2010年2月26日金曜日

新刊書:『ヒロシマ発、最終列車』

原爆の衝撃、真の恐怖は投下後に

ドワイト・ガーナー(Dwight Garner)
2010年1月19日付け、NYTの書評から


広島と長崎へ投下された原爆を体験した二重被爆者山口彊(やまぐち つとむ:右の写真)が、去る1月4日に後遺症が元で亡くなった。享年93才。二度の被爆は不幸だったが、生き延びたのは幸せ、と賞賛の的になった。

だが、二度も被爆した者、、、広島で被爆し、命からがら長崎へ落ち延び、再び被爆した者は山口彊だけでなく、他に165名もいた。こうした『二重被爆者』の体験話を中心とした記録をチャールス・ペレグリノ(Charles Pellegrino)がまとめヒロシマ発、最終列車(The Last Train From Hiroshima)』というタイトルで著書を書き、最近発行された。これは人々の関心を喚起する貴重な著作である。(下は著者と本)


グラウンド・ゼロという言葉は広島と長崎の原爆投下に語源を発し、以来使われるようになった。あのアメリカの最新型爆弾の洗礼に間近に遭遇し、生き残った人々の幸運には衷心から感謝せねばなるまい。被爆者は正に的確な『時』と『所』に居合わせたのだが、人工または自然の遮蔽物の陰にいたため、ガンマ線や赤外線などの殺人光線や、強烈な爆風に直接曝されず助かったのである。(下の右は広島;昭和20年8月6日;下の左は長崎;昭和20年8月9日

こうした被爆し生き延びた人々は、その体験から体得した知識を発表することを、当初軍部から禁じられていた。アメリカ軍の破壊力を知らせると、負け戦を露呈することになり、日本国民の闘志(もしあったとしたら)を挫かせることにもなる、と戦争指導者たちが怖れたからである。それでも、被爆者たちは体験と知識を秘かに語り伝え、それで救われた人々もいた。

核兵器が何であるかを知らなかった被爆地の人々は、原爆をピカドンと呼んだ。ピカは最初に炸裂した時の『閃光』で、ドンは数秒遅れて聞こえてくる耳をつんざくような爆発音である。『ピカ』を見たら即座にうずくまれば『ドン』の衝撃を受けないで済むかもしれない、という知恵が生まれた。

また、白衣が防御の役に立ったことも判った。ペレグリノの本の中では、或る医者の「女子供たちが柄(がら)のある服を着ていて被爆し、例えば色の濃い花柄だとしたら、その花柄の下の肌が火傷し、消えない烙印となって残された」という証言などが記されている。
その他には、爆撃機 B-29が急降下したり脱出する時、エンジンに荷重がかかり異常な爆音がするので、それは危険極まりない事態を知らせる音だという知恵も生まれていた。

被爆者たちはもっともっと他にも原爆について知った。腕時計の金属が手首に消えない火傷を残し、即座に放射能病に罹った。原爆はいうなれば巨大な電子レンジの役割を果たし、あらゆる金属を灼熱させてしまったのである。


多くの人が、人間が焼け爛れる(ただれる)時の匂いは「まるでイカをコンロで焼いている匂いと同じだ」と証言した。ペレグリノは更に「焼豚の肉をイカと一緒に、、、」とも付け加えて書いている。そして、言うまでもないが、被爆後の後遺症、日本人が原爆症という症状が被爆後もしばしば現れていたことだ。

ヒロシマ発、最終列車は、そうした原爆の脅威の数々を明確に羅列した目録であり、胃弱の人が読んだら腹痛を起すかもしれない。ペレグリノは、廃墟の市街をのろのろと虚ろ(うつろ)に行進する被爆者たちの様をコーマック・マッカーシィ(Cormac McCarthy)著の『ザ、ロード(The Road)』『月よおやすみなさい(Goodnight, Moon)』の叙述に例えている。いわゆるアリの如く歩むワニ(ant-walking alligators)』と形容される被爆者、、、「目が無く、顔が無く、、、黒く焼けたワニのような頭が、口と思われる赤い穴を隠した」男女が至る所で見られた、と描写されている。


筆者は続けて「ワニのような人達は悲鳴も上げなかった。彼らの口は声を出す機能を失っていた。彼らが出す呻き声(うめきごえ)は、悲鳴より聞き辛かった。彼らは、真夏のイナゴが夜中に騒ぐような音を発して、引っ切りなしに呻いていた。一人の男は、焼け焦げた足でよろめきながら歩き、死んだ赤ん坊を逆さにブラ下げて掴んでいた」と書き現している。


ペレグリノが過去に書いた著書にはタイタニック号の幽霊(Ghost of the Titanic)』を含み、生存者の談話だけでなく、日米の飛行士たち、その他数々の関連した話も書いている。また同氏は、映画製作監督、ジェームス・キャメロン(James Cameron)タイタニックや最新の映画アヴァター(Avatar)』などの科学的な裏付けの相談役も引き受けている。


著者が特に犯罪化学的な詳細に神経を使い、原爆の炸裂の状況を、丁寧に、段階的に説明している。それは特に目新しい事実ではないがヒロシマ発、最終列車は、地に付いた、全編を通じて、読者を魅了する当時の回想や文献、そして筆者自身の被爆者インタビューや調査で埋められている。この本は、リチャード・プレストン(Richard Preston)に影響を与えたジョン・ハーシィ(John Hersey)マイケル・クリチトン(Michael Crichton)の作風にも通じ、評判の高い戦時中の歴史文献として異彩を放つ作品である。


この作品は、原爆投下の決定について道徳的な真意を掘り下げてその是非を問うために書かれたものではない。だが、ポール・フュッセル(Paul Fussell)「ヒロシマへの原爆投下の要因である太平洋戦争に関する情報を碌に与えないで、アメリカ人の多くにショックを与え、恥辱感を植え付けた原爆投下は、有る意味では神の救いだ」と主張していたが、ペレグリノがその論説に同調しているわけでないことは確かだ。


むしろ、筆者はあらゆる種類の破壊事実を検討し、そして様々な精神的な面も見落としてはいない。彼はある医師「一般的に被爆者は、悲鳴を上げている人々、あるいは火焔から遠ざかっている人々、そして一緒にいる人々の中の被害者や友達が悲鳴を上げていても、素知らぬ顔の出来る人達だったことが記憶に残っている」と語った言葉を聞き逃さず書き記してある。

その医師の告白:「あの瞬間、火の手が廻って病院に近付いてきた時、その場に踏み止まっていた我々、人々を裏の丘の上に導いた我々が結果として生き延びました。つまり、爆弾から生き延びたのは、ただ運が良かったからでなく、多少なりとも自分勝手で、、、理知的でなく本能的に行動したからです。生存者は誰でもそのことを自覚している筈です。」

冒頭に掲げた『二重被爆者』の山口彊は、核戦争を止めさせる運動計画を推進する組織の一人だった、とペレグリノは書いている。その運動計画とは「母親、、、赤ん坊を自らの胸から乳を含ませている母親だけに、国を治める資格を与えるべきある」と主張していたものである。
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書籍案内:(今のところ、日本語に翻訳出版されているかどうか不明です)
書籍はアマゾンで購入できます。価格は約16ドル。Amazon.com

2010年2月23日火曜日

東京ラーメン:その文化、こだわり、繁栄

はじめに編集から:私は子供の頃からラーメンが大好き、母に「お誕生日に何をご馳走しようか?」と聞かれるとためらいなく「ラーメン!」と答えたものでした。長じて社会人になってからでも、外食する時はおおむねラーメンの旨い店を選びました。誰かが「東京では中野でラーメンの店が競っている」と言ったのを小耳にはさみ、早速出掛けてラーメンのハシゴに挑戦したのです。私の胃袋も若かったから、最初の3軒たて続けに3杯、料理人に敬意を表し、汁も残さず平らげましたが、流石に4軒目で挫折してしまいました。こんな話は自慢にならないので、殊にグルメの食通には話さないことにしています。

