2010年4月20日火曜日

学校では教えないアメリカ歴史

洋の東西を問わず、国の為政者たちは国民に『愛国心』を植え付けることを腐心ているようだ。今回、日本の場合はさておいて、アメリカに限って『教科書に書かれていない』歴史の一端をご紹介する。

コロンブスはアメリカを発見したのではない。侵略したのだ。

学校で使っている歴史の教科書によると、1492年、コロンブス(Christopher Columbus)がスペインからサンタ・マリア号(Santa Maria)で西へ向かって航海し続け、アメリカ大陸を発見し、ヨーロッパ人の開拓精神を高揚させた。従って、アメリカでは彼を開拓の先駆者として祭日まで設けている。

実際は、コロンブスが着いたカリブ海の島には、すでに原住民が平和で素朴な生活を営んでいた。兵隊を交えたサンタ・マリア号の乗り組み員たちは、長旅で不足していた食料や水を調達するために武力を行使した。のみならず、その楽園の島をスペインの領土とすべく、原住民を弾圧し、抵抗する者たちを拷問にかけ、火焙りにするなど、殺戮をほしいままにした。(下の図は当時の殺戮を示す版画)


爾来500年、カリブ海のみならず北米大陸は、新世界での将来を夢みるヨーロッパの移民たちによって席巻され尽くされた。

歴史家ハワード・ジンの誕生

1922年(大正11年)8月24日、ハワード・ジン(Howard Zinn)は、東欧ユダヤ系移民の息子としてニューヨーク市ブルックリンで生まれた。両親共に初等教育程度しかなく工場で働いていたが、子供たちには高い教育を授けたいと念願し、僅かだが小遣いを与え、ディッケンス(Charles Dickens)などの文学書を買わせた。ハワードは高校へ行くようになってから、詩人エライアス・リーバマン(Elias Lieberman)が指導する創作著述のクラスを取った。

1939年、ナチ、ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した時、ハワードはナチのファッシズムを憎み、それと戦うべく陸軍航空隊に入隊し爆撃機のパイロット(左の写真)となり、ベルリン、チェッコスロバキア、ハンガリア、フランス各地を爆撃した。この間の体験や見聞が、後にハワードの『反戦思想』を育む背景にあった。

戦後、ハワードは退役軍人向け奨学金の恩恵で、ニューヨーク大学(New York University)の政治科で歴史を学び学士号を取得し1951年卒業、続いてコロンビア大学で博士号を取得し1952年に卒業した。それ以後、ジョージア州アトランタ市、スペルマン大学(Spelman College)で歴史の教授を振り出しに、フランスやドイツの大学の客員教授、晩年はボストン大学の政治歴史科の名誉教授を勤めた。

その傍ら著作にも精魂を傾け、20冊を越える歴史に関する名書を発表した。中でも『民衆のアメリカ史(A People's History of the United States)』(クリック)は「教科書に書かれていない歴史」(右の写真)に関する書物を探していたが、そうした文献が見付からなかったので、それなら自分で書こうと思い立った、という野心作で、200万部以上も売れるベストセラーになった。

ハワードはその成功を踏み台とし、過去における民衆の主張や発言で特筆に値いするものを選んで構成し『民衆は発言する(The People Speak)』(左の写真クリック)と題した舞台劇を書き上げた。『劇』と言っても、いわゆる『芝居』ではない。舞台装置は象徴的にあしらった人々のシルエットを背景にし、その前で数々の俳優が普段着のまま歴史的な『発言』を代わる代わる朗読する、といった単純な趣向である。しかしその『発言』がその時代毎に重要な意味を持っているので、その装置の単純さが内容の重みを効果的に高めるのに役立った。

その初演は、2003年の2月ニューヨークで公開された。観客の殆どはハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』を読んだ200万人の一部だった。ハワード自身も俳優たちの朗読に先立って紹介の講演を受け持ち、朗読劇を盛り上げた。(右下の写真)


その後、ボストンののカトラー・マジェスティック劇場(The Cutler Majestiv Theatre)や、カリフォルニア、マリブ・パフォーミング・アーツ・センター(Malibu Performing Arts Center)で公演され、それがビデオに収録された。

このブログでは、1時間40分に及ぶビデオの全てはご紹介できないので、そのハイライトだけご覧いただきたい。全編にご興味をお持ちだったら『民衆のアメリカ史』(富田虎男、平野孝、油井大三郎共訳、上下2巻、2005年、明石書店発行)』(クリック)をお読みになるか、ビデオ『The People Speak』
(クリック)をご覧になることをお勧めする。

