2011年10月28日金曜日

酒はナミダか、金脈か:中段


私が20代半ばだった頃、よく一緒に呑み歩き、激しく議論を交わした悪友がいた。飲酒の話ではない。ある時話題が読書のことになり、あの本この本の棚卸しを始めた。突然彼が真顔になり「何が面白いって『六法全書』ほど面白い本はないぜ」と断言した。「法律の本が何で面白いんだ?」と訝った私に彼は「人間が持っている弱点全てを残酷なほどムキ出しにしてくれるからさ」と答えた。

私は疑わしく思いながらも、法律というものはそんなものかも知れない、と半ば納得しかけ、数日後『六法全書』を買い求め、読み始めた。お恥ずかしながら、私は1ページも読み切れなかった。『全書』は未だに本棚で埃をかぶっている。

『禁酒法』のビデオを鑑賞し成り行きを見ている内に、旧友の言葉が蘇ってきた。「アレをしてはいけない」とか「コレをしてはいけない」といった禁止令は、人間の持つ弱点を封じ込める役割を演じるために制定されたのに他ならない。にも拘らず、その法律が有効に忠実に守られるかどうかは全く別の問題だ。ここに小説より奇にして予想外な一大ドラマが展開され汚辱と誤算のアメリカ近代史が残ったのである。編集:高橋 経

禁酒法(PROHIBITION)
第2部:法がある無法国家 (A Nation of Scofflaws)
製作:ケン・バーンズ/リン・ノヴィック(Ken Burns & Lynn Novick)  

アンハウザーのトラックと、モルト・シロップの樽
1920年1月16日、世界で初めての『禁酒法』がアメリカで発効した。以来、禁酒運動を推進してきた各団体の思惑通り、アルコール飲料の消費量は少なくとも従来の3分の1に減少した。ビール会社の大手、アンハウザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)は、企業の体質を変更し、ビールに代わってチーズのような酪農品の生産に切り替えた。またアルコールを含まない飲料の生産も試みた。しかし、その分野ではコカコーラ(CocaCola)が既に出回っており、同社の販売高は文字通り倍増した。

夫婦むつまじく、、、。
禁酒派は『サルーンの滅亡(Death of Saloon)』を祝う喜びのパーティがあちらこちらで繰り広げられた。飲酒の付き合いで帰宅が遅かった夫は家で妻と夕食を摂るようになり、家庭の平和が復活した。

しかし、こうした現象は一時的であり、また表面的なものでしかなかった。

(左から)ブドー採取、醸造、リンゴ酒、医療用、密造
また、『禁酒法』は全面的ではなく、例外が認められていたのである。例外とは、自家製の酒を自宅で呑む限り許されていた。また医師は『医療用』の酒が入手できた。リンゴのサイダーは除外されていたので、それを発酵させるか何らかの方法でアルコール分を混入させ、サイダーと称したリンゴ酒が出回っていた。

飲酒を身に付けた人々の中には禁酒を実行した人々もいたが、大半は酒を諦めず何らかの方法でそれを入手する手段を講じていたし、こうした機微に聡い商人は、醸造業者と連携をとりながら、着々と法の裏をかくことにしのぎを削っていた。彼らは本能的に経済の原則である『需要と供給の必然性』を心得ていたのである。『需要』者になるか『供給』者になるかの選択は自由だった。

ニューヨークはマンハッタンのド真ん中にあるイエール大学同窓会が設立したイエール・クラブ(The Yale Club)では『禁酒法』が発効する以前から、将来の会合に必要と思われるワインやウイスキー14年分を貯蔵していた。

(右上から時計回り)客をノゾキ窓から確かめる、
ダンスに興ずる会員、スカートの下に隠した酒
消滅した筈のサルーンは『スピーク・イージー(Speak-Easy)』と名を変え、住宅地帯に潜入し会員制度で密かにバーやダンスホールを設備し経営していた。もちろん無免許である。マンハッタンだけでもそうしたクラブが推定1万軒を下らなかったという。従って『禁酒法』発効以来いちじるしく減少したはずの酒の消費量は、事実上増加していたのである。

