2010年4月20日火曜日

学校では教えないアメリカ歴史

洋の東西を問わず、国の為政者たちは国民に『愛国心』を植え付けることを腐心ているようだ。今回、日本の場合はさておいて、アメリカに限って『教科書に書かれていない』歴史の一端をご紹介する。

コロンブスはアメリカを発見したのではない。侵略したのだ。

学校で使っている歴史の教科書によると、1492年、コロンブス(Christopher Columbus)がスペインからサンタ・マリア号(Santa Maria)で西へ向かって航海し続け、アメリカ大陸を発見し、ヨーロッパ人の開拓精神を高揚させた。従って、アメリカでは彼を開拓の先駆者として祭日まで設けている。

実際は、コロンブスが着いたカリブ海の島には、すでに原住民が平和で素朴な生活を営んでいた。兵隊を交えたサンタ・マリア号の乗り組み員たちは、長旅で不足していた食料や水を調達するために武力を行使した。のみならず、その楽園の島をスペインの領土とすべく、原住民を弾圧し、抵抗する者たちを拷問にかけ、火焙りにするなど、殺戮をほしいままにした。(下の図は当時の殺戮を示す版画)


爾来500年、カリブ海のみならず北米大陸は、新世界での将来を夢みるヨーロッパの移民たちによって席巻され尽くされた。

歴史家ハワード・ジンの誕生

1922年(大正11年)8月24日、ハワード・ジン(Howard Zinn)は、東欧ユダヤ系移民の息子としてニューヨーク市ブルックリンで生まれた。両親共に初等教育程度しかなく工場で働いていたが、子供たちには高い教育を授けたいと念願し、僅かだが小遣いを与え、ディッケンス(Charles Dickens)などの文学書を買わせた。ハワードは高校へ行くようになってから、詩人エライアス・リーバマン(Elias Lieberman)が指導する創作著述のクラスを取った。

1939年、ナチ、ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した時、ハワードはナチのファッシズムを憎み、それと戦うべく陸軍航空隊に入隊し爆撃機のパイロット(左の写真)となり、ベルリン、チェッコスロバキア、ハンガリア、フランス各地を爆撃した。この間の体験や見聞が、後にハワード反戦思想を育む背景にあった。

戦後、ハワードは退役軍人向け奨学金の恩恵で、ニューヨーク大学(New York University)の政治科で歴史を学び学士号を取得し1951年卒業、続いてコロンビア大学で博士号を取得し1952年に卒業した。それ以後、ジョージア州アトランタ市、スペルマン大学(Spelman College)で歴史の教授を振り出しに、フランスやドイツの大学の客員教授、晩年はボストン大学の政治歴史科の名誉教授を勤めた。

その傍ら著作にも精魂を傾け、20冊を越える歴史に関する名書を発表した。中でも『民衆のアメリカ史(A People's History of the United States)』(クリック)教科書に書かれていない歴史(右の写真)に関する書物を探していたが、そうした文献が見付からなかったので、それなら自分で書こうと思い立った、という野心作で、200万部以上も売れるベストセラーになった。

ハワードはその成功を踏み台とし、過去における民衆の主張や発言で特筆に値いするものを選んで構成し民衆は発言する(The People Speak)』(左の写真クリック)と題した舞台劇を書き上げた。『劇』と言っても、いわゆる『芝居』ではない。舞台装置は象徴的にあしらった人々のシルエットを背景にし、その前で数々の俳優が普段着のまま歴史的な『発言』を代わる代わる朗読する、といった単純な趣向である。しかしその『発言』がその時代毎に重要な意味を持っているので、その装置の単純さが内容の重みを効果的に高めるのに役立った。

その初演は、2003年の2月ニューヨークで公開された。観客の殆どはハワード・ジン『民衆のアメリカ史』を読んだ200万人の一部だった。ハワード自身も俳優たちの朗読に先立って紹介の講演を受け持ち、朗読劇を盛り上げた。(右下の写真)


その後、ボストンののカトラー・マジェスティック劇場(The Cutler Majestiv Theatre)や、カリフォルニア、マリブ・パフォーミング・アーツ・センター(Malibu Performing Arts Center)で公演され、それがビデオに収録された。