今でもラーメンは二日に一度は自前で調理しています。生麺が近隣で手に入らないので、止むを得ずインスタントを使いますが、野菜、肉、エビなどを投入して栄養価を高めるよう心掛けています。
先日、今回のニューヨーク・タイムズ記者の探訪報告を読んで。東京のラーメン文化が驚異的に成長多様化し、外人まで病み付きになっていることを知り、ご同慶の至り、隔世の感に堪えません。

マット・グロス(Matt Gross)
1月31日付け、NYTから

東京、早稲田大学の近く、セヴン・イレヴンの角を曲がった横町に、ラーメン屋らしくないラーメン屋がある。事実、その頑固(ガンコ:右と下の写真)』という店の名に相応しく、得体不明な店構えである。看板もなければ、窓もない。荒っぽい黒いタープ(ビニール・シート)がテントのように壁に下げられ、商売のシンボルでもあるかのように、白い動物の骨がぶら下がっているだけだ。(右の写真) タープをくぐり、引き戸を開けると『頑固』の店内、止まり木椅子が五つ、ベニア張りのカウンターの前に並び、顔を上げると小さな調理場からの細い隙間が、間断なく立ち上る湯気や煙で真っ黒に、しかし汚い感じではない。

調理人はたった独り、無精ひげのまま、蒸気で曇った眼鏡をかけ、襟にタオルを引っかけ、正に『頑固』丸出しの風体だ。慣れた手さばきで、手際よく並べた丼にソバや汁を満たし焼豚、メンマをのせ、海苔をパラパラ、刻みネギをポロポロ、で出来上がり。その間ずっと無言。

音といえば、客がソバやダシの利いた汁をズルズルとすする音だけ。火傷しそうに熱いソバ汁をすする音は、かすかに聞こえるラジオの音楽を背景に、大らかに、長々と、調理人の腕を讃えるかのように合唱し、音響効果の役割を演じている。


「ごちそうさま。」一金700円也、を支払って白昼の横町に出ると『頑固』での体験が幻覚の世界で起こったような気がする。


と言うと『頑固』が、隠れた秘密社会に存在する店、という印象を与えたかも知れない。でも私は『頑固』を、英語のブログ<Ramenate!>に公開されていたから知ったのだ。そのサイトは、近代日本文学で博士号を取る卒業論文を書いているコロンビア大学の学生が始めたものである。彼にとって日本文学より大事な課題は、毎日ラーメンを食べ歩いて、系統だったデータを作成することである。

Ramenate!だけが、ラーメンに関する唯一のブログではない。他にも日本語、英語で幾つものブログがラーメン情報を公開している。ブログの他に、多国語のガイドブック、色刷りのラーメン情報雑誌、データベース、コミック本、テレビ番組、映画(古典になった『タンポポ(1985年)』など)、それらを綜合しても、東京におけるラーメン事情の、ほんの一部を紹介しているに過ぎない。

(日本を知らないアメリカ人に)これだけ言っても納得いかなかったら、ニューヨーカーのピザ好き、ホトドッグ好き、ハンバーガー好き、などを思い起してみればよい。東京人のラーメンへの『こだわり』はそれに匹敵、またはそれ以上なのである。

ここで紹介しているラーメンは、学生間で流行っている例の乾燥したインスタントではない。有名な店のラーメンでも、ちっぽけな屋台のラーメンでも、全て生麺を使っているのだ。手製で、自家製の汁、赤ブドー酒に漬けた豚肉、醤油味の鶏ダシ汁、豚骨(とんこつ)のダシ汁、といった材料が九州から本州へかけての好みのようだ。札幌のニンニク風味のミソ味の濃い汁で太目のソバも満更ではない。いずれにしても、風味は調理人が工夫して創り上げるもので、時代の変化にも影響され移り代わっている。


去年の11月、私は6日以上も続けて東京のラーメン文化にどっぷりと浸ってみた。有名な店から小さな店まで、一日平均4杯を標準に食べ歩き、何が味の決め手になるかという材料調べだけでなく、注文の仕方、ラーメンの食べ方、などの作法まで身に付けた。こうした探訪をしながら、私は何故こんな単純な『食べ物』(17世紀中、孔子の教えを広める使者たちがもたらした食品)が、日本人ばかりか我々外国人まで夢中にさせたのかを知れば、東京そのものをもっと深く理解できるのではないか、と考えるようになった。

私の探訪記事のネタは、サンフランシスコで英語を教えていた31才のブライアン・マクダクストン(Brian MacDuckston)が出しているウェブサイト<RamenAdventures.com(このサイトは目下不能)>に負うところが大きい。長身で色白、禿げ上がって眼鏡が似合うマクダクストンは、すらりと細く、その容姿自体がソバみたいだ。事実、彼は3年半の日本滞在中に体重が減った。料理ブロッグ家達の間では傑出した存在である。


彼は、来日当初、ラーメンはほとんど食べなかった。池袋のしゃれたラーメン屋無敵屋(むてきやの写真)』の前に、45分はたっぷり待たされる客の列が並んでいるのに気が付いてから数ヶ月経った2008年の1月、その列に並ぶ決心がつき、初めて丼に箸を付けた。

「その時は、すごく美味しいと思った」と回想する彼。焼豚がたっぷり載ったその店の特製ラーメンが、最近テレビで紹介された。「焼豚の切り身、シチュウの豚肉、そして豚肉のミートボール、おまけに豚の挽き肉の山、信じられない位の旨さでしたよ」思わず彼は唾を飲み込む。


彼はすっかり病み付いきになった。以来、インターネットで評判の高い店を検索しては店を探し当て、何時間も行列に並んだ。「まるでバカ丸出し、と思うでしょう。たかが汁ソバを食べるのにですよ、二時間も並んで待つなんて。何か強烈に惹かれるものがあるんです」彼は告白する。まあ、バカ、気違いと言ってしまえばそれまでだが、僅かな仕事と失業保険で暮らしている内にブログを始めた、という訳だ。

今でも相変わらず『無敵屋』の行列は続いているが、マクダクストンの舌は肥えてきて、その豚骨スープより優れた味が他にもあることや、ソバがやや茹で過ぎであることまで判るようになった。『無敵家』の次に(なぎ右の写真)』で試食し、すっかり気に入ってしまった。本店、支店が何軒かあり、彼が行ったのは渋谷の繁華街にある支店だった。一夕、マクダクストンがその店へ私を案内してくれた。二年ほど前、私は友人と何か食べ物屋を探しながらその静かな一郭を散策した記憶が残っていた。その時は、その辺りに東京で人気の高いラーメン屋があるなどとは知らなかった。

よくある勘違いだが『凪』の店構えは、ラーメン好きの客で繁盛している店、というより高級料亭の風格があったからだろう。食堂はしっとりと落ち着いた雰囲気、壁は茶色い小麦粉袋が貼られ、一般的な自動販売機で食券を買うのではなく、ウエーターに注文し、彼は客の好みのソバの茹で加減(堅めか柔らかめか)まで確かめる。我々は、腰の強い茹で加減(バリ)を頼み、注文通り、美味しいモチモチで堅めのラーメンが運ばれてきた。旨いの何の、それは絶品で、でも丼に汁が残ったので、ソバ玉の追加注文をして平らげたほどだった。


何日もかけ豚骨を茹でてとったダシ汁も絶品、載っていた柔らかい焼豚や半熟卵も絶品というラーメンがこの『凪』という店の身上である。 次にマクダクストンが連れて行ってくれたのがバサノヴァ(Basanova:左の写真)』、渋谷から私鉄で二、三駅先、近隣があまり芳しくない環境だったが汁の味は最高。『バサノヴァ』の特製はグリーン、カレー・ラーメン、日本人好みに合わせ、タイ風味を巧みに取り入れていた。口にすすり込んだ時ピリっとした辛子が舌に、レモンとライムの香りが鼻に、しかし、本質は日本固有のラーメンである。この味はバンコックでは見つかるまい。

