2009年3月25日水曜日

ボブ・ホープ:『思い出をありがとう』

"Thanks For the Memory...(ホープのテーマ・メロディ)"
ボブ・ホープ(Bob Hope)
1903年5月29日ロンドン生まれ。長じてハリウッドへ来てボードビリアンから売り出した。

ラジオ、ブロードウェイの舞台、映画、戦場にいる兵隊への慰問旅行、1930年代から1990年代まで、60年余りも人気俳優として精力的に活躍した。アカデミー、オスカー授賞式の司会は絶妙で、1939年から1977年までの間に18回も務めた。皮肉なことに、ホープの演技はオスカーの候補にも昇らなかったが、最後にホープの功労を讃えて『映画芸術と科学の名誉アカデミー賞(the Academy of Motion Picture Arts and Sciences)』が授けられた。
また現役中、USO(United Service Organizations)将兵慰問の功績に対して『ジーン・ハーショルト博愛人道賞(the Jean Hersholt Humanitarian Award)』が与えられた。

2003年7月27日、100才と2ヶ月の長寿を全うして没した。

ボブ・ホープは若い頃二枚目を演じていたが、喜劇の方が性に合っていたようだ。彼の芸の決め手は、歯切れのよいジョークの連発が身上で、一言毎に会場の観衆を湧かせた点で群を抜いていた。その上、歌えて踊れて、という多才ぶりを発揮したのだから、並みの喜劇俳優で納まらなかったのは当然であろう。ベテラン人気歌手ビング・クロスビー(Bing Crosby)とコンビで続いた『珍道中』シリーズは映画ファンの語り草になった。

1975年頃、私はテレビのバライェティ番組、ボブ・ホープ・ショーの新聞広告の作成を担当していた。ショーの製作費や広告費は、私が勤務していた代理店の依頼主、フォード・モーター社がスポンサーとして負担していたが、ホープの広告デザインに関する限り異例で、最終的な承認許可は依頼主のフォードでなく、ショーの立役者であるホープが決済していた。その連絡業務を務めていたのがトム・デ・パオロ(Tom dePaolo)というベテラン営業員だった。広告物に対してホープが厳しく目を光らせていたのは、デザインの良し悪しは二の次で、賛助出演するゲスト・スター達の名前と写真の掲載状態で、それぞれの格付けに従って名前のタイプや写真の大きさがホープの指定で決められた。あのバライェティ番組はホープが70才台の絶頂期で一年ほど続き、大好評の裡に幕を閉じた。

あれから30余年、ホープの邸にお百度を踏んでいたトム・デ・パオロとも疎遠になったが、最近思い掛けず往時のホープの面目を彷彿させる『ボブ・ホープの人生』インタビューがeメールの転送で届いた。デ・パオロから似たような会話を聞いた記憶がある。もしかしたら、彼が送ったメールが回り回って私に届いたのかも知れない。

前もって二つお断りしておくことがある。一つは、ホープのジョークの殆どは、彼が抱えていたジョーク作家たちが創ったものである。時代に即した新鮮な話題の数々で同じジョークは二度と使われなかった。自身の創作ではなかったとは言え、全て記憶し、よどみなく歯切れよく観客を笑わせる芸は並大抵の技ではない。
時に例外があった。ホープがロンドンのトム・ジョーンズ(Tom Jones)のショーにゲストで出演した際、思い掛けず『立て板に水』のお喋りをトチった。その時ホープ、少しも慌てず「さっき楽屋に入る時、大勢のミニスカートの可愛い子ちゃん達に囲まれたんで、僕の舌もミニ舌になっちまった」とアドリブでその場をつくろい満場の喝采を浴びた。彼自身もジョークを創る才能を持っていたのだ。

二つ目のお断り。ジョークの翻訳は至難の業で、特に英語の語呂合わせを日本語にすると本来の洒落が消えてしまうのにはお手上げだ。必要に応じて解説を付けたがこれほど野暮なことはない。お許し召され。高橋 経 記

『ボブ・ホープの人生』について伺う

芸能人になったのは?
「僕が生まれた時、医者が母に『おめでとう。貴女の赤ちゃんは8ポンドのハム(の塊=大根役者)ですよ。』と言ったからだ。」

家族の貧困時代のこと憶えていますか?
「僕ら兄弟4人が一つのベッドに寝ていた。寒い晩には、母が別の弟を放り込んでくれたものだ。」

6人も兄弟がいたんですってね?
「いつも便所が立て混んで、待ってる間に足踏みしながらダンスを習得したよ。」

若い頃考えていた職業、ボクシングを何故諦めたのですか?
「リングの僕の手を駄目にしてしまった、、、レフリーが散々に踏みつけたから。」
(リングは指輪のリングとかけてある。何故床に
手があったか?倒されたから。)

