2010年8月20日金曜日

癌の治療に光明が

ステム・セルとガン(癌)との関係
志知 均(しち ひとし) 2010年8月

2001年にジョージ W.ブッシュ(George W. Bush)前大統領が、ヒトの受精卵からできる胚幹細胞(embryonic stem cell, ESC)を分離、培養する研究には、倫理的理由から連邦政府は研究費を出さないと決めたため、この分野の研究は著しく妨げられた。幸い2009年3月にオバマ(Barack Obama)大統領がこの制限を解除してから幹細胞(stem cell: ステム・セル)の研究は日進月歩に進んでいる。

ステム・セルときいてもあまり興味のない方でも、ステム・セル(ガン:cancer)と密接な関係があると聞くと、俄然興味をもってくる。それが本稿の主題である。ガンとの関係を考える上で
ステム・セルに関するある程度の知識が必要なので、それについてまず要約する。すこし話が難しくなるかもしれないが、しばらく読み進んでいただいたい。

ステム・セルとは「自己再生能を有し、いろいろなタイプの細胞に分化できる細胞」のことで、たとえば毎日、数10億再生される血球や腸細胞はステム・セルから作られる。ヒトの身体は220種類の細胞からできているが、そのどの細胞にもなれるステム・セル多能性幹細胞(pluripotent stem cell, PSC)とよばれる(ESCはその例)。それに対し、数種類の細胞にしか分化しないステム・セル多形性幹細胞(multipotent stem cell; MSC)とよばれる。たとえば12種類の血液(免疫)細胞を再生する骨髄のステム・セルMSCである。

このようにヒトの身体の成熟細胞はすべてMSCからできるが、MSCの分化は一方的(不可逆的)で、通常は成熟細胞
ステム・セルに戻ることはない。従って、ある特定の組織(器官)の細胞を作るにはESCしかないことになる。しかしESCを使うことは、ブッシュ大統領の時代には倫理的制約があり、研究が行き詰まった。

そこで京都大学の山中伸弥(やまなか しんや:右の写真)は、成熟細胞を人為的にESCのような多能性幹細胞(PSC)に戻すことはできないだろうかと考えた。彼は成熟細胞では不活性だが、ESCでは活性の遺伝子を探し出し、それを成熟細胞に導入すればESCに戻るのではないかと想定し、いろいろな遺伝子成熟細胞に導入(遺伝子をビールスに組み込んで細胞に感染させる方法で導入)する実験を繰り返した。

結論だけ言えば、皮膚の細胞にわずか4種類の遺伝子を導入することにより山中多能性幹細胞を作ることに成功した。できた細胞は induced PSC(iPSC)と呼ばれている。この研究は高く評価され、現在、全世界のステム・セル研究者により山中の方法で、マウス、ラット、サル、ヒトなど、10数種の成熟細胞からiPSCがつくられている。

次の問題は当然、iPSCを分化させて病気の治療に役立つ多様な細胞をつくることができるかどうかである。答えはイエスで、たとえば鎌形赤血球貧血病(アフリカ系黒人に多い遺伝病)のモデルのマウスの皮膚細胞からiPSCを作り、病気をおこす遺伝子正常遺伝子に変えてマウスに戻してやると、iPSC正常赤血球に分化し貧血病が治癒される。

ESCiPSCを使って損傷した組織を再生して、アルツハイマー、パーキンソンなどの大脳神経系の病気、心臓疾患、糖尿病など幅広い病気の治療に利用する研究が活発にされているが、この小文ではふれない。ひとつだけ注意するとすれば、成熟細胞から作ったiPSCガン細胞と似た性質をもっているのでまだ完全に安全とはいえない点であろう。山中の実験でも、皮膚からつくったiPSCをマウス胚細胞に混ぜそれからマウスを成育させると、1/3のマウスに癌が発症した。遺伝子導入にビールスを使うのが原因のひとつと考えられるが、まだ十分解明されていない。

