2010年5月29日土曜日

メモリアル・デーに寄せて

5月31日、月曜日は『メモリアル・デー(Memorial Day: 戦没者追悼記念日)』でアメリカの祝日です。各地で在郷軍人に関わる各種の行事が執り行われます。第一次大戦の最後の生き残りの老兵が100才で他界したとニュースで報道され、第二次大戦のベテランがハワイの真珠湾に集まり、戦艦アリゾナの記念碑での追悼は年中行事になっています。つい数時間前テレビでは日米合作映画、真珠湾攻撃にまつわる状況を描いた『トラ、トラ、トラ』が放映されました。

そうした環境の中で、日系二世のキャシー・ヤマダが書いた小さな記事がカリフォルニアのサンルイス.オビスポ紙(San Luis Obispo Press)に掲載され光っていました。今回は、その記事をご紹介いたします。


彼女は夫と共に32年間ブラジルの日系移民の布教に従事した後引退し、現在はアロヨ.グランデ(Arroyo Grande)に住み余生を送っています。-------編集、高橋-------

第二次世界大戦で奮戦した二世たち
キャシー・ヤマダ(Cathy Yamada)

今年も巡ってきたメモリアル・デーに当たり、私は日系アメリカ人の一人として、第二次大戦中、戦闘に参加した二世アメリカ軍人たちに敬意を表さない訳にはいきません。彼らは、その家族たちが『敵性国民』というラベルを貼られ、家や財産そ放棄させられ、捕虜収容所のようなキャンプで暮らすことを余儀なくされていながら、アメリカの軍隊に志願して入隊したのです。

戦後何年も経ってから私の父はやっとアメリカの市民権を取得し、私の子供たちは偏見や差別に苦渋することなく自分達が望む道に進むことができるようになりました。


今やアメリカ人は全て、こうした控え目で目立たない日系アメリカ兵士たちの英雄的な行動を知って認める時です。彼らのスローガンはその気構えと実践を示すゴー・フォー・ブローク(Go For Broke: 当たって砕けろ)」でした。私は、このメモリアル・デーに当たって、彼らの貢献を感慨深く思い起こします。

私は、安普請の(捕虜)収容所にいる二世兵士の母親が、息子が戦死した通知を受け取った時の心情を考え浮かべると胸が痛みます。

442連隊に所属していたマスダ・カズオ軍曹は、イタリーのカッシノ(Cassino)で戦死した後、優秀功労賞の勲章が授与されました。でも軍隊の規則に従い、ジョセフ・スティルウエル将軍(General Joseph Stillwell)は、移民の母親にでなく、アメリカで生まれたカズオの妹に勲章を手渡したのです。(右の写真は、上記と同様の状況だが、該当の人物であるかどうかは確認できなかった)


1944年の秋迷子のテキサス大隊(The Lost Battalion)』として知られる戦闘中の事件がありました。約300名のテキサス大隊がフランスのボスゲス山(Vosges Mountain左の写真)の戦線でナチ軍に包囲され、後方との連絡が遮断されて孤立してしまったのです。100442合同連隊が6日間かかった血みどろの戦いで2000人の死傷者を出し、やっとテキサス大隊を救出することができました。

この功績が認められ、ジョン・ダァルキスト将軍(General John Dahlquist)が戦場へ赴き、11月12日に表彰式が行われました。そこに整列した第100第442の合同連隊は、本来なら4500名の内500名だけでした。それに気が付いた将軍は「他の兵隊はどこへ行ったのだ?」と不満をもらしたのです。合同連隊の指揮官だったヴァージル・ミラー大佐(Colonel Virgil Miller)
頬に涙を流しながら「閣下、これが全員なのです。」と答えたということです。

