2010年8月31日火曜日

日本に住む朝鮮人たち

昨日、ニューヨーク・タイムズの評論『右翼の台頭』を公開した。評論を読んで、「新しいタイプの右翼が台頭し、白人を含め、日本に住む外国人を疎外し排斥する行動を起している」という印象を受けた。中でも急速に成長した『在特会(ざいとくかい)』が、京都の朝鮮人学校にデモをかけ、学童を含め、教師や父兄まで恐怖に陥れた、と記されていたのが気になった。

偏見』は人間の罪悪の根源であり『差別』を生み、ひいては『迫害』行為に発展する。歴史を振り返ってみると。「全ての戦争は『偏見』から発している。戦争はこの世で最悪の罪である。


そこで『在特会』がいかなる集団であるかを明らかにするため、第三者であるウイキペディアの解説を読み、次に在特会自身のサイトでその主張を展望してみた。結果として両者の叙述がほぼ一致していたので信じられるものと判断し、ここにその概略をお伝えする。結論はその後で申し上げよう。-----編集;高橋------

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在特会の名称について


在特会
とは「在日特権を許さない市民の会」を短縮した名称である。在日とはこの場合「日本に住む朝鮮人」の代名詞として使われている。


在特会の足跡について

発起人、税理士の桜井誠(さくらい まこと:通称)と25人の共鳴者により、2007年1月20日、正式に発足した。3年半余り経った今日、全国の会員は9千人を超えた。

批判対象は主に、在日韓国、朝鮮人だが、同会が反日的と目した人物や団体に対しても抗議活動を行ってきた。在特会の基本的なルールとして、正当防衛以外の実力行使をしないように呼びかけている。デモ行進中に反対論者や対抗団体から実力行使による妨害を受けて応じたことはある。在特会としては、これらの事実は「反日左翼による挑発」だと主張している。
警察発表によれば、最新の全国大会におけるデモ参加人数は450人程度で、街頭における過去最大のデモ参加人数は、約1300名だったこともある。

在特会が取り上げている問題は、北方領土問題、教科書問題、靖国問題をはじめ各方面に亘っているので、その活動状況の明細は省略。ここでは在日朝鮮人の特権だけに焦点を絞ってみよう。
在特会の抗議、主張について

◆ 在日特権:朝鮮人が韓国籍のまま日本に住み、暮らすことができる特権のこと。ここに、日本に住む朝鮮人が戦争中に『強制的に日本へ連行され』たという誤った説に基づいている。

明治43年、韓国が日本に併合され、朝鮮人は日本人と同じ国籍となった。昭和14年(1939)、国民徴用令が施行され、日本国民は全て徴用の対照となったが、朝鮮半島には適用されなかった。例外的に戦局が不利になり労働力が極端に不足した昭和19年9月から昭和20年3月までの7ヶ月だけ朝鮮人が徴用された。総計269万5千人の韓国労働者の内、『徴用』された者が66万7千人、大半の202万8千人の朝鮮人は自由意志で日本へ来た。言い換えると徴用された者はたった8パーセントにしか過ぎず、92パーセントは自由意志で日本へ来たことになる。

戦後、150万人が帰国し、60万人が日本に残りこれが在日一世ということになる。その内徴用された者は245人だけだった(1957年調べ)。それも『強制連行』ではないから帰国の自由はあったのである。

◆ 特別永住の許可(永住権ではない)許可を受ける資格は、
  1. 日本に10年以上滞在。
  2. 素行が正しく、税金を滞納せず、犯罪を冒していない。
  3. 独立の生計を営む能力がある。
  4. 日本の利益になる、
などの4項目を満足させる必要がある。

にも拘らず、在日朝鮮人にはこの4項目が免除されている。しかも、この特別永住許可は子孫に無条件で継承させられる。(他に李承晩時代の竹島問題で日本側が折れた事件があるが、省略)


1991年、『日本国との平和条約に基づき、日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法』が定められ、全ての在日朝鮮人が特別永住者として認められた。

◆ 通名の自由:在日朝鮮人は、生活の都合上で姓名を変えることができる。例えば、日本名の通名を持つ韓国籍の男性と日本国籍の女性が結婚した場合、妻が夫の姓に改めるには家庭裁判所の許可が必要で、夫の本名になら許可されるが、通姓に改めることは許可されない。一方通名で通っている夫は、本名を隠したまま暮らすことができる。

結婚の場合は誰にも迷惑をかけることはないが、通名を利用し、銀行口座を複数の通名で開き、脱税や資金洗浄(マネー・ランドリング)に悪用することもできる。

また、なんらかの犯罪を冒しても、通名を変更することで合法的に別人を装うことができる。ちなみに本名で暮らしている在日朝鮮人は十数パーセントに過ぎない。

◆ 外国人の参政権:1995年、在日朝鮮人地方参政権を我々に与えないのは違法ではないか?」と提訴した。それに対して最高裁判所違法ではないと回答している。従って、在日朝鮮人には、たとえ税金を払っていても、帰化しない限り参政権は与えられない。

◆ 年金制度:国民のための年金制度は1961年4月から施行された。ところが、1981年、日本政府が難民条約を提携し、その時以来、全ての外国人に国民年金の恩恵を与える、と決定してしまった。さらに翌1982年、国民年金制度から国籍条項が削除され、日本に住む外国人も自由に年金制度に加入できるようになった。

但し、年金を取得できる資格の一つに、掛け金を25年間納付する義務という一項があった。だがその資格に満たない外国人が大勢いたため、彼らを有資格者にするため、最高20年間の納付を免除してしまい、短期在日の外国人でも給付が受けられるようになった。

