たまもと まさる:横浜
3月2日、ニューヨーク・タイムス、欄に掲載
[筆者はWorld Policy Instituteのシニア・フェロウ(senior fellow)]
3月2日、ニューヨーク・タイムス、欄に掲載
[筆者はWorld Policy Instituteのシニア・フェロウ(senior fellow)]
最近、日本が国際舞台で注目された、、、少なくともそのように見えた。米国務長官ヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)が、オバマ政権の代表として就任後初の海外歴訪の皮切りに東京に立ち寄り、先週、麻生太郎首相ほかの閣僚と会見した事である。(写真上)この訪問は、アメリカ政府が日本を世界で二番目に強力な経済大国と認めているかのような印象を与えた。但し、我々自身が同様の見解をもっているとしてのことだが。
実情の日本は麻生首相の支持率が11パーセントに落ち込んでいるという惨めさにあり、自民党は無秩序の混沌状態だ。先代の首相は一年そこそこの任期で退場した。対する民主党もあまり期待できない状態だ。それは、日本が官僚政治に傾いてきたことが主な理由である。政府の方針があらゆる管理上の問題ーーしばしば派閥主義や予算の過保護を伴って反発したり反復する政策ーーにばかり没頭しているからだ。
殆ど利用価値のない飛行場や道路建設につぎ込んだ予算は正当に還元されていない。G7会議で酩酊の上醜態を曝け出した財務長官もいた。だが、我々の問題はもっと深刻で、政党に官僚を制御する能力がなく、その改善を国家の重要な協議事項に加えようともしない事態にある。
困ったことに、国民一般が我々の危機は、貧困政治のせいではなく心理的なものだとしか認識していないことである。第二次大戦における侵略的な行動ーーそれに続く敗戦ーーの後、国家の目標を『安全』と『見通しのきく将来』に設定した。官僚はその気運に乗じて国民の生活の細部に亘ってコントロールするようになった。我々は、終身雇用の国となり、企業システムは安定した労使協調の線を守り、同じ程度の生活を営んでいる中産階級が国民の中核となった。
保守的な学者たちは、こうした平等性、同様性が『日本人』の伝統となり礎石の役割を果たしている、と公言した。ナンセンスの一語に尽きる。日本の歴史を顧みると、階級制度と、富と、権力の不平等が常につきまとってきた。累進課税、財産の再分配、助成金制度、規制による競合の廃止、など『平等主義の日本』は1970年代の産物である。この主義は財産価値のバブルが崩壊した1990年代までは順調に運営されていた。今日、身動きならなくなった日本人は、周囲の人々が同じ様に不幸せである限り満足している。
19世紀の中頃以降、我々が外国のお手本に依存していた間は日本の経済は健全だった。社会福祉のお手本はドイツのビスマルク(Bismarck)から、国家の運営法はソ連から、公共事業はアメリカのテネシー・ヴァレィ事業局(The Tennessee Valley Authority)から、自動車の量産はフォード(Ford)から、といった具合である。日本の革新的な製品の殆どは、他国で発明された製品に改良を加えたものに過ぎない。ソニーはウォークマン(Walkman)で成功したが、テープ・レコーダーの発明はしていない。日本の経済発展は先進国に追いつく事から始まった。
では、一旦追い付いたその後は?過去20年間、その答えはおおむね麻痺状態だった。日本が海外の製品を模倣する能力は『開発』と誤解されてきた。もし『開発』という言葉が、望ましい将来への視点を追求する、というのが正しい意味だとしたら、日本は一向に発展していなかったことになる。我々が解釈していた『開発、発展』が「注文を受け、生産し、発送すること」だったなら、それは今停滞してしまっている。
一方西欧では『開発』とは個人の自主性と自由な発想を確立することだ、と考えられてきた。日本では、官僚が一般個人の自由と引き換えに安全と将来性を与えることを規制してきた。問題は現在の政治指導者たちが、彼らが提示した公約を果たす能力すらないことである。雇用の安全確保は最早保証されていない。国家の年金や健康保険計画は長期的に破産状態にある。今や、国民は生活が不安定で不平等だと感じ始めた。
絶望感の兆候が至る所に現れている。自殺の率は富裕国の内で最高の数字を記録した。10代から40才台までの間で『引きこもり』族は100万人を越えている。彼らは何年も自分の部屋に『閉じこもり』しばしばそのまま誰も気付かぬ内に死んでしまうことすらある。『親がかりの独身』者たち、そして結婚せぬ成人たちが増えている。しかし最も深刻な問題は、減少する人口と、増加する老化人口である。この傾向が続くと、現在1億3千万人の50才台が50年後には9千万人に減少し、その頃には日本人の40パーセントは65才以上になる、と予想されている。
もし国家として存続したいなら、根強い(外国人の)移民を拒否する思想を捨てることだ。広く信じられている日本人を『純血』に保とうという偏見的な思想を廃して、我々の『血』を『不純』に薄める必要に迫られている。老化する我が国は、中産階級で大学教育を受け、生産性が高く、日本に永住して家族を築く覚悟の外人移民が何百万人も必要となり、彼らの誇りと成功が新日本の価値を決定付けるであろう。
日本は転換を迫られている。当然ながらリスクもある。官僚が管理する国家ではリスクを冒す行動は一般的ではない。日本の海岸には『監視救助員は不在。泳ぐなら自分の責任で。』という標識は見当たらない。もしそのような標識が立てられたら、日本人は多分役所へ問い合わせて安全を確かめるであろう。こうしたリスクを避ける傾向は、保護政策や島国政策にも当てはまる。例えば農林省は、食料の保有量を常に充分以上に確保したがる。日本のニュース媒体は、率直な意見や異論を唱えることを控えているように見える。
とは言うものの、歴史を振り返ってみると、日本人がリスクを恐れる人種だという考え方は、良きにつけ悪きにつけ絶対的信条ではなかった。真珠湾を奇襲したことはたいへんなリスクだった。事実、今日の日本人の積極性は、第二次大戦中に冒した日本の愚かな行動から学んで計算された当然な解答であった。しかし今日、これまで強調されていた『安全』と『保証』は疾っくに時代遅れになってしまっている。
最早、模倣のお手本にする外国は存在しない。我々は、革新性、野心、そして積極性を基礎に、無から発想したアイデアを組み立てて開発しなければならない。それにはリスクが伴い、傑出したリーダーシップが必要だ。
もし中途半端な代替案に甘んじていたら、今のまま下り坂を転げ落ち続けるしかない。
1 件のコメント:
昔から「過ちを正すに憚る事なかれ」と我々は教えられています。でも同時に我々は、過ちを指摘されることを嫌い、現在の生活を転換することを躊躇する傾向があります。
とにかく「思い切り」の覚悟が必要ですね。
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