『迷子のテキサス大隊』救出作戦は、230年に亘るアメリカ軍隊史で10指の一つに数えられる偉大な功績となっています。究極的に、二世部隊は7つ連隊賞を始め、数多くの大統領賞を、連隊全員14000人はその英雄的な戦闘の貢献や功績で、個人賞として合計18000個のメダルや勲章を授与されました。アメリカ軍隊史で、二世部隊は最も多く顕彰された連隊として記録されています。(右は、トルーマン大統領から握手を求められた二世負傷兵。トルーマンは、公式の閲兵の際「君達は、敵軍と戦ったばかりでなく、偏見や差別とも戦って、いずれも勝ち取った」と二世部隊を賞賛した。)

別の二世たちが6000人、太平洋戦線でアメリカ軍隊の一部門である超秘密情報機関、ミリタリー・インテリジェンス・サービス(The Military Intelligence Service MIS: 軍事情報機関)で活躍していたことも特筆に価いします。二世兵士の仕事は、日本兵捕虜の訊問(左の写真)や、第一線での暗号解読などが含まれていました。

こうした二世兵士たちが獲得した日本軍の情報はアメリカ軍の作戦を有利に導き、戦闘期間の短縮を可能にしたと言われています。チャールス・ウイロビー将軍(General Charles Willoghby)は、これで起こりうる死傷者の数を大巾に減らすことができた、と認めています。


ジョージカルビンサイトウ兄弟は、共に二世兵として入隊しました。ご他聞に洩れず、彼らの家族は収容所暮らしを余儀なくされていました。

カルビンが戦死した時、ジョージは収容所にいる父親に手紙を書き送りました。その一部には「、、、カルビンの活躍のお陰で何人もの兵隊が救われました。、、、お父さん、今僕ら兄弟が入隊したことを不満に思っていた貴方を説得するのに最適な時だとは思えません。でもカルビンが命を捧げた今、僕の胸の中だけに収めている訳にいかない事があるんです。僕たちが志願して入隊したことを『愚かな間違いだ』などと誰にも言わせないでください。僕は、この戦闘に参加して以来、時が経過するにつれ、過去の事(差別され迫害を受けたこと)がどんなに辛かったとしても、僕らの決心は正しかった、と確信が持てるようになったのです。アメリカという国は本当に素晴らしい国です。だから、もう決して僕らの決断を非難しないでください」と訴えていました。


悲しいことに、ジョージ・サイトウは、この手紙を送った3ヶ月後に戦死しました。


今日、我々は非常に不安定な国際情勢の中で生きています。私はこうした社会情勢にあってこそ、軍隊の活躍や犠牲者のお陰で我々の安全が守られているということを真剣に考える必要があると思います。第二次大戦の折りに命を賭けて我々の自由(freedom)を守って死傷した軍人たちに栄冠を捧げます。


今年、 2010年のメモリアル・デーに当たって、私の心は、国の為に命を捧げた多くのジョージ達カルビン達に対する感謝の気持ちでいっぱいです。

二世部隊』に敬礼。

2010年5月22日土曜日

寿司:あめりかん・スタイル

前回、『可愛い人魚姫』の末路が『刺身』という趣味の悪いオチでしたので、その口直しに、アメリカで静かに広がっている寿司のブームをご紹介いたします。

1950年代、アメリカで日本食の店は大都会でも希少な存在でした。当時は主に日本人が客筋でしたが、1960年代に入ってから、次第に白人客が増え店内を見渡すと日本人客は数えるほど、という現象が起こり、寿司、てんぷらを売り物にする日本料理店が徐々に増え、1970年の初頭にはニューヨークだけでも100軒を越す盛況となり、大小を問わずそれぞれ繁盛していました。


10年ほど前から、大きなスーパーマーケットのデリ・カウンターに、プラスティック折り詰めの寿司が置かれるようになり、その普及振りを見せています。寿司隆盛の原因は、肉食人種が刺身の『美味』に目覚めたことは勿論ですが、肥満に悩むアメリカ人の『健康食志向』が大いに貢献していることは否めません。