◆ パチンコ関連企業:パチンコ業界の90%以上が在日朝鮮人によって経営され、朝鮮総連と共に国会議員に献金懐柔し、パチンコの合法化を推進している。また警察にも献金し、パチンコの賭博性、詐欺行為、客のパチンコ依存症などの違法性が黙認されるようになった。韓国や台湾などではパチンコの害が 個人や社会に与える悪影響が指摘され、禁止もしくは厳しく規制されている。にもかかわらず、日本では規制されるどころか、正にパチンコ天国である。

以上。その他の事項は省略。

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在特会の性格を一言でまとめるとしたら、彼らの目的は、在日朝鮮人を差別し排斥することではなく、朝鮮人に与えられた例外的な特権を改正させることにあるようだ。

従って、抗議の目標は、不条理なザル法を作った日本政府であって、在日朝鮮人ではない。いわんや彼らの二世、三世の児童でもないはずだ。だとすると、京都の朝鮮人学校にデモをかけたのは、大いに逸脱の感がある。

また、朝日新聞を『左翼ジャーナル』と決めつけ、『通名』の不都合を指摘していながら、本名を隠している桜井会長の態度に、いささかの矛盾を感じないわけにはいかない。高橋 経

2010年8月30日月曜日

新型、右翼の台頭


『外人排斥』を叫ぶ日本の新しい異論派

マーチン・ファクラー
(Martin Fackler)

2010年8月28日付け、NYT掲載の記事全文


京都発:去る12月のある日、在日朝鮮人小学校で児童の昼食時に、デモの一群が現われた。約12名ほどの日本人男性が校門の前で拡声器を使い、児童たちを「ゴキブリ」とか「朝鮮のスパイ」などと罵り始めた。


校内にいた学童や教師たちは恐怖に陥り教室内部で肩を寄せ合い、表からの罵り声をかき消すように大声で歌を唱った。結果として、警官が出動して校門をふさぎ、デモ隊の侵入を阻止した。


この12月事件は、京都第一朝鮮
小学校を対象にして行われたデモの第一波で、政治的な抗議をする過激分子の行動で、子供達はおろか一般市民まで巻き添えにされたくないと願っていた日本人にとっては衝撃的な事件だった。こうした市民の憤激に対処すべく、警察は学校の名誉を毀損した過度で4名の過激派を逮捕した。

問題は、こうした抗議分子の出現によって、新型の超国粋主義組織が台頭し始めた前兆を示したことだ。各組織は、公に外人排斥を主張の中に掲げ、無秩序な街頭デモをして世間の注目を集めている。


昨年末に行われた最初のデモ以来、彼らの目標は単に50万人の在日朝鮮人だけに止まらず、中国人や他のアジア系労働者、キリスト教会の信者、さらに西欧人も矢面に立たされている。(たまたまハローインの衣装を着ていた)後者への攻撃では、何十人ものデモ隊がその周りに付きまとい、ここは白人が住む国ではない(This is not a white country)』と大書したプラカードを振りかざしていた。


地方紙などでは、こうしたグループがインターネットを通じて組織され、デモの時だけ顔を合わせることからネット極右と名付けているようだ。言うなればこうした組織はウエブサイト上で仮想の組織が形成され、抗議計画の日時を知らせたり、ビデオでデモの様子を見せたり情報を交換している。


こうした仮想組織は、コンピューター・スクリーン上の発言が主な要素である限り少数派で止まっている一方、日本の経済や政治の長期的な停滞に乗じて、世間の注目や関心を集めるという漁夫の利も得ている。組織の会員の大半は、最近の日本で急増している低収入のパート・タイム勤務者や、不安定な契約社員などで就労している若年層であるようだ。


一部の人々は、こうした組織を新ナチ(neo-Nazis)』と対照させているが、社会学者に言わせると、ナチのような人種的優越感に裏付けられた過激な理想を持っているわけではないから対照的には考えられないとし、また彼らは注意深く実力行使を画す線を引いている、と見ている。


関西学園大学の社会学科スズキ・ケンスケ教授は「あの人達は、自己の社会での市民権を喪失したと感じているので、最も無難な外人を攻撃し非難することによって代償としているのです」と観察している。

また彼らは日本に現存する極右翼-----東京で屢々見掛ける軍服を着て黒塗りのトラックに乗り、ラウドスピーカーで軍歌を流し回る-----の組織とも性格が異なる。


こうした旧態な極右翼組織の根源は、日本の軍国主義が台頭した1930年代(昭和5年頃から)にさかのぼり、今日では保守的な政治団体の一部門として認められている。社会学者は、こうした右翼組織は非公式ながら戦後の日本で国民を統一する役割を演じ、また日本国民が左に傾かないための歯止めにもなっている。またあるいは、日本と国境問題で結着がついていない国(ロシア?)の大使官は、こうした極右の抗議を快く思っていない。


従来の右翼組織に属するメンバーたちは『ネット右翼』「素人くさい烏合の衆」と呼び、いち早く一線を画した。右翼民族派団体の一つとして知名度が高く100名の会員を擁する一水会(いっすいかい)の最高顧問、鈴木邦男(すずき くにお)「あのような新しい組織は愛国心からではなく、『目立ちたがり屋』にしか過ぎない」と決めつける。


とは言うものの、鈴木氏『ネット右翼』の目覚ましい進出に反し、旧来の極右翼団体が縮小していることも認めている。彼の推定によると、その団員数は現在では1万2千人、1960年代の最盛期に比べて10分の1に減少したとのことだ。


『ネット右翼』には鈴木氏が示したような明確な数字は存在しない。だが、『ネット』で最大の組織は在特会(ざいとくかい:在日[朝鮮人の]特権を許さない市民の会:ざいにちとっけんをゆるさないしみんのかい;の縮小名)』で、目下9千人の会員を誇っている。