ミルク車を装った酒の配達
この需要を満たすため暗躍していたのが、俗にブートレッガー(Bootleggers)と呼ばれていた酒の密造者や密輸入業者だった。隣国のカナダやメキシコでは、依然として酒の製造販売が許されていたので、密輸入業者たちは外国で酒を仕入れ、さまざまな工夫をこらして運送し、目立たない田舎の納屋などに貯蔵し、それぞれが偽装した販売ルートを通して末端の私設クラブや消費者たちへ配達していた。運送は馬車、トラック、大型スクーナー、から、偽装ミルク配達車に至るまで多様、思いつく限り官憲の目を欺く手段がとられていた。こうした密輸入の元締めが巨額の利益をむさぼっていたことは言うまでもない。しかも取引はいずれも現金だったから、『脱税』という余禄までついたので「濡れ手で粟」とはこのことであろう。

外国産の酒に依存しているだけでは需要を満たし切れず、俗にムーンシャイン(Moonshine)と呼ばれる密造酒の生産も活発に発生した。特にケンタッキー州の山林で醸造されたバーボン(Bourbon: ウイスキーに近い)は酒飲みたちに愛好された。今日のジャック・ダニエル(Jack Daniel)などの元祖に当たるのではあるまいか。

押収された粗悪酒の数々
こうしたドサクサに紛れて、紅茶に工業用アルコールを混ぜて瓶詰めにした怪しげな密造酒も出回った。それを飲んで命を落すという事件が数々起こり、新聞種になった。

『禁酒法』の違反である「酒の需要と供給」に関する限り、殺人、強盗、窃盗などの犯罪に見られるような『罪悪感』は皆無だった。

その上、『禁酒法』違反者を取り締まる連邦政府の係官が全国で僅か1,500名、違反者の推定数100万人に対して「手薄す」の一語に尽きる。しかも、州によって法律の解釈や実施法が違っていたため、メリーランド州やミシガン州などの地方政府は『禁酒法』に消極的だった。

そうした現実を強化させる意図があったのであろうか、法務省の最高法務官補佐(U.S. Assistant Attorney General)にメィベル・ウイルブラント(Mabel W. Willebrandt右の写真)夫人が推薦された。夫人は後に『法のファースト・レディ(First Lady of Law)』という異名を授かったほど厳格で実践的な法律態勢をとった。第1部で紹介した『キリスト教婦人節制同盟(Women's Christian Temerance Union: WCTU)』を支持し、税務、監獄制度、そして『禁酒法』などの違反取締り強化を担当する責任を与えられた。

私設クラブ、密輸入者の酒蔵の手入れ、違反者の逮捕、酒樽の破壊、などがしばしば実行されたが、彼らにとっては「軽い」罰金を払い、ほとんど入獄は免れていた。また、街頭で立ち売りを装って酒を売っていた男が捕まらなかったが、彼がその地域を担当していた警官に賄賂を渡していたからだ、という公然の秘密も明らかにされなかった。

左はアル・カポーン、右は縄張り抗争で殺されたギャング
こんな世相の最中、イタリアや東ヨーロッパから『一攫千金』を夢にした逞しい若者たちが『希望の國(The Land of Opportunities)』アメリカへ渡ってきた。文無しだが腕っ節と度胸だけが身上、失うものは何もない、といった命知らずの面々だ。その内の一人、アル・カポーン(Al Capone: カポネとも発音する)は、酒の密輸を始め、ギャンブル取り次ぎから売春斡旋まで手を広げ、巨万の現金を稼ぎ、縄張りを広げ、ギャングのボスとして汚名を残した。

ギャング達はシカゴやニューヨークなどの大都会にそれぞれ縄張りを持ち、お互いに不可侵条約を結んでいたが、必ずしも守られるとは限らず、血なまぐさい抗争がしばしば起こり、一般市民を震駭させた。

婦人キリスト教節制同盟(WCTU)
政治家たちもこうした世相とは無縁ではなかった。

禁酒時代が始まった1921年に就任し『禁酒法』を支持していた共和党のウォーレン・ハーディング(Warren G. Harding)が1923年8月、任期中に死亡。後を継いだ同じく共和党のカルヴィン・クーリッジ(Calvin Coolidge)も『禁酒法』を支持した。

さて『禁酒法』を廻って泥仕合を繰り返す需要、供給、取締、政治、などの行く末は?
(第3部につづく)

2011年10月26日水曜日

酒はナミダか、金脈か


「酒は涙か溜め息か」といえば古賀政男(19041978)が昭和6年に作曲し演奏し、伝説的にヒットした流行歌である。この歌に聞き惚れ、感傷的に杯を傾けた思い出のある方々もおありのことだろう。今回の話題、『酒』はこの場合、洋酒、日本酒、ワイン全ての総称とお考えいただきたい。

