2009年10月5日月曜日

一周忌:童謡歌手(?)フランク永井

[編集から:筆者服部公一先生は作曲家、指揮者、随筆家、テレビ評論家、そして教育家。外務省の文化使節として、日本の音楽近代史を知らしめるべく世界を股にかけ講演演奏会を開催したという功績もお持ちです。(右のカリカチュアは和田誠:画)
昨年の10月27日、フランク永井が死亡した直後に書かれたこの随想は、筆者が文芸春秋社の依頼で執筆したもので、本年2月号に掲載されました。実は、掲載以前にそのコピーを戴きましたので直ぐこのブログで公開したかったのですが、文春を出し抜くことになるので遠慮して、フランク永井の一周忌を待ち、今改めて公開する運びになりました。
フランク永井の歌は、大ヒットした有楽町で逢いましょうを始めとし、彼の『低音の魅力』で日本全国の女性ファンばかりか、男性フアンをも魅了し一世を風靡したものでした。

服部先生は、フランク永井について「そもそも彼は日本で最高のジャズ歌手でした。在日2世の済州島人で仙台生まれ。戦後間もなく仙台近郊の米軍キャンプで運転手をしながら、GIからジャズを伝授されたのだそうです。戦後の進駐軍回りで鍛えたアメリカ英語を身に付けました。もちろん彼に持って生まれた才能があってこそ人気を獲得したのです。彼の歌と私のピアノでスイングを共演したこともあります。私としては、ペリー・コモビング・クロスビーのアルバム的な日本版を作りたかったのですが残念ながら実現しませんでした。でも日本で流行歌の大歌手が、谷川俊太郎作詞で私が書き下ろした家族向けのCDを録音したのは、空前の企画だったかも知れません」と語っています。

なお、そのCDフランクおじさんといっしょ』は、服部先生のご厚意で先着10名様に進呈いたします。お申し込み方法はこの随想の最後をご覧ください。]


(在りし日のフランク永井)

服部 公一
(はっとり こういち)鎌倉

2008年12月8日
文芸春秋2月号に掲載

1963年(昭和38年)の冬であった。谷川俊太郎と私は、下目黒の閑静な屋敷町の豪勢な邸宅にいた。そこは君恋し61年度日本レコード大賞を受け、最高に売れていたフランク永井の新築の自宅だった。銀座の高級クラブのママだったという噂の永井夫人が、さすがと思わせる挙措(きょそ)でもてなしてくれた。やがてフランクが運転する自慢の最新型の米車、スチュードベーカーのラークで赤坂のレストランへ案内されご馳走になった。これは彼が谷川と私を慰労する会食だったのである。


この三人の組み合わせは、1962年度日本レコード大賞作詞賞を受賞したチームで、谷川俊太郎作詞、服部公一作曲月火水木金土日の歌だった。これはそもそも童謡だが、それまでの幼稚な子供の歌ではなく、家族揃って歌ういわゆるホーム・ソングの発想だった。8小節の短い歌を一週間の7日、7回繰り返す内に途中で2重奏になったりして直ぐ覚えてしまう、という仕掛け。だからパパ、ママ、子供、の3人で歌うように作ってあった。高度成長期にあった日本の幸福な家庭のテーマ・ソングにふさわしい構成であった。


この歌はスイング・ジャズ調で、伴奏もクラリネット中心のバンドになった。こういう新機軸の童謡には、童謡歌手の歌唱では困るわけで、本格的なジャズを歌える歌手として、制作会社のビクター・レコードフランク永井をリクエストした。あの君恋しもその編曲はロック調であった。
彼はそもそも戦後の米軍キャンプ回りで鍛えたジャズ歌手で、ビング・クロスビーで代表されるクルーナーと称するアメリカン、ポップス・シンガーの流れをくみ、その特長が有楽町で逢いましょうで大ヒットした歌謡曲歌手、その歌唱力は抜群だった。この企画には彼も乗り気になり、フランクのパパ、真理ヨシコのママ、松島みのりの坊や、という役柄で録音した。この童謡には、フランクを意識して、特に英語のオブリガートを付けたのであった。

この歌が日本レコード大賞で顕彰されると、ビクターフランクおじさんといっしょというLPを作ってくれることになった。これは、服部公一童謡集月火水木金土日の歌の他おじさんの子守唄』、『お尻を打つよなど9曲をフランク永井が歌っている。歌謡曲歌手が童謡集LPを出したのは空前絶後だったかも知れない。彼にとってこれは全て新曲、私はその譜読み練習のお付き合いをしたが、読譜力とリズム感の良い人であった。低音が魅力の歌手だったが、意外に高音がとても美しいということを、この時に実感した。しかしお互いに直ぐジャズの話になってしまい、スタンダード曲を弾いたり歌ったりして時間を過ごしたのも懐かしい思い出だ。(左のカリカチュアは高橋経:画)