ゴルフがお好き?
「ゴルフが本職だよ。芸能界の仕事はグリーンの費用を稼ぐためさ。」

授与されなかったアカデミー受賞式の時は?
「アカデミー受賞式へようこそ。でも家では『式』のことをパスオーバー(受け渡し。又、エジプト脱出を記念するユダヤ人の祝日)と呼んでいるがね。」

70才を迎えた時のご気分は?
「まだ女性の尻を追っかけていたよ。でも下り坂でだけでね。」
(『下り坂』は『走れる』と同時に『衰え』の意味も含む。)

80才を迎えた時のご気分は?
「僕の人生が充実した時だったね。誕生祝いの背広にアイロンをかけてしわを伸ばしたけどね。」(その背広は10年に一度しか着ていない。)

90才を迎えた時のご気分は?
「ケーキの値段より(90本の)ロウソク代の方が高く付いたんで、年を取ったことに気が付いたよ。」

100才を迎えた時のご気分は?
「年を取ったような気がしなかった。実を言うとお昼まで何にも感じなかった(のはそれまで寝ていたからか)。そしたら昼寝の時間になっていた。」

天国行きについてお考えですか?
「僕はあらゆる宗派に慈善を施しているよ。あの世の風紀を乱す気はないからね。」
(自ら『悪童』
気取っていた。)

ホープ、天国に到着

クロスビー:
「待っていた昔の悪友がやっと来たな。どれ又『珍道中』に出掛けるか!」
天国の番人:「ホープさん、兵隊達がお待ちかねだよ。」


2009年3月21日土曜日

ダーウインに影響された視覚アート

エドワード・ロスタイン(Edward Rothstein) NYタイムスから抜粋

ダーウインの肖像』ロウラ・ラッセル(Laura Russell)作;1869年

ダーウイン生誕200年記念および『種の起源(On The Origin of Species)』出版150周年記念に当たる今年、ここイェール・センター・フォー・ブリティッシュ・アート(Yale Center for British Art)で一風変わった美術展が開催されている。だいたい視覚芸術の作品は全てある意味で一風変わってはいるが、ここに展示されている作品は、その題材が変わっていることよりも、全てがある点で共通していることに特異性がある。その共通点とは、作者が意図した焦点ではなく、当美術館の学芸委員が特定の鑑識眼によって選定された作品その他の数々であることだ。『特定の鑑識眼』とは、作品の内容がダーウインの『種の起源』に刺激され影響されていると(中には一方的に)解釈されたものばかりである。従って展覧会のタイトルは題して『限りのない形体:チャールス・ダーウイン;
自然科学と視覚芸術(Endless Forms: Charles Darwin, Natural Science and the Visual Art)となっている。

出展物は、ダーウイン自身が航海中に集めた収集物、イェールのピーボディ博物館(Peabody Museum)所蔵の化石、鉱物、剥製その他、米英の博物館から借り受けたもの、それと個人の収集物から、などで構成されている。イェール・センターの担当キュレ−ターはエリザベス・フェアマン(Elisabeth Fairman)だが、元来はケンブリッジ大学(University of Cambridge)のフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum)が構成設定していたものである。ダーウィンが同大学の学生だった頃、その美術館から感銘を受け、その時の印象が後年ビーグル号で航海中に見聞し収集する時に影響を与えていた。

『種の起源』は殊更目新しい理論ではなくなったが、この展覧会場で作品を片端から鑑賞すると、その理論が全く違った角度から眺められ、少なくとも我々日常の観察眼が、ダーウインの視点を通して『進化』していたことに気が付く。

