2009年2月25日水曜日

1960年代、、、憶えてますか?

アメリカの1960年代(昭和35年〜44年)
オールド・ブルー(OldBlue)作『'60年代を振り返って』を改訂編纂

憶えていなかったら思い起こさせて差し上げます。
くつろいでご覧ください。

もし貴方が1970年以降生まれだったら、
くつろいでご覧ください。

次の概況、ご存知でしたか?
  • 失業率:5.5パーセント
  • アメリカ政府の負債:2,863億ドル
  • 平均年俸:4,743ドル
  • 教師の平均年俸:5,174ドル
  • 最低の時間給:1ドル
  • 第一種、郵便料金(1オンス以内):5セント[上写真の左]
  • ガソリン1ガロン:25セント[上写真の右]
  • マクドナルドのハンバーガー:15セント[右写真]
  • 映画館でポップコーンが20セント、ソーダが10セント
  • シボレーの新車:63年型シェヴィ:2,121ドル〜63年型コルヴェット:4,037ドル。この10年間、車の価格は殆ど変動なかった。
一般の生活態度
[註:下記は北西部の状況で「全米」の標準とは限らない。]
  • 高校を卒業したお祝いに新車を買ってもらうことは稀だった。たいていの親たちは必要なものしか購入しなかった。
  • 銀行の窓口で身分証明書を見せる必要はなく、日用品の買い物に小切手を出しても問題なく受け取ってくれた。
  • 家庭専用電話は稀で、たいてい隣人との共用電話で、簡単に盗聴することもできた。
  • 誰でもヒッチハイカーを疑うことなく乗せてやった。
  • エアコン冷房装置は、家にも車にもまだ一般化していなかった。
  • 人々は家族とか隣人を大切にし、生活に困っても政府の補助を受けることをためらっていた。
  • 全国の離婚率は今日の半分だった。
  • 国語は基本的に『英語』一本やりで、移民や外国人は英語を習って『人種のるつぼ』に溶け込み『アメリカ人』に成る可く心掛けた。
国際情勢、政治、宇宙開発
  • ロシアがキューバに核兵器の基地を作ったことで、アメリカとロシアとの関係が緊張した。
  • 1961年5月、ソビエトに遅れをとったが、アラン・シェパード(Alan Shepard)を乗せたフリーダム7号(Freedom 7)が打ち上げられ、最初のアメリカ人宇宙飛行士となった。
  • 1962年2月20日、ジョン・グレン(John Glenn)を乗せたフレンドシップ7号(friendship 7)が打ち上げられ、アメリカ人で初めて地球外側の軌道を回遊した。
  • 1963年8月、首府で「私には夢がある」と演説をしたキング師が提唱した無暴力による公民権運動が推進された。[左写真]
  • 殺:1963年11月22日、ジョンF.ケネディ(John F. Kennedy[左写真の右])
  • 1965年2月21日、マルコム・エックス(Malcolm X[中央の写真])
  • 1968年4月4日、マーチン・ルサー・キング(Martin Luther King[右写真の中央])
  • 1968年6月6日、ロバート・ケネディ(Robert Kennedy[左写真の左])
  • ベトナム戦争:1959に始まり、1960年代中続き、 1975年4月30日にやっと終結した。
  • 1969年7月20日、アポロ11号(Apollo XI)が月に着陸し、ニール・アームストロング(Neil Armstrong)他がその表面を歩いた。[右写真]
芸能、スポーツ、マスコミ、行事など
  • 1960年3月、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)が除隊し、翌1961年3月25日、真珠湾のブロック闘技場(Bloch Arena)で公演、リゾナ記念館(USS Arizona Memorial)の醵金運動の一環とした。[註:アリゾナは、真珠湾攻撃で沈没した戦艦。その沈没地点の真上に記念館が建てられた。]
  • テレビのチャンネルは限られていて、全国民が同じ番組、同じニュース、同じスポーツを眺めていた。選手の移籍は稀で、ミッキー・マントル(Micky Mantle)はヤンキース、サンデー・コーファックス(Sandy Koufax)はドジャース、そしてムハマッド・アリ(Muhammad Ali)は常に『最も偉大な』ボクサーと決まっていた。[左写真]
  • 1968年、アーサー・アッシュ(Arthur Ashe)が黒人最初のテニス、プレーヤーになった
  • ゴルフでは、アーノルド・パーマー(Arnold Palmer[右写真の左])がずっと首位を独占、やがてジャック.ニクラス(Jack Nicklaus[右写真の右])が好敵手となった。
  • チャビー・チェッカー(Chubby Checker[左写真の右])が広めたツイストは熱狂的に流行し、2年間続けてトップの座を占めた。ツイストは、初めて男と女が「触れずに」踊るダンスとなった。親たちは、それを「下品な」ダンスと酷評した。
  • 最も人気があった若者向けの音楽番組はディック・クラーク(Dick Clark)司会の『アメリカン、バンドスタンド(American Bandstand[右写真])』で毎日放課後の時間帯に放映していたのが、後に自粛(?)して土曜だけの放映になった。
