自動車のデザインから見たアメリカの繁栄
----- 1950年代 -----
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第二次世界大戦、特に日米が戦った太平洋戦争が、1945年(昭和20年)8月15日、日本の惨敗で終わりを告げてから、両国は『昨日の敵は今日の友』となり、それぞれが経済規模の格差を意識しつつ、足並みを揃えて経済発展に向かった。
今回は、アメリカだけに焦点を絞り、その自動車のデザインや機能に象徴される発展振りを回顧してみる。戦争中は、アメリカの自動車会社(当時は、ビッグ・スリーと呼ばれるGM、フォード、クライスラーの3社に加えてスチュードベーカー、アメリカン・モーターズ、ジープなどが健在だった)は軍需産業に生産を切り替えていたため、戦後の数年間、国民は極度の自動車不足に悩まされていた。しかし、自動車生産の復活は急速かつ迅速に進み、1950年代に入るまでに各社は生産をフルに回転させ、短時日で供給が需要に追いついた。
一家に一台の車を行き渡らせる、という100万台単位の販売政策目標が容易に達成されるや、次の段階として一家に二台以上の目標が掲げられ、それも順調に達成されていった。更に次ぎの段階では、より豪華に、より高性能に、より美しく、『より優れた、、』外観、内装、仕様が付加され『買い替え』を説得し『消費を美徳』とする観念を消費者に植え付けていった。
当時はまだ自動車デザイナーという専門職業が樹立されておらず、技術者たちがデザインも担当し、クローム・メッキなどの飾り材料をふんだんに使い、尾ひれのついた派手な外観を造り上げた。そのため、洗練された審美眼をもつ人達からは『最も醜い自動車が生まれた時代』とも酷評された。
かくして市場に行き渡った1950年代のアメリカの自動車は、美醜はともかく『アメリカの豊かさ』を謳歌する象徴となったことは事実である。先ずは当時の自動車を振り返って展望してみよう。
1960年代に入ってから、自動車デザインの専門家がそろそろ進出し、派手なデザインは徐々に衰退していった。一方で『より多くの車を売り捌く』販売経営方針は更に強化され『より大型で』『より馬力の強い』車の生産競争が始まった。1970年の初頭にはかつての大型車はより大型になり、かつての中型車はかつての大型車になり、小型車は中型車になり、小型車は生産中止となった。
これがドイツや日本からの小型車の輸入を促進する結果を招いた。輸入小型車の販売台数が、アメリカ全体の自動車販売数の10パーセントにも満たなかった内は、ビッグ・スリーは安穏として軽蔑の対象にしていた。
1975年、そうした楽観性に驕ったアメリカ車の頭上に『第一次オイル・ショック』の鉄槌が撃ち下ろされたのである。外国製の輸入小型経済車は恐るべき勢いで売り上げを伸ばし、ビッグ・スリーの陣容を脅かした。(つづく)
1 件のコメント:
『利益追求』で成功し、繁栄をもたらし、『利益追求』のあまり、目がくらんで衰退したアメリカの自動車産業は、まだ目が覚めていないようです。
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