前回のブログで、服部公一さんの随筆を再録した。音楽家の阿部武雄の遍歴についてで、『国境の町』、『妻恋道中』などを始め、数々のヒット曲を作曲して世に送り出したという話題だった。随筆の中で、彼の最盛期に「毛皮のオーバーを身にまとい、運転手付きでアメリカの高級車パッカードを乗り回していた、、、」とあった。
『パッカード(Packard)』の名を見た途端に、私はある感慨がこみ上げてきた。だが、その感慨はまったく個人的なものなので、ここであえて公開しないが、その代わりパッカードの小伝をご紹介する。 編集:高橋 経
パッカードの盛衰
パッカード社は19世紀の終わりに、オハイオ州ウォーレン市(Warren, Ohio)のジェームス・ワード(James Ward Packard)とウイリアム・ダウド(William Doud Packard)というパッカード兄弟と、ジョージ・ルイス・ワイス(George Lewis Weiss)の3人が共同して自動車会社を設立した。目的はただ一つ『3人が満足でき、他社の車に負けない高品質の自動車』を製造することにあった。
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1904 Packard Tourer |
明けて1900年9月、オハイオ自動車会社(The Ohio Automobile Company)が発足し製造にとりかかった。パッカード車の出だしは好調で製品の評判も上々だった。それと同時に競争会社が続々と誕生し、いずれも新車の名にオハイオの名を冠し始めた。創立2年後1902年10月13日、そうした紛らわしさを避けることと、「社名と車名」が違う不都合さもあり、正式に社名をパッカード・モーター会社(The Packard Motor Car Company)と変更した。
パッカード社は発足以来、その製品の自動車に次々と革新的な機構を導入した。今日のステアリング、空調(エアコン)、その他、贅沢な装備も付け加えた。こうした改革は効率のよい大量生産方式ではできない一品製作の利点でもあった。
パッカードの最盛期は1930年代で大恐慌時代と重なるが、弱肉強食の時代でもあり、第二次世界大戦の国策協力一辺倒の多難な時代でもあった。合併、吸収、倒産などで数多くの自動車会社は淘汰されていった。その中でパッカード社は戦後まで生き残ったものの、1959年にスチュードベィカー社(Studebaker)に吸収されてしまった。当初はスチュードベィカー・パッカード社として車名も存続させていたが、1962年、意欲的で斬新な新車アヴァンティ(Avanti)が完成したのをきっかけにパッカードの名前は除去された。
またこの陰には、他社ダイムラー・ベンツ社(Daimler-Benz)など海外企業の介入があり、その企業戦略や、輻輳した軋轢のため、あえなくもパッカードの名は永久に消滅してしまった。といっても、現存する数少ないパッカードは、所有する愛好家によって大切に保存され続けると信じている。
以下、懐かしの名車アルバムの一部をご紹介し、かつての栄光を偲ぶよすがとしたい。
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1912 Packard Model Thirty |
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1916 Packard Twin Six |
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1914 Packard: The Six-Cylinder Model 4-48
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1927 Packard Model 426 Runabout |
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1919 Packard: Twin Six Town Car by Fleetwood
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1928 Packard: Model 443 Raceabout |
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1930 Packard: Model 840 Custom Phaeton |
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1930 Packard Deluxe Eight Roadster |
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1930 Packard: 4-Door Convertible Sedan by Dietrich |
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1930 Packard: Speedster Model 7-34
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1931 Packard Model 833
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1934 Packard: Model 1108 Sports Sedan |
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1934 Packard Show Car (Special windshield trim and hood ornament |
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1934 Packard Model Eight-1101 Convertible Sedan |
1 件のコメント:
アメリカの職人気質とでもいいましょうか。
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