在特会は、昨年14才のフィリッピン少女の家庭や学校に対し、故国へ強制送還させるべく要求をつきつけて話題になった。少女の両親は、査証切れで既に送還されていた。また在特会は最近、日本でイルカを捕獲し食用に供することを記録したアメリカのドキュメンタリー映画ザ・コーヴ(The Cove: 本ブログ6月半ば『イルカ』の表題で3点公開)』反日的である」とし、その公開を阻止しようとして劇場にピケットを張った。


インタビューに応じた在特会や他の団体のメンバー達は、在日の外人-----特に朝鮮人と中国人-----が、日本の犯罪事件や失業問題の増大を深刻化させ、それぞれの政府が国際協定を尊重しない、と非難していた。また殆どが、中国またはアメリカがインターネットを通じて日本を衰えさせようと陰謀を企てている、とも考えているようだ。


在特会の地方分派会長、東京の郊外、大宮に住む37才のオオタ・マサル「日本は財政的に縮小しつつあります。日本人が経済的に苦しんでいる昨今、外人に分け前を与えるだけの余裕はありません」と嘆く。

在特会は、3年半前にたった25人で発足して以来、急速に成長してきたが、今でも創立者、38才の税理士、桜井誠(さくらい まこと:本名ではない:右の写真)が会長として組織を運営している。その本拠は東京、秋葉原の電気器具街にある小さな事務所でパソコンを叩き、全国の会員に情報や指導を伝達している。

桜井は、在特会は人種差別の団体ではないから『新ナチ』と同等に見なされるのは迷惑だと言う。彼はむしろ海外の政治団体、例えばアメリカにおけるティ・パーティ(the Tea Party)の活動状況を見習い、同パーティが抱く怒りの感情を学びとり、間違った方向に国家を導いている政治家達を啓蒙し、国家が左翼の手やリベラルな媒体に落ちたり、果ては外人に撹乱されないよう牽制活動しているのだそうだ。

「彼らは、中国や朝鮮に対抗する日本を無力にしています」と言う桜井は、本名を明かそうとはしなかった。


桜井は、在特会の作戦が多くの日本国民にショックを与えたことを認め、またそうすることによって、世間から注目される必要がある、と信じている。彼はまた、京都の朝鮮人学校にした抗議の一つに、学校が近所の公園を私有化していることを不満とし、本来なら日本人児童に開放すべきだ、と主張していた。その抗議について、同校の先生や父兄は、人種差別の本心を隠す口実に過ぎないとし、学校側に不安を残し、児童たちは恐怖に陥っているようだ。


同校の母の会会長、43才のパーク・チャングハ(Park Chung-ha)日本政府がこの差別的な抗議に対して善処してくれなかったら、今後どうなるか思いやられると不安の色を見せていた。

[編集から:日本と朝鮮の関係は、古くは大和時代から、1597年(慶長2年)秀吉の朝鮮出兵の失敗、1910年(明治43年)の日韓併合で朝鮮は日本の管轄下に、1945年(昭和20年)の敗戦で朝鮮は独立、と波乱続きの国交を歴史に残し、双方の国民はお互いに微妙な感情を抱えています。 私の戦時中の記憶に残っているものは、朝鮮人に対する偏見と差別が明らかに存在していたことです。従って、上記の記事に接した時『偏見』の根深さを思わずにいられませんでした。記事を額面通りに受ける気になれず、かといって無視するには重要な課題と思われたので取り敢えず公開に踏み切りました。

その代わり、記事の最後に取り上げられている『在特会』の実態について調べてみました。第三者の見解と、同会のサイトの発言を比べ、ほぼ一致していたので、次回に公開いたします。公平な見解をご期待ください。]

2010年8月25日水曜日

この道、あの路、未知の途


』と一言に言っても、いろいろな『ミチ』があります。 広いに狭い、曲りくねったに真っ直ぐな、表通りに裏通り車道歩道自転車道散歩道、奥の細道に都の、高速道路に有料道路、、、数え上げたらキリがありません。従って、ここでお見せするは世界中ののほんの一部でしかありません。写真の提供者は不明ですが、最後に転送してくれたのはジェームス・ロッジ(James A. Lodge)です。何故か、キャプションがついていなかったので、所在地も不明です。もしご存知の道がありましたら教えてください。早速キャプションとして付け加えます。編集、高橋



京都、天竜寺から嵯峨野への道














2010年8月20日金曜日

癌の治療に光明が

ステム・セルとガン(癌)との関係
志知 均(しち ひとし) 2010年8月

2001年にジョージ W.ブッシュ(George W. Bush)前大統領が、ヒトの受精卵からできる胚幹細胞(embryonic stem cell, ESC)を分離、培養する研究には、倫理的理由から連邦政府は研究費を出さないと決めたため、この分野の研究は著しく妨げられた。幸い2009年3月にオバマ(Barack Obama)大統領がこの制限を解除してから幹細胞(stem cell: ステム・セル)の研究は日進月歩に進んでいる。

ステム・セルときいてもあまり興味のない方でも、ステム・セル(ガン:cancer)と密接な関係があると聞くと、俄然興味をもってくる。それが本稿の主題である。ガンとの関係を考える上で
ステム・セルに関するある程度の知識が必要なので、それについてまず要約する。すこし話が難しくなるかもしれないが、しばらく読み進んでいただいたい。

ステム・セルとは「自己再生能を有し、いろいろなタイプの細胞に分化できる細胞」のことで、たとえば毎日、数10億再生される血球や腸細胞はステム・セルから作られる。ヒトの身体は220種類の細胞からできているが、そのどの細胞にもなれるステム・セル多能性幹細胞(pluripotent stem cell, PSC)とよばれる(ESCはその例)。それに対し、数種類の細胞にしか分化しないステム・セル多形性幹細胞(multipotent stem cell; MSC)とよばれる。たとえば12種類の血液(免疫)細胞を再生する骨髄のステム・セルMSCである。

