2012年5月14日月曜日

岩壁に挑む少女


Erich Schlegel for The New York Times

11才の少女アシマ.シラタニ、岩壁登りで優勝
ジュリー・ボズマン(Julie Bosman)報告
New York Times: 513日付けの記事から抜粋

神経を集中し、無心の境地
テキサス州の史跡フエコ・タンクス(Hueco Tanks State Park)州立公園発:その日、11才の日系少女アシマ・シラタニは、第一段階である6メートルも高い巨大で荒々しい薄茶色の岩を前にし、どうやってよじ登るかを黙って見積もっていた。

地面には安全用の厚いマットレスが置かれあった。この岩登り競技には、ロープ(ザイル)なし、命綱なし、ピッケルなし、それこそ素手だけで登るというのがルールである。岩盤にあるホンの僅かな凹みを指先で捉え全身を支えながら、アクロバットよろしく足の位置を上方に移動させていくのである。数十分後、こうしてアシマは着実に頂点に達し、その束ねた艶々しい黒いお下げ髪が見えなくなった。

アシマの指先に注目。
下から見守っているのが父親ヒサトシ
これが、2週間に亘る『岩盤登り競技会』の始まりである。この岩山の連峰を抱える380ヘクタールに及ぶフエコ・タンクス州立公園の彼方は不毛な砂漠に囲まれている。一番近い都市といえば、そこから48キロ南西のエル・パソ市(El Paso)である。

競技が始まって3日後、アシマはその岩山の中で最も険しく手がかり足がかりが困難とされるクラウン・オブ・アラゴン(Crown of Aragon)の登頂に成功し、参加者のみならず、観客、報道陣を驚嘆させた。岩盤登りの難易度をV0(最も易しい)からV16(最も難しい)とすると、クラウン・オブ・アラゴンV13と評価されている。アシマは参加者中で最年少者、のみならず、競争者の殆どが成年だったことで、彼女の成功に対する感嘆は並々ならないものであった。
アシマの岩登りは幼稚園時代に遡る。

両親ヒサトシツヤ・シラタニは、1978年に日本からニューヨークへ移住し(原文には移民immigrated とあるが不確か)チェルシー地区(Chelsea)に落ち着いた。夫妻の一人娘であるアシマが2才になった頃から、セントラル・パークへ遊びに連れていくようになった。

アシマが幼稚園へ通うようになったある日、パークの南端にあるラット・ロック(Rat Rock)という幅13メートル高さ5メートルほどの岩石の近くを散歩していた。このロックは、アマチュア岩登りたちにとって格好の遊び場であった。当然のようにアシマも岩登りを始め、興に乗って日が暮れるまで楽しんだ。このささやかな出来事がシライシ一家の生活にとって重要な日課になるとは思いもよらなかったであろう。後年。父親のヒサトシは「岩登りがスポーツの一種だとは知りませんでした」と述懐している。

こうして『岩登り』少女が誕生し、鍛錬に鍛錬を重ね、僅か11才でチャンピョンの地位を獲得するまで上達した。その経緯は上のビデオと、NYTの記事で詳細をご覧いただきたい。

2012年5月12日土曜日

追悼:モーリス・センダックの世界


モーリス・センダック(Maurice Sendak: 1928年6月10日~2012年5月8日)は、ポーランドとユダヤ系の移民を両親とし、ニューヨークのブルックリンで生まれた。幼い頃、ナチのユダヤ人大量虐殺を身近かに見聞した「耐え難くひどい」時期に育った。

12才の時、ウォルト・ディズニーの音楽アニメ映画ファンタジア(Fantasia)』を観て啓発され、イラストレーターになる決意を固め、長じて童話作家/画家が生涯の仕事となった。去る8日、卒中の合併症で亡くなった。享年83才。

1956年以降、センダックは創作を書き始め、自らイラストレーションを描いていた。その作品全ては、余りにも膨大なのでここではご紹介できないが、彼の代表作で映画にもなった『諸々の野生を訪ねて("Where The Wild Things Are": 1963)』のビデオをご覧いただきたい。最初のビデオは原作本、続いて映画化された予告編。

それに加え、つい最近、オバマ大統領がその本を子供たちに読んで聞かせた。そのビデオもお見逃しなく。オバマの心優しい一面を垣間みる思いがする。ミシェル夫人と二人の娘たちが脇で楽しく聞いている様子が微笑ましい。 編集:高橋 経