『発言』を朗読する俳優たちと音楽家たち

俳優:(左上から右へ) マット・ダモン(Matt Damon)、マイク・オマリー(Mike O'Malley)、ダリル・マクダニエル(Darryl McDaniel)、ベンジャミン・ブラット(Benjamin Bratt)、モーガン・フリーマン(Morgan Freeman)、ディヴィッド・ストラサイム(David Strathaim)、(2段目左から)ハリス・ユリン(Harris Yulin)、ジャスミン・ガイ(Jasmine Guy)、マイケル・イーリィ(Michael Ealy)、ロザリオ・ドウソン(Rosario Dawson)、クリスチナ・カーク(Christina Kirk)、ジョシュ・ブロリン(Josh Brolin)、(3段目左から)ケリー・ワシントン(Kerry Washington)、ダニー・グロヴァー(Danny Glover)、マリサ・トーメイ(Marisa Tomei)、キャサリン・シャルファンKathleen Shalfant)、マーチン・エスパダ(Martin Espada)、レグ・キャセイ(Reg E. Cathey)、(4段目左から)ヴィゴ・モーテンセン(Viggo Mortensen)、クオリアンカ・キルチャー(Q'orianka Kilcher)、サンドラ・オウ(Sandra Oh)、ジョン・リジェンド(John Legend)、ドン・チードル(Don Cheadle)、スティシャン・チン(Staceyann Chin)。

音楽家:(左から)ボブ・ディラン(Bob Dylan)、アリソン・ムアラー(Allison Moorer)、クリス&リッチ・ロビンソン(Chris & Rich Robinson)、エディ・ヴェダー(Eddie Vedder)、ブルース・スプリングスティン(Bruce Springsteen)。

過去に発言した人々:(左上から右へ)J.W. ログエン(J.W. Loguen)、フレデリック・ダグラス(Frederic Douglas)、ジョン・ブラウン(John Brown)、無名の奴隷、シルビア・ウッヅ(Sylvia Woods)、ロザ・パーク(Rosa Park)、(2段目左から)マーチン・ルーサァ・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)、マルコム・エックス(Malcolm X)、女性参政権運動家たち、スーザン・アンソニー(Susan Anthony)、ソジョーンナ・トルース(Sojourner Truth)、イップ・ハーバーグ(Yip Herberg)、(3段目左から)ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)、ジェノラ・ジョンソン・ドリンジャー(Genora Johnson Dollinger)、ローズ・チャニン(Rose Chernin)、ユージン・デブス(Eugene Debs)、ヴィト・ルッソ(Vito Russo)、(4段目左から)ジョセフ酋長(Chief Joseph)、ジーン・ラ・ロックGene La Rocque)、エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、世界産業労働者団体(Industrial Workers of the World)の結成、ダルトン・トラムボ(Dalton Trumbo)、マリアン・ライト・エデルマン(Marian Wright Edelman)。

アメリカ原住民(インディアン)の人権

ヨーロッパからの移民の群れが、大陸を西へ西へと押し寄せたのに呼応し、1830年アンドリュー・ジャクソン大統領は。フロリダ州、ジョージア州、アラバマ州の原住民5種族をミシシッピー州以西に追放する法令に署名した。『涙ながらの旅(The Trail of Tears)』として知られる、アメリカの軍隊に囲まれて行進した老若男女1万6千人のインデアンにとっては失意の旅で、4千人が死亡した。チェロキー族(The Cherokees)と、セミノール族(The Seminoles)が政府に抗議し抵抗した。

「あの人達(アメリカ政府)の約束は口先だけで、実行してはくれない。(信用できないから)私たちは動きたくない。住み慣れて絆(きずな)ができている家族を、いきなり散り散りにさせられたら、我々の心臓の糸がプッつり切れてしまう。」


アフリカから拉致され奴隷として売られた黒人の人権

白人ジョン・ブラウン(John Brown:上掲『過去に発言した人々』の写真を参照)は、奴隷を解放するために一生を捧げた。1859年、彼の解放戦線は失敗に帰し、自分の息子を含めた同志が殺され、自分は傷つき捕えられ、死刑を宣告された。宣告後、ブラウンは声明を発表し、その最後に「、、、今、私の命が極刑に値いすると判断することによって正義の終わりを容認するなら、私の血は、子孫や、この奴隷國で悪魔的で冷酷な不正行為により人権が踏みにじられている何百万の人々の血と混じり合うであろう、、、」と言い残して刑場の露と消えていった。

それから22年後の1881年、かつての奴隷で解放の指導者となったフレデリック・ダグラス(Frederick Douglas
:上掲『過去に発言した人々』の写真を参照)はハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)の大学で講演した。

「ジョン・ブラウンは、志半ばで奴隷解放運動を成し遂げ得なかったが、少なくとも彼は、奴隷制度を終らせる運動を始めてくれた。ジョン・ブラウンが両手を広げた時、空は晴れ、、、」と心から賞賛を惜しまなかった。


テディ・ルーズヴェルト大統領を非難したマーク・トゥエイン

1898年、スペインと戦って3ヶ月で勝利を収めたアメリカは、それを受けてフィリッピン征服を画策した。その戦略は難航し、中でも南部の死火山口付近に住んでいた600名のモロ族(The Moros)の抵抗に手を焼いていた。司令官レオナルド・ウッド(Leonard Wood)は「その600名を捕虜にするか殺せ」と命令し、自ら陣頭指揮をとった。結果として老若男女を含む600名のモロ族を皆殺しにしてしまった。これこそ、前例のないアメリカ合衆国のクリスチアン兵士によって遂行された『栄光ある勝利』であった。

