2009年8月13日木曜日

裁判官ロバート・タカスギの死

ブルース・ウェバー(Bruce Weber)、NYタイムス紙および
イレイン・ウゥ(Elaine Woo)、LAタイムス紙の報道から抜粋編集

日系アメリカ人で太平洋戦争中、強制収容所に拘留された体験をもつ、US地方裁判官ロバート・ミツヒロ・タカスギ(Robert M. Takasugi)が、昨年来の健康不全で療養所生活をしていたが、去る8月8日死亡した。享年78才。

タカスギは1930年9月12日(昭和5年)、ワシントン州タコマ市(Tacoma)で生まれ、日本軍の真珠湾攻撃の翌年1942年(昭和17年)、排日の空気が最悪の状況に達していた最中に家族はロサンゼルスへ移転した。タカスギ家はアメリカへの忠誠を誓い法律を守る方針で、大統領令9066号が発布され、西部沿岸諸州に住む11万人余りの日系人収容が実施された時、従順にカリフォルニア州ツール・レィク(Tule Lake)の収容所に抑留させられた。時にロバートは11才。

3年間の収容所生活中に、57才の父を卒中で亡くし、絶望の内に公正とは何かを考えさせられ体得した。

終戦の1945年(昭和20年)に出所し、ロサンゼルスに戻り、高校卒業後カリフォルニア大学(UCLA)ビジネス管理を学び学士号を取得、徴兵に応じて朝鮮戦争に出陣、後に沖縄に配属され犯罪調査部門で勤務した。この体験が彼の将来を決定付けたのであろう、除隊後の1959年(昭和34年)南カリフォルニア大学(USC)法律を修得した。


1965年からワッツ地区(Watts)での黒人暴動事件があった1967年まで、大学時代の級友と共に東ロサンゼルス法律事務所を開き、主にメキシコ系の依頼者を扱った。彼らは貧乏だったので、支払いに小銭やメキシコ食品を受け取ったこともある。


1973年、後の大統領ロナルド・リーガン(Ronald Reagan)がカリフォルニア州知事だった頃指命を受けて東ロサンゼルス地方裁判所の役職に就いた。リーガンの後継知事ジェリー・ブラウン(Jerry Brown)は、タカスギをロサンゼルス郡最高裁判所に昇格させた。


1976年、ジェラルド・フォード(Gerald Ford)大統領はタカスギを連邦裁判所の空席に招いた。1996年(平成8年)には主席裁判官に昇格したが、4月に療養入院するまで引き続き事件を担当していた。


タカスギは36年間の豊富な裁判経歴をもつベテランで、話題に上った事件を数多く扱った。その中には、1984年(昭和59年)麻薬売買の疑いで逮捕された元GMの幹部で自社を創設していたジョン・デロリアン(John Z. DeLorean)の裁判も含まれている。この事件が派手に報道されたのは、デロリアンが麻薬の取引をしている現場証拠と思われるビデオを、性的雑誌ハスラーの発行人ラリー・フリン(Larry Flynt)が、各テレビ局に流したことが発端となった。フリンは法廷で星条旗をオムツのようにまとって下品で刺激的な大声でわめき立てた。しかしタカスギ裁判長は、その論争に乗らず、被告を中傷すべく企んだビデオの出所を追求したが黙秘し続けた発行人フリンに対して25万ドルの罰金を課した。22週間に亘る裁判の結果、デロリアンは無罪釈放された。

タカスギは、被告人側に理解があることで定評があり、検察側、弁護側いずれからも人望を集めていた。


1970年代の後半に、当時US法務官だったタカスギの法廷でしばしば対面したアンドレア・オーディン(Andrea Ordin)は彼を評して「タカスギは法廷裁判の進行は公正でなけらばならず、また誰の目から見ても公正だと認められねばならないと信じていた」と語り「彼はまた検事たちに高い見識を持ち、彼らが権力を使って(被告を)圧迫することを警戒していた。私を含め当時の検事たちは、彼のお陰で良き存在でいられた」と付け加えた。


