2010年2月11日木曜日

アメリカ日系人の受難:前編

真珠湾攻撃の前後

はじめに:今から70年前、1940年から1942年の早春までの間に、アメリカ日系人、特に西部沿岸州に居住していた移民およびその子や孫たちが、政治的、経済的に人種差別の圧迫を受けるという受難に遭っていました。その経過については膨大な記録が残っています。

しかし、ここではその全てをお伝えするのが目的ではありません。
お伝えしたいのは、次の後編で、日系人を差別せず、友愛に基づいて支援行動をとったアメリカの人々がいた事実についてです。従って、ここでは要点だけ箇条書きにしました。この背景を前提としてご承知いただければ、次回の『後編』の内容を充分にご理解いただける筈です。

なお詳述に興味のある方は、高橋経の著書『還らない日本人(日本語)』または『A Passage Through Seven Lives (英語)』をご参照ください。


1940年
  • 国防の一環として、外人登録法が議会を通過。14 才以上の外国人は指紋を添えて登録しなければならないことになった。
  • 二世の組織、日系アメリカ市民協会 (Japanese American Sitizens League: JACL: 1929年創立) が、オレゴン州、ポートランド市で総会を開く。席上、マイク正岡委員(右:40年後、1980年頃の写真)は、協会の今後の方針として、アメリカに忠誠を尽くす姿勢を打ち出すよう提案、多くの支持を受けて会長に選出された。
  • 3月9日、同協会の指導者グループは、ロサンゼルス市会の評議員と会見、二世の忠誠を約す。
  • 続いて 3月21日陸海軍情報局の代表に会見『国策に協力する』ことを約す。
1941年
  • 7月26日、アメリカ合衆国は、日米通商友好条約を破棄し、日本国籍の在留邦人の財産を凍結。
  • 8月、日本政府は、在日アメリカ人約100 人に対して、帰国停止処分をとった。
  • 8月18日、ミシガン州選出民主党のジョン・ディンゲル (John D. Dingell) 議員は、フランクリン D. ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt: 1882~1945 右の写真) 大統領に「アメリカ本土とハワイに居住する日本人を人質として拘留し、日本軍の攻撃意欲を鈍らせる」ことを書簡で提案。ホワイト・ハウスはこれを検討、ジョン・カーター (John Franklin Carter) に命じて独自の調査を行う。
  • 大統領は、平等就労の機会について委員を集め、聴聞会を開き、JACL の代表を呼び事情を聞く。席上マイク正岡は、国防関係の職種で東洋人が差別を受けている、と証言。
  • 駐米大使館の森村副領事という名で知られている吉川武雄海軍少尉は、アメリカ海軍の主力、太平洋艦隊ハワイの真珠湾に集結していることを日本側に報告。
  • ハワイに在住し二重国籍をもつ 3万人の日系二世が、日本国籍を放棄することをコーデル・ハル (Cordell Hull:右の写真) 国務長官に申請。
  • 元海軍士官ジョン・ファンワース (John Fanworth?) 他 1 名が、日本側のスパイ容疑で逮捕、起訴される。
  • 9 月、戦時局は、二世ジョン・フジオ・アイソ(左の写真)を長とする情報学校の新設を許可。同校は第4陸軍部内に所属させる計画。
  • カリフォルニア州のカーチス・B.マンソン (Cirtis B. Manson) 代議員は、非公式に JACLマイク正岡会長木戸三郎に会見、日米開戦の回避や、アメリカ国内の日系人の安全について協議。
  • 駐米大使、野村吉三郎(のむら きちさぶろう:右のイラストの左側)来栖三郎(くるす さぶろう)は、アメリカ政府に対し、日本への石油輸出停止を撤回すること、中国への軍事援助を中止すること、在留邦人の財産凍結を解除すること、などを申し入れ、その交換条件として、日本軍のインドシナ、中国大陸からの撤退を提示して交渉。ハル国務長官はこれを拒絶。
  • 10月23日FBI 員が二名がロサンゼルスの日本語新聞、羅府新報(らふしんぽう)社の主筆、藤岡紫朗(ふじおか しろう)を訪れ、訊問した。さらに藤岡は FBI 事務所へ任意同行を求められ、延べ 14 時間、深夜 11 時まで、文筆活動の内容、交友関係、収入源、日系人団体の動向、徴兵猶予の請願の事実の有無、日本軍部との関係など、微に入り細にわたって究明された。この取り調べ中、FBI 係官数名が、日本人組織中央日会の事務所、羅府新報社を捜索、証拠になりそうな書類をすべて押収した。
