2011年2月22日火曜日

三保文江を偲ぶ

[はじめに:先日公開した『追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯』に寄せて、3人の読者から貴重なご感想を頂きました。今回はその一つ、他界した三保文江が在日中、東京三田の普連土学園に在職していた大津光男事財務理事の回顧記事をお送りいたします。編集

大津光男(おおつ みつお)
2011年2月

「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(ペトロの手紙二1章5~7節)

人間は、どんなに聖人と言われていても、いかなる時でも、誰からも好かれ、愛され、慕われる人は、皆無に等しい。イエス・キリストにしてもそうだった。ジョージ・フォックス(George Fox)も同じだった。

多様な意見を認め合うキリスト教フレンド派(Religious Society of Friends: 以下、クエーカー、友会、友会徒などとも言う)の中にあっても、意見を同じくする人もいれば、少数意見で去っていく人もいた。クエーカー史上のアメリカでの分裂以外他国のことは知らないが、日本の場合、年会総会などでは意見の相違が顕著に現れることが多々あった。(上の写真:前列左から三保文江、上代タノ、鮎澤巌、後列左から松野左武郎、石田トシ、小泉一郎。上代、鮎澤、小泉は普連土学園歴代理事長、松野は財務理事、石田は校長であった。)

それは、組織として活動する以上、一致点を見出すまで、とことん議論をいとわないのがクエーカーの生き方であるからこそ存在しているものだった。


2010年10月31日、ハワイで亡くなった三保文江と私ども夫婦との間には、公的にも私的にも半世紀以上にわたる長い親交があった。

『追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯』の記事を読み、彼女が内心の光に導かれて、イエスを信じる者として、一生を正直に、平和を築くために生きて来たことを思う時「but、、、この記事は少々どうかね、大津君、、、」という彼女の声が耳に聴こえて来る。

Yes, 私が飾りなく伝えれば、三保文江は、ゆるぎのないフレンド派の信仰に基づく非暴力者、平和主義者ではあった。だが、好感を持たれて多くの友を得ることができ、それが彼女の大きな財産となっていた半面、時には歯に衣を着せない厳しい言動があり、それが故に誤解を招くことも間々あった。

しかし、どんなに反対の意見が出されようと、その場に居合わせるということは、そこに彼女が存在している、謂わば、彼女にとっては神によって生かされているという信念でもあった。それが三保文江の生き方だった。

筆者の手元には、今2通の葉書が残っている。

1通は1991年6月25日付で、もう1通は1993年1月5日付だ。前者は、三保文江が普連土学園を1991年3月末に退職し、ハワイに戻った時の挨拶状で、後者はその2年後のいわば賀状(右下のコピー)だ。挨拶状は日本語で、賀状は英語でそれぞれ書かれている。挨拶状は、建前ではなく彼女の本心を伝えており、まず、転載して彼女の霊に捧げたい。

三保文江は、ハワイで生まれ、1940年に初来日した日系二世だった。日本での生活が半世紀以上にわたってはいても、上掲の葉書の文面に見られる如く、日本語に堪能であった、とは言い難かった。

筆者と話をするときには英語交じりの日本語だった。いつも、大津君、yes、、、, oh no! but*****ね。と言い、*****には 『peacefully』『in the Bible』 とか『I think,』あるいは『I am sure』その他の英単語が混在していたが、自分の考えを伝えるものだった。

それは、信仰の先輩としての言葉であり、後年は職場での同僚としての意見だった。また、自分の考えを書面では英語で書いていたが、前記のように日本語で表記することは苦手だった。だから、普連土学園に在職中は外国からの来客の通訳をよくしてくれたものだったが、その場限りになってしまっていた。今では、日本語で彼女の書き残している論文や随想を、すぐに探し出すことは困難になっており、かえすがえすも残念である。

ところで、筆者の手元には、もう一つの資料がある。三保文江の手書きの履歴書である。履歴書は、普連土学園の評議員になっていた1978年のものである。その履歴書は、実に簡潔だ。まるでクエーカーとしての生き方を凝縮したようなものである。決して自分を誇ったりしない。学歴欄は英文だが、それらをまとめて並べてみると次のようになる。
                      1914年大正3年12月2日生まれ
                      1939年6月 ハワイ大学卒業
                      1953年6月 イェール大学神学部卒業
                      1955年~56年 普連土学園講師
                      1960年~63年 普連土学園講師フレンズセンター主事就任
                      1964年春 ウッドブルック大学
                      1964年~68年 普連土学園講師
                      1965年 国際基督教大学評議員
                      1968年~69年 ウッドブルック大学
                      1970年~91年 普連土学園講師
                      1971年 東京女子短期大学講師
                      1971年 法政大学講師
                      東京月会会員
                      日本YWCA会員 