それから数年後、私は友人たちと夜の博多の街を歩いていた。大きなキャバレーにフランク永井出演中と看板が出ていた。すでに座席は売り切れ、札止めだったのだが、私がフランク永井のマネージャーに話を通じたら、直ぐ席を作ってくれた。「何と、君はポップスの世界にも顔が効くんだな」と私は友人達にいい顔ができた。この時、特別に歌ってくれたのがあのLP録音で親しんだ拙作の童謡とても大きな月だからだった。フランク永井はこの曲が好きで、バンド用の編曲を地方回りには必ず持って歩くのだ、と言っていた。そう言われれば、この歌は確かにフランク永井の歌唱にふさわしい作品である。


ここ20年余り、彼は自殺未遂の後遺症に悩んでいたが、去る10月27日(2008年)に亡くなった。
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CDを進呈!
先着10名様にフランクおじさんといっしょ』のCD(右の写真)を差し上げます。住所を明記して <JACircle@KyoVision-ad.com>へお申し込み下さい。これは服部公一先生のご厚意によるものです。


[トラック:1]
★ 月火水木金土日の歌:谷川俊太郎作詞

★ カラスの歌:さとう よしみ作詞
★ ボタン:まど みちお作詞
★ まんじゅうとにらめっこ:阪田寛夫作詞
★ ハダカの歌:さとう よしみ作詞
★ とても大きな月だから:茶木滋作詞
★ お姉さんの電話:きた ひろし作詞
[トラック:2]
★ 木馬にのって:さとう よしみ作詞
★ へのへのもへじ:きた ひろし作詞
★ 沈丁花の匂う道:きた ひろし作詞
★ お尻を打つよ:安西均作詞
★ うみの子:きた ひろし作詞
★ べんきょうは嫌い:きた ひろし作詞
★ おじさんの子守唄:安西均作詞

猫を閉じ込めて小鳥を救おう

ナタリー・アンジア(Natalie Angier)
2009年9月28日:NYタイムズ掲載

今年のハロゥイーン(10月末の年中行事)は、早めに我が家へやってきた。

先日、私が窓越しに裏庭を眺めたら、見慣れない黒ネコがのったりと横切っていた。キラリと光る丸い両眼、磨きたての靴みたいにつやつやした毛並み、文句なしに美しい。でも何となく薄気味悪い。そこで私は表へ出て足を荒々しく踏みしめながら「出て行って!」と叫んで、何とかその『魔女のペット』を追い出した。

私は『黒ネコが横切るのを見て』怖れるような迷信家ではない。私はむしろ愛猫家(あいびょうか)だ。でも肉食放浪ネコが、面白半分に小鳥を餌食と狙って我が家の裏庭に図太く侵入してくるといい気持ちではいられない。そうでなくても、近所のネコが何匹も、我が裏庭(の小鳥)に魅かれて寄ってきているのだ。どのネコの飼い主が誰で、そして彼らが申し分ない良い家庭で育てられていることも知っている。また、ネコが小鳥用の水皿や、ヒマワリの種がたっぷり詰まった餌函の周りをうろつくのは彼らの自由であることも判っている。何と言っても今は小鳥が移動する前で忙しく飛び回っている季節なのだ。

近所のネコの飼い主に、我が家の庭をうろつかせないよう苦情を言いたいのは山々だが、付き合いを気まずくしたくないのでそんな勇気はないし、もしそうしたら私は自分のことを棚に上げて、と偽善者呼ばわりされるのが落ちであろう。実を言うと、2年ほど前に死んだ私の飼いネコが、近所をわが物顔にのし歩いていたのだ。その名はクレオ(Cleo:右の写真)、隣家の窓によじ登っギャーギャー鳴きわめいたり、屋根の上を歩き回ったりしていた。飼いネコらしくさせようと家の中に閉じ込めたら、今度は居間を占領して好き勝手に動き回り、最後には家族が音(ね)を上げ、ドアを開けて表へ追いやる羽目になったほどの強者(つわもの)だった。