このブログでは、1時間40分に及ぶビデオの全てはご紹介できないので、そのハイライトだけご覧いただきたい。全編にご興味をお持ちだったら『民衆のアメリカ史』(富田虎男、平野孝、油井大三郎共訳、上下2巻、2005年、明石書店発行)』(クリック)をお読みになるか、ビデオ『The People Speak』
(クリック)をご覧になることをお勧めする。

『発言』を朗読する俳優たちと音楽家たち

俳優:(左上から右へ) マット・ダモン(Matt Damon)、マイク・オマリー(Mike O'Malley)、ダリル・マクダニエル(Darryl McDaniel)、ベンジャミン・ブラット(Benjamin Bratt)、モーガン・フリーマン(Morgan Freeman)、ディヴィッド・ストラサイム(David Strathaim)、(2段目左から)ハリス・ユリン(Harris Yulin)、ジャスミン・ガイ(Jasmine Guy)、マイケル・イーリィ(Michael Ealy)、ロザリオ・ドウソン(Rosario Dawson)、クリスチナ・カーク(Christina Kirk)、ジョシュ・ブロリン(Josh Brolin)、(3段目左から)ケリー・ワシントン(Kerry Washington)、ダニー・グロヴァー(Danny Glover)、マリサ・トーメイ(Marisa Tomei)、キャサリン・シャルファンKathleen Shalfant)、マーチン・エスパダ(Martin Espada)、レグ・キャセイ(Reg E. Cathey)、(4段目左から)ヴィゴ・モーテンセン(Viggo Mortensen)、クオリアンカ・キルチャー(Q'orianka Kilcher)、サンドラ・オウ(Sandra Oh)、ジョン・リジェンド(John Legend)、ドン・チードル(Don Cheadle)、スティシャン・チン(Staceyann Chin)。

音楽家:(左から)ボブ・ディラン(Bob Dylan)、アリソン・ムアラー(Allison Moorer)、クリス&リッチ・ロビンソン(Chris & Rich Robinson)、エディ・ヴェダー(Eddie Vedder)、ブルース・スプリングスティン(Bruce Springsteen)。

過去に発言した人々:(左上から右へ)J.W. ログエン(J.W. Loguen)、フレデリック・ダグラス(Frederic Douglas)、ジョン・ブラウン(John Brown)、無名の奴隷、シルビア・ウッヅ(Sylvia Woods)、ロザ・パーク(Rosa Park)、(2段目左から)マーチン・ルーサァ・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)、マルコム・エックス(Malcolm X)、女性参政権運動家たち、スーザン・アンソニー(Susan Anthony)、ソジョーンナ・トルース(Sojourner Truth)、イップ・ハーバーグ(Yip Herberg)、(3段目左から)ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)、ジェノラ・ジョンソン・ドリンジャー(Genora Johnson Dollinger)、ローズ・チャニン(Rose Chernin)、ユージン・デブス(Eugene Debs)、ヴィト・ルッソ(Vito Russo)、(4段目左から)ジョセフ酋長(Chief Joseph)、ジーン・ラ・ロックGene La Rocque)、エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、世界産業労働者団体(Industrial Workers of the World)の結成、ダルトン・トラムボ(Dalton Trumbo)、マリアン・ライト・エデルマン(Marian Wright Edelman)。

アメリカ原住民(インディアン)の人権

ヨーロッパからの移民の群れが、大陸を西へ西へと押し寄せたのに呼応し、1830年アンドリュー・ジャクソン大統領は。フロリダ州、ジョージア州、アラバマ州の原住民5種族をミシシッピー州以西に追放する法令に署名した。涙ながらの旅(The Trail of Tears)』として知られる、アメリカの軍隊に囲まれて行進した老若男女1万6千人のインデアンにとっては失意の旅で、4千人が死亡した。チェロキー族(The Cherokees)と、セミノール族(The Seminoles)が政府に抗議し抵抗した。

「あの人達(アメリカ政府)の約束は口先だけで、実行してはくれない。(信用できないから)私たちは動きたくない。住み慣れて絆(きずな)ができている家族を、いきなり散り散りにさせられたら、我々の心臓の糸がプッつり切れてしまう。」


