コロンブスはアメリカを発見したのではない。侵略したのだ。

実際は、コロンブスが着いたカリブ海の島には、すでに原住民が平和で素朴な生活を営んでいた。兵隊を交えたサンタ・マリア号の乗り組み員たちは、長旅で不足していた食料や水を調達するために武力を行使した。のみならず、その楽園の島をスペインの領土とすべく、原住民を弾圧し、抵抗する者たちを拷問にかけ、火焙りにするなど、殺戮をほしいままにした。(下の図は当時の殺戮を示す版画)

歴史家ハワード・ジンの誕生
1922年(大正11年)8月24日、ハワード・ジン(Howard Zinn)は、東欧ユダヤ系移民の息子としてニューヨーク市ブルックリンで生まれた。両親共に初等教育程度しかなく工場で働いていたが、子供たちには高い教育を授けたいと念願し、僅かだが小遣いを与え、ディッケンス(Charles Dickens)などの文学書を買わせた。ハワードは高校へ行くようになってから、詩人エライアス・リーバマン(Elias Lieberman)が指導する創作著述のクラスを取った。

戦後、ハワードは退役軍人向け奨学金の恩恵で、ニューヨーク大学(New York University)の政治科で歴史を学び学士号を取得し1951年卒業、続いてコロンビア大学で博士号を取得し1952年に卒業した。それ以後、ジョージア州アトランタ市、スペルマン大学(Spelman College)で歴史の教授を振り出しに、フランスやドイツの大学の客員教授、晩年はボストン大学の政治歴史科の名誉教授を勤めた。

その傍ら著作にも精魂を傾け、20冊を越える歴史に関する名書を発表した。中でも『民衆のアメリカ史(A People's History of the United States)』(クリック)は「教科書に書かれていない歴史」(右の写真)に関する書物を探していたが、そうした文献が見付からなかったので、それなら自分で書こうと思い立った、という野心作で、200万部以上も売れるベストセラーになった。

その初演は、2003年の2月ニューヨークで公開された。観客の殆どはハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』を読んだ200万人の一部だった。ハワード自身も俳優たちの朗読に先立って紹介の講演を受け持ち、朗読劇を盛り上げた。(右下の写真)

その後、ボストンののカトラー・マジェスティック劇場(The Cutler Majestiv Theatre)や、カリフォルニア、マリブ・パフォーミング・アーツ・センター(Malibu Performing Arts Center)で公演され、それがビデオに収録された。
このブログでは、1時間40分に及ぶビデオの全てはご紹介できないので、そのハイライトだけご覧いただきたい。全編にご興味をお持ちだったら『民衆のアメリカ史』(富田虎男、平野孝、油井大三郎共訳、上下2巻、2005年、明石書店発行)』(クリック)をお読みになるか、ビデオ『The People Speak』(クリック)をご覧になることをお勧めする。
『発言』を朗読する俳優たちと音楽家たち



アメリカ原住民(インディアン)の人権

「あの人達(アメリカ政府)の約束は口先だけで、実行してはくれない。(信用できないから)私たちは動きたくない。住み慣れて絆(きずな)ができている家族を、いきなり散り散りにさせられたら、我々の心臓の糸がプッつり切れてしまう。」
アフリカから拉致され奴隷として売られた黒人の人権

それから22年後の1881年、かつての奴隷で解放の指導者となったフレデリック・ダグラス(Frederick Douglas:上掲『過去に発言した人々』の写真を参照)はハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)の大学で講演した。
「ジョン・ブラウンは、志半ばで奴隷解放運動を成し遂げ得なかったが、少なくとも彼は、奴隷制度を終らせる運動を始めてくれた。ジョン・ブラウンが両手を広げた時、空は晴れ、、、」と心から賞賛を惜しまなかった。
テディ・ルーズヴェルト大統領を非難したマーク・トゥエイン