  • ビートルス(Beatles[左写真])を筆頭に(1964)、イギリスのバンドが次々とアメリカを侵略してきた。その一部は、ローリング・ストーン(Rolling Stones)、アニマルズ(Animals)、ジェリー&ペースメーカー(Jerry & The Pacemakers)、等々。
  • テレビの人気番組の主流は『家族の絆』を基盤しした『パパは何でも知っている(Father Knows Best)』、『ビーヴァに任せて(Leave It Beaver)』、など。その他の人気番組には:『ドラグネット(Dragnet)』、『アイ、ラブ、ルーシー(I Love Lucy)』、『ビバリー・ヒリビリー(Beverly Hillbilly)『ガンスモーク(Gunsmoke)』、『ヒッチコック劇場(Alfred Hitchcock Presents)』、『三人の息子たち(My Three Sons)』、『スパイ大作戦(Mission Impossible)』、『トワイライト、ゾーン(Twilght Zone[右写真])』『エド・サリヴァン、ショー(Ed Sullivan Show[左写真])』、『逃亡者(The Fugitive)』、などが。
  • 1969年8月15日から17日まで、ベトナム戦争への反戦気運を反映したロック大コンサートがニューヨークの北部ベセル(Bethel)で開催、『ウッドストック音楽芸術祭(The Woodstock Music & Art Fair[右のポスター])』と名付けられ、30名もの人気ポップ音楽家が三日間競演し、後世の語りぐさになった。
  • 1964年-1965年:ニューヨーク、ワールド・フェア開催。
  • 1967年、カナダのモントリオール(Montreal, ニューヨークの真北)でエキスポ(Expo)開催。
ヒット映画
  • 『ウエスト・サイド物語(West Side Story[左のレコードジャケット])』1961年
  • 『史上最大の作戦(The Longest Day)』1962年
  • 『影なき狙撃者(The Manchurian Candidate)』1962年
  • 『おかしな、おかしな、おかしな、おかしな世界(It's a Mad, Mad, Mad, Mad World)』1963年
  • 『007: ロシアから愛をこめて(From Russia With Love[右写真])』1963年
  • 『クレオパトラ(Cleopatra[左写真])』1963年
  • 『マイ、フェア、レィディ(May Fair Lady)』1964年
  • 『サウンド、オブ、ミュージック(Sound of Music)』1965年
  • 『ドクトル、ジヴァゴ(Doctor Zhivago)』1965年
  • 『キャメロット(Camelot)』1967年
  • 『クール、ハンド・ルーク(Cool Hand Luke)』1967年、その他。
教育
  • SAT(Scholastic Assessment Test、大学進学適性試験)の成績水準は今日のそれより遥かに高く、皆、リンカーンのゲティスバーグ演説(Lincoln's Gettysburg Address)を記憶させられた。
  • 今日の政略的に稀薄されたカリキュラムと違って、数学、科学、歴史、地理など全て実際に勉強させられた。
  • 「勤勉で苦労する」ことについて論議しなかったが、この世代の親たちは1930年代の恐慌時代を体験していたので、子供たちには「よい生活ができる」ことを目標に努力していた。
新製品、新商売、新スポーツ
  • 1960年、ビールにアルミニューム缶を使い始めた。[右写真]
  • 1961年、レイ・クロック(Ray Kroc)がマクドナルド(McDonald)を買収。
  • IBMが、交換可能の球体タイプ・エレメントを使ったセレクトリック(Selectric Typewriter[左写真])を発表。
  • 1962年、ポラロイド(Polaroid)がカラー写真を60秒でプリントできるカメラを発売。
  • 1962年、最初のKマート(K-Mart)と、ウォル・マート(Wal-Mart)が開店した。
  • 8-トラックの音楽テープが一部で流行したが、小型カセット・テープに押されて消滅した。
  • その為、リール型のテープレコーダー[右写真]は専門家用だけが使うようになった。
  • フィルム・カートリッジ式のスーパー8撮影カメラが一般的になった。
  • ステレオ音響装置を備えたカラーテレビ;TVディナー
  • [バカチョン]カメラ用のフラッシュ[左写真]
  • パステル・カラーのプリンセス電話器[右写真の手前]
  • ポータブル白黒テレビ
  • トランジスター、ラジオ、などがお目見えした。
懐かしの自動車
  1. 1960年型コルヴェット(Chevrolet Corvette);
  2. 1962年型フォルクスワーゲン(Volkswagen);
  3. 1963年型アヴァンティ(Studebaker Avanti);
  4. 1963年型サンダーバード(Ford Thunderbird);
  5. 1965年型マスタング(Ford Mustang);
  6. 1965年型ポンティアックGTO (Pontiac GTO);
  7. 1969年型キャデラック(GM Cadillac);その他。
当時日本の車はまだ性能の面で難があり伸び悩んでいた。