  • 11月、滞米に見切りをつけた一世や二世が、続々と帰国。
  • 12月7日(日本時間で 8 日)日曜日の未明、大日本帝国海軍は、ハワイの真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、多大の損害を与えた。山本五十六(やまもと いそろく)司令長官の計画では、攻撃数時間前に宣戦布告の通諜をワシントンに届けるはずだったが、領事の手違いでそれを手渡すのが遅れ、結果的に『奇襲』になってしまった。後日それを知った山本長官は、烈火の如く怒った。
  • 8日、アメリカは日本の正式な宣戦布告に応じ、日米は戦闘状態に入る。
  • JACL の木戸三郎会長は、ルーズベルト大統領に打電し、二世の忠誠を誓う。折しも遊説中のマイク正岡は、ネブラスカ州で逮捕され、ユタ州のエルバート・トーマス (Elbert D. Thomas) 議員の尽力で一旦釈放されたが、サンフランシスコへの帰路、ワイオミング州のシャイアンで再び逮捕、投獄、またまたトーマス議員の口ききで釈放。その後は、FBI の監視つきで旅行を続ける。
  • 12月8日付け、ロサンゼルス・タイムスは、カリフォルニア州を危険地帯とする次のような論説を掲げた。【西部の伝統、自警団よ、起て!敏活にして鋭い目を持った義勇の市民は、軍当局に協力して、スパイ、サボタージュ、などに対処してもらいたい。当地には、何千何万という日本人が住んでいる。多分、その中のある者は良きアメリカ人であるかも知れない。しかし、全ての日本人が善良だと判断するのは危険である。先年実証された、彼等独特の背信、二枚舌で裏切られる可能性は充分に考えられる。(後略)
  • 真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊が受けた打撃の詳細は、数時間後に伝えられた。ルーズヴェルト大統領は、この日のことを破廉恥(はれんち)の日 (The Day of Infamy) 』と呼び、アメリカ史上初めて、挙国一致の気運を盛り上げるきっかけとなった。
  • 12月9日、羅府新報の編集者トーゴ・タナカ(左の写真の右端)は、KHTR 放送を通じて二世たちに「アメリカ市民として、日本のスパイに対抗できる我々の特殊才能を発揮する時がきた。アメリカ合衆国にとって好ましくない言動をとる日本人がいたら警告を与え、FBI、海軍情報局、警察などに報告すること」と呼びかけた。タナカはこの放送の直後、FBI に逮捕され、以後11日間、3ヵ所の監獄に転々と拘留された。時を同じくして、FBI のブラック・リストに名を連ねていた 1,370 人の日本人が一網打尽となった。
  • 陸軍のジョン・デ・ウィット (Lieutenant General John L. DeWitt) 中将が指揮する西部国防司令部 (Western Defence Command)と、第4陸軍部に兵力が増強された。が、その兵隊の殆どが黒人だったことで、中将は司令部に不満の電話をかけ「今、ここではジャップの真珠湾攻撃で、大衆が神経質になっている。ただでも有色人種が大勢いる所へ黒人を送り込まれてはやり切れない。白人の兵隊と替えてくれ」と申し入れた。
  • デ・ウィット中将の副司令官で、カリフォルニア防衛作戦の責任者ジョセフ・スティルウェル少将 (General Joseph W. Stilwell) は、日記に12月8日。日曜の夜。サンフランシスコに敵機襲来のデマ。第4陸軍部は神経が尖り過ぎている】と記した。
  • 12月9日。日本海軍の艦隊 34 隻が西部沿岸に接近中との報告あり。誤報。
  • 12月9日、陸軍のブレホン・サマベル補給隊指揮官は、敵性外国人および捕虜の収容所設置の命令を出す。デ・ウィット司令官の認可を受け、FBI のブラック・リストに基づく2,000 人の容疑者を収容できる 3 つの建物が、直ちに着工された。
  • 12月10日デ・ウィット司令官は、サンフランシスコに側近を集め、緊急会議を開いた。席上、サンフランシスコ湾近辺に居住する 2万人の日系人の今後の挙動に関する憶測が議題の中心となった。財務担当のある高官は「その日本人達が結束して行動に移ろうとしている」と発言し、サンフランシスコ地区のFBI 局長ナット・パイパー(Nat Pieper) 「途方もない妄想」と一笑に附された。2万人とは、婦女子や老人が含まれている数字だったからである。にも拘らず、この発言は、過敏になっていた出席者一同の神経を刺激し、後日の日本人隔離の実現につながった。
