トラックを運転する宣教師ハーバート・ニコルソン
大津 光男(おおつ みつお)

日本海軍の真珠湾奇襲を受けて、太平洋戦争が始まったころ、ハワイには何千人もの日系人がおり、カリフォルニアを中心とする全米各地にも、127,000人以上の日系人がいた。
1942年(昭和17年)2月19日、大統領令9066号で、米陸軍の長官、司令官に軍事地域を設置する権限及び指定した軍事地域からいかなる人物をも排除できる権限が与えられた。軍事上必要とする場合、好ましくない人物を追放する権限が与えられることになったのだった。すなわち、日系人の強制排除である。


シュモーの初回のワーク・キャンプに参加し、1951年にシュモーが来日できなかった時、代わりの代表として2人のヴォランテアを連れて来日したのがエモリー・アンドリュース(Andrews)だった。彼は、強制収容所に入れられた日系人を頻繁に訪問し援助した日本人バプティスト教会の牧師だった。日系人には、よく知られ、個人的な援助も惜しまず、収容所通いのころは、一家をあげて収容所の近くに転居していたほどである。

日系人は、プヤラップ(Puyallup, Wash.)、ポートランド(Portland, Ore.) 、メイアー(Mayer, Ariz.)の他、カリフォルニア州ではマリーズビル(Marysville)、サクラメント(Sacramento)、タンフォラン(Tanforan)、ストックトン(Stockton)、ターロック(Turlock)、メルセド(Merced)、ピンクディル(Pincdale)、サリナス(Salinas)、フレズノ(Fresno)、ツレア(Tulare)、サンタ・アニタ(Santa Anita)、ポモナ(Pomona)などの競馬場や市場、陸軍集合所などに設けられた集合施設(Assembly Centers) に一時的に集められた。

1942年5月29日、クラレンス・ピケット(Clarence Pickett)の提唱で、二世の教育を継続させる運動が推進され、学生転住委員会本部がフィラデルフィアに置かれた。フレンド派のスワースモア大学(Swarthmore College)ジョン・W・ネーソン(John W. Nason)学長が会長に就任、大学学齢期に達した日系二世の子女たちを東部のカレッジに入学させた。
1944(昭和19)年、日系市民退去命令が撤廃された時、AFSCはロサンゼルスにセルフ・サービスの最大規模のホステルを開設した。強制収容されていた日系人が、従前の居住地に戻った時、仕事や住居を見つけたり、必要に応じて社会保障や法的援助が得られるよう、相談相手となって手助けをしたり、財産保護に関する手続など、積極的に手を差し伸べたのである。この間AFSCは、日系人強制収容所に入居させられた子供たちに、教育用品や玩具等を送り続けた。
これより先、1942年夏前、日系人の面倒を見ている米国人に、ロサンゼルス地区から動いてはならないとの命令が出された。ところが、ハーバート・ニコルソンは、日系人医師から医療器具をネバダ州に運び、連れて行ってもらいたいと再三懇請された。ニコルソンは、AFSCに迷惑をかけないよう、辞めて彼の単独行動とした。以後、太平洋戦争中、ニコルソンの本格的な日系人への無給の愛の奉仕活動が続けられて行く。




ハーバート・ニコルソンが初めてマンザナを訪れた頃、幸運にも大学生たちが東部に移動することになった。そのためレクリェーション施設は、三区画ごとにプロテスタント教会、カトリック教会、仏教寺院に利用されたり、集会所や図書室、教室等にも兼用されたりしていた。施設を去ろうとした時、ターミナル島で食料品や雑貨商を営んでいたトム・ヤマモトから、次回は彼の新車の小型トラックを売り、運送用トラックで、三家族の冷蔵庫やベッドなどの家具を運んできて欲しい、と鍵を渡された。トム・ヤマモトに頼まれた荷物をマンザナに運んだ後、再びホイッティア(Whittier)付近で倉庫代わりにされていた日本語学校に戻ると、盗難にあったり、焼かれたりしてしまっていた。

ハーバート・ニコルソンは、専門の運送業者ではなかったので、料金を請求することは法律上禁じられていた。だが、大抵の場合、依頼者が何がしかの謝礼を封筒に入れて渡してくれた。それでガソリン代を賄った。当時ガソリンの配給は、荷物の運搬のみに許されていた。けれどもハーバート・ニコルソンは、宣教師という立場から、ガソリン配給には余り強い制限を受けなかった。だから、トラック搬送の際、助手席には施設を訪ねたいという希望者二人が同乗するのが常だった。その中にはカービー・ペイジ(Kirby Page)、エスター・ローズ、スタンレー・ジョーンズ(Stanley E. Jones)などがいた。

ハーバートとサムエル・ニコルソンによれば、同行者との最も印象に残った訪問は、メソジスト派の宣教師として神戸に滞在していたロイ・スミス(Roy Smiths)を、マンザナに連れて行った時のことであった、という。ロイ・スミスは、日本が米国との開戦に踏み切った当日、神戸で起こった出来事について、日系人たちに講演を行った。彼は、敵性外国人として数名の米国人宣教師同様、日本の警察に連行された。だが、神戸商科大学の学生や周囲の多くの日本人が極めて同情的で、米国人を寛大に遇してくれたことを報告した。ハーバートが司会し、ロイ・スミスの講演を日系人女性の通訳者が日本語にした。講演会場は満席となり、会場外にも多くの人々が立ったまま聞いていた。プログラムの終わりにハーバート・ニコルソンは、宣教師として日本語で祈り、そしてその会を閉じた。これによって、集会全体の精神的な高まりを一層深め、多くの参会者に忘れ得ぬ感銘を与えたということだたった。

ハーバートも同行して、一世たちのために、講演を依頼された。日曜日の朝、最初の集会で、司会者は、ハーバートを『ドクター・ニコルソン』と紹介した。それに対して、ハーバート・ニコルソンは、自分は神学博士ではなく、ただのハーバート・ニコルソンだ、と応えると、その場で、厳かに「名誉博士の称号を与える」などと紹介してもらい、満座の空気をなごませるような場面もあった。当日は一日に3度も話した。その週は毎晩講演した。のみならず、ハーバート・ニコルソンは、連続5日間、毎朝2時間ずつ、高校生クラスの若者たちに、日本の文化事情について講演する機会も与えられた。ミニドカの施設には講堂がなく、150人で満席になる食堂を会場としたので、毎日早朝の話になった。質問時間も設けられたため、時間は延長されるのが常だった。後日、アマチで同じ内容の話を高校生全員にも話した。生徒たちは、ハーバートを『プロ・ジャップ(pro-Jap:日本びいき)』と呼び「本物の日本人か?」と誤解されたこともあったという。


1 件のコメント:
初めて西部沿岸諸州に居住する日系人の強制立ち退きの話を聞いたのが1963年。以来、長いこと『全ての』白人が日系人を偏見の目で見て差別していたのだとばかり思っていた。
あれから30年経った1993年、初めて日系人を援助したアメリカ人が存在していたこと知り、我が無知を恥じ、同時に「渡る世間に鬼」ばかりではないことに救いを感じた。
この明暗、両極端の事実は多くの人々に知っていてもらいたい。手遅れにならない内に、、、。
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