『凪』同様、『バサノヴァ』はゆったりと落ち着ける店だ。但し、ここには食券の自動販売機が置いてあり、ステインレス・スチール張りのカウンターで食べさせる。従ってビールの一杯でも呑む気にもさせる。店主は写真を撮られるのに嫌な顔も見せず、かえって我々と言葉を交わすほど愛想がよかった。彼の話では、両親が日本の反対側(裏日本のことであろうか)の出身だったので、様々なラーメン味を体験し、それらが融合し、結果としてこの店の味となったのは当然の成り行きだったらしい。

マクダクストンと私が店を出たら、後から若い女性も出てきた。通りで私たちに近付き、自分は長島カナという者で、10年程シンガポールの大学でラーメン・クラブを組織していたが最近帰国した、と自己紹介した。たいへんに快活で『バサノヴァ』のラーメンには我々同様に印象付けられたようだ。別れ際に、マクダクストンと彼女は同好者としてお互いの連絡先を交換していた。

他の素敵な『融合味』は更に西へ下ったイワン・ラーメン( Ivan Ramenの写真)』で体験した。創始者は、当年46才の生粋のニューヨーカーで、ルテチェ(Lutèce)でコックをしていたイワン・オウキン(Ivan Orkin)。東京へは日本人の妻と息子と2003年に移住し、収入の道を求め、ラーメン屋が面白かろう思い付いた。準備を済ませて始めたのが2007年、他国の伝統料理に挑戦するのは難しかろうと危ぶまれたが、商売は当たった。彼の恐るべく単純な塩味、醤油味、一本やりの汁、それと少し変わったライ麦粉から作ったソバ、汁を別に添えたツケ麺は評判になった。それは、コンビニエンス・ストアのサークルKにも卸し、店の前に20人は並んで待つほどになった。

オウキンに言わせると「日本人がラーメンに取り付かれた理由は、その味が普遍的なものだったから、、、」だそうだ。「値段から言っても、誰でも払える価格です。丼一杯の盛り付け、単純にバランスが取れています:汁、ソバ、添え物、全てがまとまっているでしょう。だから一杯のラーメンを食べると、誰でも必要な食材料が腹に収まるのです。」なるほど、尤もだ。

バランスと言えば、斑鳩(いかるが:右の写真)』ほどバランスがとれたラーメンはないであろう。その店へは、香港から来日したメター・チェン(Meter Chen)と彼の助手、横井なお子と試食した。芸能関係の仕事をしているチェンは、中国語でラーメンについての本を書いた。店の外で20分ほど待たされている間、チェンは『斑鳩』のロゴを見て「この店の味の良し悪しは別として、ここの店主はデザインに気を配っている」と褒めていた。

店に入ると、照明が明るく穏やか、テーブルやカウンターとの間が広くとってあった。調理人やウエーターは応対が快活で優しく、黒いシャツのボタンはきちんと喉元まで止められ、微笑をたたえていた。正にオアシス、典型的なラーメンの男性的なイメージを拒絶しているラーメン店のガイドブック女性のヌードル(ラーメン?)・クラブで推薦されたのも無理からぬことだと納得した。

で、『斑鳩』ラーメンの味は?正統なラーメンから見たら異端者のようだが、豚骨ダシの汁に微かなカツ節を嗅ぎ取ったし、焼豚の切り身の縁にキャラメルの甘味が残り、新鮮で、ソバを口に入れ、半熟卵を噛んだ歯応えも脂気は少々。ここのラーメンで完璧さと満足感を堪能した。


一口に完璧と言っても様々だ。『斑鳩』と対照的なのがラーメン店チェーンの二郎。この店に病み付きになっている42才のアメリカ人、ボブ(Bob:姓を名乗らない)は<RamenTokyo.com>というブログを制作している。細身のマクダクストンが『ソバ』なら、ボブ肉付きのよい豚といたったところだ。フランチャイズ『二郎』の33支店を悉く試食するという意欲に燃えているのも頷ける。(左の写真は『中華そば井上』)

ボブは「(『二郎』は)ホワイト・キャッスル(the White Castle:ハンバーガー、チェーン)のラーメン版です。この店のラーメンは、安くてお手軽、守るべき伝統的ルールを無視しています。丼は大型、ソバは粗め、汁は濃く、モヤシやキャベツが山盛り、細切れの豚肉はニンニク漬け、それにニンニク、又ニンニク、丼から溢れる程です。味といったら信じられない、何とも形容の仕様がありません」と説明してくれた。


全くその通り、ある意味では完璧に凄い丼だ。私はこの化け物丼に挑戦したが食べ切れなかった。45分も並んで待たされるからには、と期待に胸をふくらませた結果がこの様(ざま)とは、私の予測も当てにならなくなってきた。マクダクストンに言わせれば狂気の沙汰だ。それとも、私は皆と同じようにラーメン党になってしまったのかも知れない。

東京で数日過ごした後で、私はラーメンの人気に関して幾つかの考察を引き出した。1958年代の都会の地下に繁栄した洞窟のような新横浜ラーメン博物館(左の写真)には、有名なラーメン店の支店が何軒も建ち並んでいた。その展示で「1960年代の日本が産業復興と共に、日本人の食生活に西欧の美食(グルメ)が移入され、ラーメンが冷遇された。それが1980年代となると、影響力の大きい新世代が、ラーメンのルーツを掘り起こしたのである」と説明されていた。

チェンのアシスタント、横井なお子「若い人々の間でラーメンが流行の先端として考えられるようになりました。どのラーメン屋が格好(かっこ)良く、有名店がどれかを熟知していることが人格の一部として評価されているんです」と分析していた。


ボブはずばり「この世の中でソバが嫌いな人なんていません」と断言。

多くのラーメン党にとって(私も含めて)、思うに追求の一語に尽きる。新聞、雑誌、テレビ、その他のマスメディアを通じて『追求』するか、足で探し廻るか、嗅ぎつけるか、行列のある店をキョロキョロして探すか、東京だけで4千137軒(内輪に見積もって)もあるラーメン店から好みに合った店を『追求』する骨の折れる作業は、すすった汁の味の旨さを発見した瞬間に報いられるであろう。

墨のように真っ黒に「焦げた」五行(ごぎょう)』の味噌ラーメン(左の写真)、その穴蔵みたいな店を迷いもせずに探し当てた挙げ句の試食だったら、好きになれるのではなかろうか?若し中華そば井上のスタンドで、ごく月並みな醤油ラーメンを年配の調理人から出された時でも、すぐ近所の築地の魚河岸で観光客が大枚を出して寿司を味わっていると知っていたら、私は通(つう)と言えるのではなかろうか?若しマクダクストンと私が、どの店も閉まっている雨の日に1キロ以上も歩いてけいすけ、四番店に辿り着き、鍋盛りツケ麺にありついたら、それにかぶりつくであろうか?