その報を聞いたルーズベルト大統領は、2日近く考えた末、ウッド司令官の軍事行動を賞賛する公示を出した。

その公示の後、パリ条約(The Treaty of Paris)を注意深く読んだ上で、マーク・トゥエイン(Mark Twain:左の写真)は「私が観察した所、我が国の政策はフィリッピン人民を解放するのではなく、支配し手なずけることにあったようだ。私が考えるに、我が国の歓びは、あの人達を解放し、あの人達の国内問題はあの人達のやり方で、あの人達なりに解決させてこそ得られるものだったと思う。さよう、私は反帝国主義だ。私は鷲(ワシ、アメリカのシンボル)の爪で他国を引っ掻くことには反対だ」とアメリカ政府軍隊の戦略を非難した。

(註:今日4月21日は偶然、マーク・トゥエインが死亡してから丁度100年目の記念日に当たる。ちなみに、彼の本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンス(Samuel Langhorne Clemens),であった。)


労働者の人権

世界産業労働者連合(The Industrial Workers of the World:IWW)は、20世紀の始めに結束した過激な労働組織だった。アメリカ労働者連合(The American Federation of Labor)の方針とは違って、白人、黒人、男性、女性、インディアン、移民、技術者、技術のない労働者、全てを包含していた。1921年、マサチューセッツ州ロウレンスの織物工場で移民女性がストライキに突入した際、警官の暴行や法的な脅迫に脅かされた。IWWを組織したアルツーロ・ジョヴァニッティ(Arturo Giovanitti)は殺人の冤罪で逮捕された。

裁判中、ジョヴァニッティは陪審員への声明で「、、、私たちのストライキは、週にたった50セントの賃上げを要求しただけです。でなければ、今の労働条件は50年前のニグロ奴隷の待遇と変わりありません。私たちの自由は半分、あとの半分は奴隷並みです」と状況を説明した後「私は29才、愛する妻がいて彼女も私を愛してくれています。私の両親は私の帰りを待っています。人生にはたくさんの愉しいことがあり、心から素敵で輝かしい人生の歓びを享受し、またそうしたいと熱望しています。あなた方がどのような審判を下そうとも、私は感謝いたします」と結んだ。


女性の人権と『産児制限』

20世紀の初頭、エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)は無政府主義、女性解放論、労働者の人権、などを擁護する過激な発言をした運動家だった。全国を行脚し、各地の劇場で講演し、しばしば逮捕された。第一次世界大戦に反対し、エドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)監督の下で国外追放にもなった。下記は、彼女が『産児制限』を叫んだことで裁判にかけられた時、裁判長に弁明した言葉である。

「私は男女数名に、避妊の方法を教えたことで訴えられました。、、、あらゆる犯罪の動機の背後には恐ろしい生命の危険が潜んでいます。もし私の行ったことが犯罪だとおっしゃるなら、私の動機にも確かに『恐ろしい生命の危険』が潜んでいました。厚生省(The Department of Health)の統計によると、アメリカ国民の内、3千万人が貧困状態にあるということです。 この人達が子供を産んで親になったら、その子供たちはどんな育ち方をするでしょうか、考えても見て下さい。貧しい家庭で弱々しく育った赤ちゃん
30万人が毎年、最初の誕生日を迎える前に死んでしまうと、幼児福祉機関(Baby Welfare Association)が統計を発表しています。この実態が何年もの間、私が直面してきた『恐ろしい生命の危険』で、私の犯した犯罪の動機なのです。 、、、『計画産児』は焦眉の急です。あらゆる労働に就業している男女は無計画に子供を産むことなく、何時子供を持ったらよいか判断して受胎することによって自由を勝ち取り、子供たちに、歓び多い、愉しく輝かしい幼児時代の体験を与えられるのではないでしょうか。」

徴兵を拒否する人権

1960年代、ムハマッド・アリ(Muhammad Ali)はヘビー級ボクシングの王者だった。相手のボクサーに対して悪口雑言の限りをぶちまける(左の写真の左)ことでも有名だった。ヴェトナム戦争の最中、そのアリが徴兵された。彼は徴兵を拒否し逮捕され入獄した。その直前、報道陣に囲まれたアリは(左の写真の右)、徴兵拒否の理由を明快に宣言した。

「俺は、8000キロも離れた遠くの外国へ出掛けて行って、何の恨みもない国の貧しい人達を撃ち殺すことなどできない。」

ナイン・イレヴン(2001年9月11日の同時多発テロ)以後の人道

『あの日』フィリスとオーランド・ロドリゲツ(Philis & Orlando Rodriguez:右の写真)夫妻の息子は、破壊された世界貿易センターで働いていてテロ攻撃の犠牲者になった。時のジョージ・ブッシュ大統領は『テロとの戦い』を掲げてアフガニスタンを攻撃した。『あの日』の犠牲者の家族たちの多くは、ブッシュの政策に喝采を送ったが、反対意見を持つ家族もいた。フィリスとオーランドも反対の側で、その心情をニューヨーク・タイムズに投稿した。

