2012年8月27日月曜日

ちょっと気になる蒐集家


ミズーリ州セントルイス市のグラフィック・デザイナー、ジョン・フォスター( John Foster)は、奥さんのティーヌ(Teenuh)と、長年『ちょっと気になるモノ』の蒐集にはまってきた。それは『素人絵画』だったり、『ある地方固有の題材』を撮った写真だったりした。夫妻の蒐集は、移動展で発表されたり、ハーパー(Harper’s)とかニューズウイーク(Newsweek)などの大雑誌に掲載されたりした。2005年に、アート・アンド・アンティック(Art & Antiquesアートと骨董品)誌では、フォスターをアメリカで『蒐集家トップ100人』の一人に選んだ。


現在、ジョン・フォスターは、美術と文化環境を保存することを基本的な方針にしている財団、スペース(SPACES:宇宙)の常任委員を務め、アメリカ郷土美術協会(the Folk Art Society of America)の顧問委員も務めている。
フォスターの蒐集品は、彼のブログでも見られる。編集:高橋 経


こわれた傘のいろいろ

壁に下がる家族のスナップ写真

アンクル・サムのモザイク

鳥のタマゴいろいろ

顔写真の分析

目の玉のいろいろ

古ぼけたコサージ

ハチの巣

中身不明のビン

抜けた歯;主に臼歯

不明

シンボルの活字

各地方から警察官のバッジ

飛行機の切手

目撃者の記憶を頼りに作成したUFOの報告


2012年8月14日火曜日

雨の風情はモノクロで


世界的に異常気象が広がっているようだ。日本では梅雨が洪水をもたらし、アメリカでは広大な地域が干魃で不作が予想され、農産物の値上がりがささやかれている。その一方で、豪雨で町が水びたしになったと大騒ぎをしている地域もあるという有様だ。如何に科学が発達しても、天然現象だけは人力の及ぶところではないらしい。
異常気象はさておいて、雨もほどほどに降ってくれると風情がある。水溜まりも飛び越せる範囲なら苦にならない。傘も暴風に吹き飛ばされない限り、ロマンチックなアクセサリーにもなる。
そうした『お湿り』程度に優しい雨の風情を捉えた写真が世界各地に散見できる。その風情も、何故かカラーでなくモノクロ写真の方が似合っているように思えるが、いかがなものでしょうか。 編集:高橋 経

Piero Damiani 撮影

Shawn Jennings 撮影

Felipe Acevedo Orozco 撮影

Gabriela Prattingerová 撮影

Drew Bryden 撮影

Steve Lundeen 撮影

Francesco Baldiotti 撮影

Steve Lundeen 撮影

Nathaniel Smith 撮影

Paolo Carmignami 撮影

Sharon Pilkey 撮影

Jason van der Valk 撮影

Rafa Morales 撮影

Leandro Discaciate 撮影

Rudy Hakeem 撮影

Mahesh Balasubramanian 撮影

これが元の写真で、反転させた上掲の写真は撮影者の意図による。

Sungjong Kim 撮影

2012年8月9日木曜日

アフリカからの長い長い旅

志知 均 (しち ひとし)
2012年7月

少し前、CNNニュースが150人の難民を乗せた船がオーストラリア沖で救助されたと報じていた。この難民は中近東の戦火や飢餓を逃れてオーストラリアに安住の地をもとめた人たちである。このニュースを見ていて、5万年以上昔にやはり中近東から東南アジアへ移動し、オーストラリアへたどり着いたわれわれの祖先の原始人のことに思いをめぐらせた。

ネアンデルタル人
ヒト(Homo sapiens)の起源がアフリカであることは現在広く認められている。類人猿が二本足で歩くようになったのが300万年以上前で進化してH. erectusになった。


ハイデルベルグ人
H. erectusからはヒトのほかにハイデルベルグ人(H. heidelbergensis)ネアンデルタル人(H.neanderthalensis)などいくつかのHomo種が分化したがすべて絶滅している。現在70億人まで増えたヒトも10万年以上前の氷河期には絶滅の危機にあったといわれる。