このようにヒトの身体の成熟細胞はすべてMSCからできるが、MSCの分化は一方的(不可逆的)で、通常は成熟細胞
ステム・セルに戻ることはない。従って、ある特定の組織(器官)の細胞を作るにはESCしかないことになる。しかしESCを使うことは、ブッシュ大統領の時代には倫理的制約があり、研究が行き詰まった。

そこで京都大学の山中伸弥(やまなか しんや:右の写真)は、成熟細胞を人為的にESCのような多能性幹細胞(PSC)に戻すことはできないだろうかと考えた。彼は成熟細胞では不活性だが、ESCでは活性の遺伝子を探し出し、それを成熟細胞に導入すればESCに戻るのではないかと想定し、いろいろな遺伝子成熟細胞に導入(遺伝子をビールスに組み込んで細胞に感染させる方法で導入)する実験を繰り返した。

結論だけ言えば、皮膚の細胞にわずか4種類の遺伝子を導入することにより山中多能性幹細胞を作ることに成功した。できた細胞は induced PSC(iPSC)と呼ばれている。この研究は高く評価され、現在、全世界のステム・セル研究者により山中の方法で、マウス、ラット、サル、ヒトなど、10数種の成熟細胞からiPSCがつくられている。

次の問題は当然、iPSCを分化させて病気の治療に役立つ多様な細胞をつくることができるかどうかである。答えはイエスで、たとえば鎌形赤血球貧血病(アフリカ系黒人に多い遺伝病)のモデルのマウスの皮膚細胞からiPSCを作り、病気をおこす遺伝子正常遺伝子に変えてマウスに戻してやると、iPSC正常赤血球に分化し貧血病が治癒される。

ESCiPSCを使って損傷した組織を再生して、アルツハイマー、パーキンソンなどの大脳神経系の病気、心臓疾患、糖尿病など幅広い病気の治療に利用する研究が活発にされているが、この小文ではふれない。ひとつだけ注意するとすれば、成熟細胞から作ったiPSCガン細胞と似た性質をもっているのでまだ完全に安全とはいえない点であろう。山中の実験でも、皮膚からつくったiPSCをマウス胚細胞に混ぜそれからマウスを成育させると、1/3のマウスに癌が発症した。遺伝子導入にビールスを使うのが原因のひとつと考えられるが、まだ十分解明されていない。

ステム・セルとの関連が出てきたところで、いよいよ本題に入ろう。

MSCステム・セルが細胞分裂して2個の細胞になると、その一つは更に分裂、増殖、分化して多種類の細胞になっていく。もう一つの細胞はMSCとして残るので、ステム・セルの総数は一定に保たれる。身体の中では正常のステム・セル(MSC)組織や器官の限られた場所(ニッチ、nicheとよばれる)に局在している。その近くにはステム・セルが不必要に増殖しないようコントロールする細胞と、必要に応じてステム・セルの活性化をうながす細胞が存在する。このようにステム・セルコントロールされた環境に保護されているが、放射線、有毒物質その他の影響で遺伝子変異が起きるとガン、ステム・セル(cancer stem cell)になる。

しかし、その増殖が抑えられている限り癌発症にはならないが、それに加えて、ニッチの正常な作用を支える遺伝子変異がおきれば、ステム・セルをコントロールする能力が崩れてがはじまる。それがいつ起きるかわからないことが、癌発症を予告できない理由のひとつである。またステム・セル自己再生能力を失わないので、成人期に再生を繰り返す間に遺伝子変異を蓄積すれば極めて悪性のガン、ステム・セルになりうる。

ヒトの(悪性腫瘍)からとった細胞群を調べて、その一部だけが癌細胞であることは、1960年代にすでに判っていたが、技術上の制約から研究が進まなかった。近年になって、細胞を迅速に分離同定する機器(Flow cytometry)が開発され、癌腫瘍をつくる細胞は単一でないこと、また腫瘍を大きくしたり転移したりするのは、ほんの一部の細胞であることが確定された。

したがって、の治療は腫瘍を小さくすることだけでなく、これら悪性のガン、ステム・セルを根絶することに焦点をあわせなければ効果が無い。腫瘍が小さくなってもガン、ステム・セルが残っていればは再発する。いいかえれば、手術で摘出した腫瘍を組織染色して調べ、成熟細胞ばかりであれば再発の心配はないが未成熟細胞(未分化細胞、即ちガン、ステム・セル)が存在すると再発の可能性は高い。

ここまで述べたことから、癌治療にはガン、ステム・セルの根絶が重要なことは明らかであるが、そのために、どのような手段が考えられるだろうか? 現在使われている抗癌剤ガン、ステム・セルだけでなく、正常ステム・セル(MSC)の増殖も阻害するので好ましくない副作用が多い。ガン、ステム・セルに特異的な阻害剤は作れないのだろうか?


