アラン灰田:ハワイ在住
----------------------------------------------------------------------[筆者について:アラン灰田は,目下不動産関連の職にたずさわっているプロダクト・デザイナー。アランの父は戦前から戦後にかけてハワイアン音楽を日本に広めた功労者、作曲家(『鈴懸の径』、『森の小路』など)でバンド・リーダーの灰田有紀彦(はいだ ゆきひこ)、その弟、つまりアランの叔父はバンドの歌手として俳優として大人気を獲得し一世を風靡した灰田勝彦(はいだ かつひこ)。家庭の音楽環境には恵まれていたが、慶応大学の法学部へ進学した。1958年、慶大三年生の時アメリカ国籍を確保する目的もあり、法律家になる代わり、インダストリアル・デザインを専攻することにした。渡米し、一年間ハワイ大学に籍を置き、その後ロサンゼルスのアート・センター・スクールに留学した。卒業後、チャールス・イームズ(Charles O. Eames, Jr.)のデザイン・スタジオに勤務し、1964-1965、ニューヨーク世界博のIBMパビリオンのデザインに関わった。]
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誰にでも思い当たることだろうが、一生の内に何度か忘れられない『出逢い』を体験する。それがたとえ一瞬の出逢いであっても、いつまでも強く記憶に残る場合がある。悲喜こもごもだろうが、私の学生時代は、おおむね懐かしく楽しいことが多かった。
1949年(昭和24年)上野の精養軒で私の叔父(灰田勝彦:左の写真)の結婚披露宴に出席したときのこと。たまたま私はテーブルの向かい側に、笑いとペーソスで観客の心をとらえた喜劇俳優エノケン、その左隣が水泳で世界記録を出した古橋広之進(ふるはし ひろのしん: 右の写真、手前)と橋爪四郎(はしずめ しろう:右の写真、後方)という位置に座らされた。当時私は肉や魚を食べず、コースの一部に出てきた伊勢えびを無視していたのに古橋が気付き「食べないのなら我々が手伝ってあげるよ」と、橋爪と二人で分け合って平らげてしまった。
その古橋は現役引退後を後進の育成に捧げていたが、去る8月2日、ベルリンの世界水泳大会に総監督として出席中、心不全で亡くなった。80才、日本水泳の先覚者としてふさわしい最期だったように思う。
1958年(昭和33年)、慶応大学法学部三年の時にアメリカへ留学することになった。弁護士になる気がなく、インダストリアル・デザインに興味を持っていたからである。それと私の国籍の問題にも関わる一件があった。私の父は日系アメリカ二世、母は日本国籍で私は二重国籍だった。アメリカ大使館の勧告によると、私が23才の誕生日以前にアメリカに入国して5年間居住すれば、アメリカの国籍が確保できるというので、それに従うことにした。
慶応の教授会からは「5年間、授業料免除で休学」の許可を受けた。7月11日、羽田空港から日本航空、DC-6機上の人となり、離陸直前にまだお若かかった薬師寺の高田好胤(たかだ こういん:34才:左の写真)師から祝電を戴いた。「お元気で、お元気で、お元気で」の電文に感慨を新たにした。
その出発間際に、長身の女性が駆け込んできて私の隣の席に座った。その女性はウェーキ島まで昏々と眠っていた。私はハワイで降りたが、彼女はそのまま終着のロサンゼルスへ運ばれて行ったと思う。
翌1959年のある日新聞を読んでいたら、ロングビーチで開催されたミスユニバース大会の選考で、伊東絹子(第三位:1953年)、高橋敬緯子(第五位:1955年)に次いで、日本の女性が世界数多(あまた)の美女を退けて第一位の栄冠を獲得した、と大々的に報道されていたのが目についた。その名は児島明子(こじま あきこ:23才:右の戴冠している写真)、その写真を改めて見直したら、まぎれもない日航機上、私の隣席で何時間も一緒に過ごしていた『眠れる美女』だったのである。
私の目的校はロサンゼルスのアート・センター・スクール(Art Center College of Design)というデザイン学校だったが、その前に英語に慣れるため、一年間ハワイ大学(University of Hawaii)に籍を置いた。でもクラスには殆ど出席せず、昼はサーフィング、夜はワイキキのレストランでウェイターとして過ごしていた。
その合間に、中原淳一(なかはら じゅんいち:1913〜1983)の依頼で、若い女性向けの雑誌『ジュニア・ソレイユ(左の写真)』に寄稿文を書いた。主題は、ハワイでのスキューバ・ダイビングの体験、サーフィングの醍醐味などだった。文中で「将来日本の若者の間にもサーフィングの素晴らしさが伝わって熱中するであろう」と予言した。かなり長い年月が経過したが、私の予測は当たって実現したようだ。
ハワイ大学に、アフリカのケニヤからきた黒人の留学生がいた。真っ黄色のアロハ・シャツにマッチング・ショーツ、それも直径4センチぐらいの黒いポルカ・ドッツ(水玉模様)付きで、背が高く真っ黒な風貌だったので、遥か彼方からでも即座に彼と判明できるほど、私に強い印象を刻み付けていた。その名はバラック・オバマ(Barack Obama:右の写真)と言った。ごく最近、といっても2年ほど前、2008年の大統領選挙の緒戦が始まった2007年頃、ニューズウィークを読んでいたら、私が記憶していたハワイ大学の留学生オバマ、シニア(1936〜1982)が、大統領候補のバラック・オバマの父親だったことを知った。当選した現大統領が、彼の父親から受け継いだバリトンの強い声をもっている事実も、小生の記憶と重なるものであることを確認した。