「私共は、政府が戦争という暴力行為でテロに対して『復讐』する方向に進んでいることに不安を感じます。、、、『復讐』は決して賢明な政略だとは思えません。それでは私共の息子への回向(えこう)にはなりません。、、、少なくとも『私共の息子のために復讐をするのだ』と戦争を正当化してもらいたくありません。」


ハワード・ジンの終幕

ハワードの朗読劇『民衆の発言』は各方面で評判となり、今年の始め、ヒストリー・チャンネル・テレビ(History Channel)で公開され、引き続いて公共テレビのビル・モイヤーズ・ジャーナル(Bill Moyers Journal)』のゲストに招かれ対談に応じた。

それらが、あたかもハワード・ジン『晴れの舞台』のフィナーレでもあったかのように、去る1月27日、心臓の不調で87才、多難多彩にして人々に
多大な影響を与えた生涯の幕を閉じた。

ハワード
・ ジンが消えても、その教えを体得した何百万人の人々が『真実の歴史』を伝え広め続けるであろう。

2010年4月19日月曜日

凍る活火山と空の旅

4月19日付け、NYTから

アイスランド(Iceland)の最高峰エイジャフジャラジョカル火山(The Eyjafjallajokull volcano:地名全ての正しい発音は未確認)が3月20日、2世紀にわたる眠りから醒め、ゆっくりと噴火を始めた。地震の兆候は記録されていないが、赤い噴煙が広大な氷河の上空に広がっていった。

続く数日にわたり、十数個の噴火口から紅蓮の炎を、100メートルの高さまで吹き上げたと、アイスランド大学(the University of Iceland)の地球科学研究部門(the Institute of Earth Sciences)が観測を発表した。この凄まじい活動は、火山の東北斜面に20メートルもの厚さで流れる『溶岩の滝』を伴い、思い掛けなく観光客の目を奪う爆発では、煙を1万1千メートルの高さまで押し上げた。


この火山灰をたっぷり含んだ煙が北
部ヨーロッパ一帯の上空に広がり、旅客機の飛行を不能にし、交通マヒの波紋は更に広がっていった。噴煙は北部から中央ヨーロッパにも延び、他の地区にも深刻な打撃を与えている。過去にこうした状況の下に飛行機が飛んだことがあるが、火山灰がジェット・エンジンに入って再び溶け、機関内部に付着し、エンジンの機能を不能にし、航行できなくなり墜落してしまったことがある。

そうした障害による致命的な危険が明白であったため、航空管理局(The Aviation Authority)は民間、軍用の如何に関わらず、全ての飛行場を閉鎖するよう指示した。かくして4月16日の午後までには、国際線の乗り継ぎ拠点となる主要な空港が閉鎖された。何千という飛行予定がキャンセルとなり、何百万人もの旅客が行き場を失った。北米やアジア地区からヨーロッパへ向かう予定だった旅客も、その影響を受けて立ち往生してしまったことは言うまでもない。(右の地図で褐色の陰になった部分の上空に火山灰が広がった)

本日、4月19日夕刻現在のニュースによると、ルフトハンザ航空が飛び始めたが、まだ危険地帯が多く慎重で、完全な回復まで可成り時間がかかりそうだ。自然と人智の間に起こる不都合な摩擦を振り返ってみよう。


天然の美
(左から) ▲ヴァタナジョカル国立公園(Vatanajökull National Park)のモウサアダ ラァ峡谷(Morsárdalur Valley)とスカフタフェルスフジョル山脈(The Skaftafellsfjöll Mountains) ▲ヴァタナジョカル氷河(Vatanajökull glaciers)の氷の塔の上に立って観察する人 ▲ジョカルサァロン礁湖(Jökulsárlõn Lagoon)のブレイオアーマーカーフジャラ海岸(Breiôarmerkurfjara Beach)の氷塊群

(左から) ▲ヴァトナジョカルの氷頭(Vatanájökull Ice Cap)に見られる沸騰する泥水沼、排出される蒸気、色鮮やかな粘度質の地面、地熱による堆積、それを囲む氷塊 ▲2004年に噴火したグリムスヴォトン、セントラル火山(Grimsvötn Central Volcano) ▲オーロラ(The Northern Lights)

広がる火山灰の噴煙

(左から) ▲沸き上がる噴煙 ▲昼夜を分かたず住民を脅かす噴煙 ▲オラファジョカル火山(The Oræfajökull Volcano)

(左から) ▲エイジャフジャラジョカル氷河(the Eyjafjallajökull glacier)の噴火口から立ち上り広がる噴煙 ▲夜景 ▲羽毛状に立ち昇る火山灰噴煙

飛行機が不能で空港を閉鎖

(左から) ▲火山灰が厚く積もった道路を走る車 ▲ベルファスト市(Belfast City)の空港でジェット・エンジンの開口部を塞ぐ整備士 ▲ロンドンで、ユーロスター(Eurostar)の乗車券を買うために待つ旅客たち

(左から) ▲パリ、チャールス・ド・ゴール(Charles de Gaulle)空港の発着掲示板、、、全ての便がキャンセル ▲フランクフルト(Frankfurt)空港で臨時に用意された簡易ベッドで仮眠をとる旅客たち ▲バーミングハム(Birmingham)国際空港は閉鎖を延長したので無人状態