戦争中、日系二世として日本で苦難を味わった三保文江は、広島の惨劇を目にし、危うく惨事を免れたことに神の意志を感じて、平和主義者になった。アメリカに戻ってイェール大学神学部(Yale Univ. Divinity School)を卒業し、1954年にアメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service committee: AFSC)の一員として来日した。が、その後、宣教師ビザを取得して1955年から普連土学園の非常勤講師としても、聖書の授業を担当し始めた。

私や妻が初めて三保文江に会ったのは、この時期のことだった。

2年間の契約が切れて、再び米国に戻った三保文江は、4年後、フィラデルフィア年会日本委員会から派遣されて1960年6月に来日し、エスター・B・ローズ(Esther Rhodes)の後任として、フレンズ・センター主事に着任した。同時に、ハワイのホノルル月会から東京月会に転会して、キリスト友会日本年会の諸活動、特に教務委員として積極的に協力することにもなった。

一方、宣教師としては、普連土学園でも再び非常勤講師として聖書を教えることになったのである。この当時、大学に通っていた私は、折に触れて彼女と話す機会があった。キリスト友会日本年会のヤング・フレンズの指導にも当っていたことがあり、水戸や下妻など茨城県下の集会を訪問していたからだった。

三保文江が最初にウッドブルック(Woodbrooke College:左の写真はその一部)に行った1964年に、私は就職して名古屋に行った。それからの10年間は、彼女との交流はもっぱら書簡になった。残念ながら、それらは現在残っていない。彼女も、キリスト友会の役員には全く就任せず、独自の活動を行っていた。

三保文江は、1967年12月末でフレンズ・センター主事契約を終了した。そして、翌1968年3月末には普連土学園の非常勤講師も辞めて、再びウッドブルックに行って研修を積むことになった。

ウッドブルックとは、イギリスのバーミンガム(Birmingham)近郊にあるクエーカー研修センターのことである。周囲にはいくつかの大学があり、緑に囲まれた自然の豊かな研修センター内でも宿泊しながら、朝夕の沈黙、瞑想の礼拝や、あるいは宿泊者同士の交わり、その他のプログラムへの参加を通じて、クエーカーに関するあらゆる研修が可能である。したがって、そこでも彼女は「生かされている喜び」を味わい、クエーカーとしての自己研鑽につとめたのである。

このセミナーに1年間出席した後、彼女は世界の友会徒を訪ね歩いた。まるで、クエーカー史上のミニスターのように交流を深めた後、今度は、宣教師ビザではなく、ワーク・ビザを取得して1970年に日本に戻った。そして、普連土学園の非常勤講師として生徒には聖書やクエーカー思想(Quakerism)を教え、父母の会では聖書と英会話の勉強を受け持ち、1991年3月末に完全に退職するまで、学校と海外の友会徒とのつながりを英文で認める役割を担ってくれたのである。この間、1973年度~74年度、77年度~80年度、普連土学園の評議員としても、尽力してくれていた。

私は、会社を辞め1985年に普連土学園に転職し、三保文江とは6年間、職場を共にする機会に恵まれた。彼女の印象は、少年時代、青年時代と全く変わらなかった。

三保文江は、普連土学園では非常勤であったから、他の時間を彼女の信仰に基づく諸活動に当てていた。彼女に言わせれば、oh, no!と言われるだろうが、彼女は沈思黙考型というよりは、ある面では衝動的かどうか適切な言葉が浮かばないが、霊に動かされる行動的な女性であった。男勝りの活動派だった。そこには、国際人としての活躍があり、平和主義者としての活動があった。それゆえに、多方面で多くの友を得たのである。中には、普連土学園の卒業生やご父母たちも大勢いた。

かかる事情もあり、彼女の訃報は私から日米の関係者に伝えた。米国の関係者とはAFSCの職員として来日していた人々である。一様に、彼女の地上での働きに感謝し、関係者は思いを新たにして、その霊の安からんことを祈っていた。

三保文江は、すでに世を去った。が、世界の平和と安定とは全く先が見えない。

それゆえ私には、oh, no! but,だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさいと彼女が今なお語りかけて来るのである。

彼女のご冥福を心からお祈りして、生前のご厚誼を感謝し追悼文としたい。

訂正公開された『追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯』記事中「彼女はその生涯を奉仕に捧げた。彼女は伝道師であり、教育者で学校長であり」で、
学校長とあったのは明らかな間違いで、ホノルルの追悼礼拝会の略歴では、訂正があったことを付記しておきたい。大津

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

改めて、大津光男さんと共に、三保文江が推進した生前の平和運動その他の活動に感謝し、哀悼の意を捧げます。