アフリカから拉致され奴隷として売られた黒人の人権

白人ジョン・ブラウン(John Brown:上掲『過去に発言した人々』の写真を参照)は、奴隷を解放するために一生を捧げた。1859年、彼の解放戦線は失敗に帰し、自分の息子を含めた同志が殺され、自分は傷つき捕えられ、死刑を宣告された。宣告後、ブラウンは声明を発表し、その最後に「、、、今、私の命が極刑に値いすると判断することによって正義の終わりを容認するなら、私の血は、子孫や、この奴隷國で悪魔的で冷酷な不正行為により人権が踏みにじられている何百万の人々の血と混じり合うであろう、、、」と言い残して刑場の露と消えていった。

それから22年後の1881年、かつての奴隷で解放の指導者となったフレデリック・ダグラス(Frederick Douglas
:上掲『過去に発言した人々』の写真を参照)ハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)の大学で講演した。

「ジョン・ブラウンは、志半ばで奴隷解放運動を成し遂げ得なかったが、少なくとも彼は、奴隷制度を終らせる運動を始めてくれた。ジョン・ブラウンが両手を広げた時、空は晴れ、、、」と心から賞賛を惜しまなかった。


テディ・ルーズヴェルト大統領を非難したマーク・トゥエイン

1898年、スペインと戦って3ヶ月で勝利を収めたアメリカは、それを受けてフィリッピン征服を画策した。その戦略は難航し、中でも南部の死火山口付近に住んでいた600名のモロ族(The Moros)の抵抗に手を焼いていた。司令官レオナルド・ウッド(Leonard Wood)は「その600名を捕虜にするか殺せ」と命令し、自ら陣頭指揮をとった。結果として老若男女を含む600名のモロ族を皆殺しにしてしまった。これこそ、前例のないアメリカ合衆国のクリスチアン兵士によって遂行された栄光ある勝利であった。

その報を聞いたルーズベルト大統領は、2日近く考えた末、ウッド司令官の軍事行動を賞賛する公示を出した。

その公示の後、パリ条約(The Treaty of Paris)を注意深く読んだ上で、マーク・トゥエイン(Mark Twain:左の写真)は「私が観察した所、我が国の政策はフィリッピン人民を解放するのではなく、支配し手なずけることにあったようだ。私が考えるに、我が国の歓びは、あの人達を解放し、あの人達の国内問題はあの人達のやり方で、あの人達なりに解決させてこそ得られるものだったと思う。さよう、私は反帝国主義だ。私は鷲(ワシ、アメリカのシンボル)の爪で他国を引っ掻くことには反対だ」アメリカ政府軍隊の戦略を非難した。

(註:今日4月21日は偶然、マーク・トゥエインが死亡してから丁度100年目の記念日に当たる。ちなみに、彼の本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンス(Samuel Langhorne Clemens),であった。)


労働者の人権

世界産業労働者連合(The Industrial Workers of the World:IWW)は、20世紀の始めに結束した過激な労働組織だった。アメリカ労働者連合(The American Federation of Labor)の方針とは違って、白人、黒人、男性、女性、インディアン、移民、技術者、技術のない労働者、全てを包含していた。1921年、マサチューセッツ州ロウレンスの織物工場で移民女性がストライキに突入した際、警官の暴行や法的な脅迫に脅かされた。IWWを組織したアルツーロ・ジョヴァニッティ(Arturo Giovanitti)は殺人の冤罪で逮捕された。

裁判中、ジョヴァニッティは陪審員への声明で「、、、私たちのストライキは、週にたった50セントの賃上げを要求しただけです。でなければ、今の労働条件は50年前のニグロ奴隷の待遇と変わりありません。私たちの自由は半分、あとの半分は奴隷並みです」と状況を説明した後「私は29才、愛する妻がいて彼女も私を愛してくれています。私の両親は私の帰りを待っています。人生にはたくさんの愉しいことがあり、心から素敵で輝かしい人生の歓びを享受し、またそうしたいと熱望しています。あなた方がどのような審判を下そうとも、私は感謝いたします」と結んだ。