  • 開戦と同時に検挙された日系人は、姓名、年齢、職業、家庭の状態などが記録され、全裸の身体検査を受け、囚人服を着せられて監獄に拘留された。
  • スティルウェル少将の日記から。12月11日。第 4 陸軍部から「サンフランシスコ沖、100キロの海上に、日本の主力艦隊が現れた、、、」と、電話で通報あり。阿呆のように私はこの情報を信じた。勿論、第4陸軍部はこの報告の責任を取らない。彼等は、「信ずべき筋から、、、」と言っていたが、相変わらず確認してないに決っている。】
  • 12月11日ジョージ・マーシャル (George C. Marshall:左のイラスト) 参謀長は、太平洋沿岸を戦略地域と指定する。これは、特に日系人を意識していたわけではなく、すべての市民を軍隊の統制下に置くことによって、法的に作戦の遂行を容易にする、という意図に基づいたものである。
  • スティルウェル少将の日記から。12月13日。第 4 陸軍部は、性懲りもなくデマ情報を寄こす。10時半「信ずべき情報によると、敵がロスサンゼルス攻撃を計画していることは間違いない。一般への警報の用意が必要」といった調子だ。どこの頓馬が、こんな状況下で警報を発して、軍需工場の労働者から一般の市民までの大群集をどこへ避難させるというんだ。第4陸軍部の情報部はシロウトに違いない。司令部の頭が確かなら、冷静でいてもらいたい。】
  • 12月15日フランク・ノックス (Frank Knox) 海軍長官は新聞記者会見で「今次大戦で、スパイが最も活発に暗躍した舞台はノールウェーだ、という可能性以外では、ハワイであろう」と言及した。
  • 12月19日デ・ウィット司令官は、西部地区に居住する 14 才以上の敵性外国人 4万人を撤去、隔離することが急務である、と公式にワシントンに提言した。この敵性外国人 4 万人とは、日系人に限った数字で、5万8,000 人のイタリア系2万3,000 人のドイツ系は含まれていない。ワシントンの返事を待たず、デ・ウィット中将は、憲兵司令官アレン・ガリオン少将 (Provost Marshall General Allen W. Gullion) と連絡をとり、日系人撤去作戦の決定を迫った。ガリオン少将は、撤去案を許可する前に「合衆国の軍隊は、一般市民に対する支配権を持っていないが、連邦政府の軍隊なら、その権限を持ち得るだろう」と、公式の声明で答えた。この時、ガリオン少将戒厳令の可能性を考えていたものと思われる。
  • 12月17日、開戦と同時に逮捕された日系人 1,370 人は、10 日間の取り調べに基づき危険度』で分類され、サン・ピドロ監獄、ミゾラ監獄などに監禁された。
  • ガリオン少将は日系人の撤去案に積極的で、この管轄を、司法局から戦時局に移すよう奔走。12月22日には、ロサンゼルスの商工会議所代表が訪れ、全ての日系人の撤去を強硬に要請。その4日後、ガリオン少将デ・ウィット中将に電話でその会見の模様を伝えた。デ・ウィット中将は、それに対して「西部一帯に居住する 11万7,000 人の日系人を移動させることは、常識では難事業だ。また、大半の日系人はアメリカ市民権を持っている。勿論、その全員が合衆国に忠誠かどうかは疑問だが、もしその時は必要に応じて危険人物だけ逮捕すればよい」と答えた後「この計画は、民事側から手を回した方がうまくいくだろう」とも示唆した。
  • 一方、二世達は合衆国への忠誠を示すため、あらゆる手段を講じたが、あまり効果はなかった。それどころか軍隊は、12月7日以前に登録された二世まで体格上の欠陥を理由に、不適格者として兵役を解除した。
  • 開戦以来の各種新聞の見出しから。
  • 日本人、ドイツ人、イタリア人、の収容所を作り、敵が人質を殺す度に、報復としてその収容所の囚人を殺そう。
  • オスワルド・ガリソン・ビラード (Oswald Garrison Villard) 《アメリカの掃き溜め》と呼んでいる三流新聞から)◇ジャップの船が、沿岸と電光で交信。
  • カリフォルニア沿岸に敵機現れる。
  • 地図を持った二人のジャップを逮捕。
  • ベイ・シティで、カメラを持ったジャップを逮捕。
  • ジャップ農園のトマトの袋は、空軍基地の方角を示す暗号。
  • ジャップが、重要な情報を東京へ流す。
  • チンク(中国人)(移民の)ジャップと見分けられる。