といった考察を繰り返してみると、それ以外に報われたものがある。私は、悪名高い東京の迷路のような道路をどのようにに歩き廻って目的地に到着できるかを体得した。その間、私の日本語は、ほんの少しだが上達した。そして、私は如何にラーメン党同士が、その生まれ、人種、履歴の如何に拘らず、難しいことでも通じ合うことができることを経験した。私が単に「何を」求めているかを表現しただけで、特定の店を推薦され、その説明を受け、そして「一緒に」と誘われることもあった。

ある夕方、私がソヒィ・パーク(Sohee Park)とチーズ粉まぶしのラーメンを食べていた時、2008年に公開された、ブリタニー・マーフィ(Brittany Murphy)扮する野心的なラーメン調理人が主人公の映画ラーメン・ガール(The Ramen Girl)』が話題に上った。彼は結論として(私も同感)
試してみるのは愉しことだった。

「試してみるのは愉しい」だけでは充分ではなかろう。だが東京では、、、この大都
は、しばしば、あらゆる機会が開放されて体験できる反面、しばしば、特殊な社会が閉鎖的で、、、「試してみるのは愉しい」機会はまだまだ未開拓の分野だ。それは固く閉ざされているものを軟化させ、病み付きこだわりの瀬戸際で、45分も無駄な時間を潰したり、「火曜日休業」の札に失望したりすることもある。

例えば、マクダクストンと私が『凪』で食事をした晩のこと。渋谷の雑踏をかき分けていた時、ある若い人々の列が通りにはみ出しているのをチラと見付けた。彼はラーメンを『追求』する欲望に満ち満ちた眼差しで、列のドン尻にいた女性に「何を待っている列ですか?」と日本語で尋ねた。彼女の答えは「エレベーターです。」

ともあれ、我々は『追求』し、渇望して挫けることはない。どこかで我々を待っているに違いない、次に試食するラーメンの丼に素晴らしい味を発見するまでは、一晩中歩き廻っても構わない意気込みだ。
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インターネット案内の一部
◆ Ramenate.com
◆ RamenTokyo.com
◆ GoRamen.com
◆ Rameniac.com


ラーメン店の所在地
★ 頑固がんこ, 新宿区西早稲田3-15-7 電話なし
★ 五行, 港区西麻布1-4-36 ; (81-3) 5775-5566; ramendining-gogyo.com
★ イワン・ラーメン, 3-24-7 世田谷区南烏山; (81-3) 6750-5540;  ivanramen.com
★ 新横浜ラーメン博物館, 横浜市港北区新横浜2-14-21; (81-45) 471-0503;
    raumen.co.jp/ramen/
★ 斑鳩いかるが, 千代田区九段下1-9-12; (81-3) 3239-2622; emen.jp/ikaruga
★ バサノヴァBasanova (または Bassanova), 世田谷区羽根木1-4-18; (81-3) 3327-4649
★ 中華そば井上 4-9-16 Tsukiji, Chuo-ku; (81-3) 3542-0620
★ , 渋谷区東1-3-1; (81-3) 3499-0390; n-nagi.com
★ けいすけ四番店, 文京区本駒込1-1-14; (81-3) 5814-5131; keisuke
★ 無敵家, 豊島区南池袋1-17-1; (81-3) 3982-7656; mutekiya.com
★ 二郎, 本店、支店の所在地、営業時間などは ramentokyo.com/2007/06/ramen-jiro.html

2010年2月18日木曜日

氷の大祭典:アラスカ版

アラスカ州、フェアバンクスで開催された氷の祭典(The Fairbanks Ice Festival, Alaska)。先日公開した満州の『氷の大祭典:ハルビン版』とは一味違った趣きがあります。ルース・ノーランド(Ruth Nowland) 経由で転送されてきました。下に掲載した写真をご覧下さい。特に個々の説明はありません。ご想像にお任せいたします。

2010年2月12日金曜日

アメリカ日系人の受難:後編

はじめに:この前に公開した『前編』で、1942年当時のアメリカ西海岸諸州の状況が説明してあります。今回の内容は、その背景を概略でも知っているとよく理解できる話です。もし未だでしたら、『前編』からお読みください。この記事の下に掲載されています。なお筆者は、普連土学園の財務理事で、クエーカーの歴史研究家。イラストは高橋経

トラックを運転する宣教師ハーバート・ニコルソン
大津 光男(おおつ みつお)

ロサンゼルスの日系米人博物館(Japanese American Museum)』に、日系人の名前と並んで米国人関係者2名の名がある。内一つはThe Herbert Nicholson Family(家族の写真は下に)と書かれている。

日本海軍の真珠湾奇襲を受けて、太平洋戦争が始まったころ、ハワイには何千人もの日系人がおり、カリフォルニアを中心とする全米各地にも、127,000人以上の日系人がいた。


1942年(昭和17年)2月19日大統領令9066号で、米陸軍の長官、司令官に軍事地域を設置する権限及び指定した軍事地域からいかなる人物をも排除できる権限が与えられた。軍事上必要とする場合、好ましくない人物を追放する権限が与えられることになったのだった。すなわち、日系人の強制排除である。

戦後山羊のおじさんとして小学校5年の国語の教科書に載せられたハーバート・ニコルソン(Herbert Nicholson)は、真珠湾攻撃直後、アメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee: AFSC)パサデナ支部から、日系人のために嘱託として働くよう要請された。すでに引退していたクエーカーのビンフォルド夫妻(Binford)、若いフロイド・シュモー(Floyd Schmoe)らと、車や列車で米国を西海岸沿いに北上し、各地に強制連行された日系人家庭を訪問して回ることだった。

ビンフォルド夫妻は茨城県下の伝道に従事していたが、フロイド・シュモーは、生涯を平和活動に捧げた森林学者だった。彼は、生まれながらのクエーカーの家庭に育ち、2回もノーベル平和賞候補に挙げられた。日米開戦後は、米政府の日系人強制収容政策に体を張って反対した。夫人のトミコには、広島への原爆投下のニュースを聞いた時には怒りと悲しみで、さながら自分の頭の上に原爆が落とされたように感じた、と言っていた。彼も、戦後、広島復興支援のため来日し、全てのアメリカ人が原爆投下を肯定しているわけではないことを伝えたい、と米国内で資金を募り、1953年(昭和28年)までに21戸の被爆者用住宅(Houses for Hiroshima)を建てるなど、ワーク・キャンプ活動も広めた。

シュモーの初回のワーク・キャンプに参加し、1951年にシュモーが来日できなかった時、代わりの代表として2人のヴォランテアを連れて来日したのがエモリー・アンドリュース(Andrews)だった。彼は、強制収容所に入れられた日系人を頻繁に訪問し援助した日本人バプティスト教会の牧師だった。日系人には、よく知られ、個人的な援助も惜しまず、収容所通いのころは、一家をあげて収容所の近くに転居していたほどである。

1942年2月25日、ターミナル島居住の日系人退去期限が大幅に短縮され「27日の深夜まで」に修正された。AFSCは、当初日系人の強制退去命令が起ころうとは考えてもいなかった。そこで、当局に強硬な抗議を行う一方、エスター・ローズ(Esther Rhoads)ハーバート・ニコルソンらは、彼らにできる限りの方法で、これら日系人を助けようとトラックを借り、荷物の積み込み搬送に精力的に奉仕したのである。

日系人は、プヤラップ(Puyallup, Wash.)、ポートランド(Portland, Ore.) 、メイアー(Mayer, Ariz.)の他、カリフォルニア州ではマリーズビル(Marysville)、サクラメント(Sacramento)、タンフォラン(Tanforan)、ストックトン(Stockton)、ターロック(Turlock)、メルセド(Merced)、ピンクディル(Pincdale)、サリナス(Salinas)、フレズノ(Fresno)、ツレア(Tulare)、サンタ・アニタ(Santa Anita)、ポモナ(Pomona)などの競馬場や市場、陸軍集合所などに設けられた集合施設(Assembly Centers) に一時的に集められた。

サンタ・アニタ競馬場に集められた南カリフォルニア在住日系人のため、ハーバート・ニコルソン夫妻(左の写真。前列右の二人、左は長女ヴァージニア)や長男のサムエル(Samuel:後列の右、左は次男ドナルド)は、この地をしばしば訪問し、奉仕していた。

1942年5月29日クラレンス・ピケット(Clarence Pickett)の提唱で、二世の教育を継続させる運動が推進され、学生転住委員会本部がフィラデルフィアに置かれた。フレンド派スワースモア大学(Swarthmore College)ジョン・W・ネーソン(John W. Nason)学長が会長に就任、大学学齢期に達した日系二世の子女たちを東部のカレッジに入学させた。