今になって思い知ったが、クレオを家の中に監禁した時は、ネコの臭いに鼻をつまむほど悩まされ、私自身の居場所を確保するのが精一杯だった。当節、迷いネコ、野良ネコの人口(猫口?)増加を抑えるのに:犬猫処理場へ送る;捕獲法を工夫する;去勢して放す;など色々な提案があるが、ネコに詳しい専門家たちは真っ向から反対する。こと愛玩動物の正しい飼い方となると、愛する自分の猫:クレオを始め、諸々の名前をもつ愛猫たちが、気ままに哲学者ぶってうろついても構わないだろうかという悩みに対して、お役人は一言のもとに「ダメだ」と戒める。ただでも数え切れないほど野良猫がこの界隈にうろついているのに、飼い猫まで『野良ネコ』の行動に参加させてくれるな、という訳だ。それに、美しい歌声を聴かせてくれる小鳥が、毎年何億羽も飼い猫に殺されているというのが実状だ。最近の調査によると、私が住んでいる(典型的な)住宅街はヒナ鳥にとってバミューダ三角海域(Bermuda Triangles: 海難事故が多発した海域として知られている)』ほどに危険極まりない界隈なのだ。


国立動物園(The National Zoo)内にあるスミソニアン、渡り鳥センター(the Smithsonian Migratory Bird Center)の調査科学者、ピーター・マァラ(Peter P. Marra)博士は「ネコは各種の愛玩動物の内で、自由にうろつくことを許されている唯一の動物です。豚は豚小屋に、鶏は鶏小屋に収容され
(犬は表では繋いで)、というのが規則です。何故、ネコだけが時に狂暴さをむき出す自由行動が許されているのか判りません」と指摘する。

そういう指摘はネコにとって少々不公平だと思う。ネコから屋外活動を奪うと、かれらの平均寿命は3年以上も短かくなる。アメリカン鳥類保護協会(The American Bird Conservancy)で保護を支持している副会長、ダリン・シュローダー(Darin Schroeder)「世の親達は幼児を車道で走り回ることを許しません。それと同じことで、社会的に責任を重んずる飼い主もそれと同じ道理でペットを放し飼いにすべきではありません。」と言う。

野生動物を調査しているシュローダーの観察によると「膝の上でおとなしくしているネコは、独りでペロペロと毛並みを整えていますが、
その飼いネコが表を歩き回るようになると雑草のツタのように野性的で侵略的な性向が助長されます。元々アメリカの飼い猫は植民時代以来からの子孫で、中近東の野生の血統を受け継いでいるネコが多く、北米の原住種類とは全く違った性格を持っているのです。その結果、近年の品種は、ネコ特有の密やかな挙動を受け継ぎ損なってしまいました。皆さんの中には、単純にネコの首に鈴を付ければ小鳥の犠牲が少なくなるとお考えのようですが、鈴の音は小鳥にとって何の警鐘にもなりません」とのことだ。

言うなればうろつきネコは潜在的な捕食動物である。飼い主の前では調理された『ネコ用の餌』を食べ、一旦表へでると『腹ごなし』に弱い動物を追いかけ回す。そうした運動は、自然における捕食行為より遥かに狂暴な挙動を見せる。マァラ博士「現在アメリカにうろつきネコ(野良猫+飼い猫)』は推定1億1千7百万匹から1億5千万匹を下りません。北米では最も数の多い捕食動物でしょう」と言う。


かかる飽くなき『弱い動物』への追跡習性にも拘らず、ネコは滅多にイタチやモグラのような害獣(がいじゅう)を痛めつけることをしない。シュローダー「大都会では通説として、ネコはネズミの繁殖を抑えるのに役立っていると言い伝えられていますが、統計によるとネコはあまりネズミを痛めつけてはいないようです。特に市街で悩まされている大型のネズミはネコの遊び相手ではないようです」ということだ。


だが、ネコが小鳥を狙うという事実は噂だけではないらしい。サンタ・クルツ(Santa Cruz)にあるカリフォルニア大学(The University of California)ケヴィン・クルックス(Kevin R. Crooks)、コロラドの野生地帯計画(The Wildlands Project in Colorado)のマイケル・スール(Michael E. Soulé)らの『南カリフォルニアにおけるネコ、コヨテ、雑木に棲む小鳥、など28分類における実態』に関する報告によると、コヨテ(左の写真)の数が多く、ネコの数が少ない地域では小鳥の種類が多かった。コヨテはネコを捕食するが、小鳥を狙うことはしない。コヨテが殆ど不在でネコが横行している地域では小鳥の種類が極端に減っていた、ということだ。

ネコはヒナ鳥を主に狙うようだ。従って、多くの温暖な地帯では、小鳥は危険な成長期を過ごすことになる。巣が狭くなるほど育っても、まだ充分に飛ぶ力は持っていない。それで地面をチョンチョン歩くことになり、薮に隠れて親鳥が餌を運んでくれるのを待っている。たまたま通りかかった人が「かわいそうな小鳥、巣から落ちたのかな」と助けたくなるが「待てしばし、ネコがうようよしている所では、ヒナ鳥がネコの爪に捕まるのが自然の摂理なのです」マァラ博士は止める。