人類にとって酒は、古今東西を問わず、冠婚葬祭に始まり、食前酒から食後酒、そして社交上欠かすことのできない習慣として定着してきた。「酒は百薬の長」として尊ばれ、『養老の滝』の伝説を生み、大酒飲みを『酒豪』と讃えてきた。

しかしその反面『飲酒の害』も見逃せない社会悪として警鐘が打ち鳴らされてもきた。どれほどアルコール中毒の弊害が叫ばれても、人々は飲みたい欲望を捨て難いらしい。私の近親や友人にも酒に溺れて命を縮め、家族を泣かせた者が何人かいる。

今回の話題はアメリカで『禁酒法』が成立し、13年後に撤回された禁酒時代(19201933)の歴史的な記録である。長編ドキュメンタリー映画の製作では人後に落ちぬケン・バーンズ(Ken Burns)3部作『禁酒法』が、最近公共テレビのネットワークから公開された。

ケン・バーンズと言えば、『戦争(The War)』をはじめ『野球(Baseball)』、『国立公園(The National Parks)』、『南北戦争(The Civil War)』など数々の良心的で史実を踏まえた的確な調査や史料を基にしたドキュメンタリーを発表し続けてきたことで、その分野で不動の地位を築き上げた製作者だ。

この『禁酒法』3部作も充実した6時間上映の大作で、その『法』の成立から撤回まで、賛成派、反対派の両面から徹底的に掘り下げ、その筋の専門家数人の解説を交え、観客にその是非を問いかける。残念ながら、このブログでその映像はご紹介できないが、以下の梗概をお読みの上、興味をお持ちになったらビデオで全てを鑑賞なさることをお薦めする。                                編集:高橋 経


禁酒法(PROHIBITION)』
1部:呑んだくれ国家(Part 1: A Nation of Drunkards)

(左から):アダムス、リンカーン、ダグラス
お粗末な急造のサルーン
アメリカの歴史を顧みると、歴代の大統領が『酒』を好んでいたことが判る。先ず初代のワシントン大統領(George Washington)は、事ある毎に将兵一同にラム酒を振る舞っていた。2代目のアダムス大統領(John Adams)は毎朝毎晩酒をたしなみ、3代目のジェファーソン大統領(Thomas Jefferson)はフランス産のブドー酒を集めて貯蔵し、ジャクソン大統領(Andrew Jackson)は就任式に参列した人々一同に酒を振る舞った。リンカーン大統領も例外ではなかった。黒人で奴隷解放に活躍したフレデリック・ダグラス(Frederick Douglas)も大いに酒をたしなんだ、という記録がある。
酔いどれ天使

南北戦争を経て、生き残った将兵たちは心身の傷を癒すため、当然のように飲酒に浸る習慣を身に付けた。

スーザン・アンソニー

かくして、アメリカは開拓期の18世紀から成長期の19世紀にかけて、冠婚葬祭に限らず、あらゆる社交状況で飲酒の習慣が広がり定着した。その習慣が「ほどほど」であれば問題はなかっただろうが、一家の主人公である男性が酒びたりになると、家庭に残された妻子が経済的にも精神的にも苦悩を味わうことになる。そうした夫の飲酒を止めさせようとする女性たちが『飲酒節制運動(Temperance Movement) 』を起こし立ち上がった。その中には、後に女性の参政権を主張して闘争して名を残したスーザン・アンソニー(Susan Anthony)も加わっていた。
教会の牧師が先導して結成した禁酒団体

飲酒の節制に賛成したのは女性ばかりではなかった。教会の牧師などが先導して彼らなりの『飲酒節制運動(Sons of Temperance)、(Society of Reform Drunkards)』などの団体を結成した。
飲酒男と家庭の悲劇を劇化
こうした『禁酒運動』が繰り広げたキャンペーンの戦略は、家庭、、、殊に未来を担うべき子供達を家長の飲酒による弊害から守ること、そして、酒の害が家族だけに止まらず、飲酒者自体の内蔵をも破滅させる、といった事実を一般に教育することを目標にした。
少女を含む女性の飲酒節制運動家たち
にも拘らず、酒の需要は増える一方で、酒を提供するサルーン(saloon)を始め、ホテル、大衆酒場が日毎に開店し、1890年頃には推定で全国に30万軒以上に達した。需要の増加を促進したのは、発展途上にあったアメリカで、労働力を補給する移民が続々とヨーロッパから渡米してきたことが大いに寄与している。彼らは炭坑夫、木こり、漁師、農夫、大工など肉体労働が主で、一日の疲れを酒で癒す習慣を持っていた。
子供の将来を害する飲酒癖

