研究しているワシントン大学の天文学者ドナルド・ブラウンリー(Donald Brownlee)に言わせると「もし君がレタスを昼食にしたら、多分あまり食べないだろう」ということになる。

事実、毎年宇宙から4万トンもの塵埃が地球に落ちてくる。中には星からの物質や、炭素、アミノ酸、その他生命の形成に不可欠な有機体も含まれている。 インド・ヨーロッパ語族の『塵埃(dust)』の語源は『dhus-no』で、『狂った状態(fury)』という言葉に関連している。どうやらそんな意味が当っているようだ。何はともあれ、5億年も前に吹き荒れた途方もない『塵埃の嵐』が最終的に我々の太陽系となったのである。

2009年8月13日木曜日

裁判官ロバート・タカスギの死

ブルース・ウェバー(Bruce Weber)、NYタイムス紙および
イレイン・ウゥ(Elaine Woo)、LAタイムス紙の報道から抜粋編集

日系アメリカ人で太平洋戦争中、強制収容所に拘留された体験をもつ、US地方裁判官ロバート・ミツヒロ・タカスギ(Robert M. Takasugi)が、昨年来の健康不全で療養所生活をしていたが、去る8月8日死亡した。享年78才。

タカスギは1930年9月12日(昭和5年)、ワシントン州タコマ市(Tacoma)で生まれ、日本軍の真珠湾攻撃の翌年1942年(昭和17年)、排日の空気が最悪の状況に達していた最中に家族はロサンゼルスへ移転した。タカスギ家はアメリカへの忠誠を誓い法律を守る方針で、大統領令9066号が発布され、西部沿岸諸州に住む11万人余りの日系人収容が実施された時、従順にカリフォルニア州ツール・レィク(Tule Lake)の収容所に抑留させられた。時にロバートは11才。

3年間の収容所生活中に、57才の父を卒中で亡くし、絶望の内に公正とは何かを考えさせられ体得した。

終戦の1945年(昭和20年)に出所し、ロサンゼルスに戻り、高校卒業後カリフォルニア大学(UCLA)ビジネス管理を学び学士号を取得、徴兵に応じて朝鮮戦争に出陣、後に沖縄に配属され犯罪調査部門で勤務した。この体験が彼の将来を決定付けたのであろう、除隊後の1959年(昭和34年)南カリフォルニア大学(USC)法律を修得した。


1965年からワッツ地区(Watts)での黒人暴動事件があった1967年まで、大学時代の級友と共に東ロサンゼルス法律事務所を開き、主にメキシコ系の依頼者を扱った。彼らは貧乏だったので、支払いに小銭やメキシコ食品を受け取ったこともある。


1973年、後の大統領ロナルド・リーガン(Ronald Reagan)がカリフォルニア州知事だった頃指命を受けて東ロサンゼルス地方裁判所の役職に就いた。リーガンの後継知事ジェリー・ブラウン(Jerry Brown)は、タカスギをロサンゼルス郡最高裁判所に昇格させた。


1976年、ジェラルド・フォード(Gerald Ford)大統領はタカスギを連邦裁判所の空席に招いた。1996年(平成8年)には主席裁判官に昇格したが、4月に療養入院するまで引き続き事件を担当していた。


タカスギは36年間の豊富な裁判経歴をもつベテランで、話題に上った事件を数多く扱った。その中には、1984年(昭和59年)麻薬売買の疑いで逮捕された元GMの幹部で自社を創設していたジョン・デロリアン(John Z. DeLorean)の裁判も含まれている。この事件が派手に報道されたのは、デロリアンが麻薬の取引をしている現場証拠と思われるビデオを、性的雑誌ハスラーの発行人ラリー・フリン(Larry Flynt)が、各テレビ局に流したことが発端となった。フリンは法廷で星条旗をオムツのようにまとって下品で刺激的な大声でわめき立てた。しかしタカスギ裁判長は、その論争に乗らず、被告を中傷すべく企んだビデオの出所を追求したが黙秘し続けた発行人フリンに対して25万ドルの罰金を課した。22週間に亘る裁判の結果、デロリアンは無罪釈放された。

タカスギは、被告人側に理解があることで定評があり、検察側、弁護側いずれからも人望を集めていた。


1970年代の後半に、当時US法務官だったタカスギの法廷でしばしば対面したアンドレア・オーディン(Andrea Ordin)は彼を評して「タカスギは法廷裁判の進行は公正でなけらばならず、また誰の目から見ても公正だと認められねばならないと信じていた」と語り「彼はまた検事たちに高い見識を持ち、彼らが権力を使って(被告を)圧迫することを警戒していた。私を含め当時の検事たちは、彼のお陰で良き存在でいられた」と付け加えた。