ステム・セルとの関連が出てきたところで、いよいよ本題に入ろう。

MSCステム・セルが細胞分裂して2個の細胞になると、その一つは更に分裂、増殖、分化して多種類の細胞になっていく。もう一つの細胞はMSCとして残るので、ステム・セルの総数は一定に保たれる。身体の中では正常のステム・セル(MSC)組織や器官の限られた場所(ニッチ、nicheとよばれる)に局在している。その近くにはステム・セルが不必要に増殖しないようコントロールする細胞と、必要に応じてステム・セルの活性化をうながす細胞が存在する。このようにステム・セルコントロールされた環境に保護されているが、放射線、有毒物質その他の影響で遺伝子変異が起きるとガン、ステム・セル(cancer stem cell)になる。

しかし、その増殖が抑えられている限り癌発症にはならないが、それに加えて、ニッチの正常な作用を支える遺伝子変異がおきれば、ステム・セルをコントロールする能力が崩れてがはじまる。それがいつ起きるかわからないことが、癌発症を予告できない理由のひとつである。またステム・セル自己再生能力を失わないので、成人期に再生を繰り返す間に遺伝子変異を蓄積すれば極めて悪性のガン、ステム・セルになりうる。

ヒトの(悪性腫瘍)からとった細胞群を調べて、その一部だけが癌細胞であることは、1960年代にすでに判っていたが、技術上の制約から研究が進まなかった。近年になって、細胞を迅速に分離同定する機器(Flow cytometry)が開発され、癌腫瘍をつくる細胞は単一でないこと、また腫瘍を大きくしたり転移したりするのは、ほんの一部の細胞であることが確定された。

したがって、の治療は腫瘍を小さくすることだけでなく、これら悪性のガン、ステム・セルを根絶することに焦点をあわせなければ効果が無い。腫瘍が小さくなってもガン、ステム・セルが残っていればは再発する。いいかえれば、手術で摘出した腫瘍を組織染色して調べ、成熟細胞ばかりであれば再発の心配はないが未成熟細胞(未分化細胞、即ちガン、ステム・セル)が存在すると再発の可能性は高い。

ここまで述べたことから、癌治療にはガン、ステム・セルの根絶が重要なことは明らかであるが、そのために、どのような手段が考えられるだろうか? 現在使われている抗癌剤ガン、ステム・セルだけでなく、正常ステム・セル(MSC)の増殖も阻害するので好ましくない副作用が多い。ガン、ステム・セルに特異的な阻害剤は作れないのだろうか?


身体の多数の細胞が毎日再生され、一定のレベルに保たれていることから判るように、細胞は一定期間が過ぎると自然死(apoptosis: アポトーシス)する。もしガン、ステム・セルの自然死だけを促進することができれば治療につながる。細胞の自然死のメカニズムは可成り詳しく解明されてきているのでこのアプローチは有望である。ガン、ステム・セルステム・セルだから増殖を続けるが成熟細胞に分化させれば増殖能力を失ない、腫瘍が大きくなったり転移することもなくなる。したがって、ガン、ステム・セルの分化だけを特異的に促進する薬物の開発も有用であろう。

ガン、ステム・セルに関する知識の進歩のおかげで、は前世紀に恐れられたほど怖い病気ではなくなってきている。不治の病でなくなる日も遠いことではないであろう。


追記: 2010年10月4日~6日にデトロイト、ルネッサンス・センターのマリオット・ホテルWorld Stem Cell Summitが開催される。詳細は WorldStemCellSummit.comで。
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編集から:私のように医学的な知識に乏しい者には、志知さんが書いた超マクロな顕微鏡下の世界は、中々理解し難い点があります。そこで、色々調べたところ、アニメーションで解説された初歩的な映像が見付かり、『人体の神秘』を目の当たりにし、大いに理解を深めることができました。私程度の医学知識しかない方々に下記のビデオ鑑賞をお奨めいたします。

■ Introduction to Stem Cells (2分52秒)
http://www.youtube.com/watch?v=lWfw5en2MEM&NR=1



■ Stem Cells (7分53秒)
http://www.youtube.com/watch?v=mUcE1Y_bOQE&NR=1


なお、この他にもステム・セルに関する話題の映像が、
記のリンク、YouTubeの関連で数々用意され、ご覧になれます。中級または上級の医学知識をお持ちの方々は、その方面を開拓なさるのも有益でしょう。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

日本では、ガン患者にガンであることを知らせると『死刑の宣告』に等しいと考えられ、周囲が知っていても本人が知らない、という習慣が今でも残っているようです。もう隠す必要がなくなることを願って止みません。