2010年2月12日金曜日

アメリカ日系人の受難:後編

はじめに:この前に公開した『前編』で、1942年当時のアメリカ西海岸諸州の状況が説明してあります。今回の内容は、その背景を概略でも知っているとよく理解できる話です。もし未だでしたら、『前編』からお読みください。この記事の下に掲載されています。なお筆者は、普連土学園の財務理事で、クエーカーの歴史研究家。イラストは高橋経

トラックを運転する宣教師ハーバート・ニコルソン
大津 光男(おおつ みつお)

ロサンゼルスの日系米人博物館(Japanese American Museum)』に、日系人の名前と並んで米国人関係者2名の名がある。内一つはThe Herbert Nicholson Family(家族の写真は下に)と書かれている。

日本海軍の真珠湾奇襲を受けて、太平洋戦争が始まったころ、ハワイには何千人もの日系人がおり、カリフォルニアを中心とする全米各地にも、127,000人以上の日系人がいた。


1942年(昭和17年)2月19日大統領令9066号で、米陸軍の長官、司令官に軍事地域を設置する権限及び指定した軍事地域からいかなる人物をも排除できる権限が与えられた。軍事上必要とする場合、好ましくない人物を追放する権限が与えられることになったのだった。すなわち、日系人の強制排除である。

戦後山羊のおじさんとして小学校5年の国語の教科書に載せられたハーバート・ニコルソン(Herbert Nicholson)は、真珠湾攻撃直後、アメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee: AFSC)パサデナ支部から、日系人のために嘱託として働くよう要請された。すでに引退していたクエーカーのビンフォルド夫妻(Binford)、若いフロイド・シュモー(Floyd Schmoe)らと、車や列車で米国を西海岸沿いに北上し、各地に強制連行された日系人家庭を訪問して回ることだった。

ビンフォルド夫妻は茨城県下の伝道に従事していたが、フロイド・シュモーは、生涯を平和活動に捧げた森林学者だった。彼は、生まれながらのクエーカーの家庭に育ち、2回もノーベル平和賞候補に挙げられた。日米開戦後は、米政府の日系人強制収容政策に体を張って反対した。夫人のトミコには、広島への原爆投下のニュースを聞いた時には怒りと悲しみで、さながら自分の頭の上に原爆が落とされたように感じた、と言っていた。彼も、戦後、広島復興支援のため来日し、全てのアメリカ人が原爆投下を肯定しているわけではないことを伝えたい、と米国内で資金を募り、1953年(昭和28年)までに21戸の被爆者用住宅(Houses for Hiroshima)を建てるなど、ワーク・キャンプ活動も広めた。

シュモーの初回のワーク・キャンプに参加し、1951年にシュモーが来日できなかった時、代わりの代表として2人のヴォランテアを連れて来日したのがエモリー・アンドリュース(Andrews)だった。彼は、強制収容所に入れられた日系人を頻繁に訪問し援助した日本人バプティスト教会の牧師だった。日系人には、よく知られ、個人的な援助も惜しまず、収容所通いのころは、一家をあげて収容所の近くに転居していたほどである。

1942年2月25日、ターミナル島居住の日系人退去期限が大幅に短縮され「27日の深夜まで」に修正された。AFSCは、当初日系人の強制退去命令が起ころうとは考えてもいなかった。そこで、当局に強硬な抗議を行う一方、エスター・ローズ(Esther Rhoads)ハーバート・ニコルソンらは、彼らにできる限りの方法で、これら日系人を助けようとトラックを借り、荷物の積み込み搬送に精力的に奉仕したのである。

日系人は、プヤラップ(Puyallup, Wash.)、ポートランド(Portland, Ore.) 、メイアー(Mayer, Ariz.)の他、カリフォルニア州ではマリーズビル(Marysville)、サクラメント(Sacramento)、タンフォラン(Tanforan)、ストックトン(Stockton)、ターロック(Turlock)、メルセド(Merced)、ピンクディル(Pincdale)、サリナス(Salinas)、フレズノ(Fresno)、ツレア(Tulare)、サンタ・アニタ(Santa Anita)、ポモナ(Pomona)などの競馬場や市場、陸軍集合所などに設けられた集合施設(Assembly Centers) に一時的に集められた。

サンタ・アニタ競馬場に集められた南カリフォルニア在住日系人のため、ハーバート・ニコルソン夫妻(左の写真。前列右の二人、左は長女ヴァージニア)や長男のサムエル(Samuel:後列の右、左は次男ドナルド)は、この地をしばしば訪問し、奉仕していた。

1942年5月29日クラレンス・ピケット(Clarence Pickett)の提唱で、二世の教育を継続させる運動が推進され、学生転住委員会本部がフィラデルフィアに置かれた。フレンド派スワースモア大学(Swarthmore College)ジョン・W・ネーソン(John W. Nason)学長が会長に就任、大学学齢期に達した日系二世の子女たちを東部のカレッジに入学させた。