また最近、マグロの種族保存運動と相俟って『菜食主義』の台頭で、刺身抜きの寿司が流行り始めたことも見逃せません。以下はNYタイムズに掲載された『手作りスシのお奨め』です。ゴハンの炊き方から教えています。-----編集、高橋

家庭で手作りスシのお奨め

マーク・ビットマン
(Mark Bittman)

5月4日付け、NYTの随筆から抜粋

家庭で自分の手でスシを作るのは左程むずかしい技ではない。魚抜きでいこう。
『手作り』は、プロの技には敵わないが、できないことではない上『美味』の素晴らしさは保証する。『にぎり』でも『海苔巻き』でも、真珠の肌のような銀シャリ、その甘酸っぱさ、その暖かさ、、、これがスシの醍醐味なのだ。つまり、スシの全てはシャリにかかっていることをお忘れなく。

イタリアのリソット(risotto)、スペインのパエラ(paella)など思い浮かべてみるとよい。世界中の米料理と同様、スシは世界共通の、比較的安価な食品でありながら、その料理法や変わった添え物によって特有な個性が生まれてくる。さよう、添え物とは魚肉である必要はないのだ。アボカドでも卵焼きでも充分に賞味できる。


既成の添え物にこだわる必要はない。例えば焼きピーマン、例えばハムの切り身、一風変わった味を試してみたらよい。


魚肉を使わなければ『新鮮さ』を考慮する必要がなくなる。あるいはクロマグロの絶滅を憂慮することもない。また包丁の切れ味や切り方の技術を体得することも要らない。そして、商売ではないのだから、各種の肴を小数に取り揃える無駄も省ける。おまけに、小さな『にぎり』を口に放り込む度に勘定書を心配することもない。食べたいだけのシャリを頬ばったらよい。それは貴方がたが得意とするところだろう。


私はスシの作り方をブルー・リボン(Blue Ribbon)のスシ・バーで会った板前、ウエキ・トシから手ほどきを受けた。私は彼から、最も肝心なシャリの作り方を教わったついでに、何か色々と考えられる『添え物』のヒントを得た。

細目は飛ばして、早速『手作り』にとりかかろう。

まず米を研いで飯を炊く。水にお酒を少々。米酢に砂糖を加えものを、飯を優しくほぐしながらふりかける。酸っぱくなり過ぎないように時々味見してみる。水で手を湿らせ、飯が手の平にべたつかないようにして好みの形に握る。

海苔で包む。

ナス漬け、辛子菜漬け、梅干し、タクアンなどの具『添え物』を乗せたらできあがり。

お好み寿司を盛り付ける、ブルー・リボンを経営するウエキ・トシ

 左はウメとシソの葉。右は焼きキノコ。

ナス、わさび、山芋、ウメ、辛子菜などで、色を添える。

取り合わせ野菜スシ。ブルー・リボンのスシ・バーとグリルで。

ブルー・リボンの野菜盛り合わせの箱寿司。
辛子菜、ゴボウ、アスパラガス、大根、ナス、バターナッツ瓜など。



具(添え物)各種のヒント

アヴォカド;ホーレン草のごま油いため;生あるいは漬けたキュウリ;大根とその類い;ナス漬け;油揚げ豆腐;オリーブ;辛子菜漬け;冬瓜漬け;茹でたアスパラガスその他の野菜;もやし類;角切り豆腐;焼きナス;焼きピーマン、お好みでアンチョビー添え;味付けキノコ;ネギ;卵焼き;茹で卵;ハム切れ;梅干し;ミズガラシ;その他

2010年5月18日火曜日

ヒロイン達の末路

今回は画家のジョー・グレィ(Joseph Grey Jr.)から転送されたブラック・ユーモアです。中には多少眉をひそめるような冗談もあり、公開をためらいましたが、最後の『寿司(刺身)』が気になったので、発表いたします。

気になった理由は二つあります。
一つには『スシ(Sushi)』が過去20年来、アメリカの食通の間で安定した人気を集め市民権を獲得した証拠として、冗談のタネに使われるようになったことをお知らせしたかったからです。