例えば、ピーボディ美術館蔵の作品、ガラパゴス島(Galapagos Islands)を主題とした小鳥のいる風景画を鑑賞する場合、普通だったら何気なく画の美しさだけ眺めて通り過ぎてしまう。これをダーウィンの『目』を通して鑑賞すると、その風景画から小鳥と環境との微妙な関わり合いを自然科学的に組み立てて観察するという視覚点の違いに気付くであろう。こうした鑑賞の姿勢で作品を眺めると、画面上の細部よりその背景にある文化に、題材の時代的考証より地理的な考察に、主題のありのままの姿より進化の背景や未来に思いを馳せ、思い掛けない発明や発見への道につながる糸口になるかも知れない。
ダーウィンは晩年「
(私が)膨大な森羅万象の真実を、機械的に分析し処理し体系付けていたことで、芸術の美を充分に享受できなかったことは嘆かわしい損失であった」と自己批判をしている。しかしこの展覧会の成果を高く評価する限り、彼の自己批判は杞憂に過ぎない。「真実を、機械的に体系付けた」この展覧会で、特にかくも多くの作品が集められ体系的に構成されたことは予期以上の驚異的な成果が達成できたと断言できる。

ダーウインの言う限りのない形体とは『自然』が過去に存在しなかった何かを次々と創造してきたこと:視覚は前世代に運命付けられた観念のように近代化を余儀なくされ続けてきた。しかしこの展覧会からは、失望とか皮肉の訴求ではなく、古くさい信念を排除し、知覚や感覚を祝福する輝かしい饗宴を発見できるであろう。

ケント、ペグウエル湾ーー1858年10月5日の思い出』ウイリアム・ダイス(William Dyce)作
[イギリス、ケント(Kent, England)沿岸で、画家自身は遠方に立ち崖の先端を見上げ、その家族はペグウエル湾(Pegwell Bay)の浅瀬で貝を掘っている。日没の明りに燃えた空にドナティ彗星(Donati's Comet)が尾を引いて流れ、200万年後に再び現れるまで宇宙の彼方へ消え去った。『種の起源』が出版された時と同じ1859年に描かれた。]


『(ガボン人の) 女をさらうゴリラ(穴居時代)』エマニュエル・フレミィ(Emmanuel Frémiet)作;1887年

原始時代のドーセット地方(An Earlier Dorset, England)』ロバート・ファレン(Robert Farren)作;1850年頃

『エミール・アバディ(Énile Abadie);犯罪者の顔』エドガー・ドガ(Edgar Degas)作;1881〜1881年 [フランス印象派『踊り子』で有名な画家ドガは、人間と動物の表情を比較したダーウインの学説に興味を持ち、このスケッチはその影響を強く見せている。]

『タスマニア人、ティミィの妻ジェニィの肖像(Portrait of a Tasmanian named Jenny, wife of Timmy)』トーマス・ボック(Thomas Bock)作;1837〜43年頃 [ダーウインの社会学説の中で、人種、種族によって『女性の美』に対する観念の違いを指摘している。]

病める猿』ウイリアム・ヘンリィ(William Henry)作;エドウイン・ランドシア(Edwin Landseer)撮影の写真から;1875年

カトレヤ蘭と3羽の蜂鳥(Cattleya Orchid and Three Hummingbirds)』マーティン・ジョンソン・ヘッド(Martin Johnson Heade)作;1871年

変形したポリプーー岸辺に漂い、笑うが如く奇怪なキュクロプス(ギリシャ神話の一つ目巨人族)』連作『原始人』の3枚目:オディロン・ルドン(Odilon Redon)作;1883年

レジナルド・サゥゼイ(Reginald Southey)と骸骨と頭蓋骨』ルイス・キャロル(Lewis Carroll)作;1857年作

ノミの頭部』レンズ・アルダス(Lens Aldous)作;1838年頃 [このポスター大に描かれたノミの頭部の詳細図は、ロンドンの昆虫学会で発表された。当時ダーウインは同会の副会長を務めていた。]

番外作品 

異端進化論』高橋 経作;1982年

2009年3月19日木曜日

玉本論文「どうした日本、どうする日本」を読んで

春めいて来たニューヨークにて 北村隆司(きたむら りゅうじ)
2009年3月10日 

玉本論文は「日本の近代化は、法社会制度から工業製品に至るまで、全てを海外から模倣したものである。日本人は自国の歴史に興味を持たない為か、維新までは厳しい階級社会であった事を忘れ、平等社会と安全が日本の伝統であるかの様な錯覚まで起している。それだけに止まらず、国民は国の年金や健康保険制度が長期的に破産状態にあるにも拘らず危機意識を持っていない。リスクを嫌う日本国民は進歩を求める変革より、周囲の人々が同じ様に不幸せであれば満足する傾向が強い。政策より政局に忙しい貧困な政治が官僚制度の跋扈を許し、統制による競争の制限と再分配の権力を有する官僚社会が日本の進歩を阻んできた。日本が模倣出来る外国が存在しなくなった現在、日本は個人の自主性と自由な発想を確立し、純血思想を捨て移民に門戸を開き、無から発想したアイデアを組み立てて新境地を開発しなければならない。他国からは自分が思うほど大国と評価されて居ない日本は、傑出したリーダーの下で、リスクを伴った改革を必要としている。このままでは日本の転落は間違いない。」と言う趣旨であった。