娯楽、流行、ドラグ、性の開放
  • 女性の間では『蜂の巣(Honeycomb)』とかの派手な髪型が流行り。スカートやパンツの裾が短くなり、脚線美を露出し男性を喜ばせた。
  • 男性も長髪の傾向になり、派手な水玉模様の幅広ネクタイが流行した。
  • 男女共通、ユニセックスのファッションで、裾の広がったベル・ボトム・パンツ、ビーズの首飾り、絞り染めのシャツ、アフロ風の縮れっ毛などが広まった。[右写真]
  • 主に西部沿岸で、サーフィング[左写真はそのヒットレコード]が流行の兆しを見せた。
  • マリュワナ(大麻)を始めとした幻覚作用の強いドラグが密かに広まり、芸術家、芸能人、そして彼らを崇拝する一般にまで汚染していった。[右写真はウッドストックの観衆]
  • 同時に性の開放が謳歌され、グループ・セックス、配偶者交換、同性愛、などの自由が行動に移された。そうした風潮の因果として、エイズなどの病源が、続く1970年代、80年代になって手の施しようがないほどの後遺症として蔓延した。

ある人たちは、1960年代はアメリカ最後の自由奔放な世代に終わりを
告げた時代である、と心底から思い込んでいた。


ある人たちは、1960年代は動乱と反抗の世代、拝金思想と疫病が蔓延し
始めた時代である、と心底から憂慮していた。

2009年2月22日日曜日

幻惑(Illusion)の絵画

日本では『隠し絵』とか『だまし絵』と呼ばれる分野の絵画は、西欧にも昔から存在していました。画家たちが、観る人をだまそうとする意図があったかどうかは別にして、観る側にしてみれば思わず幻想の世界に引込まれていきます。題名は外しました。隠された何かを探す、錯覚に気がつく、あり得ないことがあり得る絵画の世界、そのホンの一部ですが理屈抜きで,お楽しみください。

ルネ・マグリット(René Magritte;1898-1967)、ベルギー

M. C. エシャー(Maurits Comelis Escher;1898-1972)、オランダ

ラファル・オルビンスキィ(Rafal Olbinski)

作者不詳

作者不詳

作者不詳 (柱は何本ありますか?)

作者不詳 (鹿は何頭いますか?)

作者不詳 (赤ちゃんを探して下さい)

作者不詳 (屋上のギター弾きの聴衆は誰でしょう?)

作者不詳

作者不詳

作者不詳

推定、ベヴ・ドゥリットル (Beverly Doolittle)
(いくつの顔が隠れているでしょう?)

ベヴ・ドゥリットル (Beverly Doolittle)
(馬が何頭いるか探してください)

2009年2月17日火曜日

白日夢の硫黄島

エド・マンサー(Ed Manser)Westlake、カリフォルニア州

[筆者は1927年(昭和2年)生まれ、映画のプロデューサー。主に広告代理店に所属し、宣伝用のコマーシャル製作に従事してきた。]

太平洋戦争の末期1945年の晩春、硫黄島は既にアメリカ軍が占領し、沖縄もアメリカ軍の勝利に終っていた。私は高校を卒業し、18才の誕生日6月24日を待って海兵隊に入隊し、来るべき九州攻略作戦に備えて戦闘訓練を受けていた。8月6日、広島に初の原爆が投下され、その3日後に2発目の原爆が長崎に投下され、その為か日本が降伏して戦争が終り、私たち新米の海兵隊は兵役を解除されて帰宅した。幸か不幸か、以来私は戦闘を体験する機会がないままこの年まで
過ごしてきた。しかし、太平洋戦争の記憶は鮮明に残っていて、時折見聞する当時の出来事には、何時でも興味を誘われた。

1980年代の或る晩、私はいつものようにテレビの前に座って、ジョニー・カースン(Johnny Carson)の『トゥナイト・ショー(Tonight Show)』を見ていた。ゲストは私の好きな俳優リー・マーヴィン、彼の映画は大方観ていた。











(ポスターは、左から『キャット・バルー(Cat Ballou)』、
『ペンチャー・ワゴン(Paint Your Wagon)』、『特攻大作戦(The Dirty Dozen)』、三船敏郎と共演した『太平洋の地獄(Hell in the Pacific)』)