量産するビール工場
その数ある移民の一人、パトリック・ケネディ(Patrick Kennedy)は飲酒の側でなく、サルーンを2軒開き、ワインを輸入する卸業を経営し、莫大な利益を挙げ財産を築いた。この人の孫ジョンが、後世(1960)大統領になったことは知る人ぞ知る成功物語である。
禁酒法を支持する団体のデモ
19世紀の終わりから20世紀にかけ、『飲酒派(wet)』の増加に伴い、主にメソジスト派(Methodists)とかバプティスト派(Baptists)の牧師らが結成した『禁酒派(dry)』も増加していった。曰く『サルーン撲滅運動教会』などサルーンの存在を敵視した。というのも醸造業の発展も著しく、アナハイザー(Anheuser)、ブッシュ(Busch)、ブラッツ(Blatz)、シュリッツ(Schlitz)、ミラー(Miller)、などが年産1.4億リットルから2億リットルのビールを製造していた。彼らは莫大な利益を上げ、企業の経営を存続させるため政府を懐柔する圧力団体を組織していた。
議会で禁酒法の改正案を審議中
『禁酒派』も負けずに政府の要人に働きかけ、また政治家の一部にも『禁酒法』の成立に積極的で有力な数人が存在した。

かくして『飲酒派』と政治的に争った『禁酒派』は、法的に禁酒を推進すべく憲法18条の改正(The Eighteenth Amendment to the Constitution)を提唱した。『禁酒法(Prohibition)』を成立させるには議会で3分の2以上の賛同を獲得する必要があった。


の『禁酒派』を有利に導いた要因は、図らずも1914728日に第一次世界大戦が勃発したことであった。つまり、ドイツが敵国となり、アメリカのビールの殆どがドイツ移民の企業で生産されていたことから、「ドイツ醸造のビールをボイコットし飲むまい」という気運が高まり『憲法改正』の賛同票が増えたのである。

法的に破壊されるビア樽
1920年、『禁酒法』は3分の2以上の支持を得て憲法18条が改正され「アルコール分を含む飲料を、醸造し、配給し、販売することを禁ずる」という条例が法制化されたのである。これで『禁酒派』はめでたし、と言いたい所だが、世の中は思惑通りには進まないものだ。

『法律』を成立させることと、国民がそれに従うかどうかは別問題だったらしい。

(第2部へつづく)

2011年10月20日木曜日

次の4年間に、、、できること!


環境問題については多言を避け、下掲のビデオをご覧いただきましょう。
画面のメッセージは簡明にして直裁です。

私自身、11年前にこの地に移転して以来、主に常緑樹を200本余り植え、2台あったクルマを1台の経済車に切り替え、無駄な所持品を減らすなど、環境浄化に心掛けております。ご共感いただけ、些細なことでも実行していただけたら、この世の中はもっと住み良くなるはずです。編集:高橋 経

FOUR YEARS. GO.
 次の4年間に実行
歴史の方向を好転させようキャンペーン

(画面のメッセージ)
次の4年間で、一世紀先の地球を住み良くする決意を固めよう。
次の4年間、一人一人が実行に移そう。


4年間あれば、世の中を好転させるのに充分。
でも4年の才月は、思いの外早く過ぎてしまう。


次の4年間で、クルマの燃費をどれほど向上できるだろうか?
次の4年間で、娼婦斡旋業者に売られる少女たちを学校へ帰らせたい。
次の4年間で、荒廃した都市を復活させよう。
次の4年間で、家畜たちに、地雷のない安心できる広い場所を与えたい。
次の4年間で、電力、原発を減らして風力や太陽熱をもっと利用しよう。
次の4年間で、都会の道路に渋滞するクルマが消えて自転車で溢れる、なんていう風景は考えただけでも楽しい。
次の4年間に、絶滅寸前の野生のジャガーが、写真でしか見られくなった、などということがないように保護しよう。
次の4年間に、樹木や野菜や花をもっと植えよう。
次の4年間で、使い捨てを止め、再生利用し、ゴミの山を作らないようにしたい。
次の4年間で、自給自足の方法を世界中に広めることができるだろう。