この論文を読んで先ず感じた事は「模倣の国、日本」と言う先入観を持った多くのアメリカ人に媚を売っていると言う印象である。玉本論文の趣旨に反対している訳ではない。氏の日本分析手法とレッテルの貼り付け方に賛成出来ないのである。

「日本は、官僚制度を打破して個人の自主性と自由な発想で転換する必要に迫られている。それにはリスクと傑出したリーダーシップが必要だ。」と言う主張は誠にその通りであるが、特に目新しい主張とも思わない。

福沢諭吉(右の写真は
慶應義塾大学にある胸像)の愛した言葉、「独立の気力のない者は必ず人に依頼する。人に依頼する者は必ず人を恐れる。人を恐れるものは必ず人にへつらう。そして人にへつらうことによって、時に悪事をなす。独立心の欠如が結果として、不自由と不平等を生み出す。学ぶことの目的は、まずは独立心の涵養である」は自主性と自由な発想の確立を訴えた言葉である。

リスクを伴う日本の改革の必要性は「最早戦後ではない」と言う結語で有名になった1956年の経済白書で、簡潔且つ明快に指摘した事であり、IT時代初年に当る2000年の経済白書の巻頭言で、当時の堺屋太一経企庁長官がその必要性を強調した事でもある。 主観に基ずく比較論には余り意義はないが、玉本主観と私の主観の違いを述べてみたい。

欧米に比べ産業革命の導入が1世紀遅れた日本の工業化が遅れた事は批判しても始まらない。その現実を踏まえて論議すれば、日本の近代化は模倣どころか世界でも稀な独創的手法で行われた。黒舟来航や3国干渉など外圧が在った事は認めるが、鎖国政策の廃止と天皇制の復活は、日本国内の自由で激しい論争と内戦の犠牲を払った上での選択であった。重要な事は、鎖国の廃止と倒幕の目標は自ら選択した日本の近代化であり、他国を模倣した選択ではない事だ。

もう一つの特徴は、巨額の費用を払って海外諸国に多数の留学生を派遣して、欧米諸国の長所と短所を比較させた事である。換言すれば巨大なソフト投資を実行したのである。男尊女卑の色濃い時代に、58名の国費留学生の中6歳の幼気名津田梅子など5名の女子を選抜した黒田清隆(くろだ きよたかの写真)の様な先見性に富んだに指導者もいた。当時、此れだけ巨額な予算を指導者養成と言うソフトに投じた国家が実在したとしたら、教えて欲しい。

身分と貧富の差の厳しい封建制度から、前例のないスピードで日本に多数の中産階級が生まれた裏には教育重視による識字率の向上があった。日本の百年前の識字率に今でも及ばない現在の米国に、当時の日本の政策を模倣するよう奨めたい位である。

1914年に勃発した第一次大戦に参戦した日本軍の武器は殆ど輸入品であった。処が、その四半世紀後の第二次大戦では、殆ど全て国産の武器で戦った。この日本の工業力の急速な進歩は、基礎産業と技術を優先した政策の成果で、当時としては極めて特色のある政策と言える。

国領慶大教授も指摘している様に、戦後のアジアで早く工業化に成功した国は「Country First」の日本型政策を踏襲した諸国で、欧米的「Individual First」を採用した多くの国は腐敗が蔓延する結果を招いた。

日本が導入した欧米各国の法社会制度や生産方式は、遅れた農業国日本をアジアでは進んだ工業国に、前例のないスピードで変換した周到に準備された政策のマスター・プランに基ずいて部品として輸入されたものである。それらの部品は、日本的なシステムに融合されて力を発揮したのであって猿真似ではない。その点で、ステイーブン・ジョブ(Steven Jobs 右の写真)と言う傑出した指導者の全体俯瞰図を基に、海外製のハードで固めたiPodの開発方式は、日本の近代化手法に極似している。