二つ目の理由は少々辛口です。私の思い過ごしかも知れませんが、近年、マグロ、クジラなどの絶滅が危惧され、漁獲制限が叫ばれている一方、日本の漁業関係者たちはそれに抵抗し、乱獲を続けています。この冗談は、そうした日本の姿勢を揶揄しているようにも思えたからです。それに関連した真面目な話題は近日内にお送りいたします。


でも今日のところは、気軽にブラック・ジョークとしてお慰みください。編集;高橋

♥ シンデレラ姫(Cinderellaアルコール中毒でバーで酒浸り)

♥  白雪姫(Snow Whiteダメ亭主と子沢山で疲れ果て)

♥  赤ズキンちゃん(Little Red Riding Hoodジャンク・フードで肥満症)

♥  眠れる森の美女(Sleeping Beauty一向に目が覚める気配もなく、周囲は老化)

♥  アラジン (Aladdin)』のジャスミン(Jasmine:アラブの女戦士に)

♥  美女と野獣 (The Beauty and the Beast)』のベル(Belle美貌よ永遠なれ)

♥  可愛い人魚姫(The little mermaidスシのネタに)

2010年5月15日土曜日

スターらしからぬ女優の死

追悼:女優で劇作家、リン・レッドグレーブ
ブルース・ウェバー(Bruce Weber)
5月1日付け、NYTより抜粋


芸能界の名門に生まれ育ち、その血筋を受け継いで舞台や映画に出演し、劇作の脚本も書いていた女優リン・レッドグレーブ(Lynn Redgrave)は、2003年に乳ガンの手術を受けて以来、放射線治療を続けていたが、去る5月1日、コネチカット州ケント市の自宅で息を引き取った。享年67才。

リンは1943年3月8日、ロンドンで生まれた。リンの父親はイギリスの名優マイケル・レッドグレーブ(Michael Redgrave)で、彼女はその末娘。姉は華々しく有名になったヴァネサ・レッドグレーブ(Vanessa Redgrave:右の写真の左)、その栄光の陰で一生を過ごした。だがそれなりに、喜劇的な役もこなしながら、シェークスピアやバーナード・ショウ(George Bernard Shaw)の古典的な役柄も演じた。

リンは ロンドンのセントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ(the Central School of Speech and Drama)で学び、初舞台は1962年、ロイヤル・コート劇場(the Royal Court Theater)で公演された真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)』だった。その後、ローレンス・オリビエ(Lawrence Olivie)ピーター・オツール(Peter O'Toole)を始めとしてそうそうたる舞台人たちから実地に教えられた。

過去20年来、専ら劇作に専念していた。その内の第4作目はレイチェルとジュリエット(Rachel and Juliet)』と題する自分の家族に関する追想だった。レイチェルリンの母親で、生涯シェークスピアの作中人物ジュリエットに憧憬していた経緯が物語りの軸である。昨年の秋にワシントンで、今年の1月にアリゾナ州のツーサン(Tucson)で公演され、リン自身が出演もした。(左は、ジョン・バロウマン(John Barrowman)と『カンパニー』で共演、ケネディ・センター:2002年)

リンは、近親のゴシップにしばしば悩まされていたが、女優としての評判は傷つけられることなく、トニー賞(Tony Awards: ミュージカルを含む舞台芸能に与えられる賞)の候補に3回、オスカー賞(Oscar Award: アカデミー賞)候補が2回、エミー賞(Emmy Award)に2回、選ばれたが賞は獲得していない。リンが脇役だけでなく主役も演じているにも拘らず、いずれの役柄でも、批評家や観客が頭に描いている『主演女優』のイメージに合致しない彼女の容姿容貌によるものだと思われる。