1944(昭和19)年、日系市民退去命令が撤廃された時、AFSCはロサンゼルスにセルフ・サービスの最大規模のホステルを開設した。強制収容されていた日系人が、従前の居住地に戻った時、仕事や住居を見つけたり、必要に応じて社会保障や法的援助が得られるよう、相談相手となって手助けをしたり、財産保護に関する手続など、積極的に手を差し伸べたのである。この間AFSCは、日系人強制収容所に入居させられた子供たちに、教育用品や玩具等を送り続けた。


これより先、1942年夏前、日系人の面倒を見ている米国人に、ロサンゼルス地区から動いてはならないとの命令が出された。ところが、ハーバート・ニコルソンは、日系人医師から医療器具をネバダ州に運び、連れて行ってもらいたいと再三懇請された。
ニコルソンは、AFSC迷惑をかけないよう、辞めて彼の単独行動とした。以後、太平洋戦争中、ニコルソンの本格的な日系人への無給の愛の奉仕活動が続けられて行く。

ほどなく、人が住めるか住めないか、ぎりぎりの(註:いずれの収容所も『神も見捨て給う土地: God Foresaken』に建てられた)土地、カリフォルニア州のマンザナ(Manzanar)ツール・レイク(Tule Lake)、アイダホ州ミニドカ(Minidoka)、ワイオミング州ハート・マウンテン(Heart Mountain)、アリゾナ州のポストン(Poston)ヒラ・リバー(Gila River)、ユタ州トパズ(Topaz)、アーカンソー州のジェローム(Jerome)ローワー(Rohwer)、コロラド州グラナダ(Granada)10ヵ所に建てられた日系人強制収容所には、最終的に西部四州の日系人総計11万2,581名が強制収容された。

マンザナ収容所(上のイラスト)の周囲には砂漠が広がっていた。横6m、縦30mのバラックが12戸二列に並んで建ち、それぞれの中央部分に、共用のトイレ、シャワー室、洗濯室が置かれていた。端の2戸は食堂とレクリェーション施設として使用され、残りの10戸が居住用で、各戸の入居者は5人だった。部屋は仕切りもなく、中央に裸電球が一つあるだけで、家具類は殆ど置かれていなかった。居住者には大きな麻袋が与えられ、わらをつめてベッド代わりに使用していた。250人ずつの大きなブロックが、全部で40区画の施設には、計1万人の日系人が収容されていた。

そのマンザナ収容所に移された日系人から、ハーバート・ニコルソンに来訪を求める手紙が届くようになった。だが、収容所訪問に許可が出たのは、1942年7月のことだった。許可が下りるや宣教師ハーバート・ニコルソンは、レンタルで馬車の荷台のようなトラック(右のイラスト:U-drive stake truck)を借り、寄贈された教会用の2台のピアノ、聖書、讃美歌、ベンチ、講壇等の他にも必需品に加えて、ロサンゼルスの公立図書館で廃棄された1トン余りの多量の書籍類を積み、妻のマダリン(Madeline)を助手席に乗せて出発した。

ハーバートは、レイ・ナッシュ(Ray Nash)所長に自分はクエーカーであると伝えると、彼は「フーバー大統領時代に、インディアン局で働いていたチャールス・ローズ(Charles Rhoads)ヘンリー・スキャタグッド(Henry Scattergood)を知らないか」と聞いた。ハーバート「二人とも親友だ」と答えると、彼は「あの二人が友人なら、私にとっても君は友達だ」と言い『この施設には、いつ、どんな時でも来訪を認める:To whom it may concern:―This will permit Mr. and Mrs. Herbert V. Nicholson and their three children to enter this camp at any time and stay as long as they wish. (Signed) Ray Nash, Director.』という証明書を作成し、署名してくれた。

ハーバート・ニコルソンが初めてマンザナを訪れた頃、幸運にも大学生たちが東部に移動することになった。そのためレクリェーション施設は、三区画ごとにプロテスタント教会、カトリック教会、仏教寺院に利用されたり、集会所図書室、教室等にも兼用されたりしていた。施設を去ろうとした時、ターミナル島で食料品や雑貨商を営んでいたトム・ヤマモトから、次回は彼の新車の小型トラックを売り、運送用トラックで、三家族の冷蔵庫やベッドなどの家具を運んできて欲しい、と鍵を渡された。トム・ヤマモトに頼まれた荷物をマンザナに運んだ後、再びホイッティア(Whittier)付近で倉庫代わりにされていた日本語学校に戻ると、盗難にあったり、焼かれたりしてしまっていた。

そこで、ハーバート・ニコルソンは、急遽西ロサンゼルス地区に住んでいた日系人の荷物を積み、マンザナへ向かった。三度目の訪問だった。トム・ヤマモトから寄贈されたトラックは、すでに2万5千マイル(約4万キロ以上)を走行していた。しかし、彼はこのダッジ型のトラックを使って、更に5万マイル(約8万500キロ弱)も走った。トラックを運転する宣教師になったのだった。

ハーバート・ニコルソンは、専門の運送業者ではなかったので、料金を請求することは法律上禁じられていた。だが、大抵の場合、依頼者が何がしかの謝礼を封筒に入れて渡してくれた。それでガソリン代を賄った。当時ガソリンの配給は、荷物の運搬のみに許されていた。けれどもハーバート・ニコルソンは、宣教師という立場から、ガソリン配給には余り強い制限を受けなかった。だから、トラック搬送の際、助手席には施設を訪ねたいという希望者二人が同乗するのが常だった。その中にはカービー・ペイジ(Kirby Page)、エスター・ローズ、スタンレー・ジョーンズ(Stanley E. Jones)などがいた。

スタンレー・ジョーンズは、インドで幅広い伝道活動を行ったメソジスト派の宣教師で、ラクノーを中心に伝道し、精神療養センターも作った。彼は、キリスト教をインド人の精神的な求めに対する成就という形で説いた。それが大きな反響を呼び、平和、人種平等、社会正義のスポークスマンとしても活躍、インドの独立を支援したことは有名である。

ハーバートサムエル・ニコルソンによれば、同行者との最も印象に残った訪問は、メソジスト派の宣教師として神戸に滞在していたロイ・スミス(Roy Smiths)を、マンザナに連れて行った時のことであった、という。ロイ・スミスは、日本が米国との開戦に踏み切った当日、神戸で起こった出来事について、日系人たちに講演を行った。彼は、敵性外国人として数名の米国人宣教師同様、日本の警察に連行された。だが、神戸商科大学の学生や周囲の多くの日本人が極めて同情的で、米国人を寛大に遇してくれたことを報告した。ハーバートが司会し、ロイ・スミスの講演を日系人女性の通訳者が日本語にした。講演会場は満席となり、会場外にも多くの人々が立ったまま聞いていた。プログラムの終わりにハーバート・ニコルソンは、宣教師として日本語で祈り、そしてその会を閉じた。これによって、集会全体の精神的な高まりを一層深め、多くの参会者に忘れ得ぬ感銘を与えたということだたった。


この訪問を契機に、ハーバート・ニコルソンは、アリゾナ州のポストンヒラ・リバーの収容所も訪問することになった。しかし、大抵がマンザナ(右の写真)往復だった。ハーバート・ニコルソンは、マンザナで移動図書館や教会を始めた。 一方、ある時、スタンレー・ジョーンズミニドカで日系二世たちのために二週間の伝道集会を開催した。