玉本氏は日本人の独創性の欠如を強調するが、此れもステレオ・タイプ的発想に思える。科学部門のノーベル賞受賞者を独創的発想の持ち主とすれば、1901年の第1回ノーベル賞の例を挙げたい。医学生理学賞を受賞したエミール・ベーレン(Emil Adolf von Nehring左の写真の左)は北里柴三郎(きたざと しばさぶろう左の写真の右)が主導した研究の共同研究者であった。研究の主導者であった北里博士が受賞できなかった理由が人種差別の結果であった事はノーベル財団の証拠で証明されている。其の後も、鈴木梅吉(すずき うめきち)、高峰譲吉(たかみね じょうきち)、野口英世(のぐち ひでよ)など言葉や人種上の障害で受賞を逃がした日本人学者は多い。

日本の産業は外国の後追いに過ぎない例として、フォードの自動車大量生産方式、テープ・レコーダーの発明、ソニーのウォークマン等を挙げているが、これ等は比較不可能な異質な事例で、なにを指摘しているのかさっぱり理解出来ない。

日本は、独創的な発明、革命的な生産技術の開発、消費者の夢を満たす製品の開発などの分野で、それなりの貢献をした事は間違いない。一方、玉本氏が日本の閉鎖的で記憶主体の教育制度や過度な官僚の干渉を改革すれば、その貢献は飛躍的に増す筈だと批判されるのであれば、全くその通りである。


TVAに至っては、朝鮮窒素が創設した水豊ダム(左は建設中の写真))を中心とした大コンビナートのビジネス・モデルの完全模倣と言っても良い。この大コンビナートは、現在のチッソ、旭化成、積水グループ、信越化学の母体を作った不世出の起業家であった野口 遵(のぐち したがう)と戦後「日本工営」を設立して日本国内は勿論、海外諸国でも次々に大型ダムの設計、監督を行った久保田豊と言う偉大な技術者の共同傑作であった。

TVAを象徴するウイルソン・ダムの完成より数年前に完成した水豊ダム(右は完成したダム)は、コンビナートの中心として、当時の日本全体の発電量の20%を超える世界最大規模の発電を担い、東芝の製造した発電機は当時世界最大容量を誇った。朝鮮窒素の大コンビナートが完全な民営であったのに対し、不況対策として創設されたTVAが国営であった事は、現在の日米の現状を考えると如何にも皮肉である。

日本が国家運営をソ連に学んだ等とは滑稽千万としか言いようがない。

玉本氏は日本を安定志向国と批判しながら、北欧の高負担高福祉政策を批判しない事も腑に落ちない。セーフティ・ネットを無視するアメリカ式ビジネス・モデルに、かつての輝きはない。世界の大多数は貧富の格差の小さい国家を志向して居り、GINI指数で測ると日本は世界のトップで北欧各国がそれに続く。その点、日本は世界の見本であり、格差の小さい事自体は玉本氏の言うほど悪いものではない。

いずれにせよ、玉本氏の挙げた具体事例をあげつらって反論するのが目的ではない。又、各国のビジネス・モデルを対立軸に置いて排他的に比較する事も非生産的である。私は、不況期にはケインジアン的政策を取り入れ、競争促進には米国的自由競争社会の思考を取り入れるなど、異なった理念、異なった制度を時に応じて併用する時代ではなかろうか。


一方、玉本氏の指摘に在る通り、日本の安定志向、官僚独裁体制、純血主義、先例主義は余りに度が過ぎており、猛反省をしなければならない。結果平等主義の行き過ぎを改め、機会平等主義を奨励し、権利章典の伝統を持つ米国のデリケート・バランスを重んじた判断手法を取り入れる等、日本の将来の為にアメリカから学ぶべき事は極めて多い。


小泉改革に代表される日本の改革に対する批判の幼稚さは、中川泥酔事件より恥ずかしい。私は税制と財政を工夫した中福祉、中負担の福祉政策の下で、規制は最小に抑える自由経済型の小さな政府を信奉している。その点、玉本氏の主張には一理ある。

我々の孫の時代を考える時、日本が大改革を必要としている事は間違いない。一方、玉本氏には保守的な日本人を説得する為にも、アメリカン・モデルが常に正しいとの前提で日本を一方的に批判する事は控え、冷静で客観的な論陣を張って欲しいと願って止まない。

2009年3月16日月曜日

知られざる新名所『落ちる涙』

エド・マンサー(Ed Manser)

例の多発テロで世界貿易センターが倒壊された2年後に、その記念碑として『落ちる涙(Tear Drop)』タワーが建立されたことをご存知だろうか?
友人が報せてくれるまで、私はこの『落ちる涙』タワーのことは全く知らなかった。新聞、雑誌、テレビのニュースは欠かさず目を通しているが、それとも見落としたのか、マスコミでは紹介しなかったように思う。