先ずカースンが質問。「リー、大方の視聴者はご存知ないと思うけど、君は海兵隊の一員で、例の硫黄島攻略の一番手で上陸したそうだね。その時の戦闘で重傷を負って『海軍勲功賞(Navy Cross)』を授与されたって聞いたけど、、、。」[註:『海軍勲功賞』は『名誉勲章(Medal of Honor)』に次ぐ高位の勲章]

「まあ、そうだね、、、すりばち山を半分登った辺りまで攻略した時、尻に一発弾丸を食らって倒れた。それで勲章をもらったんだ。あの山で弾に当たって具合が悪いのは、それっきりで外されちまったってことさ。でもジョニー、それまで私はもの凄い勇敢な軍曹の下に従っていたんだ。あんな勇ましい人は見たことないよ。その男も私も揃って同じ勲章をもらったんだけど、私の勲章なんぞあの人の勲章に比べたら、ちっぽけな値打ちしかないよ。何故って、あの『がむしゃら男』はレッド・ビーチの上に立ちはだかって部下を叱咤して前進させていたんだ。弾丸がビュンビュン飛んでくる真っただ中でだよ。迫撃弾だってあっちこっちで炸裂しているんだ。あの男は自分を標的にさせて、その間に兵隊達を前進させようという寸法さ。彼にしてみれば、自分の命より、部下を前進させる方が大事だったっていうことなんだ。 あの戦闘以来、その『がむしゃら男』と私は生涯の友人になったよ。私がすりばち山から担架で降ろされる時、彼がすれ違いに私を認め、たばこに火を付けて私の腹の上に置いてくれた。で、これからどうなるんだ、リー、と聞かれたんで、そうさな、若し貴方が私より先に帰国できたら、お袋に屋外の便所は売り飛ばしちまえと伝えてくれ、って頼んだんだ。」
「ジョニー、この話しは本当だぜ。ボブ・キーシャン軍曹(Bob Keeshan)ほど勇敢な兵隊は見たことないよ。」

テレビを観ていた私は、『ボブ・キーシャン』という名前を聞いた瞬間、電気に打たれたようにソファから飛び上がった。ボブ・キーシャンは私の高校時代のクラスメートだったからだ。そして彼は、本名のボブ・キーシャンより、子供番組で人気があった『キャプテン、カンガルー(Captain Kangaroo)』の名で全国に親しまれていた。

私はリー・マーヴィンの話に心から感動した。彼の英雄振らない謙虚さ、他人の勇敢さを褒め讃える謙譲の美徳、そして彼自身も勇敢だったこと、私は改めてマーヴィンの大ファンになった。

そのジョニー・カースンの『トゥナイト・ショー』から数年経った1987年8月29日、リー・マーヴィンは風邪をこじらせて死亡した。まだ働ける63才だった。そして彼は名誉あるアメリカ軍人としてアーリングトン国立墓地(Arlington National Cemetery)に埋葬された。その墓石が高位の将軍たちの墓石に囲まれていたのは、ハリウッドの人気俳優だったからという理由ではなく、一兵卒リーの英雄的な奮戦に相応しい当然の処置だったと私なりに解釈していた。
私は彼のファンの一人として、その死亡記事をむさぼるようにして読んだ。奇妙なことに『トゥナイト・ショー』で語っていた硫黄島での負傷には一言も触れてなく、代わりにサイパン島の戦いで尻に弾丸を受け、戦場で負傷した全将兵に与えられる『パープル・ハート[名誉戦傷勲章](Purple Heart)』を授与された、とあった。

ここで私は改めて、ボブ・キーシャンの参戦に疑惑を感じ始めていた。前述したように、私はクラスメートとして彼の誕生日まで知っている。私の誕生日が6月24日、キーシャンの誕生日は私より3日遅れた27日だ。私が海兵隊に入隊するために、18才の誕生日6月24日まで待っていたと同じ条件がキーシャンにも当てはまる。彼がもし私と同じように入隊の日を待っていたとしたら、、、その時点で、硫黄島の戦闘は数ヶ月前に疾っくに終っていたのだ。

私はいつか、キーシャンに真実を確かめてみるつもりだったが、彼は2004年1月23日に76才で死んでしまった。その死亡記事に載っていた写真をつくずくと眺めながら、妙なことだが、ボブ・キーシャンは高校生の頃から76才らしい風貌をしていた。

そしてその丸1年後の2005年、同月同日にジョニー・カースンも死亡した。 リー・マーヴィンが『トゥナイト・ショー』で話していた硫黄島奮戦記の真相を確かめる手がかりは最早なくなった。

リー・マーヴィンが全国向けのテレビを通じてほらを吹いていたとは思いたくない。あの日は、ベテラン俳優らしい演技で『白日夢』を語っていたのではなかろうか。