身体の多数の細胞が毎日再生され、一定のレベルに保たれていることから判るように、細胞は一定期間が過ぎると自然死(apoptosis: アポトーシス)する。もしガン、ステム・セルの自然死だけを促進することができれば治療につながる。細胞の自然死のメカニズムは可成り詳しく解明されてきているのでこのアプローチは有望である。ガン、ステム・セルステム・セルだから増殖を続けるが成熟細胞に分化させれば増殖能力を失ない、腫瘍が大きくなったり転移することもなくなる。したがって、ガン、ステム・セルの分化だけを特異的に促進する薬物の開発も有用であろう。

ガン、ステム・セルに関する知識の進歩のおかげで、は前世紀に恐れられたほど怖い病気ではなくなってきている。不治の病でなくなる日も遠いことではないであろう。


追記: 2010年10月4日~6日にデトロイト、ルネッサンス・センターのマリオット・ホテルWorld Stem Cell Summitが開催される。詳細は WorldStemCellSummit.comで。
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編集から:私のように医学的な知識に乏しい者には、志知さんが書いた超マクロな顕微鏡下の世界は、中々理解し難い点があります。そこで、色々調べたところ、アニメーションで解説された初歩的な映像が見付かり、『人体の神秘』を目の当たりにし、大いに理解を深めることができました。私程度の医学知識しかない方々に下記のビデオ鑑賞をお奨めいたします。

■ Introduction to Stem Cells (2分52秒)
http://www.youtube.com/watch?v=lWfw5en2MEM&NR=1



■ Stem Cells (7分53秒)
http://www.youtube.com/watch?v=mUcE1Y_bOQE&NR=1


なお、この他にもステム・セルに関する話題の映像が、
記のリンク、YouTubeの関連で数々用意され、ご覧になれます。中級または上級の医学知識をお持ちの方々は、その方面を開拓なさるのも有益でしょう。

怪的な空の旅:奇跡

ABCワールド・ニュースのニュースに関連して、航空機事故の奇跡3題。
ABCワールド・ニュース、その他から抜粋

去る8月16日の奇跡

コロンビア航空(Aires Colombia)のボーイング737-700型、ボゴタ(Bogota)発の国内線旅客機HK-4682便が目的地サン・アンドレアス島(San Andreas Island)に着陸する直前の真夜中午前1時45分頃、激しい雷雨に見舞われた。機体に落雷し、それが直接の原因とは確認されていないが、滑走路の手前で胴体着陸して滑走したため、胴体の2カ所が損壊し、3つの部分に分裂してしまった。乗務員6名、旅客125名、計131名の内73才の女性が死亡した以外、全員無事だったその死亡した乗客は、事故直後の心臓マヒが原因だった。

乗客の一人で2ヶ月妊娠中のアメリカ、ジョージア州の女性、カロライナ・ベリノ(Carolina Bellino)「まるで悪夢を見ているようでした。でも生きていられたのは奇跡的で(神へ)感謝の気持ちがいっぱい、、、」と語っていた。その夫、ディヴィッド(David)は頸骨を痛めたが、歩くには支障がなかった。

2008年12月20日の奇跡

コンチネンタル航空(Continental Airlines)の、コロラド州デンヴァー空港発、テキサス州ヒューストン国際空港(Intercontinental Airport)行き、ボーイング735-500型の1404便が滑走路に向かって動き始め発進地点に到着する直前、車輪が滑り出しコントロールが効かなくなった。航空機のタクシー路を横切り、滑走路から100メートル離れた溝に落ち込んで辛うじて止まった。その際、機体が大破し、一方のエンジンが脱落し、着陸装置が破壊された後炎上した。その結果、乗務員5名、乗客110名、計115名の内38名が負傷した。内2名は重傷だったが、死者は全くいなかった。

2009年12月22日の奇跡

アメリカン航空(American Airlines)の、フロリダ州マイアミ空港発、ジャマイカ島キングストン行きのボーイング737-800型、331便が着陸の際に豪雨に遇い、濡れた滑走路を滑り出し停止できなくなった。疾走したまま滑走路を外れ、飛行場の柵を破り、一般道路を横切り、水際の砂地で止まった。その間に着陸装置は大破し、両翼は機体から外れ、胴体は2カ所が破壊されてしまった。着陸体勢の時、尾翼が受けた風力も事故の原因だったようだ。乗務員6名、乗客148名、計155名は全員無事だった。

航空事情の専門家が解説

航空事情に詳しい専門家、元パイロットだったジョン・ランズマン(John Landsman:右の写真)は、最近の航空機事故で、機体が激しく破壊されたにも関わらず、搭乗者たちの生命に危険を及ぼしていないことについて「こうした事故で、人身が殆ど無事だったことについて最も重要な点は、機体が炎上しなかったからです。可成りひどい衝撃でも、搭乗者は死を免れることができますが、その後に起こる火災からは逃れられませんと語った。

「航空機産業では、搭乗員の安全を図り、事故の際の損害、特に人身保護を目標に改良を重ねてきました。最も危険な『火災』を予防するため、燃料タンクの収納位置を胴体から両翼に移したことで、上記の事故の際、人身保護に有効な改良だったようです」と指摘している。

2010年8月18日水曜日

ハイテク時代の姥捨て山(うばすてやま)

(はじめに)東京都の男性で最高年令者が111才だとされていた人が、実は32年前に死亡していたことが判った。続いて、都内の女性で最高年令者が113才だと言われたが、この人は住民票の地番には居住せず存在生死も不明だった。

神戸では125才になっている筈の高齢女性は住民登録上の住所は誰も住んでいない公園になっていた。大阪の127才と目される男性は、別の区で死亡届が出されていたので、台帳の記録から消されていなかった。

こうした付け落としの記録が発見されて以来、100才を超える高齢者の所在不明が続 々と明るみに出てきた。都会が『砂漠』と呼ばれるようになって久しいが、人口が過密になり、文明が進むにつれ『砂漠化』に拍車がかかり『姥捨て山』化しているようだ。その上、個人情報保護法が、他人同士はもとより、親族の絆(きずな)まで稀薄にした。住民の記録は役所のコンピューターで事務的に処理され、孤立し、孤独に老い、孤独に生きる社会に変貌しているようだ。

長寿大国、日本を誇りにしていたが、こうした実態に触れると失望と、稀薄になった人間関係にやり切れない焦燥を感じないわけにはいかない。そんな気分が消え去らない内に、この幻滅のニュースが地球の反対側で取り沙汰されていた。以下、数日前にNYTに掲載された評論をご紹介する。編集:高橋 経