それが生き延びてどのような道筋をたどって地球全体にひろまったのかの問題には私はかねがね特別興味をもってきた。前世紀の中頃までには考古学者による骨や化石の研究や発掘したものの年代測定からだいたいの道筋はわかっていた。近年になって遺伝子(DNA)研究が進み、現在世界に散在するヒト達の遺伝子(特に母性遺伝するミトコンドリア遺伝子と父性遺伝するY染色体遺伝子)を調べることで考古学的研究を裏ずける証拠がいろいろ見つかってきている。そこで私の想像を加えてヒトがアフリカから出てひろがった道筋をたどってみよう。
考古学者はH. sapiens原始人をほかのHomo種と区別するためAMH(anatomically modern human、解剖学的に近代人)とよぶが、この小文ではヒトで統一する。ヒトがアフリカから移住を始めたのは6万年以上昔である。アフリカのどこから出たかについてはいろいろ可能性があるが、エチオピアから紅海を渡ってイエメンへ行くのが主要経路だったようだ。そこからアラビア半島を北上して現在のイラクに達する。余談になるがこのあたりはよほど住みやすかったのか、ここに落ち着いたヒトの一部は後世(4400年位前)チグリス河とユーフラテス河に囲まれた地域(上の地図の⭕)にメソポタミア文明を開化させた。西に向かったグループも後世(3700年位前)にナイル河流域にエジプト文明を築いた。 

中近東に定住しなかったグループの一部は更に北上して西ヨーロッパロシアへと広がっていきヨーロッパ人の先祖になった(上図のピンクと青い線)。また他のグループはペルシャ湾東岸(現在のイラン)からインドへ入りおそらく海岸沿いにインドを回って東南アジアへ達した(上図の黄色い線)。この移動には小船による海路の航海もあったに違いない。さらに東進してインドネシアを経由し、今から5万年前にはオーストラリアに到達している。東南アジアに定住したヒトの一部はここから北上するのだが、その話をする前にヨーロッパ人の祖先になったヒトのグループのことにふれよう。


ネアンデルタル人の家族
ヒトがアラビアから北上した時、ヒトに遺伝的に最も近縁のネアンデルタル人と接触する。ネアンデルタル人の祖先はヒトと同じようにH.erectusだが、ヨーロッパでネアンデルタル人に進化したようだ。20万年以上ヨーロッパを占拠したが2万8千年前に絶滅した。ヒトよりも体格が大きく寒冷気候に強く、ヒトと同じように火を使って料理をしたり狩猟道具を作っていた。知能(認知能)ヒトと変わらなかったといわれる。最近ネアンデルタル人の全遺伝子が解明された。ヒトのそれと比較してみるとヒトの遺伝子の中にネアンデルタル人の遺伝子が混じっていることがわかった。

現代人のヨーロッパ人アジア人にはネアンデルタル人遺伝子が混じっているがアフリカ人には混じっていない。これは、ヒトがアフリカから出てきた証拠のひとつである。ヒトがヨーロッパにひろがったのが4万年前のことだからネアンデルタル人と一万年以上共存していたことになり、混血がおきても不思議ではない。

アフリカからユーラシアへ
だがどうしてヒトは生き残りネアンデルタル人は絶滅したかについてはよくわからない。3万年位前におきた気象変化では北ヨーロッパ全域が氷につつまれネアンデルタル人は南方への移動を余儀なくされたであろう。そして食料にする動物の狩猟でヒトと戦うこともあったと想像される。南下する間に人口が減り、また環境への適応性、繁殖力、戦力その他の点でヒトより劣っていたためにネアンデルタル人は滅びたのであろう。最近スペイン南端のジブラルタルの洞窟ネアンデルタル人の住居跡や、骨や狩猟道具がみつかった。おそらくヒトから逃れて隠れた最後のネアンデルタル人達であったろうと思われる。家族も同属の仲間も全部死んでたった一人になった最後のネアンデルタル人は地中海に沈む夕日を洞窟からどんな気持ちで眺めたことだろうか。

話をアジアに戻して、インドネシアからフィリピン、アジア大陸東岸を北上したヒトのグループは中国東部、朝鮮半島、日本列島へと広がっていく。中国大陸に定住したグループは後年(3500年ほど前)黄河流域で中国文明を生み出すが、それがエジプト文明の始まりとほぼ同じ時期だったのは興味深い。最近、中国人、韓国人、日本人その他のアジア人研究者が共同して、DNAの解析から上にのべた南方からの経路が、ヒトがアジアへ来た主要経路であったと結論している。
北アメリカから南アメリカへ
(上掲の経路図を参照)中近東から中央アジアを東進した経路が従来考えられてきたが、中国の南部にはヒマラヤ山脈があり、西部にもパキスタンを南北に走る山脈があり、それを越えたとしてもゴビ砂漠があり、この経路は移動が困難だった可能性は高い。