女性の人権と『産児制限』

20世紀の初頭、エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)は無政府主義、女性解放論、労働者の人権、などを擁護する過激な発言をした運動家だった。全国を行脚し、各地の劇場で講演し、しばしば逮捕された。第一次世界大戦に反対し、エドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)監督の下で国外追放にもなった。下記は、彼女が『産児制限』を叫んだことで裁判にかけられた時、裁判長に弁明した言葉である。

私は男女数名に、避妊の方法を教えたことで訴えられました。、、、あらゆる犯罪の動機の背後には恐ろしい生命の危険が潜んでいます。もし私の行ったことが犯罪だとおっしゃるなら、私の動機にも確かに『恐ろしい生命の危険』が潜んでいました。厚生省(The Department of Health)の統計によると、アメリカ国民の内、3千万人が貧困状態にあるということです。 この人達が子供を産んで親になったら、その子供たちはどんな育ち方をするでしょうか、考えても見て下さい。貧しい家庭で弱々しく育った赤ちゃん
30万人が毎年、最初の誕生日を迎える前に死んでしまうと、幼児福祉機関(Baby Welfare Association)が統計を発表しています。この実態が何年もの間、私が直面してきた『恐ろしい生命の危険』で、私の犯した犯罪の動機なのです。 、、、『計画産児』は焦眉の急です。あらゆる労働に就業している男女は無計画に子供を産むことなく、何時子供を持ったらよいか判断して受胎することによって自由を勝ち取り、子供たちに、歓び多い、愉しく輝かしい幼児時代の体験を与えられるのではないでしょうか。」

徴兵を拒否する人権

1960年代、ムハマッド・アリ(Muhammad Ali)はヘビー級ボクシングの王者だった。相手のボクサーに対して悪口雑言の限りをぶちまける(左の写真の左)ことでも有名だった。ヴェトナム戦争の最中、そのアリが徴兵された。彼は徴兵を拒否し逮捕され入獄した。その直前、報道陣に囲まれたアリ(左の写真の右)、徴兵拒否の理由を明快に宣言した。

「俺は、8000キロも離れた遠くの外国へ出掛けて行って、何の恨みもない国の貧しい人達を撃ち殺すことなどできない。」

ナイン・イレヴン(2001年9月11日の同時多発テロ)以後の人道

『あの日』フィリスオーランド・ロドリゲツ(Philis & Orlando Rodriguez:右の写真)夫妻の息子は、破壊された世界貿易センターで働いていてテロ攻撃の犠牲者になった。時のジョージ・ブッシュ大統領テロとの戦いを掲げてアフガニスタンを攻撃した。『あの日』の犠牲者の家族たちの多くは、ブッシュの政策に喝采を送ったが、反対意見を持つ家族もいた。フィリスオーランドも反対の側で、その心情をニューヨーク・タイムズに投稿した。

「私共は、政府が戦争という暴力行為でテロに対して『復讐』する方向に進んでいることに不安を感じます。、、、『復讐』は決して賢明な政略だとは思えません。それでは私共の息子への回向(えこう)にはなりません。、、、少なくとも『私共の息子のために復讐をするのだ』と戦争を正当化してもらいたくありません。」


ハワード・ジンの終幕

ハワードの朗読劇『民衆の発言』は各方面で評判となり、今年の始め、ヒストリー・チャンネル・テレビ(History Channel)で公開され、引き続いて公共テレビのビル・モイヤーズ・ジャーナル(Bill Moyers Journal)』のゲストに招かれ対談に応じた。

それらが、あたかもハワード・ジン『晴れの舞台』のフィナーレでもあったかのように、去る1月27日、心臓の不調で87才、多難多彩にして人々に
多大な影響を与えた生涯の幕を閉じた。

ハワード
・ ジンが消えても、その教えを体得した何百万人の人々が真実の歴史を伝え広め続けるであろう。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

『発言』するには勇気が必要です。勇気とは、時には『死』に至ることも意味します。でも『発言』が正義を守り、人道を正しい方向に定めてくれるのです。

昔、兼好法師が『徒然草』の中で「、、、もの言わぬは腹ふくるるわざなり、、、」と書いています。『発言』は健康にも良いはずです。