アイスランドの写真はロジャー・シグアドソン(Roger Th. Sigurdsson)撮影

2010年4月16日金曜日

アフガニスタンの隠れ家

この写真は、エド・マンサー(Ed Manser)から転送されてきました。この『アフガニスタンの集落』についての短い説明によると「この連中は、過去5000年もの長い間、シロアリみたいな暮らしに甘んじて、世界の文明から取り残されている。オサマ・ビン・ラデン(Osama Bin Laden)が未だに見付からないのも無理からぬことだ」とあるだけです。

それはともかくとして、私は『穴居生活』にある種の幻想を抱いています。詳しい説明がないだけに、勝手な想像をたくましくして、俗世から遠く離れた桃源郷に思いを馳せてみるのも悪くありません。

でも、どなたかもっと詳しい事実をご存知でしたらお教えください。

一見平和な山野の風景の中に奇妙な岩石の塔が群がっている。

近付いてみると、それは石の塔の集落である。
個々の石の塔は穴居住宅で、、、
巧まずしてそれぞれが調和し、、、

、、、お互いに結ばれている。
結んでいるものは路地であり、階段であり、、、
橋であり、トンネルでもある。
洗練された外装あり、素朴な住居あり、、、
内装を見る限り、家具あり、絨毯あり、電灯あり、住み心地はよさそうだ。

2010年4月12日月曜日

自殺を図る人との対話

マーチン・ファクラー (Martin Fackler)
2009年12月17日付、NYTから

東尋坊(とうじんぼう)、そのそそり立つ絶壁、その下に荒れ狂い、打ち砕け、しぶきを上げる怒濤、翠色(みどりいろ)の日本海、それは日本が誇る絶景で、旅行者たちに最も人気のある観光地である。しかし、その土地の住人シゲ・ユキオ氏(上の写真、左端に立つ)にとって最大の関心事は、その有名な断崖ではない。彼がその凸凹な岩道を歩きながら探し求めているものは、孤独な人影である。それは通常、張り出した絶壁の先端にうずくまっている人影である。 そうした人影は、この東尋坊の絶景を賞賛する以外の目的で辿りついた曰くのある人に違いない。

そうした人達の旅路の果ての目的は、そこで自分の命を絶つことにある。世界で最も多く自殺者を輩出する国という悪評が高い日本で、東尋坊は特に『自殺の名所』としても知られている。シゲ氏は元警官で当年65才、引退以来の5年間、東尋坊の巡回を日課とし、潜在的な自殺者を見付け、その意図を思い止まらせてきた。

そうした彼の努力の副産として、再び自殺者が増加の傾向を示している実態が明るみに出た。警察の統計では、今年(2009年)の自殺者数が、2003年の最高記録3万4427人に迫る気配にあることが判った。言い換えると、一日平均95人が自殺していることになる。世界保健機構(The World Health Organization: WHO)では、日本人の自殺者数はアメリカ人のそれに比べて3倍の高率を示している、と指摘する。


シゲ氏と彼に同調するボランティア達の活動により、今日までに222名の潜在自殺者が救われた。こうした彼らの活動が全国的に喧伝され、普段は余り問題として取り上げられなかった『自己破滅の行為』という深刻な社会現象が取り沙汰されるようになった。その一方で、シゲ氏の動機が人道的な立場に基づいた行動であるにも拘らず、因習的な日本の社会から批判の的にもなっている。

「日本には昔から『出る釘(杭)は打たれる』という言い習わしがあります。」シゲ氏はそう前置きして、地方行政が、自殺予防の対策に消極的であることに苛立ち、自発的にパトロールを買って出たのだ、と語り「私は言ってやりました。私は『出る釘』になる覚悟だから打てるものなら打ってみろ!ってね」と胸を張った。


公共保健の専門家は、伝統的に日本人が自殺を、封建時代における武士の切腹から始まって『誇り高い逃避』としてロマンチックな行為に祀り上げてきた心情にも責任がある、と非難する。しかし、今日の自殺達の主な動機は、長期に亘る不況が元凶である。近年、自殺者の数が目立って増加したのは1998年(平成10年)、日本の企業が誇りにしていた『終身雇用』の鉄則が初めて崩れた時期からである。以来、収入や職の保障制度が崩れ続け、従って自殺者も増加の一途を辿ってきた。

ここ数年来の世界的な不況の煽りで、状況は更に悪化した。鳩山由紀夫首相が10月に発表した政策演説の中で『自殺現象』に言及し『お互いの助け合い』を呼びかけた。しかし、専門家に言わせると、政府がこれと言った具体的な対策を講じない限り事態の解決にはなるまい、と悲観的だ。


概して、自殺を予防することは容易な仕事ではない。特に日本では困難な仕事である。『不況』の二字は話題として日本で禁句となっている。経済的にも余裕がないから家族を扶養することは勿論、友人を扶助するゆとりも無くなってきた。日本人の多数は『自殺』を『公共保健の問題』としてではなく『個人的な決断』によるものだと考える傾向があるので真剣に取り組もうとはしない。所沢にある国防医科大学(The National Defense Medical College の逆訳)で自殺の調査をしている行動科学(Behavioral Science)部門のタカハシ・ヨシトモ教授は「アメリカでは一般大衆運動(grass-root action)から社会の関心を高めていますが、大方の日本人は、政府が何とかしてくれるだろうと待っているだけです」と嘆く。