このキャンペーンは、新しい組織からではない。
このキャンペーンは、既存の環境浄化運動組織全ての新しい目標なのだ。(シエラ・クラブなど、大小既成団体の名が数々、スクリーンを埋め尽くす)
このキャンペーンは、世界中の老、若、男、女、政治家、学生、自由主義者、保守、先生、牧師、次世代、全て人々の新しい目標とし、何がこの世の中をダメにし、どうしたらこの世の中を良くするかを深く考える必要がある。

次の4年間で、空は澄んでより青く、化学薬品を含んだ食料を摂らず、樹木を育て、石油に頼らず、マラリアを克服し、海岸を美しくすることができる。


次の4年間は、酸素をたっぷり吸収し、向こう三軒両隣の人々の名前を覚え、心身ともに活性化し、自然を尊重し保護し、親切を分かち合い、ガソリン垂れ流しのクルマをハイブリッド車に乗り換え、ハイブリッド車を自転車に取り替え、自転車を古い運動靴に履き替え、生活の方向を好転させるため慈善を施し、人々と手を握り合い、清らかな風を胸いっぱい吸い込み、戦争を止め、次の4年間を目覚めよう。

歴史の方向を好転させるため、今から実行!
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以上に共感し、もっと詳しいことをお知りになりたかったら、FourYearsGo.orgをクリックしてご覧ください。

2011年10月6日木曜日

2011年10月1日土曜日

「恍惚」になる人、ならぬ人


あんた誰?
志知 均(しち ひとし)
20119

有吉佐和子が1972年に出版した「恍惚の人」はボケ老人の看護をテーマにした小説で、老人看護対策がおくれていた当時の日本でおおいに話題になった。耄碌(もうろく)が進んで息子の嫁と孫しか認知できなった84才の父親に「あんた誰?」と訊かれ、実の息子や娘はたいへんなショックを受ける。

当時は老人がボケるのは耄碌だから仕方がない、と片付けられていたが、この父親の症状は明らかにアルツハイマー病(Alzheimer’s disease認知症, 以下アルツと略す)である。有吉はボケ老人を恍惚の人と呼んでいたが、アルツ患者は決して恍惚ではない。アルツの特徴はひどい物忘れに始まって、精神不安定で鬱病(うつびょう)になることもあり、やがて認知障害になり、ものごとの判断や決断ができなくなる。更に脳組織の破壊が進めば最後は人格喪失になる。人格を失った状態は空ろ(うつろ)であって恍惚ではない。

   現在アメリカのアルツ患者の数は540万人にのぼり、2050年には1300万人以上になるといわれている。メデイケア(MEDICARE)などの医療費も年間数千億ドルになるのは確実である。しかし問題の深刻さにも拘らず、アルツに対する一般の関心はガンや心臓病に対するほど高くない。921日が世界アルツハイマー・デーになっていることを知らない人も多いだろう。(編集註:偶然だが、国際平和デーと同日)

大脳上皮細胞に異常な凝集体が付着
アルツの名称は1906年ドイツの精神科医アロイス・アルツハイマー (Alois Alzheimer)が痴呆症で死亡した51才の女性患者(当時は老人年令)の脳を解剖して、大脳上皮細胞に異常な凝集体[プラク(plaque)やタングル(tangle:糸くず状態:右の図参照)]が付着しているのを観察したのに由来する。1960年代にプラクやタングルの数と認知障害の程度との間に相関関係があることが判り、1980年代にはプラクやタングルを構成する物資の本体が判ってきた。1990年代になると、アルツに関係するいくつかの遺伝子[プラクやタングル生成を促進するアポリポ蛋白・E(apolipoprotein E)の遺伝子など]が見付けられた。このような進歩にも拘らずアルツに対する有効な治療法はまだ存在していない。その理由の一つは早期診断が難かしいことにある。

アルツ発病のメカニズムについては一般に次のように説明されている。

タウ蛋白が変化し、不安定になるマイクロチュビュール
まず脳細胞膜にあるAppと呼ばれる蛋白(amyloid-beta precursor protein)が酵素で切られてできアミロイド・ベータ・ペプタイド(amyloid-beta peptideAベーター)が細胞外に放出される。Aベーターは粘着性が高く多数の分子がくっついて凝集体(プラク)をつくる。プラクは近くにある神経細胞に付着してその細胞の中にあるタウ蛋白(tau protein)の構造を変化させ、もつれあった糸くず状態(タングル、tangle)にする。タウは神経細胞内の物流にたずさわる導管(マイクロチュビュールmicrotubuleと呼ばれる)の安定化に大切な蛋白で、タングル状になってしまうと導管が壊れ(こわれ)、物流が止まって細胞は死んでしまう。