ハーバートも同行して、一世たちのために、講演を依頼された。日曜日の朝、最初の集会で、司会者は、ハーバートドクター・ニコルソン』と紹介した。それに対して、ハーバート・ニコルソンは、自分は神学博士ではなく、ただのハーバート・ニコルソンだ、と応えると、その場で、厳かに「名誉博士の称号を与える」などと紹介してもらい、満座の空気をなごませるような場面もあった。当日は一日に3度も話した。その週は毎晩講演した。のみならず、ハーバート・ニコルソンは、連続5日間、毎朝2時間ずつ、高校生クラスの若者たちに、日本の文化事情について講演する機会も与えられた。ミニドカの施設には講堂がなく、150人で満席になる食堂を会場としたので、毎日早朝の話になった。質問時間も設けられたため、時間は延長されるのが常だった。後日、アマチで同じ内容の話を高校生全員にも話した。生徒たちは、ハーバートプロ・ジャップ
(pro-Jap:日本びいき)と呼び「本物の日本人か?」と誤解されたこともあったという。

ロサンゼルスの日本語新聞羅府新報(らふしんぽう)』の編集者トーゴ・タナカ(右の写真:昨2009年93才で死亡。本ブログ7月掲載の追悼記事『マンザナ収容所を記録した男』を参照)は、後年ニコルソンは、収容所にトラックで荷物を運んだが、彼は多くの場合、喜びと希望とを運んだ。援助が必要な時には、いつも彼はそこにいた。彼はとても気さくで、活動的で、元気良くものごとを成し遂げる親切な人だった。彼と会った人々が、彼の微笑を忘れないように、私も彼を決して忘れないだろう。収容された多くの人たちに好かれ尊敬されたが、彼らはハーバートを愛した」歴史の証言の中で証言した。 (トラックを運転する宣教師」サムエル・O・ニコルソン、筆者訳、1993年7月20日発行『友』キリスト友会日本年会)

2010年2月11日木曜日

アメリカ日系人の受難:前編

真珠湾攻撃の前後

はじめに:今から70年前、1940年から1942年の早春までの間に、アメリカ日系人、特に西部沿岸州に居住していた移民およびその子や孫たちが、政治的、経済的に人種差別の圧迫を受けるという受難に遭っていました。その経過については膨大な記録が残っています。

しかし、ここではその全てをお伝えするのが目的ではありません。
お伝えしたいのは、次の後編で、日系人を差別せず、友愛に基づいて支援行動をとったアメリカの人々がいた事実についてです。従って、ここでは要点だけ箇条書きにしました。この背景を前提としてご承知いただければ、次回の『後編』の内容を充分にご理解いただける筈です。

なお詳述に興味のある方は、高橋経の著書『還らない日本人(日本語)』または『A Passage Through Seven Lives (英語)』をご参照ください。