東尋坊を管轄している福井県の小都市サカイ市役所の係員達は、断崖に沿って外灯を2カ所に設置し、その下に公衆電話とそれに必要な10円玉を多数、全国自殺者の緊急専用線を通じて相談できる用意を備えている。

いずれにしても、市の係員によると、今年は最悪の年で、警察の記録によると、140人が自殺を目的として東尋坊を訪れたということだ。これは、例年の2倍に及ぶ数である。その殆どは、警官か近くに居合わせた人によって自殺を未然に思い止まらせた。他には何か別の理由で自殺を考え直した者もいたようだ。


上記の140人には、
シゲ氏とそのグループが防止した54名の未遂者は含まれていない。市当局は、昨年の自殺者が15人に止まり、今年は13人に止まった、とシゲ氏らの援助運動の成果を認めている。

シゲ氏の防止方法は単純だ。始めに述べたような人影を認めた時、ゆっくりと近付き、気楽な世間話を始める。人影は、、、大抵が男性で、会話が進むと間もなく泣き崩れ、見知らぬ人が自分の悩みに耳を傾けてくれたことに感涙する。


「彼らがそこに踞っているのは、無意識ながら誰かが自分の悩みを聞いてくれたら、と望んでいるのです」とシゲ氏は推測している。


東尋坊の警察署に42年間勤務した後半の頃、シゲ氏は海面に漂っていた屍体を全て拾い上げ、背筋が寒くなった、という。
また或る時は、東京から訪れてきたという老夫妻の自殺を思い止まらせたことがある。二人を市役所へ引き渡した後、係官が彼らに何がしかの金を渡し、隣の町へ行くように説得した。数日後、二人から手紙(多分儀礼的な礼状であろうか)が届いた。その手紙は、二人が隣の県(日本海に面した福井県の隣は京都府か石川県)で自殺する直前に投函されたものであった。


「お金を上げて他所へ追いやるのでは救助にはなりません。官僚のお座なりの冷たさには腹が立ちます」シゲ氏が話し始めた時、彼のケイタイ電話のメロディが鳴った。シゲ氏はクリスチャンではないが賛美歌の『素晴らしい善意(Amazing Grace)』のメロディだった。彼と77人のボランティア達は、東尋坊の断崖を一日に二、三周パトロールし、潜在自殺者たちのために食料、宿泊施設、を援助し、必要とあれば職探しもする。


昨年、或る日の午後、シゲ氏が身投げの要所3カ所の断崖を検閲していた。いずれも26メートルの絶壁である。その時は、団体の観光客がガイドの旗に従って移動していた。ガイドが携帯マイクを使い大声で、ある悪い僧侶が落ちて絶命したという逸話がある断崖の説明をしていた。そうした風景の中で、孤独な人影は逆に目立つ。

その人影が、たまたま29才のヤマオカ・ユタカだった。彼は
職工の仕事を失い、東尋坊に辿り着き、無言のまま断崖の上で膝を抱えて自殺を図っていた。ヤマオカの様子を見掛けたシゲ氏は、近付いて話しかけた。たっぷり2時間も話し合っていただろうか、シゲ氏は、ヤマオカの気分が落ち着くまで無料で、という条件でアパートを提供した。ヤマオカはシ ゲ氏の親切に甘えた。彼は間もなく仕事を見付け、正常の生活に戻り、今年になり、助けられた礼をしに、断崖の近くにあるシゲ氏の小さなオフィスを訪ねてきた。

「私は救われた、と実感しました。私は生きていけると感じたのです」当時を思い出して語るヤマオカの声は、消え入りそうだった。そして「それまでの私は、恐怖と不安感がつのるばかりだったのです。誰も話し相手がいませんでしたので、、、」と告白した。


シゲ氏の行動は、同地での拒絶反応もある。特に同地の観光協会はシゲ氏の運動が観光振興の障害になると考えているようだ。だが、シゲ氏の意志は固く、そうした批判に惑わされることはない。


シゲ・ユキオ氏は「私は、政府が積極的な対策を立てて本腰で救済運動を展開するまで行動し続けます。政府の無為無策の陰で貴重な人命が失われているのを、黙って見ているわけにいきません」と断言した。

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付記:毎日新聞、2010年4月8日付け、憂楽帳から

命を語り合う旅


笹子 靖
(ささこ やすし)


「命の大切さについて、現地の人たちと語り合ってきます。」20才の島脇麻美(しまわき まみ)さんは、そう話してアフリカ東部の国、ウガンダへ旅立った。この春か ら福島大を1年間休学し、あしなが育英会が中心になって現地に設立したエイズ遺児支援施設で、子どもたちの心のケアや教育の研修活動を行う。