1966年、当時23才だったリンが題名役のジョージィ・ガール(Georgy Girl)』で主演した。中年男の役はベテランのジェームス・メースン(James Mason)、若いジョージィに年甲斐もなくベタ惚れする、という筋書きである。リンはこの肥ってたくましい役をこなす為に6キロ余りの増量したということだ。これでアカデミー主演女優候補に上ったが、受賞はできなかった。演技力はともかく、これで好むと好まざるに拘らず、リンの『女優らしからぬ』イメージが定着してしまったのではなかろうか。

リン・レッドグレーブが初めてブロードウエーの舞台に立ったのが1967年、ピーター・シェィファー(Peter Shaffer)作のブラック・コメディ(Black Comedy)』。以後サマセット・モーム作(W. Somerset Maugham)『誠実な妻(The Constant Wife左の写真:ケィト・バートンと共演)』他、ウォーレン夫人の特技(Mrs. Warren’s Profession:1976年)』、『聖女ジョアン(Saint Joan:1977年)』などを含めて数々の舞台に立った。

リンが最初に書いたの劇作は私の父に贈るシェークスピア(Shakespeare for My Father)』で1993年にブロードウエーで公演された。この筋書きは、彼女が幼かった頃、父の存在が遥か彼方で孤独だったことや、姉や兄の思い出を綴ったものである。その挿話の一部には、姉や兄が世界的に有名な地位にあり、自分を『負け犬』になぞらえていた。

芸能界の名門の出にありながら、リンはテレビの連続ドラマの数々に出演していた。いずれも収入を得るためであって『働く女性』をもって自認していたようだ。 1990年代の半ば、リンは久方ぶりで映画に復活し、1996年シャイン(Shine)』で主演のジェフリー・ラッシュが演じた精神障害ピアニストの妻を好演した。1998年の神々と怪物ども(Gods and Monsters)』では家政婦を演じ、30年振りに2度目のアカデミー助演女優候補に選ばれたが、受賞は逸した。(右は、その舞台版。この演技で1999年にゴールデン・グローブ賞Golden Globe Awardを受けた)

数ヶ月前、リン・レッドグレーブは劇作の執筆について「私は自分のために好きで書いているの。でも他の人達のことだって考えているわ」と語っていた。
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その他の舞台
アラン・ベネット(Alan Bennett)作、独白劇トーキング・ヘッズ(Talking Heads)』。2003年、オフ・ブロードウエー。

誠実であることの大切さ(The Importance of Being Earnest)』リン・レッドグレーブ扮するブラックネル夫人を中央に、右はシャーロット・パリー(Charlotte Parry)、左はロバート・ペトコフ(Robert Petkoff)ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック( the Brooklyn Academy of Music)で2006年公演。

2008年、オフ・ブロードウエーで公演された慈悲(Grace)』。リンの役柄は信仰と科学の問題で悩む無神論者。

2010年5月11日火曜日

追悼:輝かしく年輪を重ねたリナ・ホーン


人間誰でも年をとれば皺(しわ)が増え、髪の色が白くなる。当たり前な話だ。しかし、中にはその自然現象を拒否し、魅力ある若さを『永遠に』保たせるべく、エリザベス・テーラー(Elizabeth Taylor)のように美容整形に執着する女性もいる。しかし、彼女はそうした努力で老化現象を避けるという執念が空しいことに気が付いていなかったようだ。


だが、歌手、女優、ダンサーとしての輝かしい一生を通したリナ・ホーン(Lena Horne:上と左の写真)は、年を重ねると共に磨きがかかり、老いても敢えて『若さ』に執着せず、無理なく見事に『円熟』の境地に達した。そのリナ・ホーンが、去る5月9日、92才の生涯を終えた。

リナは、1917年(大正6年)6月30日、ニューヨーク、ブルックリンで、ジョン・カルホウン(John C. Calhoun)一家に生まれた。両親ともに血統は、黒人、白人、インディアンの混血で、黒人社会では教育がある中産階級に属していた。父のエドウイン・ホーン(Edwin "Teddy" Horne: 1882-1970)は、賭博に関係のある商売で、リナが3才の時に出奔した。母のエドナ(Edna Scottron)は黒人芝居の女優で巡業が多く、幼いリナは祖父母に育てられた。

