2011年10月26日水曜日

酒はナミダか、金脈か


「酒は涙か溜め息か」といえば古賀政男(19041978)が昭和6年に作曲し演奏し、伝説的にヒットした流行歌である。この歌に聞き惚れ、感傷的に杯を傾けた思い出のある方々もおありのことだろう。今回の話題、『酒』はこの場合、洋酒、日本酒、ワイン全ての総称とお考えいただきたい。

人類にとって酒は、古今東西を問わず、冠婚葬祭に始まり、食前酒から食後酒、そして社交上欠かすことのできない習慣として定着してきた。「酒は百薬の長」として尊ばれ、『養老の滝』の伝説を生み、大酒飲みを『酒豪』と讃えてきた。

しかしその反面『飲酒の害』も見逃せない社会悪として警鐘が打ち鳴らされてもきた。どれほどアルコール中毒の弊害が叫ばれても、人々は飲みたい欲望を捨て難いらしい。私の近親や友人にも酒に溺れて命を縮め、家族を泣かせた者が何人かいる。

今回の話題はアメリカで『禁酒法』が成立し、13年後に撤回された禁酒時代(19201933)の歴史的な記録である。長編ドキュメンタリー映画の製作では人後に落ちぬケン・バーンズ(Ken Burns)3部作『禁酒法』が、最近公共テレビのネットワークから公開された。

ケン・バーンズと言えば、『戦争(The War)』をはじめ『野球(Baseball)』、『国立公園(The National Parks)』、『南北戦争(The Civil War)』など数々の良心的で史実を踏まえた的確な調査や史料を基にしたドキュメンタリーを発表し続けてきたことで、その分野で不動の地位を築き上げた製作者だ。

この『禁酒法』3部作も充実した6時間上映の大作で、その『法』の成立から撤回まで、賛成派、反対派の両面から徹底的に掘り下げ、その筋の専門家数人の解説を交え、観客にその是非を問いかける。残念ながら、このブログでその映像はご紹介できないが、以下の梗概をお読みの上、興味をお持ちになったらビデオで全てを鑑賞なさることをお薦めする。                                編集:高橋 経


禁酒法(PROHIBITION)』
1部:呑んだくれ国家(Part 1: A Nation of Drunkards)

(左から):アダムス、リンカーン、ダグラス
お粗末な急造のサルーン
アメリカの歴史を顧みると、歴代の大統領が『酒』を好んでいたことが判る。先ず初代のワシントン大統領(George Washington)は、事ある毎に将兵一同にラム酒を振る舞っていた。2代目のアダムス大統領(John Adams)は毎朝毎晩酒をたしなみ、3代目のジェファーソン大統領(Thomas Jefferson)はフランス産のブドー酒を集めて貯蔵し、ジャクソン大統領(Andrew Jackson)は就任式に参列した人々一同に酒を振る舞った。リンカーン大統領も例外ではなかった。黒人で奴隷解放に活躍したフレデリック・ダグラス(Frederick Douglas)も大いに酒をたしなんだ、という記録がある。
酔いどれ天使

南北戦争を経て、生き残った将兵たちは心身の傷を癒すため、当然のように飲酒に浸る習慣を身に付けた。

スーザン・アンソニー

かくして、アメリカは開拓期の18世紀から成長期の19世紀にかけて、冠婚葬祭に限らず、あらゆる社交状況で飲酒の習慣が広がり定着した。その習慣が「ほどほど」であれば問題はなかっただろうが、一家の主人公である男性が酒びたりになると、家庭に残された妻子が経済的にも精神的にも苦悩を味わうことになる。そうした夫の飲酒を止めさせようとする女性たちが『飲酒節制運動(Temperance Movement) 』を起こし立ち上がった。その中には、後に女性の参政権を主張して闘争して名を残したスーザン・アンソニー(Susan Anthony)も加わっていた。
教会の牧師が先導して結成した禁酒団体

飲酒の節制に賛成したのは女性ばかりではなかった。教会の牧師などが先導して彼らなりの『飲酒節制運動(Sons of Temperance)、(Society of Reform Drunkards)』などの団体を結成した。
飲酒男と家庭の悲劇を劇化
こうした『禁酒運動』が繰り広げたキャンペーンの戦略は、家庭、、、殊に未来を担うべき子供達を家長の飲酒による弊害から守ること、そして、酒の害が家族だけに止まらず、飲酒者自体の内蔵をも破滅させる、といった事実を一般に教育することを目標にした。
少女を含む女性の飲酒節制運動家たち
にも拘らず、酒の需要は増える一方で、酒を提供するサルーン(saloon)を始め、ホテル、大衆酒場が日毎に開店し、1890年頃には推定で全国に30万軒以上に達した。需要の増加を促進したのは、発展途上にあったアメリカで、労働力を補給する移民が続々とヨーロッパから渡米してきたことが大いに寄与している。彼らは炭坑夫、木こり、漁師、農夫、大工など肉体労働が主で、一日の疲れを酒で癒す習慣を持っていた。
子供の将来を害する飲酒癖

量産するビール工場
その数ある移民の一人、パトリック・ケネディ(Patrick Kennedy)は飲酒の側でなく、サルーンを2軒開き、ワインを輸入する卸業を経営し、莫大な利益を挙げ財産を築いた。この人の孫ジョンが、後世(1960)大統領になったことは知る人ぞ知る成功物語である。
禁酒法を支持する団体のデモ
19世紀の終わりから20世紀にかけ、『飲酒派(wet)』の増加に伴い、主にメソジスト派(Methodists)とかバプティスト派(Baptists)の牧師らが結成した『禁酒派(dry)』も増加していった。曰く『サルーン撲滅運動教会』などサルーンの存在を敵視した。というのも醸造業の発展も著しく、アナハイザー(Anheuser)、ブッシュ(Busch)、ブラッツ(Blatz)、シュリッツ(Schlitz)、ミラー(Miller)、などが年産1.4億リットルから2億リットルのビールを製造していた。彼らは莫大な利益を上げ、企業の経営を存続させるため政府を懐柔する圧力団体を組織していた。
議会で禁酒法の改正案を審議中
『禁酒派』も負けずに政府の要人に働きかけ、また政治家の一部にも『禁酒法』の成立に積極的で有力な数人が存在した。

かくして『飲酒派』と政治的に争った『禁酒派』は、法的に禁酒を推進すべく憲法18条の改正(The Eighteenth Amendment to the Constitution)を提唱した。『禁酒法(Prohibition)』を成立させるには議会で3分の2以上の賛同を獲得する必要があった。


の『禁酒派』を有利に導いた要因は、図らずも1914728日に第一次世界大戦が勃発したことであった。つまり、ドイツが敵国となり、アメリカのビールの殆どがドイツ移民の企業で生産されていたことから、「ドイツ醸造のビールをボイコットし飲むまい」という気運が高まり『憲法改正』の賛同票が増えたのである。

法的に破壊されるビア樽
1920年、『禁酒法』は3分の2以上の支持を得て憲法18条が改正され「アルコール分を含む飲料を、醸造し、配給し、販売することを禁ずる」という条例が法制化されたのである。これで『禁酒派』はめでたし、と言いたい所だが、世の中は思惑通りには進まないものだ。

『法律』を成立させることと、国民がそれに従うかどうかは別問題だったらしい。

(第2部へつづく)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

何事でもそうだが、「過ぎたるは及ばざるが如し。」「ほどほど」で我慢できないのが人間の煩悩。お互いに気を付けましょう。