いずれにせよ、このタワーは報道する価値が充分にあると信ずる。タワーが設置された場所は、自由の女神から湾を挟んで8キロ南西のニュージャジー州ベイヨーン(Bayonne)のリバティ・パーク(Liberty Park)である。
これが問題の『落ちる涙』タワー。2001年9月11日(ナイン・イレブン)の犠牲者に捧げ、反テロリズムの宣言を添え、ロシア人の手で建立された。9階建ての高さで自由の女神と肩を並べられるという印象的な作品だ。
ロシア国民からの贈り物で、作者はズラブ・テサレテイ(Zurab Tesereteii) 反テロリズム宣言

石の歩道












ナイン・イレブンの全犠牲者名が、ちょうどワシントンにあるベトナム記念碑のように、礎石部分の黒曜石の表面に刻まれてある。(左上は石だたみ;右は犠牲者名)


















その日は寒風が吹く冷たい日だったが、わざわざ出掛けた価値は充分にあった。(左上はタワーの礎石を含む下半分;右はタワーの『涙』が落ちる上半分)そこは埠頭で『女神』が遠くに眺められる。

2009年3月13日金曜日

GM(ゼネラル・モーターズ)の迷走

高橋 経(たかはし きょう)ロビンフッド、ミシガン州

天声人語子曰く、、、
3月8日付けの朝日新聞の天声人語子は「GMが生んだ(アメリカで唯一無二の)スポーツカー、コルベット(右の写真)」のこと、その当時が「アメリカ(企業)の青春で米国経済が若々しかった」こと。「それから半世紀を経て、(昨今)GMは『事業を続けるには疑念がある』という年次報告書を当局へ提出した」こと。ーー(中略)ーー そして「(GMという)巨大企業は、経済危機の『火元責任』を一身に負うかのように、存亡の岐路に立ち、逆風を切り裂いて走り続けるのか、修理場へと消えるのか。GMの命運もまた、それひとつで危機の眺めを一変させる。」と結んでいた。

私はこの寸評を読んで、天声人語の筆者のような日本の知識人が、巨大企業とはいえ『対岸の火事』であるアメリカの一企業の存亡に関心を寄せていることに奇妙な感慨が蘇ってきた。それは、GMの勃興と衰退の歴史であり、また私が10余年間、間接的とはいえGMの碌を食んでいた体験の回想でもある。

輝かしくも波乱に満ちたGMの勃興
GMの創業は1885年、若冠25才のウイリアム・デュランが(William C. Durant左の写真)J.ダラス・ドート(J. Dallas Dort)と共同で始めたデュラン+ドート馬車製造会社に端を発した。それはミシガン州のフリント市、デトロイトから約80キロ程北にある工業都市だった。デュランの信念は『販売から製造へ』で、フォードの戦略と正反対だった。つまり、『需要』が先に立ち、それを満たすために『供給』するという考え方である。デュラン+ドート馬車会社は創業以来15年目に日産200台の量産をする大工場になっていた。同時代、20世紀が始まる1900年頃には群小の自動車製造が苦闘していた。自動車の実用化は時間の問題で、遅かれ早かれ馬車は駆逐される運命にあった。デュランは、時代の成り行きを先見し、馬車製造の設備を利用して自動車製造に切り替えた。1904年、先ず年産たったの28台で破産した小自動車会社ビュイック(Buick)を買収し、自動車製造のノウハウを手中に収め、4年後には年産8,847台(対してフォードは6,181台)という最大の自動車会社に成長させた。勢いに乗ってオールズモビル(Oldsmobile)、キャデラック(Cadillac)、ポンティアック(Pontiac)も買収し、1908年、今日のゼネラル・モーターズ(General Motors)の母体を築いた。好事魔多し、上げ潮の時は乗っていたが、1910年前後の引き潮につまずき、会社は銀行に乗っ取られ、GMの内部組織は分裂していた。苦闘中のデュランを救う神となったのがシボレー(Chevrolet)で、1915年までにシボレー会社を大会社に育て上げ、それを切り札にGMを買い戻しコーポレーションに昇格させた。 デュランは、更に各種の部品会社も買収し、その内ベアリング会社の社長アルフレッドP.スローン.ジュニア(Alfred P. Sloan, Jr.下右の写真)を引き立て、新会社ユナイテッド・モーターズ会社の社長に任命した。しかし1920年代から1930年代にかけての経済恐慌と相俟ってGMも破産寸前に追い込まれ、会社を救う代償として、デュランは退き、彼の時代は終った。 スローンがGMの社長に就任したのが1923年、それまで合併続きで寄り合い所帯のまま混沌としていた集合体企業を、彼は組織的に改革し、その後の33年に亘る在任中に着々と世界にまたがる確固とした巨大企業GMの基礎を築き上げた。