1940年
  • 国防の一環として、外人登録法が議会を通過。14 才以上の外国人は指紋を添えて登録しなければならないことになった。
  • 二世の組織、日系アメリカ市民協会 (Japanese American Sitizens League: JACL: 1929年創立) が、オレゴン州、ポートランド市で総会を開く。席上、マイク正岡委員(右:40年後、1980年頃の写真)は、協会の今後の方針として、アメリカに忠誠を尽くす姿勢を打ち出すよう提案、多くの支持を受けて会長に選出された。
  • 3月9日、同協会の指導者グループは、ロサンゼルス市会の評議員と会見、二世の忠誠を約す。
  • 続いて 3月21日陸海軍情報局の代表に会見『国策に協力する』ことを約す。
1941年
  • 7月26日、アメリカ合衆国は、日米通商友好条約を破棄し、日本国籍の在留邦人の財産を凍結。
  • 8月、日本政府は、在日アメリカ人約100 人に対して、帰国停止処分をとった。
  • 8月18日、ミシガン州選出民主党のジョン・ディンゲル (John D. Dingell) 議員は、フランクリン D. ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt: 1882~1945 右の写真) 大統領に「アメリカ本土とハワイに居住する日本人を人質として拘留し、日本軍の攻撃意欲を鈍らせる」ことを書簡で提案。ホワイト・ハウスはこれを検討、ジョン・カーター (John Franklin Carter) に命じて独自の調査を行う。
  • 大統領は、平等就労の機会について委員を集め、聴聞会を開き、JACL の代表を呼び事情を聞く。席上マイク正岡は、国防関係の職種で東洋人が差別を受けている、と証言。
  • 駐米大使館の森村副領事という名で知られている吉川武雄海軍少尉は、アメリカ海軍の主力、太平洋艦隊ハワイの真珠湾に集結していることを日本側に報告。
  • ハワイに在住し二重国籍をもつ 3万人の日系二世が、日本国籍を放棄することをコーデル・ハル (Cordell Hull:右の写真) 国務長官に申請。
  • 元海軍士官ジョン・ファンワース (John Fanworth?) 他 1 名が、日本側のスパイ容疑で逮捕、起訴される。
  • 9 月、戦時局は、二世ジョン・フジオ・アイソ(左の写真)を長とする情報学校の新設を許可。同校は第4陸軍部内に所属させる計画。
  • カリフォルニア州のカーチス・B.マンソン (Cirtis B. Manson) 代議員は、非公式に JACLマイク正岡会長木戸三郎に会見、日米開戦の回避や、アメリカ国内の日系人の安全について協議。
  • 駐米大使、野村吉三郎(のむら きちさぶろう:右のイラストの左側)来栖三郎(くるす さぶろう)は、アメリカ政府に対し、日本への石油輸出停止を撤回すること、中国への軍事援助を中止すること、在留邦人の財産凍結を解除すること、などを申し入れ、その交換条件として、日本軍のインドシナ、中国大陸からの撤退を提示して交渉。ハル国務長官はこれを拒絶。
  • 10月23日FBI 員が二名がロサンゼルスの日本語新聞、羅府新報(らふしんぽう)社の主筆、藤岡紫朗(ふじおか しろう)を訪れ、訊問した。さらに藤岡は FBI 事務所へ任意同行を求められ、延べ 14 時間、深夜 11 時まで、文筆活動の内容、交友関係、収入源、日系人団体の動向、徴兵猶予の請願の事実の有無、日本軍部との関係など、微に入り細にわたって究明された。この取り調べ中、FBI 係官数名が、日本人組織中央日会の事務所、羅府新報社を捜索、証拠になりそうな書類をすべて押収した。
  • 11月、滞米に見切りをつけた一世や二世が、続々と帰国。
  • 12月7日(日本時間で 8 日)日曜日の未明、大日本帝国海軍は、ハワイの真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、多大の損害を与えた。山本五十六(やまもと いそろく)司令長官の計画では、攻撃数時間前に宣戦布告の通諜をワシントンに届けるはずだったが、領事の手違いでそれを手渡すのが遅れ、結果的に『奇襲』になってしまった。後日それを知った山本長官は、烈火の如く怒った。
  • 8日、アメリカは日本の正式な宣戦布告に応じ、日米は戦闘状態に入る。
  • JACL の木戸三郎会長は、ルーズベルト大統領に打電し、二世の忠誠を誓う。折しも遊説中のマイク正岡は、ネブラスカ州で逮捕され、ユタ州のエルバート・トーマス (Elbert D. Thomas) 議員の尽力で一旦釈放されたが、サンフランシスコへの帰路、ワイオミング州のシャイアンで再び逮捕、投獄、またまたトーマス議員の口ききで釈放。その後は、FBI の監視つきで旅行を続ける。
  • 12月8日付け、ロサンゼルス・タイムスは、カリフォルニア州を危険地帯とする次のような論説を掲げた。【西部の伝統、自警団よ、起て!敏活にして鋭い目を持った義勇の市民は、軍当局に協力して、スパイ、サボタージュ、などに対処してもらいたい。当地には、何千何万という日本人が住んでいる。多分、その中のある者は良きアメリカ人であるかも知れない。しかし、全ての日本人が善良だと判断するのは危険である。先年実証された、彼等独特の背信、二枚舌で裏切られる可能性は充分に考えられる。(後略)
  • 真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊が受けた打撃の詳細は、数時間後に伝えられた。ルーズヴェルト大統領は、この日のことを破廉恥(はれんち)の日 (The Day of Infamy) 』と呼び、アメリカ史上初めて、挙国一致の気運を盛り上げるきっかけとなった。
  • 12月9日、羅府新報の編集者トーゴ・タナカ(左の写真の右端)は、KHTR 放送を通じて二世たちに「アメリカ市民として、日本のスパイに対抗できる我々の特殊才能を発揮する時がきた。アメリカ合衆国にとって好ましくない言動をとる日本人がいたら警告を与え、FBI、海軍情報局、警察などに報告すること」と呼びかけた。タナカはこの放送の直後、FBI に逮捕され、以後11日間、3ヵ所の監獄に転々と拘留された。時を同じくして、FBI のブラック・リストに名を連ねていた 1,370 人の日本人が一網打尽となった。
  • 陸軍のジョン・デ・ウィット (Lieutenant General John L. DeWitt) 中将が指揮する西部国防司令部 (Western Defence Command)と、第4陸軍部に兵力が増強された。が、その兵隊の殆どが黒人だったことで、中将は司令部に不満の電話をかけ「今、ここではジャップの真珠湾攻撃で、大衆が神経質になっている。ただでも有色人種が大勢いる所へ黒人を送り込まれてはやり切れない。白人の兵隊と替えてくれ」と申し入れた。
  • デ・ウィット中将の副司令官で、カリフォルニア防衛作戦の責任者ジョセフ・スティルウェル少将 (General Joseph W. Stilwell) は、日記に12月8日。日曜の夜。サンフランシスコに敵機襲来のデマ。第4陸軍部は神経が尖り過ぎている】と記した。
  • 12月9日。日本海軍の艦隊 34 隻が西部沿岸に接近中との報告あり。誤報。
  • 12月9日、陸軍のブレホン・サマベル補給隊指揮官は、敵性外国人および捕虜の収容所設置の命令を出す。デ・ウィット司令官の認可を受け、FBI のブラック・リストに基づく2,000 人の容疑者を収容できる 3 つの建物が、直ちに着工された。
  • 12月10日デ・ウィット司令官は、サンフランシスコに側近を集め、緊急会議を開いた。席上、サンフランシスコ湾近辺に居住する 2万人の日系人の今後の挙動に関する憶測が議題の中心となった。財務担当のある高官は「その日本人達が結束して行動に移ろうとしている」と発言し、サンフランシスコ地区のFBI 局長ナット・パイパー(Nat Pieper) 「途方もない妄想」と一笑に附された。2万人とは、婦女子や老人が含まれている数字だったからである。にも拘らず、この発言は、過敏になっていた出席者一同の神経を刺激し、後日の日本人隔離の実現につながった。
  • 開戦と同時に検挙された日系人は、姓名、年齢、職業、家庭の状態などが記録され、全裸の身体検査を受け、囚人服を着せられて監獄に拘留された。
  • スティルウェル少将の日記から。12月11日。第 4 陸軍部から「サンフランシスコ沖、100キロの海上に、日本の主力艦隊が現れた、、、」と、電話で通報あり。阿呆のように私はこの情報を信じた。勿論、第4陸軍部はこの報告の責任を取らない。彼等は、「信ずべき筋から、、、」と言っていたが、相変わらず確認してないに決っている。】
  • 12月11日ジョージ・マーシャル (George C. Marshall:左のイラスト) 参謀長は、太平洋沿岸を戦略地域と指定する。これは、特に日系人を意識していたわけではなく、すべての市民を軍隊の統制下に置くことによって、法的に作戦の遂行を容易にする、という意図に基づいたものである。
  • スティルウェル少将の日記から。12月13日。第 4 陸軍部は、性懲りもなくデマ情報を寄こす。10時半「信ずべき情報によると、敵がロスサンゼルス攻撃を計画していることは間違いない。一般への警報の用意が必要」といった調子だ。どこの頓馬が、こんな状況下で警報を発して、軍需工場の労働者から一般の市民までの大群集をどこへ避難させるというんだ。第4陸軍部の情報部はシロウトに違いない。司令部の頭が確かなら、冷静でいてもらいたい。】
  • 12月15日フランク・ノックス (Frank Knox) 海軍長官は新聞記者会見で「今次大戦で、スパイが最も活発に暗躍した舞台はノールウェーだ、という可能性以外では、ハワイであろう」と言及した。
  • 12月19日デ・ウィット司令官は、西部地区に居住する 14 才以上の敵性外国人 4万人を撤去、隔離することが急務である、と公式にワシントンに提言した。この敵性外国人 4 万人とは、日系人に限った数字で、5万8,000 人のイタリア系2万3,000 人のドイツ系は含まれていない。ワシントンの返事を待たず、デ・ウィット中将は、憲兵司令官アレン・ガリオン少将 (Provost Marshall General Allen W. Gullion) と連絡をとり、日系人撤去作戦の決定を迫った。ガリオン少将は、撤去案を許可する前に「合衆国の軍隊は、一般市民に対する支配権を持っていないが、連邦政府の軍隊なら、その権限を持ち得るだろう」と、公式の声明で答えた。この時、ガリオン少将戒厳令の可能性を考えていたものと思われる。
  • 12月17日、開戦と同時に逮捕された日系人 1,370 人は、10 日間の取り調べに基づき危険度』で分類され、サン・ピドロ監獄、ミゾラ監獄などに監禁された。
  • ガリオン少将は日系人の撤去案に積極的で、この管轄を、司法局から戦時局に移すよう奔走。12月22日には、ロサンゼルスの商工会議所代表が訪れ、全ての日系人の撤去を強硬に要請。その4日後、ガリオン少将デ・ウィット中将に電話でその会見の模様を伝えた。デ・ウィット中将は、それに対して「西部一帯に居住する 11万7,000 人の日系人を移動させることは、常識では難事業だ。また、大半の日系人はアメリカ市民権を持っている。勿論、その全員が合衆国に忠誠かどうかは疑問だが、もしその時は必要に応じて危険人物だけ逮捕すればよい」と答えた後「この計画は、民事側から手を回した方がうまくいくだろう」とも示唆した。
  • 一方、二世達は合衆国への忠誠を示すため、あらゆる手段を講じたが、あまり効果はなかった。それどころか軍隊は、12月7日以前に登録された二世まで体格上の欠陥を理由に、不適格者として兵役を解除した。
  • 開戦以来の各種新聞の見出しから。
  • 日本人、ドイツ人、イタリア人、の収容所を作り、敵が人質を殺す度に、報復としてその収容所の囚人を殺そう。
  • オスワルド・ガリソン・ビラード (Oswald Garrison Villard) 《アメリカの掃き溜め》と呼んでいる三流新聞から)◇ジャップの船が、沿岸と電光で交信。
  • カリフォルニア沿岸に敵機現れる。
  • 地図を持った二人のジャップを逮捕。
  • ベイ・シティで、カメラを持ったジャップを逮捕。
  • ジャップ農園のトマトの袋は、空軍基地の方角を示す暗号。
  • ジャップが、重要な情報を東京へ流す。
  • チンク(中国人)(移民の)ジャップと見分けられる。
  • ジャップの陰謀が、地図で発覚。
南カリフォルニアの、防衛作戦地帯の動静を
探知する外人情報網。
  • ジャップの沿岸奇襲計画。
韓国人スパイ・グループが警告。
いずれも、冤罪または事実無根であった。

