高橋 経
ミシガン州の南、オハイオ州との境界から20キロほど北にエイドリアン(Adrian)という小さな街があり、その街外れの広大な敷地に聖ドミニコ会の尼僧院(Dominican Sisters Campus:上の写真)がある。煉瓦建てのコンプレックスは、二つの礼拝堂、教会、集会所、アパート、養護施設などで構成され、その奥には墓地、庭園(上の写真上部右の円)などがゆったりと配置されてある。創立が1905年だから一世紀以上の歴史を持つ。過去に何度か改築、増設されて今日の施設に発展した。
さて話題は尼僧のことではない。その庭園の一郭にあるラビリンス(Labyrinth)についてである。
ラビリンス(左の図)とは、迷路、迷宮、のことで、やや神秘がかった意味合いを持っている。このドミニコ会の庭園にあるラビリンスのパターンは、特に珍しいものではなく、同じパターンのラビリンスは世界中に散在しているようだ。デザインは一見複雑だが、脇道もなければ、行き止まりもない。円周の一点から入り、曲がりくねった小径(こみち、path)を歩き続けると、誰でも結果として中央の花型地点に辿り着く。これでは迷路ではない、日本語の翻訳が間違っているのではないか、と思ってメィズ(maze)の日本語訳を調べてみると、迷路、迷宮、とほぼ同じ解釈になっている。
念のため、ゲームのラビリンス(右の写真)を調べてみた。これには脇道あり、落し穴ありで、微妙な操作と練習が要求される。それでも、径路は一目瞭然で、道に迷うことはない。ただパチンコ風の鉄の玉が思い通りに転がってくれないから、穴に落ちたり、道を逸れたりする。
ドミニコ会の庭園にあるラビリンスが迷路ではないと断定し一旦は失望したものの、かくも優雅にして荘重な尼僧院が、人手をかけ良質の材料を使い、成人が何人も歩けるラビリンスを造成するからには何か特別な意味があるのではないかと思い直し、年配の尼僧にその意義を伺ってみた。彼女は親切にかつ優しく;
「このラビリンスは、瞑想(めいそう)して精神を修養する手段として古代から伝わり、世界中に広まった伝統です。古代人は『円』を調和、健康な精神、高潔、善意などを象徴する聖なるシンボルと考えていました。最古のものは3,500年前に遡り、クレタ島・ラビリンス(Cretan Labyrinth)と謂われ、また『古代の7つの同心円(the Classical Seven Circuit Labyrinth)』という別名もあります。同心円は、自然の現象;例えば『年輪』、『草の蔓』、『巻貝』などの螺旋形から暗示を受けて創作されたのであろうと推測されています。」とラビリンスの由来から説明してくださった。(左の像は聖ドミニコ)
という訳で、数々のヘアピン曲折はともかく一本道だからと漫然と歩いて中心に辿り着き「誰にでもできる」とバカにしていたら何の啓発にもならないのだ。ゆっくり静かに歩きながら、瞑想に耽り、思考し、苦吟し、精神の修養を積み重ね『人生の答え』を探求するため己(おのれ)を無心の状態にするために、ラビリンスという場は絶好の環境設定なのである。
どうやら、この考え方は仏教の座禅と共通するものがあるようだ。
1 件のコメント:
人間は『考える葦』だと誰かが言っていました。
考えることは、宗教的な理由ばかりではありません。考えて、考えて、人間は成長するのでしょう。
政治でも経済でも「下手な考え、休むに似たり」と言わず、やっぱり考えて良い方法を見付ける方がいいですね。
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