日本で、今は亡き多数の最高年令者を確認

マーチン・ファクラー(Martin Fackler)
2010年8月14日付け、NYT掲載から全文

東京発:日本は長いこと、世界で最も高齢者の多い国、という評判をとってきた。多くの人がその理由として、西欧諸国とは比較にならないほど食生活が優れ、老人に敬意を表し大事にするからだ、としていた。


その伝説が’崩れたのは、111才という高齢であるはずの男性が30年以上も前に死亡していて、警察が発見した時はミイラ化していた事実が発表されてからである。警察の調べによると、81才になる死者の娘は、父の死を隠し、生きていることにして月々の年金を受け取っていた、ということだ。


この事件が警鐘となり、地方の役所は調査官を高齢者の住居に派遣して生死を確かめさせた。調査官によって判明した事実は落胆以外の何ものでもなかった。(上の写真:神戸市の担当官(左端)が先週、わたせ・みつえ(100才:中央)老女の家庭を訪問中)

東京都で113才と最高年令だと思われていた女性を最後に見掛けた人は、30年ほど前のことだった。別の125才と思われた世界最高の長寿者と思われた女性は、永年行方不明、従って生死不明だった。1981年(昭和56年)市役所の係官が、その老女を訪ねようとしたら、住所が誰も住んでいない市の公園だった。

今日までに、役所の担当者が、記録上100才以上の高齢者を訪ねようとしたが、281人以上が所在不明だった。こうした実態を非難する一般国民に対処すべく、長妻昭厚生大臣は、担当官が110才以上の高齢者に漏れなく面会し、生存を確認せよ、と通達;東京の担当官は、都内に居住する100才以上の長寿者3千人を訪問することを約した。


この事実が表面化して以来、行方不明の老人数が日々に増加し、マスコミには嘆きの記事が続々と掲載され、日本国中の一般大衆から関心が寄せられている。日本最大の日刊毎日新聞の論説でもこれが長寿国と言われる日本の実相なのか?と慨嘆を表明した社説が発表された。

担当官の一人が確認した生存者は佐賀県の南に住む113才の婦人で、この女性が日本では最長寿者と信じられている。

この急速に老人社会となったこの国で行方不明とされている長老者たちの捜索で、、、自己分析診断によると、、、すでに過剰な負担を負わされて手一杯になっている老人養護施設、そんな状態に付け込んだ詐欺行為、ほぼ連日のように老人の孤独な死がその自宅で発見、などが明るみに出た。


今の所、行方不明の長寿者に何が起こったか、について明確な解答が出されていない。日本では、蔓延している年金の詐取行為が発見され、あるいは、役所で殆どの係官が処理していたような、ズサンな住民記録の為に起きた問題なのであろうか?あるいは、こうした不浄な事件は、評論家たちが「若い世代が親達を粗末に放逐して家族が崩壊していることによる結果である」と眉をしかめて語るような世相が招いたことなのであろうか?


国際医療福祉大学( International University of Health and Welfare )の、高橋ひろし教授(註:同大学のサイトに高橋精一郎教授の名はあったが、『ひろし』なる教授
の名は見当たらなかった。)「これら事象は老人遺棄の現われです。今や、都市の社会では、ますます崩壊の一途を辿る親族関係の渦中での老人の現実が表面化してきたのです」と語っている。

調査担当官たちは社会心理学的な見地から説明をしている。彼らの観測によると、一部の長老者たちは単純に老人施設に移っているが、一方で、ミイラ化した遺体が発見された一件のように、更に多くの老人たちが死亡してしまっているのではあるまいか、と疑問視している。

東京足立区を担当している係官達が、日本で最長寿者と考えられていた加藤そうげん(Sogen Kato)を祝福すべく、その自宅を訪れた時、加藤老人は既に屍体となってた。その時以来、彼らは『長寿者』への疑問を抱き始めたのである。

担当官たちによると、加藤老人の娘がチグハグな証言をしていた、とのことだ。初めの内「父が担当官に会いたくないと言っていたから」と言い訳し、後で「今日本のどこかで仏教のお説教をしているから、どこにいるか判らない」と言い換えた。同居していた孫娘が「祖父は1978年(昭和53年)以来寝たきりだ」と告白したことから、警官が立ち入り調査をすることになった。


加藤老人の家から数丁離れた家庭でも似たような一件が見付かった。その家には103才になる(はずの)男性の老人の住居だったが、その縁者は「老人は38年前に家を出たきり戻ってこない」と言っていた。だが、73才になる老人の息子は「いつの日か父が戻って来た時の用意に父の年金を受け取り続けている」と語った。

足立区役所の住民登録部門のはじかの・まなぶ係長「こんな事情について誰も全く疑いをもっていなかったようです。でも、不在の老人の年金を受け取るため、故意に老人の行方不明あるいは死亡の報告を怠っていることは明らかに犯罪ですと憤懣していた。


一部の医療福祉の専門家たちは「こうした事件は、子供が親の面倒を看るのが当然とする社会に、親達を養護施設に送り込んだ方が良い、という歪んだ考え方を持たせるようになります」と分析。専門家たちは、更に高齢化が進み、親達の平均寿命が長くなるということは、その子供たちが親の面倒を看る頃には、彼ら自身が70才台という、誰かに面倒を看てもらはなければならない年令になっている可能性が大きい、とも観測している。

少なくとも一部の件で、地方の担当官は、不明朗な家庭から逃避した年老いた親もあったと証言していた。専門家たちは、老いた親たちは脳障害とか他の重症で医療費が嵩むことを恐れ、また家族もその負担に耐え切れなくなり、親の面倒を看なくなり、また失踪しても警察に届けない、などの例を挙げた。