その報を聞いたルーズベルト大統領は、2日近く考えた末、ウッド司令官の軍事行動を賞賛する公示を出した。
その公示の後、パリ条約(The Treaty of Paris)を注意深く読んだ上で、マーク・トゥエイン(Mark Twain:左の写真)は「私が観察した所、我が国の政策はフィリッピン人民を解放するのではなく、支配し手なずけることにあったようだ。私が考えるに、我が国の歓びは、あの人達を解放し、あの人達の国内問題はあの人達のやり方で、あの人達なりに解決させてこそ得られるものだったと思う。さよう、私は反帝国主義だ。私は鷲(ワシ、アメリカのシンボル)の爪で他国を引っ掻くことには反対だ」とアメリカ政府軍隊の戦略を非難した。
(註:今日4月21日は偶然、マーク・トゥエインが死亡してから丁度100年目の記念日に当たる。ちなみに、彼の本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンス(Samuel Langhorne Clemens),であった。)
労働者の人権

裁判中、ジョヴァニッティは陪審員への声明で「、、、私たちのストライキは、週にたった50セントの賃上げを要求しただけです。でなければ、今の労働条件は50年前のニグロ奴隷の待遇と変わりありません。私たちの自由は半分、あとの半分は奴隷並みです」と状況を説明した後「私は29才、愛する妻がいて彼女も私を愛してくれています。私の両親は私の帰りを待っています。人生にはたくさんの愉しいことがあり、心から素敵で輝かしい人生の歓びを享受し、またそうしたいと熱望しています。あなた方がどのような審判を下そうとも、私は感謝いたします」と結んだ。
女性の人権と『産児制限』

「私は男女数名に、避妊の方法を教えたことで訴えられました。、、、あらゆる犯罪の動機の背後には恐ろしい生命の危険が潜んでいます。もし私の行ったことが犯罪だとおっしゃるなら、私の動機にも確かに『恐ろしい生命の危険』が潜んでいました。厚生省(The Department of Health)の統計によると、アメリカ国民の内、3千万人が貧困状態にあるということです。 この人達が子供を産んで親になったら、その子供たちはどんな育ち方をするでしょうか、考えても見て下さい。貧しい家庭で弱々しく育った赤ちゃん30万人が毎年、最初の誕生日を迎える前に死んでしまうと、幼児福祉機関(Baby Welfare Association)が統計を発表しています。この実態が何年もの間、私が直面してきた『恐ろしい生命の危険』で、私の犯した犯罪の動機なのです。 、、、『計画産児』は焦眉の急です。あらゆる労働に就業している男女は無計画に子供を産むことなく、何時子供を持ったらよいか判断して受胎することによって自由を勝ち取り、子供たちに、歓び多い、愉しく輝かしい幼児時代の体験を与えられるのではないでしょうか。」
徴兵を拒否する人権

「俺は、8000キロも離れた遠くの外国へ出掛けて行って、何の恨みもない国の貧しい人達を撃ち殺すことなどできない。」
ナイン・イレヴン(2001年9月11日の同時多発テロ)以後の人道

「私共は、政府が戦争という暴力行為でテロに対して『復讐』する方向に進んでいることに不安を感じます。、、、『復讐』は決して賢明な政略だとは思えません。それでは私共の息子への回向(えこう)にはなりません。、、、少なくとも『私共の息子のために復讐をするのだ』と戦争を正当化してもらいたくありません。」
ハワード・ジンの終幕

それらが、あたかもハワード・ジン『晴れの舞台』のフィナーレでもあったかのように、去る1月27日、心臓の不調で87才、多難多彩にして人々に多大な影響を与えた生涯の幕を閉じた。
ハワード・ ジンが消えても、その教えを体得した何百万人の人々が『真実の歴史』を伝え広め続けるであろう。
1 件のコメント:
『発言』するには勇気が必要です。勇気とは、時には『死』に至ることも意味します。でも『発言』が正義を守り、人道を正しい方向に定めてくれるのです。
昔、兼好法師が『徒然草』の中で「、、、もの言わぬは腹ふくるるわざなり、、、」と書いています。『発言』は健康にも良いはずです。
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