第二次大戦:戦前、戦中、戦後のGM
スローンの経営は、時代の変貌に短期で対処できる陣容を整えていたことに特長がある。1936年に自動車労働組合(United Automobile Workers Union)が創立された時、フォード(Henry Ford)が組合を弾圧しようとしたのに反して、スローンは組合と協調した。真珠湾攻撃に端を発して日米戦が始り、軍需車両が必要になった時、GMは軍部から受けた80億ドルの注文を遅滞することなく納入した。大戦が終わり、軍需が下火になり乗用車の需要が見込まれると、GMは他社に先駆けて製造を開始し新車を送り出した。

米国経済の青春:GMのコルベット(Chevrolet Corvette)
戦後10年以内にGMは、高級車からファミリー車、大型小型のトラック、あらゆる需要に応じられる車種を生産していた。たった一種欠けていた分野は、アメリカで採算がとれる見込みがなかったヨーロッパ製並みのスポーツカーだった。それを敢えて1953年の自動車ショーで実験的プロトタイプとして板金の代わりにファイバーグラスを使った車体のコルベットを出品した。結果として多くの観客から絶賛され、経営陣は採算無視の覚悟で315台だけ生産した。基本価格は3,513ドル、当時キャデラックが5,000ドル前後、乗用車が2,000ドル前後だったから、スポーツカーとしては妥当な価格だった。以後半世紀余り、現在でもコルベットはスタイルを変えながらアメリカ唯一のスポーツカーとしてGMの栄光を受け継いでいる。

GMのつまずき:欠陥車
1950年代の後半、フォルクスワーゲンを筆頭とする輸入小型車の売り上げが増加しつつある傾
向を重視し、一家で2台目,3台目の需要を見込んだGMは、それに対応する経済的コンパクト車1960年型コルベア(Corvair)第一号を発売した。この計画が当たったまではよかったが、不幸にしてコルベアの機械的な欠陥が原因で事故が続出した。その事故の多くが裁判沙汰となり、賠償金はともかく、コルベアの、そしてひいてはGMの評判を著しく傷つけた。

消費者擁護運動とGM
1966年、若い弁護士ラルフ・ネィダー(Ralph Nader)(左写真)は、上記の訴訟事件に強い関心を持ち『高速低速どのスピードでも不安全(Unsafe at Any Speed)』という本を出版した。その本でネィダーはGMの産業上の無責任行為を糾弾し、被害者には公正な補償をすべきで、今後欠陥車を皆無にする要求を強調し「コルベアの欠陥は悲劇である。悲劇はメーカーがコストを抑えるために不完全な機械を作るという過ちを犯したことである」と書いた。言い換えると、GMではコストを抑えて利益の増大を図れという至上命令が技術的な完成度を犠牲にさせたことを暴露したのである。GMの幹部は、ネィダーを逆恨みし、何者かに脅迫電話をかけさせたり、尾行させてネィダーの欠点を探し出し、彼を社会から抹殺しようという企みまで明るみに曝され『欠陥車』の恥を更に上塗りしてしまったのである。ネィダーを旗手に、消費者運動が台頭してGMを槍玉に、他のメーカーも糾弾した。

輸入車攻勢
1983年、自動車専門の評論家ブロック・イェィツ(Brock Yates)が『アメリカ自動車産業の衰退と没落(The Decline & Fall of the American Automobile Industry)』という本を書いた。1983年というと、現在ほどではなかったがちょっとした不況で、車が売れないことが大きな話題となっていた。反面、日本の車が性能、品質ともに確実に高い評価を受け、着々とアメリカ市場を切り崩している時期でもあった。イェィツの分析したアメリカ自動車産業の問題点はGMだけに止まらず、ビッグ・スリー全ての企業に共通した経営陣の弱点を指摘した。弱点とは、幹部社員達の勢力争いが第一に挙げられる。一例が、ポンティアックやシボレー部門のマネージャー、明敏で辣腕、しかも美男子のジョン・ディロレアン(John Z. DeLorean)が次期社長候補と噂されていたが、結果として社内抗争に敗退して退社した。後に自分の会社を作ってスポーツカーを製作したが、思惑通りに売れず破産した。それはともかく、ディロレアンが書いた本『晴れた日にはGMが見える(On a Clear Day you Can See GM)』の中でGMの経営陣が『品質管理』を軽視し、勢力争いに確執している実態を綿々と書き連ねていた。