1944(昭和19)年、日系市民退去命令が撤廃された時、AFSCはロサンゼルスにセルフ・サービスの最大規模のホステルを開設した。強制収容されていた日系人が、従前の居住地に戻った時、仕事や住居を見つけたり、必要に応じて社会保障や法的援助が得られるよう、相談相手となって手助けをしたり、財産保護に関する手続など、積極的に手を差し伸べたのである。この間AFSCは、日系人強制収容所に入居させられた子供たちに、教育用品や玩具等を送り続けた。


これより先、1942年夏前、日系人の面倒を見ている米国人に、ロサンゼルス地区から動いてはならないとの命令が出された。ところが、ハーバート・ニコルソンは、日系人医師から医療器具をネバダ州に運び、連れて行ってもらいたいと再三懇請された。
ニコルソンは、AFSC迷惑をかけないよう、辞めて彼の単独行動とした。以後、太平洋戦争中、ニコルソンの本格的な日系人への無給の愛の奉仕活動が続けられて行く。

ほどなく、人が住めるか住めないか、ぎりぎりの(註:いずれの収容所も『神も見捨て給う土地: God Foresaken』に建てられた)土地、カリフォルニア州のマンザナ(Manzanar)ツール・レイク(Tule Lake)、アイダホ州ミニドカ(Minidoka)、ワイオミング州ハート・マウンテン(Heart Mountain)、アリゾナ州のポストン(Poston)ヒラ・リバー(Gila River)、ユタ州トパズ(Topaz)、アーカンソー州のジェローム(Jerome)ローワー(Rohwer)、コロラド州グラナダ(Granada)10ヵ所に建てられた日系人強制収容所には、最終的に西部四州の日系人総計11万2,581名が強制収容された。

マンザナ収容所(上のイラスト)の周囲には砂漠が広がっていた。横6m、縦30mのバラックが12戸二列に並んで建ち、それぞれの中央部分に、共用のトイレ、シャワー室、洗濯室が置かれていた。端の2戸は食堂とレクリェーション施設として使用され、残りの10戸が居住用で、各戸の入居者は5人だった。部屋は仕切りもなく、中央に裸電球が一つあるだけで、家具類は殆ど置かれていなかった。居住者には大きな麻袋が与えられ、わらをつめてベッド代わりに使用していた。250人ずつの大きなブロックが、全部で40区画の施設には、計1万人の日系人が収容されていた。

そのマンザナ収容所に移された日系人から、ハーバート・ニコルソンに来訪を求める手紙が届くようになった。だが、収容所訪問に許可が出たのは、1942年7月のことだった。許可が下りるや宣教師ハーバート・ニコルソンは、レンタルで馬車の荷台のようなトラック(右のイラスト:U-drive stake truck)を借り、寄贈された教会用の2台のピアノ、聖書、讃美歌、ベンチ、講壇等の他にも必需品に加えて、ロサンゼルスの公立図書館で廃棄された1トン余りの多量の書籍類を積み、妻のマダリン(Madeline)を助手席に乗せて出発した。

ハーバートは、レイ・ナッシュ(Ray Nash)所長に自分はクエーカーであると伝えると、彼は「フーバー大統領時代に、インディアン局で働いていたチャールス・ローズ(Charles Rhoads)ヘンリー・スキャタグッド(Henry Scattergood)を知らないか」と聞いた。ハーバート「二人とも親友だ」と答えると、彼は「あの二人が友人なら、私にとっても君は友達だ」と言い『この施設には、いつ、どんな時でも来訪を認める:To whom it may concern:―This will permit Mr. and Mrs. Herbert V. Nicholson and their three children to enter this camp at any time and stay as long as they wish. (Signed) Ray Nash, Director.』という証明書を作成し、署名してくれた。

ハーバート・ニコルソンが初めてマンザナを訪れた頃、幸運にも大学生たちが東部に移動することになった。そのためレクリェーション施設は、三区画ごとにプロテスタント教会、カトリック教会、仏教寺院に利用されたり、集会所図書室、教室等にも兼用されたりしていた。施設を去ろうとした時、ターミナル島で食料品や雑貨商を営んでいたトム・ヤマモトから、次回は彼の新車の小型トラックを売り、運送用トラックで、三家族の冷蔵庫やベッドなどの家具を運んできて欲しい、と鍵を渡された。トム・ヤマモトに頼まれた荷物をマンザナに運んだ後、再びホイッティア(Whittier)付近で倉庫代わりにされていた日本語学校に戻ると、盗難にあったり、焼かれたりしてしまっていた。

そこで、ハーバート・ニコルソンは、急遽西ロサンゼルス地区に住んでいた日系人の荷物を積み、マンザナへ向かった。三度目の訪問だった。トム・ヤマモトから寄贈されたトラックは、すでに2万5千マイル(約4万キロ以上)を走行していた。しかし、彼はこのダッジ型のトラックを使って、更に5万マイル(約8万500キロ弱)も走った。トラックを運転する宣教師になったのだった。

