2009年7月9日木曜日
訃報:マンザナ収容所を記録した男
去る5月21日、且つてマンザナ収容所(Manzanar)の体験記録を書いた二世記者、トウゴ・タナカ(Togo W. Tanaka)が老衰のため、93才で亡くなった(上の写真はトウゴ26才の時)。
トウゴ・タナカは、先日亡くなったロバート・マクナマラ元国防長官と同年、1916年(大正5年)1月7日オレゴン州ポートランド市で日本から移民した両親の元に生まれロサンゼルスで育った。ハリウッド高校(Hollywood High School)を卒業してカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で政治学を専攻、1936年修士号を取得して卒業、日米関係が険悪になってきた1941年(昭和16年)には25才で、ロサンゼルスで発行されていた日米両国語の日刊新聞『羅府新報(らふしんぽう)』で英語面の編集者として働いていた。
同年12月7日(日本時間で8日)、日本軍の真珠湾攻撃で日米が開戦し、羅府新報は当然のように発行停止となり(左の写真は最終刊を検討する編集者たち。右がトウゴ・タナカ)、同時に西部沿岸の諸州(ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州、とアリゾナ州の一部)が戦略上の危険地域に指定され、そこに住む日系人は全て『敵性民族』と見なされ撤去させる計画が強く提案された。
同時に、地域社会の指導者や、トウゴを含むニュース記者、編集者などがFBIによって検挙拘留された。10日以上も経ち、結局何の罪状も見当たらず、また検挙の理由も説明されないまま釈放された。
翌1942年2月19日、日系人撤去の計画は最終的にルーズベルトが『大統領令9066号』に署名して発効し、上記の諸州に住んでいた11万9千803人の日系人は家屋財産を放棄させられ、全米10カ所の収容所へ送られた。
トウゴ・タナカが送られたのは、カリフォルニア州、シエラ・ネヴァダ山脈東側、オウエンス峡谷(Owens Valley)の砂漠地帯に急造されたマンザナ収容所(上のイラスト:高橋経画)だった。同収容所は10カ所の内では最大で、1万人前後の日系人が収容された。
そこで、トウゴは身に付いた記者としての職務を自発的に遂行した。撤去の成り行き、その施行、収容所の生活、その管理、などなど全てを克明に記録し続けたのである。そのファイルの多くには、収容所の管理や方針に対する批判も書かれていた。その中で「普通に生活を営んでいた一般の人々がある日突然、鉄条網に囲まれ、その四隅の塔に機関銃を構えた見張りが立ち、その囲いの中の全てが苦々しく、希望のかけらもない環境の中に放り込まれる、などということが起こり得るとは考えられなかった」という一節が見出される。
日系アメリカ人の歴史に関する専門家、南カリフォルニア大学のロン・クラシゲ教授(Lon Kurashige)はトウゴの記録について「彼が遺したマンザナ収容所の生活に関する豊富な記録で埋められた日記は、希少にして知性に溢れた内容で、収容所の生活を通じて、戦前のロサンゼルスにおける日系アメリカ人の生き様を如実に反映させている」と高く評価している。 トウゴは精魂をこめ、政治的に分裂した派閥争いも含めて収容所生活のあらゆる面を記録し続けた。
カル・ステイト・フラートン(Cal State Fullerton)の歴史とアジア系アメリカ人の研究家、アーサー・ハンセン(Arthur Hansen)名誉教授は「トウゴは彼の記録作業のため事件に巻き込まれるという災難にも遭った」と語っている。トウゴは、ためらいなく政府の方針を支持していた。そうした政府に協力的な態度から、従順に家や財産を放棄して鉄条網の囲いの中に住む『法を重んずる日系アメリカ人』というレッテルを貼られた人達の部類に属していた。
真珠湾攻撃から1年後マンザナ収容所で不満分子たちが、トウゴその他の『遵法(じゅんぽう)主義者』たちを傷つけようと暴動を起こした。トウゴは辛くも難を免れたが、暴動が鎮圧された後、2、30名の被害が予測される『遵法主義者』たちは危険から守るという名目で、デス・ヴァレィ(Death Valley)の収容所に移された。 後年、トウゴは当時を回想し「政府の方針に従順な態度で従ったことで、収容所の不満分子たちからスパイ、通報者、イヌ、などと呼ばれていることに気が付かなかった」と同僚や他の歴史家たちに述懐していた。
彼の息子ウエスリー(Wesley)は「政府から自由を剥奪され、同胞の日系人の一部から裏切り者と目されていた父は全く孤立していたようです」と語っている。
羅府新報時代にトウゴは、社説に「アメリカで生まれた二世は、アメリカ国民として国家に忠節で愛国心を持たねばならない」と書いていた。ベテラン記者で、1930年代にトウゴの下で働いていたハリー・ホンダ(Harry Honda)は「彼は大勢の二世たちの精神的な支えになっていた」と評価している。
1943年、収容所は徐々に解放され、トウゴは出所してシカゴに移り、各地の収容所から出所してきた日系人や、ナチの収容所から脱走してきた亡命者たちの住居や職業の斡旋をするクエーカー教団(American Friends Service Committee)が推進していた援護運動に参加して働いた。
戦後は陰鬱な思い出がつきまとう新聞社には戻らず、シカゴの教科書出版社の編集長を務め、後にアジア関係の内容を掲載するシーン(Scene)という雑誌の発行を始めた。
1955年、カリフォルニアに戻り、商業出版の会社を創設。1963年、不動産関係のグラマシー・エンタープライズ(Gramercy Enterprises)を設立して事業を成功させ、1985年に引退して役員会長となった。
2005年、マンザナ収容所を訪れた時、史跡記念物として展示されていた彼自身が60年以上も前に使っていた懐かしいデスクやタイプライターに巡り逢った。トウゴを迎えた公園課の職員リチャード・ポタシン(Richard Potashin)は「トウゴから展示に助言を頂いたり、正に生きた歴史に出逢った心地で感激しました」と語っていた。
トウゴ・タナカの遺族は、妻のジーン・ミホ(Jean Miho)、息子と娘が3人、孫が5人、曾孫が8人ということだ。
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1 件のコメント:
動乱の時代を背景に、大きく揺さぶられた一生を終えたのはアメリカの日系人だけではありません。第二次世界大戦の記憶が風化しつつありますが、人類は依然として憎み合い、殺し合っています。誰もが、武力の争いで世界は安定しないことを自覚しなければなりません。
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