関係官庁で多数の『100才以上』老人が所在不明であることが明らかになり、人口統計学者たちは、その老人達の所在、生死、を確認するのが困難になっていることが、世界に誇っていた日本人の平均寿命(世界銀行の統計によると現在までは83才前後)を算出すのに大きな障害となっている。だから担当官たちは、今までに発表された日本での100才以上の長寿者の統計数字は、実際には遥かに少ないであろう、と告白している。


足立区役所、老人養護部のねもと・あきら部長「この自然界では150才まで生きることは不可能です。でも、日本の公共管理の世界では不可能ではありません」と苦笑いしていた。

2010年8月16日月曜日

怪的な空の旅:異聞

空の旅の安全を確保するには様々な条件があります。その一つに、パイロットの技術的な資格や経験が挙げられています。さて、下に掲げた空港に、難なく離着陸して乗客の安全を図ることは、一重にパイロットの技術にかかっているのです。

あまり馴染みのない飛行場ですから、大多数の旅客には縁がないと思いますが、ご参考のために、、、。
写真提供:ジェィムス・ロッジ(James A. Lodge)

1. マレーシア半島沿岸沖、ティオマン島(Tioman Island, off the coast of Malaysia)

2. 西南太平洋、ウェーキ島(Wake Island, Pacific Ocean)

3. マカオ国際空港(Macao International Airport)

4. カナダ、ケベック、クージュアラァピック空港(Kuujjuaraapik, Quebec)

5. (おまけに)アフガニスタン駐在の米軍救助隊のヘリコプター。この限られた着陸地点で、敵の砲火を避けながら、限られた時間内に負傷兵を収容して飛び立たねばならない。

2010年8月12日木曜日

誰を責める; 原爆投下






高橋 経(たかはし きょう)
イラストも
2010年8月15日;65年目の敗戦記念日にあたり、、、



敗戦以来、毎年この時期になると必ずと言ってよいほど、昭和20年8月6日の広島、8月9日の長崎へ投下された原爆についての評論が、日米ともにマスコミの片隅に現れる。

8月6日付けの朝日新聞の天声人語はその評論の中で[、、、米国のオバマ大統領は去年、核を使用した自国の道義的責任を語り「核なき世界」を訴えた。それを機に、涸(か)れて いた核軍縮の泉がわき出し、川となって流れ始めた▼さらなる水流となるのだろうか、広島での平和記念式にルース駐日米大使が出席する。65年を経て初めての大使出席になる。とはいえ米国では今なお、原爆投下を正当化する考えが常識だ。、、、]と、暗にトルーマン大統領以下、歴代のアメリカの為政者を非難していた。


同日、毎日新聞の余録はその評論の中で、戦後15年以上経った1960年代に企画されたドキュメンタリー映画製作に当たって、作家の マール・ミラーが原爆投下を決定したトルーマン大統領をインタビューにかつぎ出そうとした経緯を紹介している。[トルーマン元大統領は神経質そうにまばたきし、しばらく沈黙した後お望みなら日本に行こう。けど、やつらにおべんちゃらをいうつもりはないからねR・タカキ著『アメ リカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社)汚い言葉*での感情的反発は、いつも原爆問題で身構えていた彼の動揺を示した。内輪では子供らの犠牲への心痛を語ったトルーマンだが、公には原爆投下は戦争終結のためで、少しも後悔していないと繰り返していた。国家や大統領は過ちをなしえないというわけだ▲今なお原爆投下の肯定論が世論の6割を占める米国である。、、、]

率直な所、私は上記の評論を読んで筆者たちのアメリカに対する偏見を感じた。特にトルーマン大統領の答えにあった[them]彼らにとせずやつらにとし、[flattering]外交辞令とせずおべんちゃらなど、故意に汚い言葉を使った翻訳を紹介しているのが気に障った。

お断りしておくが、私はアメリカを弁護する気持ちは毛頭ないし、筆者たちの評論が間違っていると指摘する根拠も持っていない。しかし、群盲が象を探った比喩と同じで、断片的な事実だけを取り上げ、アメリカ人を類型化し、軽卒に評価する過ちは避けてもらいたい、と主張したいのである。


私は今日まで在米47年、ケネディ大統領の暗殺事件に始まり、キング師ロバート・ケネディ上院議員らの暗殺、ベトナム戦争中から今日のイラク、アフガニスタン侵攻を通じての反戦運動、平和運動、の数々を見聞してきた。そうした動きと並行し、戦争を憎み、平和を望み、原爆投下を恥じているアメリカ人が年々増加し、毎年8月6日には各地で各種のヒロシマを悼む集会が民間団体や宗教団体によって開かれ、日本人並みに千羽鶴を折り続けているアメリカ人が大勢いることも知っている。天声人語、余録の双方ともに「原爆投下の肯定論が世論の常識で6割を占める米国」という断定的な評価をしているが、片手落ちの偏見という誹りは免れまい。


一方、アメリカの新聞や雑誌にも原爆投下を反省する評論が毎年のように掲載され続けてきた。それらの論調を総合すると「1945年当時には、日本は戦いを続けるだけの戦力を失っていた。軍艦も飛行機も失い、日本軍隊の兵隊は大半が戦死し、日本の都市は殆んどが空襲で破壊され、国民は生活に必要な食料や必需品の欠乏に苦しみ、ただ生きるのが精一杯で戦意を失っていた。だから原爆を使わなくても、遅かれ早かれ降伏せざるを得ない状態だった」という論理が骨子となっている。

これはうなずける常識の上に成り立った理論だが、常識で割り切れない信条が存在していたことには全く気付いていなかったようだ。


では原爆投下の責任の所在はどこにあったのであろうか?結論を急ぐ前に、
昭和20年(1945)、日米戦争の終盤にあった戦局を駆け足で回顧してみよう。

■ 7月15日:ニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験が成功


■ 7月17日:ドイツ、ポツダム市で連合国の4首脳:(上は左から)スターリン書記長、蒋介石首席、トルーマン大統領、チャーチル首相と後任のアトリー、らの会談が始まった。