 
さてアジア大陸の東岸を北上したヒトの狩猟グループの一部はシベリアの東端に達する。そして2万年程前の氷河期で海面が100メートルも下がって陸路になった現在のベーリング海峡を歩いて横切り、アラスカ(Yukon)を経てカナダ(Alberta近く)へ到着した。そこからグループの一部はアメリカ大陸を西海岸沿いにおそらく海路と陸路の両方を使って南下し、1万4千年前までにチリの南端(Monte Verde)に達した。グループの他の一部は北アメリカの内部へ広がっていった。

ダ・ヴィンチの『ヒト』
 世界にひろまったヒトの動きの大要はこんなところだが、6万年以上かかった旅を数ページの小文にまとめるのはもともと無理である。説明不足の点も多々あると思うがご容赦願いたい。

締めくくりの代わりに感想を一言。このようにして地球全体にひろまったヒトは人種が違っても遺伝的には99.9%同じであり、遠い昔、絶滅の危機に瀕したことがあったとしたら、現代人はすべて『血縁関係』にあるといえる。それなのに、中近東やアフリカでヒトはお互いに殺し合いを続けているのは嘆かわしい。今世紀の中ごろには世界人口は90億になると予測されている。気象変化が激しくなってきて自然災害が増え食物の生産が人口増加に追いつかなくなるかもしれない。

エネルギーなどの地球資源にも限界がある。その結果、ヒトヒトの殺し合い(戦争)が今より激しくなることは十分ありうる。殺戮兵器が発達した今ではもう手後れで、H.sapiensネアンデルタル人のように滅びてしまうのだろうか?

2012年8月3日金曜日

瑞穂(みずほ)の国の米異変


たぶち・ひろこ
2012年7月19日付け、NYタイムズの報告から
写真:ささき・こう撮影
福島県内のスーパーマーケットで、さいとう・かな
 東京発:当地のウォルマート(Walmart)では、過去4ヵ月の間に中国産の米を販売している。アメリカに本拠を持つこの大手量販スーパーマーケットでは、米の在庫を確保するのに躍起になっている。日本のチェーン店『ベイシア(Beisia)』も、今年になって初めて中国産米を販売し始めたが、直ぐ売り切れてしまう。
すしレストランを始めた『かっぱ』では、カリフォルニア米を使い始め、日本最大の肉丼チェーン店『まつや』では、国産米とオーストラリア米の混合を試用し始めた。全国に安売り店を持つ『だいこくてん物産』では、米の在庫を確保するには外米に頼るしかない、と言っている。
不況で国民の収入が減少しつつあることと、国産米では重要な地位を占めてきた福島産の米に放射能が含まれてはいないかという心配も伴って、日本の消費者やレストランが、思いの外に高価な国産の特選米にこだわらず、また政府の輸入品に厳しい保護政策にも拘らず、安価な中国米、オーストラリア米、アメリカ米に切り替えている。この傾向は今の内は少数だが次第に増えつつあるようだ。

東京都内のウォルマートで買い物をしていたパートタイマーの会社員、さいとう・かな(29)は「以前は誰も外米を買うことなんて考えていなかったでしょう」と言う。彼女は2キロ袋の中国米を買うつもりだったが、すでに売り切れていた。そして、「『国産』という表示は、福島の原発事故以来、すっかり意味が変わってしまいました」とも言っている。
農相は、外国産米に778パーセントの関税をかけて完全に閉鎖していた米の輸入量を増加させる意図はなかった、と言う。1995年以来、政府は年間70万トンという関税なしの米を輸入してきた。こうした輸入米は、国産米と競合することなく飼料や緊急事態用に蓄積していただけだった。

専門家に言わせると、こうした輸入米は簡易食堂、弁当屋、その他で利用されていた、とのことだ。だが消費者が、家庭料理に輸入米を使うようになった。ひとつには、量販のチェーン店が在庫を輸入米に切り替え始めたことが強く影響している、とも説明する。

今日、輸入米を代行食とする需要が高まるにつれ、量販店やレストランは、政府が販売用に制限した輸入米の奪い合いをしている。だが政府の記録によると昨年は1万トン、日本で消費した総量9百万トンに比べたら、ホンの僅かでしかない。

