大津光男(おおつ みつお)
普連土学園(ふれんど がくえん)財務理事(元事務長)
2009年11月24日
同学園中学・高等学校の礼拝での講話から抜粋
2009年11月24日
同学園中学・高等学校の礼拝での講話から抜粋
[註:普連土学園について詳しいことは、本ブログの4月に公開した『女子教育の先駆者たち』をご覧ください。]
皆さんお早うございます。初めに新約聖書「ヨハネによる福音書」(The Gospel according to JOHN)、第15章の12節から15節までを読みましょう。皆さんが良く知っている箇所です。
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕(しもべ)は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことを、あなたがたに知らせたからである。」
先週、私はアメリカから来た友人と47年振りで会っていました。47年前、その友人ブルースター・グレイス(Brewster Grace)と私は千葉県の養護施設で行われた3週間に亘るアメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee: AFSC)主催の国際学生ワークキャンプという奉仕活動のリーダーを務めていました。
ブルースターは、当時大学を卒業したばかりで、良心的戦争反対者あるいは良心的兵役拒否者(Conscientious Objector: CO)として、徴兵される替わりに奉仕活動をするため、初めて来日しました。そして、彼の相手として日本人の学生から選ばれたのが私だったのです。ブルースターの母親はクエーカーでしたから、親ゆずりのクエーカーです。その後、私はフィリピンや韓国など海外での奉仕に携わったり、国際学生セミナーに参加したりして、名古屋で就職しましたので、ブルースターとはずっと会う機会がありませんでした。
一方ブルースターは、日本で4年間の奉仕活動を終えてから帰米し、コロンビア大学(Columbia University)の大学院に進み勉強に励み、卒業後はクエーカーの国連オフィス(Quaker United Nations Office, Geneva, New York)に勤務、パレスチナやジュネーブなどに駐在し、定年で退職するまで世界平和に尽くす活動に参加していました。
ブルースターの話はまだ先がありますが、その前に今朝は、犬の話をいたします。
私は、小学校高学年から中学生だった頃、雑種の日本犬を飼っていましたが、この犬が死んでしまった後、この何十年間というもの犬を飼っていません。
犬と言うと、私は子供のころ読んだ童話の中に『桃太郎』とか『花咲かじいさん』があります。が、桃太郎の家来になった犬の名前が思い出せません。花咲かじいさんの犬は童謡ではポチで、童話ではシロでした。
南極で一年間置き去りにされ、生き延びて戻ってきた2匹の樺太犬の名前はタローとジローでした。
アニメ映画で印象に残っているのは『フランダースの犬』です。主人公の少年ネロと犬のパトラッシュが天に召されてゆくラストシーンは、今でもまぶたに浮かんできます。
現在、NHKラジオで耳にしているのが英語の『リトル・チャロ』の心温まるドラマです。公園に捨てられた子犬で、雪の降る朝、翔太(しょうた)という8才の心やさしい少年に拾われ、耳が茶色と白なのでチャロと名付けられました。翔太一家に連れられアメリカ旅行に出たチャロは、旅先で家族とはぐれて取り残されてしまいます。自分の誕生日を知らないチャロに、ドレッドという野良犬が「お前が拾われた雪の降る日曜の朝はいつでもお前の誕生日だ(every snowy Sunday morning will be your birthday)」と元気付けます。
上野公園の入り口にある西郷隆盛の銅像には連れている犬がいます。西郷さんの愛犬、その名はツンです。
渋谷駅前にある犬の銅像の名はハチで、大正13年(1924)に東大農学部の上野英三郎(うえの えいざぶろう)教授に飼われた犬です。上野教授が現職中は、ハチは毎朝門前で、時には渋谷駅まで送り迎えしたそうです。その上野教授は、大正14年(1925)5月21日に亡くなりましたが、ハチは、毎夕渋谷駅前で主人の帰りを待ち続け、その忠犬ぶりが東京朝日新聞の記事によって世間一般に知れ渡り「忠犬ハチ公」と呼ばれて銅像になったのです。
犬の話は尽きませんが、47年振りで再会した旧友の話に戻ります。今回ブルースター・グレイスと待ち合わせした場所は、渋谷の「忠犬ハチ公」の銅像の前でした。 ブルースター・グレイスは、退職した後もAFSCでの委員会活動を続けていますが、夫人はアメリカ北東部のメイン州(Maine)でブリーダー(Breeder)という血統書付きの犬の飼育をして、育てた犬を売る仕事をしているということです。
ところで、日本には現在700頭の盲導犬(もうどうけん)がいるそうです。(上掲の盲導犬を連れた盲人たちの写真は本文の話とは直接関係はありません) 先々週、ブルースターに会った翌日、私はたまたま鎌ヶ谷大仏という駅から船橋駅までバスに乗りました。バスの中に盲導犬に手を引かれた目の不自由な方が乗ってきました。盲導犬はおとなしく、女主人の座席の隣の通路におとなしく座り、その従順さには感心させられました。