5才ななってから、母親の巡業に付いて諸州を転々とした。一時、2年ほどヴァージニア州にいた叔父フランク・ホーン(Frank S. Horne)の家に住んでいたこともある。この人は、フォート・ヴァレー・ジュニア・インダストリアル・インスティチュート(Fort Valley Junior Industrial institute)の校長で、時の大統領ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)の相談役を務めていた。

リナは12才になり、母と共にニューヨークへ戻り、女学校へ入ったが、中退して卒業しなかった。

16才の時、ハーレムのナイトクラブ(the Cotton Club)でコーラスの一員となり歌っていた。やがてハリウッドのオーディションを通り、様々な映画の端役を演じていたが次第に認められ、大役を与えられるようになった。代表的なミュージカル作品には、Thousands Cheer(万雷の喝采:1943), 『Broadway Rhythm (ブロードウエー・リズム:1944), 『Two Girls and a Sailor (二人の女性と一人の船乗り:1944)』, 『Ziegfeld Follies (ジーグフェルド・フォリーズ:1946)』, 『Words and Music (言葉と音楽:1948) など、ヒット曲にはCabin in the Sky (空中のキャビン)』、『Stormy Weather (荒れ模様)』、『Owing to the Red Scare (アカ嫌いに借りがある)』、などがある。(左の写真:1957年から1959年まで公演されたミュージカル『ジャマイカ(Jamaica)』の舞台で)

私的な面では、人種差別に抗議して公民権運動に加わり、1963年8月、首府ワシントンへの行進に参加したりした。そのためか、映画界のブラック・リストに載り、一時干された。それでというわけでもなかったろうが、再びナイトクラブテレビに出演するようになった。

1986年3月、一旦引退を表明したが、翌年ブロードウエーの劇場でリナ・ホーン:その人とその人の音楽(Lena Horne: The lady and Her Music)』と題する独り芝居で自演した。これが当たって数々の受賞を獲得した。1990年代に入っても、時々歌をレコーディングしたり劇場に出演したりしていた。(右の写真:
二つのグラミー賞を獲得した後で、上記の独り舞台での一コマ)

リナ・ホーンの逸話は数え切れないほどあるが、ジェームス・ギャヴァン(James Gavin)が書いたStormy Weather(荒れ模様右の写真)』に詳しく書かれてある。

彼女は、ピアニストでMGMの音楽監督をしていたレニー・ヘイトン(Lennie Hayton)という白人男性と、1947年にフランスで結婚し、3年間それを秘密にしていた。これが彼女に関する最大の逸話かも知れない。
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リナ・ホーンの主な受賞歴

Grammy Awards(グラミー賞)

★ 1981: Best Cast Show Album: Qwest版
★ 1981: Best Pop Vocal Performance; 女性部門: Qwest
★ 1989: Lifetime Achievement Award
★ 1995: Best Jazz Vocal Performance: Blue Note

Other Awards (その他の受賞)

★ 
1980: New York Drama Critics Circle Award: Special Citation
★ 1980: Drama Desk Awards; Outstanding Actress —女性部門
★ 1981: Tony Awards; Special Citation
★ 1984: JFK Center for the Performing Arts; Kennedy Center Honors
★ 1987: American Society of Composers, Authors and Publishers:
     The ASCAP Pied Piper Award
★ 1994:Sammy Cahn Lifetime Achievement Award; Songwriters Hall of Fame
★ 1999: NAACP Image Award; Outstanding Jazz Artist
★ 2006: Martin Luther King Jr. National Historic Site;
     International Civil Rights Walk of Fame (included)