日経新聞の3月に掲載された食品会社60社の調査によると、7割が輸入米を購入する意志があることを表明していた、とある。東京に本拠をもつウォルマートの代表、かなやま・りょうは、輸入米の確保に「全力を尽くし」ている、と語っている。
日本の消費者や業者から、輸入米増加の切実な要求があるなしに拘らず、その供給状況は不確実であり、日本の農家の政治的圧力も国産米を保護する方向にある。それは、日本の政治、社会、経済、愛国心、などが入り混った心情と密接な関係があるようだ。
神戸大学の農業科学部門の、かこ・としゆき名誉教授は、「もし日本が輸入米に門戸を開放したら、それは戦後日本の大きな変革であり、過去数年間で日本の消費者の傾向が変わったことを示すことになるでしょう」と観測している。
アメリカ合衆国の米作農家は、米の消費市場が政治と関連しているとは納得し難いものがあり、自由市場とはほど遠いものがある、と考えている。アメリカ米作連合(The U.S.A. Rice Federation)では、稀に東京で『味覚テスト』を施行し、ほとんどの消費者たちは国産米か輸入米かの区別はつけられない、と結論を出している。
アメリカ米作連合の営業部長、ロバート・カミングス(Robert Cummings)は、「我々は、アメリカ米の輸出先は需要の有無によって決定するのであって、政治的な配慮からではない」と断言する。
災害当時、福島地方の農家の関心は、輸入米に向けられてはいなかった。昨年、この地方の農民は特選米の植え付けに熱中していた。その米は国産で最高の種を15年がかりで交配した『天の粒』と呼ばれる新種であった。
農業関係の官吏たちは、この新種の各種が日本の伝統的な趣味に合う特選米になることを願っていた。
だが、昨年3月の大震災、津波、原発事故で福島の農地7千300ヘクタールが汚染して作付け不能になってしまった。収穫した稲は放射能で汚染し、特選米の夢は水泡に帰したかに思われた。
農夫、くちき・かつゆき
農夫の一人、くちき・かつゆきは、「この米は最高の品種ですが、とても心配です」と憂い顔だ。その米は米作では9代目の彼が一家総出で、福島第一原発から64キロの位地にある田に植えたものだった。収穫した米をテストした結果、セシュウムの反応が無事だったので売ることができた。しかし、価格は彼の胸算用よりはるかに下回っていた。
今年は、その地方の農家はセシュウムを吸収する薬剤を散布し『天の粒』の収穫を大幅に上げようと意気込んでいた。地方の行政官庁は30億円投資して放射能検査機を備え、収穫した米を検査することにした。くちきは、「我々は最善の努力をして安全な米を出荷できるようにします」と語る。
こうした努力にも拘らず、多くの消費者が(福島産の米から)離れていった。政府が応援して国産米の安全を説いても、災害地で生産された米に不安を感じる声が広まってしまったのは如何ともしようがなかった。
もっと大きな問題は、日本の経済不振にある。その影響で、過去10年間に国民の収入が減少し、消費者が高価な商品の購入を避けるようになった。昨年、国立の農業協会に関連のある日本共済一般調査協会(the Japan-Cooperative General Research Institut)の報告によると、低品種の国産米の販売が上昇した一方、高級ブランド品の販売が低迷している、という結果が現れた。
経済専門家は、若者や高級品志向でない消費者たちは、主に低価格の代行品を探す傾向にあると見ている。この傾向は、特に若者たちの間での米の選択に現れている。伝統的な『魚と米』といった献立より、『パン食(マカロニやピザも含めて)』に移行し、最近では米食の量は、1960年代の消費量の半分になってしまった。
調査協会のふじもと・やすひろ会長は、「景気の後退で、収入が減ったので日本人は米質の良し悪しを言わなくなりました」と言う。
こうしたことを総合すると、国産米を作っている農家を助けるには、外米の何倍もする国産米を購入しなければならない、という負担が生じてくる。
つい最近まで、日本の消費者たちは10キロ袋の(ふっくらと、艶があり、小粒の)ジャポニカ米に喜んで5000円も投じていたのだ。(ほっそりと、乾いて、長粒の外米はその10分の1の値段だったのに。)
国産米の収穫が悪く、需要に間に合わなかったため消費者が緊急用に保持していた外米を求めざるを得なかった1993年でさえ、多くの消費者がそっぽを向いていたことがあった。
あれから20年近く後の今日、ウォルマート、ベイシア、まつや、かっぱ、が口を揃えて、彼らが扱っている外米に対しての不平不満は何も聞いていない、と言う。
「結局、消費者たちは気にしていないか、味の違いに気が付かないか、でしょう」とは、まつやの代表、たなか・てつじの分析である。