日本で最初の盲導犬『チャンピイ』を育てたのは、塩屋賢一(しおや けんいち)さんという結核を患っていた犬好きの方でした。その塩屋さんが、18歳で失明した河相洌(かわい きよし)という方から、まだ1才に満たないチャンピイという名の犬を訓練して欲しいという依頼を受け、その犬を引き受けました。チャンピイは、子犬の頃は耳が垂れていましたが気性が荒く、喧嘩に強い犬でした。
塩屋さんは訓練のため、自分は目隠しをして犬と一緒に歩いていたのですが、そのため溝に落ちたり、自動車にはねられそうになったりしました。塩屋さんはその都度、犬をどやしつけていました。次第にチャンピイは塩屋さんを怖れるようになってしまったのです。
そういう猛特訓中に塩屋さんは吐血して倒れ、犬の訓練はできないと諦めかかりました。その時、他の失明者が上京して、自分のために盲導犬を育ててほしいと要望されました。それで、塩屋さんは目の不自由な人の気持を思い、訓練を続けることにしたそうです。
その頃から、犬は主人の言うことは聞くが、犬自身が状況を見て危険かどうかを判断することはできないから、それを教えなければならない、ということに気が付いたのです。それからは、状況を判断するための訓練を始めました。すると奥さんから、そんなことをしていたら命が持たなくなると反対され、それが元で夫妻は口論になっていました。すると、それまで部屋の中で飼っていた愛犬がそっと出て行き、夫妻の父親を連れ帰ってきたのです。その犬の行為から塩屋さんは、盲導犬を訓練するとき、犬の失敗を叱り飛ばすのでなく、よく出来たときに誉めることが大切なのだと悟ったのです。
それからは、チャンピイと起居を共にし、血を吐くほどの苦労を重ねながら10ヶ月もの間、愛情を持って接した結果、立派な盲導犬に育て上げたのでした。
そして、初めて依頼を受けた目の不自由な河相さんに「さあ、一緒に、郵便局まで切手を買いに行ってください」と言ってチャンピイを返します。盲導犬として役に立つかどうかを見極めるテストでした。そのテストの際、チャンピイは階段の踊場で立ち止まり、そこが危険であることを知らせ、無事にテストに合格し、日本で最初の盲導犬として飼主のために働き始めました。それは昭和32年(1957)、私が高校2年のときでした。
それから10年が過ぎました。ある日、河相さんとチャンピイが散歩していた時に、大きな犬から喧嘩を売られたのです。子犬の頃は気性が荒く決して他の犬に負けていなかったチャンピイでしたが、その猛犬に対しては最後まで応戦を拒み続け、飼主の河相さんを守るため忠実に、従順にしていました。その結果、猛犬に右足を噛み砕かれてしまったのです。それが原因でチャンピイは12歳で死んでしまいました。
現在「東大・京大で一番読まれた本」としてベストセラーになっている外山滋比古(とやま しげひこ)著の『思考の整理学』という文庫本があります。その中に『ホメテヤラネバ』とカタカナで書いた小見出しの文があります。私はそれが真実であることを、チャンピイを盲導犬として訓練したいきさつから教えられました。人間にでも動物にでも、何かを教えるのに大事なのは『ほめる』ことが大切だと思います。
飼い主を守ろうとして、結局は死んでしまった盲導犬チャンピイ、あるいは、チャロのドラマの中で、人間嫌いになっていたドレッドが、命懸けで火事の猛火に包まれた女性警官を救ったのは何故だ?とチャロに聞かれ「お前のせいだ、、、because of you,」と、ドレッドはか細い声で答えました。フランダースの少年ネロを守った犬パトラッシュは、何の報酬も求めませんでした。
これは、犬のこととはいえ、先ほどの聖書の中の友のために命をささげた大きな無償の愛の話と同じです。そして、犬は飼い主の『僕(しもべ)』ではなく、その人にとって最も大切な『友(フレンド)』であるのです。盲導犬第一号、チャンピイの墓石には「ありがとう」と彫られてあります。無償の愛に、どれだけ目の不自由な人たちが助けられているか。この盲導犬の愛は、あたかも、十字架に掛けられ人間の罪を贖い救おうとされたイエス・キリストの愛を示しているのである、と私は教えられたのです。
私の友ブルースター・グレイスは、青年のときから戦争に反対し、クエーカーとしての役割を十分に果たし、退職後でもAFSCでの多くの活動に献身的に奉仕しているのです。私は、この友が今回日本に滞在した僅か12日間の間に、彼と過ごした何回かの貴重な時間を心から楽しみました。
ブルースターが帰国する前日、この友と私は、午後は加藤幹雄(かとう みきお)理事と、夕方には48回生菊地勝子さん、54回生シュモー・トミコさん、68回生伊藤幸子さんらの卒業生と一時を過ごしました。その際、普連土学園の戦後のワークキャンプという奉仕活動の思い出や、その他の活動について懐かしく語り合いました。
この学校の歴史を調べている私にとっては、思いがけず神様の与えて下さった素晴らしい恵みの時間だったと感謝しています。
1 件のコメント:
若い時、失敗をして叱られると、「自分が悪かったのではない」理由を探したものです。反対に些細なことでも褒められると、ヤル気になって励みになりました。
誰でも、この反応は万人共通だと思います。
年をとっても変わりません。
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