ハーバート・ニコルソンは、専門の運送業者ではなかったので、料金を請求することは法律上禁じられていた。だが、大抵の場合、依頼者が何がしかの謝礼を封筒に入れて渡してくれた。それでガソリン代を賄った。当時ガソリンの配給は、荷物の運搬のみに許されていた。けれどもハーバート・ニコルソンは、宣教師という立場から、ガソリン配給には余り強い制限を受けなかった。だから、トラック搬送の際、助手席には施設を訪ねたいという希望者二人が同乗するのが常だった。その中にはカービー・ペイジ(Kirby Page)、エスター・ローズ、スタンレー・ジョーンズ(Stanley E. Jones)などがいた。

スタンレー・ジョーンズは、インドで幅広い伝道活動を行ったメソジスト派の宣教師で、ラクノーを中心に伝道し、精神療養センターも作った。彼は、キリスト教をインド人の精神的な求めに対する成就という形で説いた。それが大きな反響を呼び、平和、人種平等、社会正義のスポークスマンとしても活躍、インドの独立を支援したことは有名である。

ハーバートサムエル・ニコルソンによれば、同行者との最も印象に残った訪問は、メソジスト派の宣教師として神戸に滞在していたロイ・スミス(Roy Smiths)を、マンザナに連れて行った時のことであった、という。ロイ・スミスは、日本が米国との開戦に踏み切った当日、神戸で起こった出来事について、日系人たちに講演を行った。彼は、敵性外国人として数名の米国人宣教師同様、日本の警察に連行された。だが、神戸商科大学の学生や周囲の多くの日本人が極めて同情的で、米国人を寛大に遇してくれたことを報告した。ハーバートが司会し、ロイ・スミスの講演を日系人女性の通訳者が日本語にした。講演会場は満席となり、会場外にも多くの人々が立ったまま聞いていた。プログラムの終わりにハーバート・ニコルソンは、宣教師として日本語で祈り、そしてその会を閉じた。これによって、集会全体の精神的な高まりを一層深め、多くの参会者に忘れ得ぬ感銘を与えたということだたった。


この訪問を契機に、ハーバート・ニコルソンは、アリゾナ州のポストンヒラ・リバーの収容所も訪問することになった。しかし、大抵がマンザナ(右の写真)往復だった。ハーバート・ニコルソンは、マンザナで移動図書館や教会を始めた。 一方、ある時、スタンレー・ジョーンズミニドカで日系二世たちのために二週間の伝道集会を開催した。

ハーバートも同行して、一世たちのために、講演を依頼された。日曜日の朝、最初の集会で、司会者は、ハーバートドクター・ニコルソン』と紹介した。それに対して、ハーバート・ニコルソンは、自分は神学博士ではなく、ただのハーバート・ニコルソンだ、と応えると、その場で、厳かに「名誉博士の称号を与える」などと紹介してもらい、満座の空気をなごませるような場面もあった。当日は一日に3度も話した。その週は毎晩講演した。のみならず、ハーバート・ニコルソンは、連続5日間、毎朝2時間ずつ、高校生クラスの若者たちに、日本の文化事情について講演する機会も与えられた。ミニドカの施設には講堂がなく、150人で満席になる食堂を会場としたので、毎日早朝の話になった。質問時間も設けられたため、時間は延長されるのが常だった。後日、アマチで同じ内容の話を高校生全員にも話した。生徒たちは、ハーバートプロ・ジャップ
(pro-Jap:日本びいき)と呼び「本物の日本人か?」と誤解されたこともあったという。

ロサンゼルスの日本語新聞羅府新報(らふしんぽう)』の編集者トーゴ・タナカ(右の写真:昨2009年93才で死亡。本ブログ7月掲載の追悼記事『マンザナ収容所を記録した男』を参照)は、後年ニコルソンは、収容所にトラックで荷物を運んだが、彼は多くの場合、喜びと希望とを運んだ。援助が必要な時には、いつも彼はそこにいた。彼はとても気さくで、活動的で、元気良くものごとを成し遂げる親切な人だった。彼と会った人々が、彼の微笑を忘れないように、私も彼を決して忘れないだろう。収容された多くの人たちに好かれ尊敬されたが、彼らはハーバートを愛した」歴史の証言の中で証言した。 (トラックを運転する宣教師」サムエル・O・ニコルソン、筆者訳、1993年7月20日発行『友』キリスト友会日本年会)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

初めて西部沿岸諸州に居住する日系人の強制立ち退きの話を聞いたのが1963年。以来、長いこと『全ての』白人が日系人を偏見の目で見て差別していたのだとばかり思っていた。
あれから30年経った1993年、初めて日系人を援助したアメリカ人が存在していたこと知り、我が無知を恥じ、同時に「渡る世間に鬼」ばかりではないことに救いを感じた。
この明暗、両極端の事実は多くの人々に知っていてもらいたい。手遅れにならない内に、、、。