(彼女が)7才の時、父親が自ら命を絶ち、自死遺族として辛い体験を重ねた。同情されたり、貧しいと思われるのが嫌で誰にも自分の境遇を話せなかった。だ が高校生になり、あしなが育英会での活動で同じ悩みを持つ同世代と出会って、ようやく自分の居場所を見つけた気がした。

アフリカに魅かれたのは、貧困や病気で過酷な生活を強いられる人たちが、家族のように何でも相談し、支え合って暮らしているから。苦しい時に周囲に 助けを求められず、自殺者が年間3万人を超える日本の社会とは対照的に見えた。「帰ってきたら、必死に生きる人たちのことを、多くの人に伝えたい。」そんな 思いも胸に、島脇さんの新しい旅が始まった。

2010年4月7日水曜日

自分を閉じ込める子供たち

急増する幼児自閉症は深刻な社会問題だ

志知 均
(しち ひとし)2010年4月


この4月は
自閉症への一般の関心を高める運動月間(First National Autism awareness Month)。と聞いても知らない人のほうが多いだろう。自閉症の子供をもつ親とか親族でなければ伝染病でもない自閉症に特に関心をもたないのは当然かもしれない。だからこそ『運動月間』を指定する必要があるのだが。

無口、社交下手、他人と目をあわせられない、会話ができない、体に触られたくない、何が欲しいかはっきり言えない、、、これらは自閉症の症状の一部である。おや、こんな症状は普通の日本人に見られるのと同じではないか!と驚く方もいるかもしれない。たしかに日本人の民族性には『オタク人間』で代表されるような、内気、引きこもりの面があるが、それだけで日本人全体を自閉症とは言わない。では自閉症とはなんだろう?

自閉症は症状が多様なので自閉症スペクトル(Autism spectrum disorders)と呼ばれる。社会性や言葉のコミュニケーション、運動機能などの発達障害で3才ぐらいから症状が表われる。アメリカでは新生児110人の内一人が自閉症で、成人も含めれば100万〜150万人が自閉症と診断されている。自閉症が最近とくに注目されるようになったのは、精神発育障害の内で自閉症の増え方が最も著しく、年々10〜17%増加しており、まさに『流行病』の様相を示しているからだ。自閉症治療の費用は現在600億ドル(約6兆円)、10年後には2000億〜4000億ドル(約20兆〜40兆円)に上ると予想されている。ほとんどの健康保険会社が医療費をカバーしないので、自閉症の子供をもつ親の経済的な負担はたいへんなものである。日本でも軽度の自閉症であるアスペルガー症候群(Asperger’s syndrome)を入れれば自閉症の患者の数は120万にも達するようでアメリカと大差ない。


自閉症の原因について、アンドリュー・ウエークフィールド(Andrew Wakefield、イギリスの消化器系専門医;右の写真)のグループが1998年にMMR[ハシカ(Measles)、オタフク風邪(Mumps)、風疹(Rubella)]ワクチンの接種が自閉症を惹き起こす原因だとする説を医学誌ランセット(Lancet)に発表した。新生児がワクチン接種を受ける3才頃が自閉症の徴候があらわれる時期と一致するため、この論文は新生児を持つ親達の間にワクチン恐怖の嵐を引き起こした。ウエークフィールドの論文には研究方法、その他に問題があり、また、ほかの研究者達の追試ではMMRワクチンと自閉症発症との関連は証明できないので、ランセット誌は、最近ウエークフィールドの論文を撤回している。

MMRワクチンの安全性は確認されているのにワクチンを受けない幼児が増えるのは公衆衛生の見地からは深刻な問題である。にもかかわらず、幼児のワクチン接種に反対する人たちが相変わらず多数いるのは困ったものだ。その一人がジェニー・マッカーシー(Jenny McCarthy:Playboy誌のモデルからMTVのゲームショーや二流映画に出て『有名人』になった女性:左の写真)。ジェニーは自分の息子が自閉症になったことでその治療に関する運動をしている。その意義は認められるが新生児の親達にMMRワクチン恐怖を煽っているのはよくない。

自閉症の発症要因はよく判っていないが、遺伝因子と環境因子の両方が関係するのであろう。自閉症遺伝子でDNAレベルで同定されたものはないが、先天性脳機能障害など形質の遺伝が明らかなタイプは色々ある。自閉症の子供の大脳皮質にある皺(しわ)の構造は自閉症でない子供のそれと違っている。(右の写真は脳波の検査と、脳のレントゲン写真)その違いには環境因子が関係している可能性があり、妊娠中に母親が摂取した食物、飲料、薬物などに含まれている成分や、乳幼児の授乳に使うプラスチック哺乳瓶に含まれている物質[バイフェノールA(Biphenol A)、フタール酸(Phthalates)]などの胎児、新生児の脳の発育に対する影響が注目されている。MMRワクチン説は否定されたが免疫の関与がまったく無いとはいえない。小麦、牛乳、トウモロコシ、砂糖、柑橘類などに対するアレルギーが自閉症の発症と関係があるとする報告があり更に詳しい研究が必要だ。