2012年5月7日月曜日

病気に負けないためのART


志知 均(しち ひとし)
20124

バクテリアで感染する身体の各部分


ヒトのからだは60兆の細胞からできているが少なくともその10倍の細菌(バクテリア、黴、酵母菌など)が身体の内外に寄生している。消化器官や皮膚に寄生するおびただしい数の細菌は毎日糞として放出されたり、皮膚片と一緒に振り落とされたりするが、いっぽうそれに相当する数の細菌が増殖している。ひと言で云えば、ヒトのからだは細菌の培養器である。これらの寄生菌のほとんどは無害(あるものは有益)な細菌であるが、健康なヒトには無害でも抵抗力の低いヒトには有害菌になるものもある。有害菌が感染すると、からだは疲労感、発熱、咳、痛み、下痢、不眠などの危険信号を発する。しかし『頭脳』のほうがそれを無視し続けると、これらの症状が悪化し、更に体重や血圧の変化、息切れなどが顕著になりからだは本格的な病気になる。

病菌に感染しないためには、当然、病菌との接触を避ける(Avoidance)のがよいが、感染が起きた場合には、からだはまず抵抗(Resistance)する。それでも病菌に居つかれた場合にはその菌に対する耐性(Tolerance)を示すようになる。病菌に対してからだが反応するこの三つのこと(A.R.T.)『頭脳』が判ってくれれば我々は病気に対してもっと強くなると思うので、それについて最近発表された論文(Medzhitov, R et al. Science 335:936; 2012)などを参考にしてA.R.T.について簡単に説明しよう。

Avoidance:

ヒトが集まる場所や建物

身体は視覚、臭覚などで本能的に汚いもの、健康に悪いものを感知して避ける。動物の死骸、腐敗した食物、不快な体臭を放つヒトや動物など。しかし視覚臭覚で異状が認められないものにも多量の細菌が取り付いている。最近、ヒトが集まる建物(学校、病院、デパートなど)から採集した細菌サンプルをDNA解析して細菌の種類を同定する研究が注目されている。それによると、ドアの取手椅子の表面などヒトが触る場所には皮膚寄生菌が密着しており、便器洗面台には腸内菌や泌尿器寄生菌が多数付着している。これらの菌は空中にも飛散し、通風孔のフィルターにはごみと一緒に固まっている。つまり建物全体にひろがっている。免疫力の弱い老人子供は、人ごみから帰宅したら、うがいして、シャワーで頭髪を含めて全身を洗い衣服もとりかえるのが最善であろう。帰宅して手も洗わないでなにか食べるのは細菌(病菌も含めて)を食べるのにひとしい。

Resistance:

顕微鏡下で見る病菌
身体が示す病菌に対する抵抗性の役割は、免疫系を使って病菌の数を減らすことにある。病菌を殺すのは好ましいが、免疫細胞が活発になりすぎると、感染菌だけでなく身体の細胞も殺すので組織の破壊をもたらす。肝臓や皮膚など再生が早い組織ではそれほどではないが、大脳、神経組織、心臓など再生能力が低い器官では組織破壊は深刻な問題になる。従って、身体が抵抗段階にある時には抗生物質投与で病菌の増殖を阻害し、免疫細胞の働きを助けるのが有効な治療になる。

Tolerance:


抵抗性と違って耐性は病菌を殺して数を減らすことより、身体の組織の破壊を最小限にすることを重点とする。病菌の数が増えないで組織破壊もあまりないようにできれば、その状態は共生(Symbiosis)に近くなる。事実、健康なヒトで病菌(結核菌など)の寄生があっても発病しないケースは多い。抵抗状態を保つには、栄養補給、運動などで体力を増進し、いっぽう病菌が増えるのを薬でほどほどにコントロールするのが有効になる。身体は遺伝子変異で遺伝病になっても、それをの病気に対する抵抗性に使っているケースがある。

ヘモグロビン
  よく知られている例は、鎌形赤血球貧血症(Sickle cell anemia)変異ヘモグロビンが酸素圧が低くなると凝集し赤血球を鎌のような形にして破壊するので貧血症になる。ところがこの遺伝病をもつ患者は、正常ヘモグロビンをもつヒトよりマラリアに対して抵抗性が高い。マラリア原虫(Plasmodium)は正常人にも患者にも感染して赤血球からヘモグロビンを流出させるが、患者では変異ヘモグロビンが早く壊れるので組織破壊が少ない。すなわちマラリア原虫に対し抵抗性がある。最近の研究で変異ヘモグロビンが早く壊れるのはヘモグロビン(の赤い色素)をこわす酵素(Heme oxygenase-1, HO-1)の活性が患者では高くなっているからと判った