■ 7月26日:日本に対する無条件降伏の勧告『ポツダム宣言が作成された。勧告書には「降伏しない場合には『強大な破壊』の用意がある」原爆投下を警告していた。


■ 7月27日:大本営ポツダム宣言を受領。降伏勧告を受諾するかどうかが検討された。東郷茂徳外相降伏する絶好のチャンスとしたが、阿南惟幾陸相()本土決戦を主張、鈴木貫太郎首相(左)『宣言』に回答する決心がつかず『黙殺』してしまった。

■ 7月27日:アメリカの参謀本部で、日本への最終的攻撃は九州侵攻原爆投下かで意見が真っ二つに分かれた。ウイリアム・リーハイ長官アイゼンハワー元帥原爆投下に反対。片やトルーマン大統領は先年のノルマンディ侵攻の経験から予測し九州侵攻で起こり得る60万から100万人に及ぶ人的損害を避けるため原爆投下に傾く。


■ 一方、日本では本土決戦に備え、小中学生、女生徒まで含め、竹槍で防戦する訓練を受けたいた。

■ 7月27日以降、8月2日まで、アメリカの爆撃機が日夜、日本の大小都市を空爆し続けた。

■ 8月3日:天皇裕仁は陸軍士官学校の卒業式で「勇気をもって勝利を、、、」と檄をとばした。

■ 天皇は降伏を避けるため、不可侵条約を交わしていたソ連(ロシア)の仲裁を当てにしていたが、何の回答もなかった。

■ 8月6日:世界初の原子爆弾が広島に投下され、一瞬にして12万人の市民が焼死し、3万人が不治の重軽傷を負った。(その年末までに死者は20万人に膨らんだ。)阿南陸相
(上右)「原爆の2発目を作るにはあと半年かかる」と多寡をくくり、本土決戦を主張し続けていた。

■ 8月8日:天皇が『仲裁』を頼りにしていたソ連が不可侵条約を破棄して日本に宣戦を布告した。


■ 8月9日:2発目の原爆が長崎に投下され、3万5千人が焼死。(その年末までに被爆被害者は7万4千人に膨らんだ。)


■ 8月10日:大本営は『無条件降伏』でなく条件付きの受諾をワシントンに通達。米国側は受領は確認したが『条件付き』の項に触れるのは避けた。


■ 8月11日から14日まで、大本営では夜を徹して『無条件』を呑むか呑まないかでもめていた。


■ 8月15日:天皇裕仁
遅過ぎたきらいのある決断で、録音『敗戦の詔勅がラジオを通じて全国に放送された。『詔勅』文には『敗戦』または『降伏』という言葉は見当たらない。

以上、日本が国家の運命を左右した重大な20日間である。ご注目いただきたいのは『ポツダム宣言』の降伏勧告を受領した7月27日から、広島へ原爆投下の8月6日まで10日も猶予があった点である。


前掲、アメリカの評論家は「、、、原爆を使わなくても、遅かれ早かれ降伏せざるを得ない状態」にあった日本、と常識で分析して原爆不要論を主張していたが、日本の戦争指導者が本土決戦に固執し、最後の一人が殺されるまで戦うことを国民に強制し、『降伏』を拒否していたいたことには気が付いていなかったようだ。


話が昭和16年に遡るが、武士道の作法に、寝ている敵を殺す時は、相手の枕を蹴飛ばし、起してから刺す、という教えがあった。真珠湾攻撃を計画した山本五十六司令長官はそれに習い、攻撃の直前に宣戦布告書をワシントンに渡す
筈だったが手違いで遅れた。それを知った司令長官は烈火の如く怒ったと伝えられているが、仮に計画通りのタイミングで宣戦布告状をワシントン政府に手渡していたとしても、真珠湾の急襲が正当さを欠いていたことは否めない。

それに反して、原爆投下は少なくとも10日も前に予告されていたのだ。ポツダム宣言を受領してから広島の被爆まで10日間、ソ連から宣戦を布告されるまで12日間、長崎の被爆まで13日間、大本営は何ら対策を講ずることもなく非生産的な評定で時を徒らに過ごしていたのである。もし(仮説で歴史を覆すことはできないが、、、)東郷外相の提案
『降伏する絶好のチャンス』を採択していたら、原爆投下やその他大小都市の破壊は避けられていたのだ。

あくまでも本土決戦に固執し、小中学生まで巻き添えにし、自国民の最後の一人が殺されるまで戦うと言い張っていた戦争指導者の狂気な頑迷さを知った時、私は(戦後何年も経ってから)大江健三郎広島の生存者が感じた、あの激しい怒りがこみ上げてきた。そしてそれが原爆投下を正当化する口実にもなり得たことについて、良識ある新聞人たちが全く触れていないのに不満を感じたのは私だけであろうか。

最後にもう一言。トルーマン大統領九州侵攻で60万から100万人の人的損害が予測されるとして原爆投下を選んだ。その人的損害の数はアメリカ兵だけだから、防戦する側の日本国民-----軍人ばかりでなく竹槍を持たされた未成年者も含め-----の人的損害を加算せねばならない。

もしアメリカが『九州侵攻を選び実行していたら、世間知らずで戦争指導者を信じ切っていた16才の私自身も、勝ち目のない『本土決戦』で無駄死にしていたに違いない。

(右上の人々は戦争犯罪人として起訴された戦争指導者たち。内、東条英機以下7人が絞首刑になり、上記の阿南陸相は敗戦放送直後に自刃し果てた。)