マァラ博士と彼の学生が、ラジオ送信機を使いワシントン州郊外2カ所(ベセスダ Bethesdaタコマ・パーク Takoma Park)でヒナ鳥の生存率を調べて
まとめた報告がある。どちらの街も同じような経済環境で同じような階級層分布だったが、唯一の違いはタコマ・パークにはうろつきネコが多く、ベセスダは街路が多いのでうろつきネコは殆どいなかった、という点だった。結果はお察しの通り、ベセスダでのヒナ鳥の生存率は55パーセントと自然増とほぼ一致し、樹木が茂っている鳥の楽園、タコマ・パークでは僅か10パーセントのヒナ鳥だけが生存できた。

そこで、ネコを表に出さないで彼らを欲求不満にさせないという方法をご紹介しよう。横町ネコ連合(Alley Cat Allies)の創立者で会長のベッキー・ロビンソン(Becky Robinson)は、野良猫を5匹も拾い上げて育てるほどのネコ好きだ。彼女が推薦する方法とは、透明なプラスチックの小屋を窓に取り付け、ネコがそこから『世の中』を眺めることができるようにしてやること。また、金網張りの曲がりくねった檻を庭に置いてやってキャンプとしゃれこんでも良い、といったアイデアである。


最後に、私の新しいネコ、マニィ・ジュニア(Manny Jr.)と名付け、網で囲ったポーチに住まわせ、我が家ができる程度の『追いかけスポーツ』が楽しめるようにしてやった、ということをご報告し、肩の荷を下ろさせていただく。但し、コオロギを追いかけることだけは、まあよかろうと許している。

2009年10月3日土曜日

巨大化した中国経済と日本

タブチ・ヒロコ;東京発
10月1日付けNYタイムズ評論

[お断り:英語に翻訳された評論を日本語に再訳いたしましたので、原文と異なる表現があるとは思いますが、筆者の真意はお伝えできたと信じております。また、筆者および文中に挙げられた姓名、企業名を確かめられませんでしたのでカナ表記といたしました。ご諒承ください。]

ここ何年というもの、日本は中国から経済的に圧迫されている。世界的に緩慢になった経済事情のあおりを受け、殊に去る1日に新中国建国60周年の華々しい式典が繰り広げられ、思いの外早期に達成した中国経済の成長に対して、日本はどう対処したらよいかと困惑している状態にある。(上の写真は東京流通センター)

最近の貨幣価値の激しい変動の動きが(日本の)立ち上がりを遅らせているとはいえ、多くの経済専門家は世界第二位の地位を(中国に)譲らねばならない日が来年には到来するであろう、と見ている。これは、以前の予測より5年も早かった。

予想されることは、地域的や局部的な状況だけに止まらない:幸運の変換で、過去40年に亘って優位に立っていた(日本の)世界的な経済順位に、貿易や外交から、果ては軍事力など、あらゆる末端に至るまで終止符が打たれるであろう。
中国の(経済的な)発展は、日本の輸出市場が(中国へ)移行し、国家の負債が増加し、高令化が進み、生産年令人口が減って生産が低下する、などによって日本の没落が加速するであろう。

東京の第一生命調査部(The Dai-Ichi Life Research Institute)クマノ・ヒデオ「今後10年から20年の世界経済の推移において、日本がどこまで没落するか、私には想像がつきません」と悲観的だ。
日本が『経済的な幸運』で急成長し、世界最強の経済国アメリカと対抗できるほどに巨大化したのは、さほど昔のことではない。 今や多くの人々が、日本は第二のスイスになる運命にあるかも知れないと危ぶんでいる。スイスの運命とは、豊かで安楽、世界経済と無関係で、他の国々から無視される国のことを指す。

1億2千7百万人の国民の多くが望みを持ち続けていても、日本の没落は免れないかも知れない。 1980年代(昭和55年代)の後半にアメリカを追い越した日本の個人当たりの国内総生産が、2007年(平成19年)には3万4300ドルに低迷し:今やアメリカのそれから4分の1にまで下がり、世界の19位に止まった。(右のチャート参照) 所得での貧富の差は広がり、貧困が増加した。

物価や所得が急速に下がった一方、失業率は5.7パーセントを記録した。日本経済は、本年度前半の3ヶ月に年額にして11.7パーセント縮小し、第二期の3ヶ月にやっと2.3パーセント回復した。
2009年(今年)、日本の経済の予測が前年比3パーセントの縮小で翌年は約1パーセントという弱々しさに比べ、中国経済は8パーセント成長する模様である。