  興味あることに、HO-1は活性酸素などの酸化的ストレスで誘導合成される酵素で、このようにストレスによって合成が誘導される酵素や蛋白質が、病菌に対する抵抗性を高め組織の破壊を防ぐ現象は広くみられるようである。これが、病気抵抗性を高めるためには生活にある程度のストレス(特に軽い運動による酸化的ストレス)が必要であるといわれる理由かもしれない。

  身体の反応A.R.T.は非感染病にも当てはまる。たとえば、発ガンを病菌感染のように考えればガン細胞ができやすいような生活習慣(煙草、酒の呑みすぎ、麻薬の常習など)や有毒な環境因子(殺虫剤、除草剤、紫外線、排気ガス)との接触はできるだけ避けようとするだろう。増殖の早いガン細胞は外科手術で摘出するとしても、増殖が遅いタイプのガンの場合は抗ガン剤や放射線でたたき過ぎないで、組織の破壊を最小限にして免疫細胞による抵抗性を助けるのが望ましい。特に高年の患者の場合にはその考慮が必要である。実際、高年者の前立腺ガンでは手術をしないでガン細胞と共生する耐性維持の治療をするケースが増えている。

   内容に少し判りにくいところがあったかもしれないが、この小文の趣旨は判ってもらえたと思う。感染病であれ、内因性疾患であれ、異状があれば身体は必ず何らかの危険信号を出す。それに早く気づいてすぐに適当な処置をとるのが賢明な健康管理法である。

2012年5月2日水曜日

80年目のレゴ(LEGO)

レゴ(LEGO)

1960年代に、子供だった方々、またはその親だった方々は覚えているはずだ。
言うなれば『積み木』である。レゴと積み木と違いは、材料が木製でなく強化プラスチック製であることと、個々のレゴ・ブリックにあるタコ・イボの如き凸凹で組み合っているため、積み木のように簡単には崩れない点にある。

ロンドンにあるレゴランド、ウインザーの模型
レゴの母体は1932年に遡る。オレ・カーク・クリスチアンセン(Ole Kirk Christiansen)というデンマーク人の大工が、彼の木工所で積み木を作ったのが始まりである。2年後、社名と商品名をleg godt(楽しく遊べる)」というデンマーク語からレゴ(LEGO)とし、本格的な家族経営の会社レゴ・グループ(Lego Group)が生まれた。
事業は着々と発展し、1940年代の後半にはイギリスで同様の『組み合わせブリック』を製造していたキディクラフト(Kiddicraft)のパテントを譲り受け、改良を加え、更にプラスチック注入成型技術を導入し、精密なブリックの量産態勢が固まった。

1954年には、オレ・カークの息子、ゴッドフレッド・クリスチアンセン(Godtfred Christiansen)が営業次長として輸出入業者と語らい、世界市場への将来性を追求した。その結論として、従来のブリックに欠けていた融通性に工夫を凝らし、基本的な構造を変更することなく、レゴ・ブリックの多様性を拡大することに成功した。1958年1月28日、自信をもってパテントを更新し登録した。
レゴで作った市街
新しいデザインは、デンマークの本社の外部に、世界市場の需要を配慮した国際的なデザインの開発を目標に、イギリス、スペイン、ドイツ、日本に支社を設けた。

1963年以降、素材をアクロニトライル・ビュタデュエン・スタイリィン(acrylonitrile butaduene styrene: ABS)という弾力性のあるプラスチックを使うようになった。製造は、デンマークの他にハンガリー、メキシコ、チェコスロバキアなどの工場で量産した。

本格的な量産開始以来、今日までの50年間で、概算4,000億個のレゴを出荷した。年間の生産量は、平均360億個で、これは1秒間に1,140個のレゴ・ブリックが機械から飛び出していることになる。

この数字だけでも、レゴが如何に世界中の子供達の夢を満たし、彼らの創造力を刺激したかを示している。ハイテクのビデオ・ゲームも子供たちを熱狂させるが、スクリーンだけでは味わえない「手で触れる」感触の歓びはすたれることはあるまい。


次のビデオは、オーストラリア、シドニー市でのレゴ50周年を記念して発表されたもので、同市には、レゴで造った実物大の並木(ビデオの下の写真)もあるほど、たいへんな熱の入れ方である。