2011年10月1日土曜日

「恍惚」になる人、ならぬ人


あんた誰?
志知 均(しち ひとし)
20119

有吉佐和子が1972年に出版した「恍惚の人」はボケ老人の看護をテーマにした小説で、老人看護対策がおくれていた当時の日本でおおいに話題になった。耄碌(もうろく)が進んで息子の嫁と孫しか認知できなった84才の父親に「あんた誰?」と訊かれ、実の息子や娘はたいへんなショックを受ける。

当時は老人がボケるのは耄碌だから仕方がない、と片付けられていたが、この父親の症状は明らかにアルツハイマー病(Alzheimer’s disease認知症, 以下アルツと略す)である。有吉はボケ老人を恍惚の人と呼んでいたが、アルツ患者は決して恍惚ではない。アルツの特徴はひどい物忘れに始まって、精神不安定で鬱病(うつびょう)になることもあり、やがて認知障害になり、ものごとの判断や決断ができなくなる。更に脳組織の破壊が進めば最後は人格喪失になる。人格を失った状態は空ろ(うつろ)であって恍惚ではない。

   現在アメリカのアルツ患者の数は540万人にのぼり、2050年には1300万人以上になるといわれている。メデイケア(MEDICARE)などの医療費も年間数千億ドルになるのは確実である。しかし問題の深刻さにも拘らず、アルツに対する一般の関心はガンや心臓病に対するほど高くない。921日が世界アルツハイマー・デーになっていることを知らない人も多いだろう。(編集註:偶然だが、国際平和デーと同日)

大脳上皮細胞に異常な凝集体が付着
アルツの名称は1906年ドイツの精神科医アロイス・アルツハイマー (Alois Alzheimer)が痴呆症で死亡した51才の女性患者(当時は老人年令)の脳を解剖して、大脳上皮細胞に異常な凝集体[プラク(plaque)やタングル(tangle:糸くず状態:右の図参照)]が付着しているのを観察したのに由来する。1960年代にプラクやタングルの数と認知障害の程度との間に相関関係があることが判り、1980年代にはプラクやタングルを構成する物資の本体が判ってきた。1990年代になると、アルツに関係するいくつかの遺伝子[プラクやタングル生成を促進するアポリポ蛋白・E(apolipoprotein E)の遺伝子など]が見付けられた。このような進歩にも拘らずアルツに対する有効な治療法はまだ存在していない。その理由の一つは早期診断が難かしいことにある。

アルツ発病のメカニズムについては一般に次のように説明されている。

タウ蛋白が変化し、不安定になるマイクロチュビュール
まず脳細胞膜にあるAppと呼ばれる蛋白(amyloid-beta precursor protein)が酵素で切られてできアミロイド・ベータ・ペプタイド(amyloid-beta peptideAベーター)が細胞外に放出される。Aベーターは粘着性が高く多数の分子がくっついて凝集体(プラク)をつくる。プラクは近くにある神経細胞に付着してその細胞の中にあるタウ蛋白(tau protein)の構造を変化させ、もつれあった糸くず状態(タングル、tangle)にする。タウは神経細胞内の物流にたずさわる導管(マイクロチュビュールmicrotubuleと呼ばれる)の安定化に大切な蛋白で、タングル状になってしまうと導管が壊れ(こわれ)、物流が止まって細胞は死んでしまう。

顕微鏡で見たタウ蛋白の構造変化
このような一連の変化が記憶をつかさどる脳の海馬部(ヒポキャンパス、hippocampus)の細胞で起きれば記憶力の減退、更に認知障害を起こす。

少し話が逸れるが、遺伝病のダウン症候群(Down syndrome)は早期発病のアルツのモデルと考えられている。ダウン症候群の患者にはApp蛋白をつくる遺伝子のある染色体(chromosome 21)が正常人より余分にあり、Aベーター生成が多いので12才ですでに脳にAベーターの蓄積が見られる。

   このようにアルツのメカニズムがかなり判ってきているにも拘らず、早期診断が難しいのは、早期の『物忘れ』が老化による脳機能の一般的低下によるものか、アルツの始まりなのかという判断が難しいこと、プラクやタングルの蓄積がはっきりするのは、アルツの病状がかなり進んでから、などの理由による。

ペット・スキャンで見たある患者の脳
そこで、2004年頃から信頼できる早期診断法の研究が始まった。記憶テストでアルツの疑いがある患者から、定期的に血液や脊髄液を採取し、Aベーターやタウの濃度を測る。脳細胞にAベーターが蓄積すれば、サンプルのAべーター濃度が下がり、細胞破壊が進めば流出するタウの濃度が高くなるのでアルツが進んでいることが判る。またAベーターに結合する放射性物質を注射し、患者の脳をペット・スキャン (positron-emission tomography scan)で調べて、蓄積するAベーターの量からアルツの進行状況をみる。また記憶喪失がひどくなり、アルツが本格化する段階で脳の大きさが小さくなってくるので、それをMRI(magnetic resonance imaging)で調べる。

このような測定結果を総合してアルツ診断の精度はかなりよくなってきているが、コストがかかりすぎる難点がある。

   Aベーターの凝集でプラクができるのがアルツの始まりなら、それを助長するのは何か?を解明することが重要な課題であり、治療にもつながる。最近の研究によればAベーターがプラクを形成するには脳細胞の損傷でできるタネ(seed)が必要で、脳内にタネをつくるような状況(頭の打撲傷、癲癇、脳炎をおこすビールス感染、薬害など)は、アルツの引き金になるといわれる。


脳には神経細胞間の情報交換に大切なシナプスの作用を守るマイクログリア(microglia)とよぶ細胞がある。これは一種の食細胞(免疫細胞)で脳組織に病理変化が起きた場合、シナプスを作れなくなった欠陥細胞を速やかに除去する。アルツ患者の脳に溜まるプラクには、マイクログリアが取り付いている。マイクログリアは食作用があるからプラクを食べてくれるのは有難いが、反面インタールーキン・1(Interleukin-1)という物質を分泌し、タウ蛋白がタングルするのを促進するのでアルツを進行させる。

その功罪はともかくアルツ発病には免疫細胞が関係する。免疫反応があれば当然炎症がおきる。それを支持するデータとして、非ステロイド系抗炎症剤(ibupofen, aspirinなど)の摂取を続けるとアルツになる確率が下がる、という報告が最近いくつか発表されている。アルツに対する有効な薬や治療法がまだ存在しない現在、安価で簡単に経口投与できる抗炎症剤の効果は注目に値するだろう。

左は正常な脳の断面で、右は機能障害に侵された脳
   谷川俊太郎の詩に「私はかってそこにいた、私はかってここにいた、(中略)私はかってどこかにいた(中略)だが今私はいない、私はここにいない、そこにいない、どこにもいない(後)というがある。自己を失う過程とはこんな感じなのだろうか?

ともあれ、家族や友人が認知できなくなって「あんた誰?」と訊ねるようになったたり、自己を喪失して空ろになることは誰しも恐れる。

精神科医は、アルツにならないためには、万事に関心をもって、積極的に頭脳を刺激する生活態度が大切だという。それを実行して『頭脳正常』100才になった人たちを対象に調べた結果では、73%の人が死ぬまでアルツにならなかった。

これは、頭脳正常で一年でも長生きすれば、それだけアルツになる確率は少なくなる、ということを示す明るいニュースである。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

貧乏ひまなし、あるいは、貧乏性で何かしないではいられない、なんていう人にとってアルツハイマーは無縁かも知れませんね。