2010年5月10日月曜日

アメリカの繁栄と衰退:その1

自動車のデザインから見たアメリカの繁栄
 ----- 1950年代 -----

第二次世界大戦、特に日米が戦った太平洋戦争が、1945年(昭和20年)8月15日、日本の惨敗で終わりを告げてから、両国は『昨日の敵は今日の友』となり、それぞれが経済規模の格差を意識しつつ、足並みを揃えて経済発展に向かった。


今回は、アメリカだけに焦点を絞り、その
自動車のデザインや機能に象徴される発展振りを回顧してみる。戦争中は、アメリカの自動車会社(当時は、ビッグ・スリーと呼ばれるGM、フォード、クライスラーの3社に加えてスチュードベーカー、アメリカン・モーターズ、ジープなどが健在だった)は軍需産業に生産を切り替えていたため、戦後の数年間、国民は極度の自動車不足に悩まされていた。しかし、自動車生産の復活は急速かつ迅速に進み、1950年代に入るまでに各社は生産をフルに回転させ、短時日で供給が需要に追いついた。

一家に一台の車を行き渡らせる、という100万台単位の販売政策目標が容易に達成されるや、次の段階として一家に二台以上の目標が掲げられ、それも順調に達成されていった。更に次ぎの段階では、より豪華に、より高性能に、より美しく、『より優れた、、』外観、内装、仕様が付加され『買い替え』を説得し消費を美徳とする観念を消費者に植え付けていった。


当時はまだ自動車デザイナーという専門職業が樹立されておらず、技術者たちがデザインも担当し、クローム・メッキなどの飾り材料をふんだんに使い、尾ひれのついた派手な外観を造り上げた。そのため、洗練された審美眼をもつ人達からは最も醜い自動車が生まれた時代とも酷評された。


かくして市場に行き渡った1950年代のアメリカの自動車は、美醜はともかくアメリカの豊かさを謳歌する象徴となったことは事実である。先ずは当時の自動車を振り返って展望してみよう。


1950年型、Mercury 4-dr. と 1950年型、Studebaker Starlight

1951年型、 Studebaker Champion と 1951年型、 Hudson Hornet

1951年型、 Buick LeSabre と 1953年型、 Buick Wildcat

1954年型、Dodge Fire Arrow と 1954年型、Mercury Sun Valley

1955年型、Oldsmobile Super 88  と  1955年型、Nash Rambler

1956年型、Cadillac Series 62  と 1956年型、Chevrolet Bel Air

1956年型、Ford Fairlane Victoria と  1956年型、Ford Thunderbird

1957年型、Chevrolet Bel Air  と 1957年型、Dodge Royal Lancer

1957年型、Lincoln Premiere と  1957年型、Mercury Turnpike Cruiser

1958年型、Cadillac Fleetwood 60 Special  と 1958年型、Mercury Turnpike Cruiser

1958年型、Dodge Custom Sierra  と 1958年型、Ford Edsel

1959年型、Chevrolet Brookwood  と 1959年型、Plymouth Fury

1959年型、Mercury Country Cruiser と 1959年型、Ford Thunderbird

1960年代に入ってから、自動車デザインの専門家がそろそろ進出し、派手なデザインは徐々に衰退していった。一方でより多くの車を売り捌く』販売経営方針は更に強化され『より大型で』『より馬力の強い』車の生産競争が始まった。1970年の初頭にはかつての大型車はより大型になり、かつての中型車はかつての大型車になり、小型車は中型車になり、小型車は生産中止となった。

これがドイツや日本からの小型車の輸入を促進する結果を招いた。輸入小型車の販売台数が、アメリカ全体の自動車販売数の10パーセントにも満たなかった内は、ビッグ・スリーは安穏として軽蔑の対象にしていた。


1975年、そうした楽観性に驕ったアメリカ車の頭上に第一次オイル・ショックの鉄槌が撃ち下ろされたのである。外国製の輸入小型経済車は恐るべき勢いで売り上げを伸ばし、ビッグ・スリーの陣容を脅かした。(つづく)