  • ジャップの陰謀が、地図で発覚。
南カリフォルニアの、防衛作戦地帯の動静を
探知する外人情報網。
  • ジャップの沿岸奇襲計画。
韓国人スパイ・グループが警告。
いずれも、冤罪または事実無根であった。

1942年
  • 1月。カリフォルニア州の知事カルバート・オルソン (Culbert L. Olson) は、24 名の二世指導者を集め「日本人農夫を奥地に移動して作物を作らせる」ことを提案。これに対して木戸三郎「知事が日本人の生計を案じてそう言ってくれるなら、現在のまま、農家に警官を配備して、安全に暮らせるよう保護して」くれるよう要請した。知事は、木戸の発言に不満の意を表わし「好意を無にした非協力的な態度」として、この会談は物別れに終わった。なおオルソン知事の日系人排除の方針には、選挙民の比率から見て、白人農民の投票数が日系人農民の数より遥かに多いことが念頭にあったことは疑いもない事実である。(上のイラストは日系人収容を推進した重要人物たち:中央がベンデトセン大佐;後は左から、ディロン・マイヤー、スティムソン戦時長官、オルソン知事、ウォーレン司法長官、デ・ウィット中将、ガリオン憲兵司令官)
  • 1月21日、カリフォルニア共和党リーランド・フォード (Lealnd M. Ford) 議員は、日系人の撤去に賛意を示す。
  • 1月29日フランシス・ビドル法務長官(Attorney general Francis Biddle)は、太平洋沿岸の戦略地域を組織化する目的で敵性外国人の撤去を命令。
  • 1月30日、戦時局代表カール・ベンデトセン大佐 (Col. Karl R. Bendetsen) は、西部沿岸議会の代表委員会に出頭し、日系人撤去の遂行を宣誓。
  • カリフォルニア州のアール・ウォーレン司法長官 (Attorney general Earl Warren) が、日系人撤去計画の第一段階として、外人土地法を更に強化することを決定。その結果、不動産を所有する日系人 79人中、59人が禁治産者として起訴された。
  • 2月10日モン・ウォルグレン (Mon C. Wallgren) 上院議員派の委員会は、日系人撤去案を決議。
  • フランシス・ビドル法務長官は、コーン・コックス弁護士から、撤去案を法的にするためには、大統領の非常時権限を利用すべきだ、という忠告を受ける。
  • 2月11日ヘンリー・スティムソン戦時長官 (Secretary of War Henry L. Stimson) は、日系人撤去計画を遂行するため、ジョン J. マックロイ (John J. McCloy:右の写真) を補佐に指名。マックロイは、ベンデトセン大佐を直接担当官に任命。同大佐は、日系人撤去に関する具体的な計画を立て、指揮をとった。なお、当時の陸海軍上層部内で「太平洋沿岸に日本軍が侵入してくる危険性はあり得ない」という観測もかなり強かった。
  • 2月13日、西部沿岸議会の代表委員は、さきのウォルグレン上院議員の日系人撤去案を修正加筆し日系人の部分を強調。南部では、テネシー州のトム・スチュワート (Tom Stewart) 議員、ミシシッピー州のジョン・ランキン (John Rankin) 議員、テキサス州のマーチン・ダイズ議員らの 3 名がこの提案を支持。最終的な決議案は、直ちにルーズベルト大統領に送られ、早急な実施を要請。
  • 2月14日デ・ウィット中将は、スティムソン長官に、日系人および危険分子を全西部沿岸から撤去させる旨のメモを送る。
  • 海軍は、カリフォルニア州、ターミナル島に居住する日系人に対し、3月14日までに撤去すべし、と公示。
  • 2月17日ビドル法務長官は、ルーズベルト大統領に、日系人撤去の実施に際し、反対運動などの支障を事前に防ぐ必要性を説いたメモを送る。
  • 2月18日、シアトルで、中国韓国人民連盟の代表と自称する韓国人キルソ・ハーンが、「日本は、真珠湾攻撃に続いて、4 月に太平洋沿岸の攻撃を予定している。国内の日系人は、本国からサボタージュの指令が届くのを待機している」と講演。同地の新聞ポスト・インテリジェンサー紙は、一面にでかでかとハーンの写真入りでその記事を掲げた。
  • 2月19日ルーズベルト大統領は、大統領令第 9066 号に署名。これには、戦時長官および軍指導部は「軍事上必要とあれば、好ましからざる市民を追放する権限がある」ことが明記されたあった。(右の写真:告示ポスターが広範囲に配布掲示された)