私がハワイに着いた翌年の1959年8月21日、ハワイはアメリカ50番目の州として認められた。これをきっかけに外部から資本が導入され、日本人を対象とした人気観光地としても大きく発展した。
私は1960年7月11日にカリフォルニアに渡った。アート・センター・スクールの私の新学期は9月に始まるので、それまでタイプライターを自習したり、サンフランシスコのゴールデン・ゲィト・ブリッジ(Golden Gate Bridge: 金門橋)を渡って北の郊外、マリン・カウンティー(Marine County)の北東に存在する森に面したコミュニティー、フェアファックス(Fairfax)にいる友人を訪問したりした。
或る土曜の夜、その友人達に連れられてサンフランシスコに出かけ、ナイトライフをエンジョイした。有名なナイト・スポットのパープル・オニオン(Purple Onion)だとかハングリー・アイズ(Hungry Eyes)では、黒人コメディアンで公民権運動の活動家でもあるディック・グレゴリー(Dick Gregory:左上の写真)や、初期のピーター、ポール&メリー(Peter, Paul & Mary:右の写真)が出演しており、特に紅一点、長い金髪のメリーの印象が強く残った。以後アメリカ中で非常に人気の高いグループになったことは周知の通りだ。そのメリー・トラヴァース(Mary Travers)は長い病気療養の末、去る9月16日に死亡した。
ハリウッド・ボゥル(Hollywood Bowl)でブルノ・ワルター(Bruno Walter: 1876〜1962:左の写真)が指揮するシンフォニー・コンサートを鑑賞した時のこと、、、。チャイコフスキーのシンフォニー第五番が始まったところで、誰かが夜空を横切って行く小さな光の点、ロシアが打ち上げた人工衛星スプートニック(Sputnik:左の写真の右上)を見つけた。それに気を取られた聴衆の頭が次々と上を向き、うねりとなって舞台への関心が途絶えてしまった。指揮者ワルターは演奏を中断し、スプートニックがハリウッド・ボゥルの頭上を通り過ぎて消え去ってから、改めてシンフォニーの演奏を再開した。あの期せずして起こったハプニングは忘れられない。
私がプロダクト・デザインを修得したアート・センター・スクール(右の写真、後にカレッジに昇格してパサデナに移転した。)では、宿題が多く(外部でのアルバイトも加算して)年中休み無く徹夜の連続で勉強した思い出が先ず脳裏に浮かんでくる。
当時アート・センター・スクールは、自動車スタイリングのデザインを学ぶには世界一を任じ、数多くの卒業生が、ゼネラル・モーターズ(General Motors)、フォード(Ford Motors)、クライスラー(Chrysler Motors)などのビッグ・スリーに雇われ、各社のスタイリング部門の第一線で活躍し自動車スタイルの向上に貢献していた。
日本からもトヨタ、日産からかなりの人数が派遣留学で勉強していた。まだ馬力不足で無骨なスタイリングだった日本車を、将来世界的なレベルにまで発展させるデザイン・コンセプト、デザイン工程、そして技術を基盤などを修得していた。
余談だが、当時我々はコンセプトとして、現在道路上で見かける生産車と余り変わらないスタイリングの車を、既にレンダリング或いはクレー・モデルとして発表していた。だが、バンパーやヘッドライトを車のスタイリングの中にインタグレートするのが可能だという概念、安全に対する許容度の国際的な認識と法規の改善や統一化が達成されるまでには長い年月がかかり、今日やっと現実化しているようだ。
以上、私がロサンゼルスに在学中の1962年から1964年までの間に、合気道を海外に広めた功績を持つ藤平光一先生から合気道を学び、精神的に大きな影響を受けた。その他、中村天風師から『死』に関していろいろ教えられながら、当時ロスに存在したママ・ライオンというバーで、バッドワイザー(Budweizer: ビール)を19本、二人で飲み明かしたことも忘れられない。
最後に、もう一つ強く印象に残っているのは、1963年11月22日の金曜日にジョン・F・ケネディー(John F. Kennedy)大統領が暗殺された事件(右の写真はダラス市で暗殺直前のパレード)。あの日に、私はロサンゼルスのビルティモア・ホテルで開催される予定だったカルロス・モントヤ(Carlos Montoya)のフラメンコ・ギターのコンサートにデートを連れて行く予約があった。暗殺のニュースが広がった正午、学生教師全員が中庭に集合させられ、アダムス(Adams)校長の「大統領が暗殺された。授業は停止で解散、月曜までクラスはキャンセル」という、いとも短い発表で生徒は四散した。
この世紀の一大事件で街中が黙祷してしまうだろうか、と不安になったが、モントヤ(左はモントヤのLPアルバム)のコンサートは予定通り行われ、その鑑賞経験が暗殺事件と重なって深く強い印象として残っている。
その20年後1983年に、ホノルルのニックのフィッシュマーケット(Nick's Fishmarket )というレストランで、モントヤが食事をしているのを見かけた。モントヤはその10年後、89才で亡くなった。
後になってから「ケネディーが暗殺された日、ロスでのコンサートを覚えていますか?私も観客席にいましたよ」と話しかければ良かったと思いついたが、手遅れだった。
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1 件のコメント:
よき時代のよき思い出、大切にしてください。
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