その他にも顕著な事件が記憶に残る。それは25年間に亘る或るカリフォルニア大学の歴史家連邦政府(FBI)との間で争われた訴訟問題である。1960年から1970年代にかけて元ビートルス(The Beatles)のジョン・レノン(John Lennon)が平和運動に関わっていたことから、FBIが国家安全の見地からという名目でレノンの行動を監視、記録していたことが判り、1981年にその歴史家がファイルの公開を求める訴訟を起した。ある時点で、タカスギ裁判官はFBIが「(レノンの)違法な行動の実態」を利用するかどうかを検証するためファイルの提出を求めた。結果として2006年(平成18年)示談の上で10項目の書類が開放された。

アメリカン公民権自由解放ユニオン(American Civil Liberties Union) 南カリフォルニア支部の法律ディレクター、マーク・ローゼンボウム(Mark Rosenbaum)は、タカスギの法廷を何遍も体験した上で「政府が国家安全の名目で事を進めた場合、タカスギは、その理由だけを根拠にして軽卒に法律の効力で(公開を)差し控えさせることはしなかった。彼は『まず私に(妥当性を)証明せよ』と言い、もし連邦政府が証明できなかったら、ためらうことなく即座に書類は一般市民に所属すると判定を下した」と語っている。


比較的最近、2002年にタカスギが裁いた事件は、アメリカン公民権自由解放ユニオンが連邦政府の新しい規則に対して抗議を申し立てた訴訟である。その規則とは、例のナイン・イレブン(Nine-Eleven: 2001年9月11日の同時多発テロ)以降「空港の安全検査官はアメリカ市民でなければならない」と付加された一文である。この訴訟を扱ったタカスギは、こうした規制は「憲法(で守られている権利)の剥奪(はくだつ)」に他ならず、何千人という非アメリカ市民を失職させることになる、と裁定した。その項目は「アメリカ永住権所有者」にも安全検査官を務める資格がある、と修正された。


同2002年、7人のロサンゼルス住人が、イランの反政府グループのため義援金を集めていたのに対して州政府が同グループをテロリストの団体だから募金行為は違法であるとして訴訟を起した。この訴訟に対してタカスギは、反政府グループが『テロリストの団体ではない』ことを反論する機会を与えずして『テロリストの団体』と決めつけることは被告の正当な権利を剥奪することである、として訴訟を破棄させた。


この裁決についてタカスギの息子、ジョンは「父は『愛国条例』を覆して却下した初めての裁判官でしょう」とし、更に「父自身がかつて11才の少年だった頃『国家安全』軍事上の必要』という名分の下に収容所へ送られた犠牲者の一人だったことも、そうした判断を下した要因でしょう」とも語っている。


然り、タカスギは収容所で生活した経験を決して忘れていない。2007年にカリフォルニア大学から公民奉仕賞(Public Service Award)を受賞した時…

「私は歴史の産物です。ワシントン州タコマで生まれ、1942年に11才だった私はアメリカ市民でありながら『敵の捕虜』としてアメリカの収容所に抑留されました。私たちは武装した兵隊に監視され、高い鉄条網に囲まれ、自由社会から隔絶されていたあの収容所を鮮明に憶えています。何の罪もなく、権利を剥奪され、後ろ指をさす人々と対決し、裁判も聴聞の機会も与えられませんでした。私達の罪状は『日本人の血統』を持つということだけでした。

「こうした不幸な歴史から、私は我々の真に自由な政府は憲法の下で、人民の為に、人民に貢献し、政治家たちは代表権を行使しない義務と責任を持ち、高邁な実践を身に付けなければならない、ということを学んだのです。」

2009年8月8日土曜日

円高ドル安の時代に生きる

みくに あきお
2009年8月6日、東京発

[註:この評論は英語に翻訳されてNYTに掲載されたものを再び日本語に訳し直したものです。原文と表現の違いが多々あるかとは思いますが、筆者の意図は再現できたと信じています。なお筆者はクレジット・レィティング・エージェンシー(Credit Rating Agency)の社長。]

17世紀中、長期にわたる戦乱(戦国時代)に終わりを告げ、日本全国が統一されて平和な(徳川の江戸)時代を迎えた。商業は繁栄した。富裕な婦人たちは財布の紐を緩め、高価な衣料を買い求め、流行の先端を開拓した。中国産の『白い』絹糸がどっと輸入され金銀貨幣が支払われた。当時卓越した学者宮崎やすさだは、かかる貿易は、金や銀が衣食の足しにならないという理屈を正当化できるものである、という見解を示した。