その他にも顕著な事件が記憶に残る。それは25年間に亘る或るカリフォルニア大学の歴史家連邦政府(FBI)との間で争われた訴訟問題である。1960年から1970年代にかけて元ビートルス(The Beatles)のジョン・レノン(John Lennon)が平和運動に関わっていたことから、FBIが国家安全の見地からという名目でレノンの行動を監視、記録していたことが判り、1981年にその歴史家がファイルの公開を求める訴訟を起した。ある時点で、タカスギ裁判官はFBIが「(レノンの)違法な行動の実態」を利用するかどうかを検証するためファイルの提出を求めた。結果として2006年(平成18年)示談の上で10項目の書類が開放された。

アメリカン公民権自由解放ユニオン(American Civil Liberties Union) 南カリフォルニア支部の法律ディレクター、マーク・ローゼンボウム(Mark Rosenbaum)は、タカスギの法廷を何遍も体験した上で「政府が国家安全の名目で事を進めた場合、タカスギは、その理由だけを根拠にして軽卒に法律の効力で(公開を)差し控えさせることはしなかった。彼は『まず私に(妥当性を)証明せよ』と言い、もし連邦政府が証明できなかったら、ためらうことなく即座に書類は一般市民に所属すると判定を下した」と語っている。


比較的最近、2002年にタカスギが裁いた事件は、アメリカン公民権自由解放ユニオンが連邦政府の新しい規則に対して抗議を申し立てた訴訟である。その規則とは、例のナイン・イレブン(Nine-Eleven: 2001年9月11日の同時多発テロ)以降「空港の安全検査官はアメリカ市民でなければならない」と付加された一文である。この訴訟を扱ったタカスギは、こうした規制は「憲法(で守られている権利)の剥奪(はくだつ)」に他ならず、何千人という非アメリカ市民を失職させることになる、と裁定した。その項目は「アメリカ永住権所有者」にも安全検査官を務める資格がある、と修正された。


同2002年、7人のロサンゼルス住人が、イランの反政府グループのため義援金を集めていたのに対して州政府が同グループをテロリストの団体だから募金行為は違法であるとして訴訟を起した。この訴訟に対してタカスギは、反政府グループが『テロリストの団体ではない』ことを反論する機会を与えずして『テロリストの団体』と決めつけることは被告の正当な権利を剥奪することである、として訴訟を破棄させた。


この裁決についてタカスギの息子、ジョンは「父は『愛国条例』を覆して却下した初めての裁判官でしょう」とし、更に「父自身がかつて11才の少年だった頃『国家安全』軍事上の必要』という名分の下に収容所へ送られた犠牲者の一人だったことも、そうした判断を下した要因でしょう」とも語っている。


然り、タカスギは収容所で生活した経験を決して忘れていない。2007年にカリフォルニア大学から公民奉仕賞(Public Service Award)を受賞した時…

「私は歴史の産物です。ワシントン州タコマで生まれ、1942年に11才だった私はアメリカ市民でありながら『敵の捕虜』としてアメリカの収容所に抑留されました。私たちは武装した兵隊に監視され、高い鉄条網に囲まれ、自由社会から隔絶されていたあの収容所を鮮明に憶えています。何の罪もなく、権利を剥奪され、後ろ指をさす人々と対決し、裁判も聴聞の機会も与えられませんでした。私達の罪状は『日本人の血統』を持つということだけでした。

「こうした不幸な歴史から、私は我々の真に自由な政府は憲法の下で、人民の為に、人民に貢献し、政治家たちは代表権を行使しない義務と責任を持ち、高邁な実践を身に付けなければならない、ということを学んだのです。」

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

『公正』を守ることは大変に重要なことですが、しばしば『不正』がまかり通ることがあります。タカスギのような裁判官が存在することで、『不正』から一般市民の権利が守られるのですね。