電気自動車を完成し、抹殺したGM
この経緯については既刊のブログ『経済危機』の一部で紹介したから多言は避ける。GMの電気自動車は『実験的』にサターン部門(Saturn Division)の特別チーム(右写真)で1996年に完成し『EV1(Electric Vehicle 1)』と名付けられた。限定生産の約2,000台は、排気規制が最も厳しい南カリフォルニアで抽出した2,000人のドライバーにリースされた。彼らはその性能、乗り心地、静かな動力部、単純な構造、全てが気に入ってしまった。 それを知ったGMの経営陣は、その成功を喜ぶより、それを量産することによって起こる帰着性を思い恐怖におののいた。何故?自動車メーカーの裾野は広い。電気自動車が一般化したら、内燃機エンジンを始め、バッテリー、スパークプラグ、その他諸々の自動車部品メーカーの供給が悉く不要になる。部品だけではない、ガソリンも要らなければ、全国至る所で営業している何千何万という給油所も不要になる。従って販売の大半を自動車燃料の消費に依存している石油会社も莫大な利益を放棄せざるを得なくなる。消費で成り立っているアメリカの経済は混乱崩壊し、百万人単位の失業者がでる。 従来の企業政策を温存するため、2004年GMは、当時のブッシュ政権(George W. Bush)に働きかけ、カリフォルニアの排気ガス規制を骨抜きにし、同時に電気自動車を作った他社(フォード、トヨタ、ホンダ)と語らって彼らの新製品を抹殺することを同意させた。2,000人のドライバーの抗議も空しく、リース切れが縁の切れ目、まだピカピカのEV1は、一台残らず回収され文字通り粉砕されてしまった。

GMの将来、そして我々の将来
世界の巨大企業GMは、今苦境に立ち政府に泣きついて巨額の借款を申し入れている。GMの将
来に疑念を持つ議員たちは、返済の見通しもない金を貸すわけにいかない、と強硬に反対している。 これはあくまでも私見だが、GMは破産するか、企業規模を極端に縮小して電気自動車を生産するか、の二つに一つしか将来はあるまい。GMだけではない。車の需要は頭打ち、競争は激しく、生産過剰のツケがどのメーカーにも廻ってきた。そのために多くの失業者がでるであろう。彼らの生きる道も、従来の自動車産業に頼るのではなく、新しいエネルギー開発とか、環境浄化の仕事とか、全く別の消費経済を否定できる道を探さねばなるまい。そうした未知の新生への人生転換が容易でないことは充分に承知している。しかし、我々が経済危機から脱して、人類の未来を築こうという意欲があるなら、この重荷から避ける事はできない。

これがオバマ大統領が掲げる『チェインジ(change)』するの為の産みの苦しみと思って我々は多かれ少なかれ耐え忍ばなくてはなるまい。

2009年3月8日日曜日

幻惑(Illusion)のグラフィックス

直線が撓んで見える、同じ大きさのモノが違って見える、平面上の立体がねじれて見える、、、それは貴方の視力が弱いからではありません。単なる錯覚なのです。貴方の目が正常の視力を持っているからこそ、錯覚に陥るのです。下の例は、そのホンの一部ですが、視力の自信を失わずお楽しみください。

1. この本は本文の側ですか、表紙の側ですか?

2. 紫色の平行した2本の線は撓んでいますか?

3. コンクリート・ブロックをこのように積むことはできますか?

4. 三人の兵隊の内、一番背が高いのは誰ですか?

5. このグラフィックはどのように動いていますか?

6. 白い交叉点に何か見えますか?

7. このパターンの中央にある4つの点を30秒見つめてから、
何も無い壁に視線を移してください。
何が見えましたか?

次の3点は質問抜きで、それぞれ見方を変えた立体を観察してください。 いずれもヴァサァリィ(Vasarely)作



答え

1. どちらでもあり、どちらでもありません。
2. 平行線は直線です。
3. できません。
4. 三人とも同じ丈です。
5. 動いていません。
6. 交叉点は矢張り白です。
7. キリストの顔が見えるでしょう。