日本の消費者は、機会を与えられると消費を楽しむことができる国民だ。私はその機会が近い将来に到来すると考えている。


多くの人々はそれを信じていないようだ。20世紀における日本の(経済)成長は輸出によるもので、1980年以降、国内総生産(Gross National Product)と比較した消費量は平均55パーセントを示している。振り返って19世紀に遡ると、日本は西欧に対抗できるよう生産の近代化と製品の輸出によって先進国の仲間入りすることを企てていた。これを国家の悲願の目標とした結果円安をもたらし、安価な製品で競合力を高めて輸出の増大を助けた。

しかし、この価格操作は国内物価の高騰に跳ね返り:我々が絶対必要とする輸入資金が蓄積できず、海外からの輸入が(高価となり)困難となった。


ともあれ日本は最終的には成長した。昨年の秋に始まった経済危機以来、輸出高は下降線を辿った。アメリカの消費者たちが借金(クレジット・カードなどの信用購入)が困難となり、支出を控えるようになったからだ。日本の輸出がドン底に落ち込んだこの際、我々はアメリカの消費が以前のように活発に回復するのを待っている余裕はない。合衆国自体が巨額の借款を背負っているので、この先何年も製品を海外から輸入することを控えざるを得ないのが実情だ。

こうした状況は、世界経済に無縁でないアジア諸国にとってその役割を大きく変換せざるを得ない要因となっている。日本がアメリカに輸出していた製品の一部は、他のアジア諸国の供給者たちと多かれ少なかれ関連している。完成品を最終的に輸入国へ発送する為に部品は中国で組み立てなければならない。こうした径路を利用することで我々は利益を上げてきたが、本当の長期的な優先事項は他国への輸出ではなく、国内での需要を満足させることにあるのではなかろうか。


では、輸出に依存することの弊害は何か?単純な例をお話ししよう。我々は自動車を製造している。これを国内で販売すると販売店、保険のセールスマン、修理工などが利益を得る。だが車を海外に輸出することに片寄ると、上記の国内経済への有意義な貢献がおろそかになる。輸出によって得た利益収入はアメリカ合衆国に我々が投入した資金として保留され、ドルが強化しアメリカの消費者が我々の製品を購入することにつながる。もちろん、その資金の見返りとして、我々はアメリカ政府が発行する証券のような外国人保留資産として蓄積される。しかし、17世紀の学者の言葉を借りれば、アメリカに保留されたドルでは我々の腹は満たされない、ということになる。


我々に必要なのは、国内需要が海外需要にとって代わることなのだ。それができるためには、投資したドルを円と交換することだ。それによって円の価値が上がり、輸入の支出が減少し、購買力が強化される。現に一部日本の小売店は、円高で輸入品が安価に仕入れられるので価格を引き下げている。円高傾向が更に進行すれば、彼らはまた値下げをするであろう。


短かい期間で、長年に亘る輸出礼賛の体質から脱皮することに苦悩が伴うのは止むを得まい。我々は、工場閉鎖、破産宣告、企業合併などの諸問題に対処せねばならない。生き残った企業は組織の改革を迫られるであろう。一方で多くの企業は価格競争で製品の輸出に力を注ぐだろうが、これからは独特な新製品の開発をし、それに相応しい価格を設定することだ。

日本の企業はその難事業に挑戦する能力がある。私は過去25年間、数多の企業の証券を評価してきた。1983年(昭和58年)、我々がAAA級(最上級?)と評価した企業は金融会社を除いて、たった2社しかなかった。だが今日では9社に昇っている。こうした企業は、強力な価格設定も含めて高い評価を獲得した。

二、三十年前には、日本の企業数社が、それぞれの製品をアメリカの価格より20パーセントも低い価格で競合していた。今日では、数多の製品は企業ごとに独自の価格を設定している。こうした企業は確固とした多くの需要に支えられ、現に日本の消費者は価格より品質を重んずるようになっている。


日本は世界的な経済危機で手痛い打撃を被ったが、この際、輸出に頼っているままでは危機を脱することはできない。その代わり、我々は長期に亘る因習を破って振り出しから出直す覚悟が必要だ。政府の閣僚の多くは、体質改善をためらっているが、遅かれ早かれ彼らも他に手段がないことに気付くであろう。日本の政治家たちは、国内の経済を無視し、投票者の生活をないがしろにしてまで永久に円安が続くことを望んではいられないからだ。

今や我々は、気ままに浪費していた17世紀の婦人たちから学び、円高の恩恵を享受する時である。

2009年8月6日木曜日

猥褻(わいせつ)か文学か?