過去20年間における中国の成長率は、殆ど毎年10パーセントを記録していた。その期間中、日本では産業の停滞状況から抜け出そうと、新しい産業の開発を試みる代わりに、瀕死の産業を保護し経済の活性化を期待して公共事業計画に力を注いだため、経済は不活発となり莫大な負債を背負うことになった。


日本の困難は、世界的に蔓延した経済危機により、戦後最悪の不景気となり混迷状態にある。今年、海外市場の主な需要が消滅したため、生産と輸出が40パーセントも落ち込んだ。


日本会社(Japan Inc.)は、世界市場の地図から急速に消滅しつつある。1988年(昭和63年)、野村証券が発行した『市場の投資状況による企業の順位』で、世界のトップ10位の中に日本電電公社(Nippon Telegram & Telephone)を始めとする8企業が占めていた。今年の7月31日現在で、トップ10位の中に日本の企業は全く見当たらない。その代わり、中国とアメリカの企業が殆どを占め、トヨタ自動車が144.5億ドルで22位に、他に5社がトップ100位にやっと食い止まった、という現状である。


最近の経済雑誌フォーブス(Forbes)が発表した世界の金持ち順位によると、日本で最高に稼いだ小売り業者のヤナイ・タダシがやっと、メキシコ、インド、チェッコの富豪に次いで76位に入っていた。鉄道で財を築いたツツミ・ヨシアキがリストの上位に入っていた1980年代(昭和55年代)の栄華は今や消え去った。


中国は、莫大な貿易余剰金や外貨保有量を確保し、最大の鉄鋼生産を果たし、そうした面でも日本を追い越した。来年になると中国は自動車産業でも最大の生産販売量をもって日本を追い抜くであろう。

(鳩山首相の)新しい政府は、長年に亘って推進してきた輸出に依存する事業政策の割合を減らし、国内の需要に焦点を定めた新しい事業開発を誓約した。長期に亘って独占支配を続けていた自民党を敗って与党を勝ち取った民主党は、社会保障制度の強化と、公平な富の再分配を約束した。

中国では、一人当たりの収入は未だ日本のそれに比べて10分の1である。(前掲のチャート参照)しかし、他の面を比べると、中国は既に日本を追い越している。中国全体での購買力は、1992年(平成4年)に日本のそれを超え、2020年までにはアメリカのそれを超えるであろう。


ある意味で、この現象は経済の基本に反映する:一国が発展を遂げると成長が緩慢になる。日本の国内生産高の成長が1950年代(昭和25年代)に平均10.4パーセントだったのが1970年代(昭和45年代)には5パーセント、1980年代(昭和55年代)には4パーセント、1990年代(平成2年代)には1.8パーセントとなった(ゴールドマン・サックス: Goldman Sachs のデータより)。この世紀(2000年代)には成長は更に鈍化するであろう。


経済専門家の中には、日本は隣国(中国)を脅威と思う必要はない、と考えている人達がいる。中国は2006年(平成18年)には貿易の最大のパートナーで、中国向けの輸出は、最近の経済低迷化の最中に回復の役を果たしている。世界的な自動車需要が低迷している時、トヨタやニッサンは中国市場に活を求めたのだった。日本経済調査センター(The Japan Center for Economic Research)イイズカ・ノブオ「日本は急速な経済成長を遂げている国の隣国です。それは脅威ではなく利点です。問題は、日本がその利点をどう活用するかです」と言う。


東京の野村証券、投資市場調査部門(The Nomura Institute of Capital Market Research)の幹部、C.H.クワン(C. H. Kwan)「これは日本にとって心理的な衝撃だったでしょう」と言う。クワンは香港出身で、エズラ・ヴォゲル(Ezra F. Vogel)著『ナンバー・ワンの日本(Japan as No. 1)』を読み、啓発されて東京へ移住してきた。同書は日本の急速な経済成長を賛美した本である。(左の写真は東京都の夜景) 現在、クワンナンバー・ワンの中国(China as No. 1)』と題する本を執筆中である。その著書では、昨今の(中国の)経済成長を基礎に、中国は2039年までにアメリカを追い越すことが可能だ、と予測している。そればかりか、もし中国が毎年2パーセントの成長率を保つことができたら、その達成は2026年に早められる、とさえ見積もっている。

クワン「我々は、中国は靴ばかり作っている国だ、と言えなくなります。中国は誰よりも長足に前進し、世界の先頭を歩み進むでしょう」と結論を下した。