顕微鏡で見たタウ蛋白の構造変化
このような一連の変化が記憶をつかさどる脳の海馬部(ヒポキャンパス、hippocampus)の細胞で起きれば記憶力の減退、更に認知障害を起こす。

少し話が逸れるが、遺伝病のダウン症候群(Down syndrome)は早期発病のアルツのモデルと考えられている。ダウン症候群の患者にはApp蛋白をつくる遺伝子のある染色体(chromosome 21)が正常人より余分にあり、Aベーター生成が多いので12才ですでに脳にAベーターの蓄積が見られる。

   このようにアルツのメカニズムがかなり判ってきているにも拘らず、早期診断が難しいのは、早期の『物忘れ』が老化による脳機能の一般的低下によるものか、アルツの始まりなのかという判断が難しいこと、プラクやタングルの蓄積がはっきりするのは、アルツの病状がかなり進んでから、などの理由による。

ペット・スキャンで見たある患者の脳
そこで、2004年頃から信頼できる早期診断法の研究が始まった。記憶テストでアルツの疑いがある患者から、定期的に血液や脊髄液を採取し、Aベーターやタウの濃度を測る。脳細胞にAベーターが蓄積すれば、サンプルのAべーター濃度が下がり、細胞破壊が進めば流出するタウの濃度が高くなるのでアルツが進んでいることが判る。またAベーターに結合する放射性物質を注射し、患者の脳をペット・スキャン (positron-emission tomography scan)で調べて、蓄積するAベーターの量からアルツの進行状況をみる。また記憶喪失がひどくなり、アルツが本格化する段階で脳の大きさが小さくなってくるので、それをMRI(magnetic resonance imaging)で調べる。

このような測定結果を総合してアルツ診断の精度はかなりよくなってきているが、コストがかかりすぎる難点がある。

   Aベーターの凝集でプラクができるのがアルツの始まりなら、それを助長するのは何か?を解明することが重要な課題であり、治療にもつながる。最近の研究によればAベーターがプラクを形成するには脳細胞の損傷でできるタネ(seed)が必要で、脳内にタネをつくるような状況(頭の打撲傷、癲癇、脳炎をおこすビールス感染、薬害など)は、アルツの引き金になるといわれる。


脳には神経細胞間の情報交換に大切なシナプスの作用を守るマイクログリア(microglia)とよぶ細胞がある。これは一種の食細胞(免疫細胞)で脳組織に病理変化が起きた場合、シナプスを作れなくなった欠陥細胞を速やかに除去する。アルツ患者の脳に溜まるプラクには、マイクログリアが取り付いている。マイクログリアは食作用があるからプラクを食べてくれるのは有難いが、反面インタールーキン・1(Interleukin-1)という物質を分泌し、タウ蛋白がタングルするのを促進するのでアルツを進行させる。

その功罪はともかくアルツ発病には免疫細胞が関係する。免疫反応があれば当然炎症がおきる。それを支持するデータとして、非ステロイド系抗炎症剤(ibupofen, aspirinなど)の摂取を続けるとアルツになる確率が下がる、という報告が最近いくつか発表されている。アルツに対する有効な薬や治療法がまだ存在しない現在、安価で簡単に経口投与できる抗炎症剤の効果は注目に値するだろう。

左は正常な脳の断面で、右は機能障害に侵された脳
   谷川俊太郎の詩に「私はかってそこにいた、私はかってここにいた、(中略)私はかってどこかにいた(中略)だが今私はいない、私はここにいない、そこにいない、どこにもいない(後)というがある。自己を失う過程とはこんな感じなのだろうか?

ともあれ、家族や友人が認知できなくなって「あんた誰?」と訊ねるようになったたり、自己を喪失して空ろになることは誰しも恐れる。

精神科医は、アルツにならないためには、万事に関心をもって、積極的に頭脳を刺激する生活態度が大切だという。それを実行して『頭脳正常』100才になった人たちを対象に調べた結果では、73%の人が死ぬまでアルツにならなかった。

これは、頭脳正常で一年でも長生きすれば、それだけアルツになる確率は少なくなる、ということを示す明るいニュースである。