高橋 経

今から半世紀前、1959年(昭和34年)、D.H.ロウレンス(D. H. Lawrence)が書いたチャタレー夫人の恋人(Lady Chatterley's Lover』が猥褻(わいせつ)本であるか否かで問題になり法廷で争うことになった。猥褻と断定されれば発売禁止、文芸作品と認められれば堂々と販売できる。出版社としては死活の瀬戸際である。読者としては、どちらでも構わないから一刻も早く入手して読みたい好奇心に駆り立てられていた。

それから更に15年以上遡る軍国時代には、猥褻はおろか、男女の恋物語までがその筋の検閲に引っ掛かり『伏せ字』や発禁の憂き目に遭っていた。例えば古典の名作『千一夜物語り』ですら、ラブシーンの件へくると数行が、時には数ページが「xxxxxxxx」となっていて本文は想像の彼方に消え去っていたものだ。

1945年(昭和20年)戦争に敗れ、アメリカの自由思想が移入され、その内の『言論の自由』が拡大解釈され、それまで抑圧されていた『男女の性』に関する話題が堰を切ったように新聞雑誌に溢れた。では何故その戦後14年も経った時代に『チャタレー夫人の恋人』発行の是非に関して法廷で裁かれることになったのだろうか?それは、その直前にアメリカで同書が裁判沙汰になったことが引き金になったことと「猥褻か芸術か?」を討論する以前に、日本独特の性風俗軽犯罪法が適用されたようだ。

あらすじ
所はイギリス、時は1917年(大正6年)、若いコンスタンス(Constance)は貴族
クリフォード・チャタレー(Clifford Chatterley)と結婚、間もなくクリフォードは戦争に、負傷して帰国、回復したが下半身不随で車椅子の生活、妻のコンスタンスとは夫婦の営みはなくなった。クリフォードは家系を守るため跡継ぎが必要、同じ貴族なら他の男性とでもよいから妻に子供を生んでもらいたいと願う。コンスタンスは夫の望みにためらっていたが、思わぬことから領地内の雇い人メラーズ(Mellors)と深い恋に陥る。身分の違いが二人の悩み。しかし共に愛は深く強く、コンスタンスは夫と離婚してメラーズとの新しい生活を夢みている。

ではアメリカでの事情はどうだったのであろうか?

(フレッド・カプラン[Fred Kaplan]が寄稿したニュ−ヨーク・タイムス7月20日付けの評論がその間の経緯をよく説明している。)

今から120年以上も遡る1873年(明治6年)、元郵便検閲官だったアンソニー・コムストック(Anthony Comstock)がニューヨーク悪徳抑制推進会を創設し、議会を説得し猥褻を犯罪と見なして罰することを立法化させた。その法は州や連邦の法廷で何十年もの間『地域の基本道徳』として「欲情に満ちた」「淫らな」「扇情的な」または「好色的な」文書を摘発してきた。

比較的近年、1957年(昭和32年)に最高裁判所は、猥本を通信販売していたロス某(Roth)の一件について「アメリカの改正憲法第一条の骨子である『言論の自由』は『猥褻』な本の販売には適用されない」という判決が下されている。従って、その2年後に起こった『チャタレー夫人の恋人』に対する訴訟は、それがどれほどの文学的価値があったとしても法的に定義された『猥褻』からは避けられまいと考えられていた。 そもそも『チャタレー夫人の恋人』は1928年(昭和3年)に初版が発行されて以来、イタリア版や闇(やみ)出版を除き、本国のイギリスでは1960年まで禁止され続けていた。

1959年5月15日、アメリカでグローブ出版社(Glove Press)が「削除なし」の『チャタレー夫人の恋人』を出版し、発行人のバーニー・ロセット(Barney Rosset)は弁護士チャールス・レムバー(Charles Rembar)を雇い、郵便局を相手取って訴訟を起したのである。レムバーは、『裸者と死者(The Naked and the Dead)』を書いた作家ノーマン・メィラー(Norman Mailer)の従兄で、相談役でもあった。先に訴訟で敗れたロス某の裁判記録を仔細に検討したレムバーは、判決文が『ざる法』で抜け道があることを発見した。裁判官ウイリアム・ブレナン(William J. Brennan)は憲法第一条『言論の自由』を引用し「全ての思想、仮に社会的重要性の貢献度が僅少でも-----例えば反正統思想、論議を起す思想、一般に浸透している考え方に反する思想など-----でも憲法によって全面的に保護される」とした上で更に「憲法第一条を歴史的に忠実に従うと、猥褻は社会的重要性の貢献度が全くないとして拒絶する」と述べていた。