1942年
  • 1月。カリフォルニア州の知事カルバート・オルソン (Culbert L. Olson) は、24 名の二世指導者を集め「日本人農夫を奥地に移動して作物を作らせる」ことを提案。これに対して木戸三郎「知事が日本人の生計を案じてそう言ってくれるなら、現在のまま、農家に警官を配備して、安全に暮らせるよう保護して」くれるよう要請した。知事は、木戸の発言に不満の意を表わし「好意を無にした非協力的な態度」として、この会談は物別れに終わった。なおオルソン知事の日系人排除の方針には、選挙民の比率から見て、白人農民の投票数が日系人農民の数より遥かに多いことが念頭にあったことは疑いもない事実である。(上のイラストは日系人収容を推進した重要人物たち:中央がベンデトセン大佐;後は左から、ディロン・マイヤー、スティムソン戦時長官、オルソン知事、ウォーレン司法長官、デ・ウィット中将、ガリオン憲兵司令官)
  • 1月21日、カリフォルニア共和党リーランド・フォード (Lealnd M. Ford) 議員は、日系人の撤去に賛意を示す。
  • 1月29日フランシス・ビドル法務長官(Attorney general Francis Biddle)は、太平洋沿岸の戦略地域を組織化する目的で敵性外国人の撤去を命令。
  • 1月30日、戦時局代表カール・ベンデトセン大佐 (Col. Karl R. Bendetsen) は、西部沿岸議会の代表委員会に出頭し、日系人撤去の遂行を宣誓。
  • カリフォルニア州のアール・ウォーレン司法長官 (Attorney general Earl Warren) が、日系人撤去計画の第一段階として、外人土地法を更に強化することを決定。その結果、不動産を所有する日系人 79人中、59人が禁治産者として起訴された。
  • 2月10日モン・ウォルグレン (Mon C. Wallgren) 上院議員派の委員会は、日系人撤去案を決議。
  • フランシス・ビドル法務長官は、コーン・コックス弁護士から、撤去案を法的にするためには、大統領の非常時権限を利用すべきだ、という忠告を受ける。
  • 2月11日ヘンリー・スティムソン戦時長官 (Secretary of War Henry L. Stimson) は、日系人撤去計画を遂行するため、ジョン J. マックロイ (John J. McCloy:右の写真) を補佐に指名。マックロイは、ベンデトセン大佐を直接担当官に任命。同大佐は、日系人撤去に関する具体的な計画を立て、指揮をとった。なお、当時の陸海軍上層部内で「太平洋沿岸に日本軍が侵入してくる危険性はあり得ない」という観測もかなり強かった。
  • 2月13日、西部沿岸議会の代表委員は、さきのウォルグレン上院議員の日系人撤去案を修正加筆し日系人の部分を強調。南部では、テネシー州のトム・スチュワート (Tom Stewart) 議員、ミシシッピー州のジョン・ランキン (John Rankin) 議員、テキサス州のマーチン・ダイズ議員らの 3 名がこの提案を支持。最終的な決議案は、直ちにルーズベルト大統領に送られ、早急な実施を要請。
  • 2月14日デ・ウィット中将は、スティムソン長官に、日系人および危険分子を全西部沿岸から撤去させる旨のメモを送る。
  • 海軍は、カリフォルニア州、ターミナル島に居住する日系人に対し、3月14日までに撤去すべし、と公示。
  • 2月17日ビドル法務長官は、ルーズベルト大統領に、日系人撤去の実施に際し、反対運動などの支障を事前に防ぐ必要性を説いたメモを送る。
  • 2月18日、シアトルで、中国韓国人民連盟の代表と自称する韓国人キルソ・ハーンが、「日本は、真珠湾攻撃に続いて、4 月に太平洋沿岸の攻撃を予定している。国内の日系人は、本国からサボタージュの指令が届くのを待機している」と講演。同地の新聞ポスト・インテリジェンサー紙は、一面にでかでかとハーンの写真入りでその記事を掲げた。
  • 2月19日ルーズベルト大統領は、大統領令第 9066 号に署名。これには、戦時長官および軍指導部は「軍事上必要とあれば、好ましからざる市民を追放する権限がある」ことが明記されたあった。(右の写真:告示ポスターが広範囲に配布掲示された)
  • 2月20日スティムソン長官は、大統領令第9066号に基づき、デ・ウィット中将を正式に日系人撤去作戦の最高責任者に任命した。
  • 2月21日ジョン・トーラン (John H. Tolan) を議長とする国防委員会は、日系人撤去に関する公聴会を、サンフランシスコとシアトルで開く。サンフランシスコでは、9名の日系人を含む 49名の証人が、シアトルでは、4名の日系人を含む 50名の証人が、それぞれ喚問された。席上、マイク正岡JACL の代弁者として「戦略上必要な場合を除き、撤去には反対する」ことを表明。さらに、ヘンリー谷(たに)、ディブ龍野(たつの)らと「撤去に際して起こり得る生命の安全が全く保証されていない」ことを指摘した。
  • 2月23日、同委員会は結論として、撤去者の財産を差し押えるのに必要な事務局の設置を、防衛司令部に要請することにした。
  • 同日日本海軍の潜水艦が、カリフォルニア州、ゴレタの石油貯蔵所に砲撃を加えた。
  • 2月25日ターミナル島に居住する日系人の撤去期限が大幅に短縮され「 27日の深夜まで」と修正、公示された。
  • デ・ウィット中将は、就任後、初の告示を発表。ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナの四州から、敵性外人の追放を宣言、自発的な撤退を勧告した。
なお中将「わが国は戦時体制に入り、西部八州は戦略上重要な地区となった。本官の管轄下において、24万の同胞を除く28万の敵性外国人は、法的にも、忠誠心の上でも要注意で信頼できない。一部の外国人(ドイツ、イタリア系の移民を指す)はさておいて、大半の日本人(日系人とは言わなかった)の合衆国への忠誠心は疑わしい。本官が特に問題にしているのは、アメリカ生まれの 4万人の日本人のことである」とつけ加えた。
  • 3月11日デ・ウィット中将は、戦時市民統轄局を新設、ベンデトソン大佐を局長に任命し、日系人撤去計画を実行に移す。
  • 3月12日トーラン国防委員会の公聴会が終わる。
3月18日ルーズベルト大統領は、大統領令第 9102 号に署名。これは、戦時撤去局を新設し、元ジャーナリスト、43才のミルトン・アイゼンハワー (Milton S. Eisenhower:左のタイムの表紙) を局長に任命し、その機能が西部沿岸に居住する日系人の撤去実施を明示したものである。新ポストに就いたアイゼンハワー局長は、農務省勤務当時のボスへ宛てた書簡の中で【この戦争が終わった暁に、12 万人にものぼる、この空前の大移動を冷静に反省したら、多分、我々アメリカ人は、避けることができるにも拘らず、不当な行為を実行してしまったことで、深い悔恨の念に悩まされるであろう】と、自身のジレンマを予想し告白している。
  • ルーズベルト大統領は、民法第503号に署名。これは、さきに公示された大統領令第 9066号に違反した者を罰することができるための法律である。
  • 3月22日、ロサンゼルス地区から撤去させられた日系人の第一団が、軍隊に率いられ、カリフォルニア州、マンザナの陸軍中央集合所に転送。
  • 3月23日デ・ウィット中将は、ワシントン州ベインブリッジ島 (Bainbridge Island) に居住する日系人に対して撤去命令を布告。これは、最初の市民追放令である。
  • 翌、24日、同布告の実施期限を 6日以内と定める。同時に、日系人は夕刻8時から翌朝6時までは外出禁止。これを不服としたゴードン平林(ひらばやし)は、市民の自由を奪うもの、として訴訟を起こしたが、大審院は「市民の自由が、差し迫った公共の利益に反する場合は、成立しない」として、却下した。
  • 3月27日一般市民を刺激しないため軍事地区と指定された区域の日系人の移動を禁止する布告第 4 号を公示。
  • 3月30日ベインブリッジ島に居住する日系人家族 54 所帯が、軍隊に率いられ、マンザナの陸軍中央集合所に転送。(右の写真)
  • 真珠湾奇襲以来、3月31日現在まで4ヶ月の間に、暴行事件による日系人の被害は、記録に残るものだけで、殺人 7件、強姦、発砲、殴打など 21件、強盗、家屋器物などの損傷破壊など 8 件、計 36件に達した。