  • 2月20日スティムソン長官は、大統領令第9066号に基づき、デ・ウィット中将を正式に日系人撤去作戦の最高責任者に任命した。
  • 2月21日ジョン・トーラン (John H. Tolan) を議長とする国防委員会は、日系人撤去に関する公聴会を、サンフランシスコとシアトルで開く。サンフランシスコでは、9名の日系人を含む 49名の証人が、シアトルでは、4名の日系人を含む 50名の証人が、それぞれ喚問された。席上、マイク正岡JACL の代弁者として「戦略上必要な場合を除き、撤去には反対する」ことを表明。さらに、ヘンリー谷(たに)、ディブ龍野(たつの)らと「撤去に際して起こり得る生命の安全が全く保証されていない」ことを指摘した。
  • 2月23日、同委員会は結論として、撤去者の財産を差し押えるのに必要な事務局の設置を、防衛司令部に要請することにした。
  • 同日日本海軍の潜水艦が、カリフォルニア州、ゴレタの石油貯蔵所に砲撃を加えた。
  • 2月25日ターミナル島に居住する日系人の撤去期限が大幅に短縮され「 27日の深夜まで」と修正、公示された。
  • デ・ウィット中将は、就任後、初の告示を発表。ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナの四州から、敵性外人の追放を宣言、自発的な撤退を勧告した。
なお中将「わが国は戦時体制に入り、西部八州は戦略上重要な地区となった。本官の管轄下において、24万の同胞を除く28万の敵性外国人は、法的にも、忠誠心の上でも要注意で信頼できない。一部の外国人(ドイツ、イタリア系の移民を指す)はさておいて、大半の日本人(日系人とは言わなかった)の合衆国への忠誠心は疑わしい。本官が特に問題にしているのは、アメリカ生まれの 4万人の日本人のことである」とつけ加えた。
  • 3月11日デ・ウィット中将は、戦時市民統轄局を新設、ベンデトソン大佐を局長に任命し、日系人撤去計画を実行に移す。
  • 3月12日トーラン国防委員会の公聴会が終わる。
3月18日ルーズベルト大統領は、大統領令第 9102 号に署名。これは、戦時撤去局を新設し、元ジャーナリスト、43才のミルトン・アイゼンハワー (Milton S. Eisenhower:左のタイムの表紙) を局長に任命し、その機能が西部沿岸に居住する日系人の撤去実施を明示したものである。新ポストに就いたアイゼンハワー局長は、農務省勤務当時のボスへ宛てた書簡の中で【この戦争が終わった暁に、12 万人にものぼる、この空前の大移動を冷静に反省したら、多分、我々アメリカ人は、避けることができるにも拘らず、不当な行為を実行してしまったことで、深い悔恨の念に悩まされるであろう】と、自身のジレンマを予想し告白している。
  • ルーズベルト大統領は、民法第503号に署名。これは、さきに公示された大統領令第 9066号に違反した者を罰することができるための法律である。
  • 3月22日、ロサンゼルス地区から撤去させられた日系人の第一団が、軍隊に率いられ、カリフォルニア州、マンザナの陸軍中央集合所に転送。
  • 3月23日デ・ウィット中将は、ワシントン州ベインブリッジ島 (Bainbridge Island) に居住する日系人に対して撤去命令を布告。これは、最初の市民追放令である。
  • 翌、24日、同布告の実施期限を 6日以内と定める。同時に、日系人は夕刻8時から翌朝6時までは外出禁止。これを不服としたゴードン平林(ひらばやし)は、市民の自由を奪うもの、として訴訟を起こしたが、大審院は「市民の自由が、差し迫った公共の利益に反する場合は、成立しない」として、却下した。
  • 3月27日一般市民を刺激しないため軍事地区と指定された区域の日系人の移動を禁止する布告第 4 号を公示。
  • 3月30日ベインブリッジ島に居住する日系人家族 54 所帯が、軍隊に率いられ、マンザナの陸軍中央集合所に転送。(右の写真)
  • 真珠湾奇襲以来、3月31日現在まで4ヶ月の間に、暴行事件による日系人の被害は、記録に残るものだけで、殺人 7件、強姦、発砲、殴打など 21件、強盗、家屋器物などの損傷破壊など 8 件、計 36件に達した。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

アメリカの歴史に残る数々の汚点の一つ。人種差別や人種偏見は今でも残っている。イスラムが当面の問題だからアジア人への差別が影を潜めているだけである。白人優越の感情が一部で根強いことは無視できない事実だ。