自閉症は早期発見と、いろいろ治療を試みる間に閉ざされた心が『外界』とコミュニケーションできる糸口(Breakthrough)を見つけることが重要である。2008年2月にABC Newsが13才の自閉症少女カーリー・フライシマン(Carly Fleischman)のBreakthroughケースを報道して話題になった。(上述の部分か左の写真をクリックすると、報道の動画がご覧になれます。)カーリーはコンピューターのキーの使い方を覚えたのがきっかけとなり、文章の書き方を習い、親や友達に盛んにメッセージを送り始めた。そのメッセージによって周りの人たちはカーリーの心の中が判るようになった。

「自分は感じていること、考えていることを口では表現できないが、決して知能が低いわけではない」、「手足を間断なく動かしたり、奇声をあげたりするのは手足を蟻が這い上がってくる感じがするから」、「両親の深い愛情には感謝している」などのメッセージは多くの人を感動させた。この少女はこれで自閉症が治ったわけではないが将来への希望がもたれる。社会の理解と援助、家族の愛情、本人の努力があれば自閉症は不治の病ではない。


自閉症を克服した一人、テンプル・グランディン(Temple Grandin)の話を知っている方々もあるであろう。この女性は自閉症にもかかわらず、世話をしてくれた人たちの愛情と本人の努力で大学、大学院教育を終了し、現在、多方面で活躍している。[詳しくは、ここをクリック。『Emergence: Labeled Autistic』by Temple Grandin, Ph.D. and Margaret M. Scariano, 1986;『我、自閉症に生れて』カニンガム久子訳、1994年、学習研究社]

自閉症の子供達やその家族へのみなさんの理解と関心が少しでも高まることを願ってこの小文を終わる。

2010年4月2日金曜日

『プラチナのベンツ』に一言、二言

[先日公開した『プラチナのベンツ』に異論がありました。筆者は、広告代理店の営業を永年勤め、マクドネル・ダグラス社(McDonnell Douglas)、ギャレット部門(Garrett Division)などの重産業企業をクライエントとして担当していたベテランです。引退後、ネヴァダ州カーソン市(Carson City, Nevada)に在住。]


トム・キートン(Tom Keeton)

正直なところ、私は『プラチナのベンツ』は疑わしいと思った。いや、アラブの富豪やウオール街、金融業の会長だったら、プラチナ製の車を買う余裕は充分にあるであろうことは全く疑いの余地はない。


私の疑問は自動車の構造上の機能についてだ。ベンツ、クーペの車体全てがプラチナだったら、たとえ強化加工されていても熱、圧力や振動には耐えられまい。当然エンジンは鋼鉄の鋳型でなければなるまい。それが金、あるいはプラチナだったら、内燃機関エンジンが作動する際に生ずる高熱で溶けてしまうだろう。


ただ一つ考えられる可能性は、全ての板金(鉄鋼、アルミ、などから作られた)の表面を電気的にプラチナ鍍金(メッキ)加工することだけだ。そうすれば、圧力や振動に対する耐久力を維持しながら、ピカピカ煌めいているであろう。

いずれにしても、変わった突飛な話だ。

それに関連して思い出したのが、ボーイング社(Boeing)製の飛行機に必要な部品を供給していたギャレット部門が受けた特注内装のことである。一時期、特注航空機の内装を3機、同時に制作していた。

その第一機は『グリーニィ(greenie)*』727-200型(右は同型の商業機)の内装について。プラスチックや繊維ガラスなどは退け、織物の生地、木材の選択、何もかも全て豪勢な材料を調達していた。目につく金属は無垢(むく)の純金、構造的に堅牢さを要求される部分には金は不適当なので鋼鉄を使っていたが、それも厚手の金メッキが施されていた。


その第二機は同じく『グリーニィ(greenie)*』727-100型(右は同型の商業機)の内装で、贅沢な織物生地やマホガニーで被われていた。勿論プラスチックはどこにも使われず、金属部分は厚手の銀メッキだった。ハイライトとも言える部分は円形のベッドがある寝室で、豪勢にして繊細な雰囲気を醸し出していた。

その第三機は中古の727-100型(右は同型の商業機)を改装したもので、内装は良く仕上がっていたが、驚くほどのものではなかった。窓枠、テーブル等々、ごく普通のプラスチック、フォーマイカ、研磨された木製卓などであった。

いずれも自家用機で、豪勢な第一機はアドナン・カショギ(Adnan Khashoggi:上の写真左)、悪名高い石油の仲買人、アラビア首長の所有だった。 第二機の持ち主は、ヘンリー・フォード・ジュニア(Henry Ford Jr.:上の写真中 )。正確に言うと、フォード・モーターの社用機だが、実際にはヘンリーが独占して飛び回っていた。 第三番目の飛行機はヨルダン王、フセイン(King Hussein:上の写真右)の所有だった。
この教訓:
一国の王、一企業の社長になる勿れ。石油産出国の仲買人たれ。さもなくば、贅沢を極めた飛行機で飛び回れない。


註:*『グリーニィ(greenie)』とは、航空機生産場の用語で、組み立て工場から出来立てホヤホヤで、内装がなく骨組みが露わな飛行機。操縦席、客席など全ての内装は特注仕上げ工場( the custom house) で取り付けられる。自動車の完成も似たような工程をたどる。