レムバーは、その言葉を捉え、「『本』は猥褻の定義に該当するであろうが、同時に『社会的重要性に貢献』していることで憲法の保護が受けられる」と挑戦した。レムバーは一枚の白紙に一部が重なる二つの円を描き(下の図)一つの円は『好色の興味を起させる叙述』で、他の円は『社会に貢献する叙述』とし、両方の円が重なった部分だけが裁判官の言う『猥褻で無価値』な叙述であるという理由で『言論の自由』権を拒否されたのだとした。

その論理でレムバーは、ニューヨーク地方裁判所の判事フレデリック・ヴァン・ペルト・ブライアン(Frederick van Pelt Bryan)と論陣をを張り、『チャタレー夫人』で著者は、愛の無い性交、産業の機械化、病的な偽善、に対する痛切な批判をしているのだとした。

郵便局を代表するハザード・ギレスピィ(S. Hazard Gillespie Jr.)は、レムバーは法律を曲解している、と非難し反論した。 この反論はレムバーが望む所で、『チャタレー夫人』の社会的な批判精神を抹殺する行為に他ならないと巧みに反撃した。

1959年7月21日、判事ブライアンはグローブ出版社の訴えを全面的に支持し、郵便局の『猥褻本の拒否』法を解除させた。この判決はまた郵便局の法的な権威を撤去させたことにもなった。
しかし、これで全てめでたしという訳にもいかなかった。1960年代、郵便局のバーニー・ロセットは何件かの書籍の配達拒否で争った。その中にはウイリアム・バロウズ(William Burroughs)著『裸の昼食(Naked Lunch)』、ヘンリー・ミラー(Henry Miller)著『熱帯のキャンサー(Tropic of Cancer)』、他が槍玉に挙げられたが、いずれも敗訴した。

ともあれ、『チャタレー夫人』の一件が『言論の自由』を勝ち取り、憲法の原則を守ることに成功した重要な裁判であったとして歴史に残った。

その歴史的な勝訴の日から今年で50年、今改めて『チャタレー夫人』を読み返してみると、『猥褻感』は全くない。貴族社会の偽善に対する批判、機械化された産業に対する嫌悪、そして愛と自由への憧れ、が全編に溢れている。『猥褻』な筈の作品から猥褻が感じられないのは、この半世紀の間に『性』に対する社会の反応が鈍感になったせいでもあろう。法律は依然として変わっていないが、法廷の審判も世間の変化に反応して柔軟に変わっていくであろう。

2009年8月2日日曜日

古橋広之進の死を悼み賛美す

[この記事は、朝日、毎日から抜粋して編集。下のイラストは、1981年電電公社の広報に使用された高橋経の作品でニュース写真を参考にした。手前が古橋広之進、後方は橋爪四郎。]

『フジヤマのトビウオ』古橋広之進(ふるはし ひろのしん)が8月2日午前8時頃、世界水泳選手権が開かれているローマ市内のホテルで急死した。死因は急性心不全とみられ、享年80才。
同氏は国際水泳連盟副会長として会議出席と世界選手権の視察のためローマに滞在していた。

古橋広之進は1928年(昭和3年)、静岡県で生まれ、旧制浜松第二中学、日本大学を通じ、自由形泳者として活躍した。1947年(昭和22年)の日本選手権400メートル自由形で4分38秒4の世界新をはじめ800メートル、1500メートルなど各種目で合計33回の世界新記録を樹立した。特に1949年(昭和24年)にロサンゼルスで開かれた全米選手権に招かれ、次々に世界記録を更新しアメリカの新聞、雑誌に『フジヤマのトビウオ』と異名を与えられ絶賛された。  

衣食住に事欠く戦後の貧困時代の最中で、この快挙は日本国民に大きな歓びを与えた。不幸にも古橋の肉体条件がスポーツ選手としての最盛期だった1948年にロンドンで開催されたオリンピックには日本は参加できず、その4年後行われた1952年のヘルシンキ大会では、古橋の体調条件は峠を越え、入賞は叶わなかった。
 

現役を退いた古橋は後進の指導にあたり、1985年(昭和60年)、日本水泳連盟会長に就任。アジア水泳連盟会長も務める一方で、1990年(平成2年)には日本オリンピック委員会会長に選ばれ、1998年(平成10年)2月の長野冬季オリンピックを成功裡に終了、1999年(平成11年)3月に退任するまでアマチュア・スポーツの振興に尽くした。昨2008年10月には、オリンピックに出場した競技者として初めての文化勲章を受章した。

一方、1998年9月に定年退職するまで、母校日本大学の文理学部教授として後進の指導にあたっていた。