志知 均(しち ひとし)
2010年11月
2010年11月
1992年ごろ『ボクが病気になった理由』と題する日本のテレビ番組を見た。自分が直腸ガンだと信じこんだ会社員が起こした騒ぎが、オレもワタシも症状が同じだと一般市民に広まって大騒ぎになる話、おいしい店巡りの番組に長期間出演し、もともと糖尿病の傾向があった女性アナウンサーが糖尿病になってしまう話、ホテルの手違いから見知らぬ女性と一夜を同室にされた中年の高血圧の男性が血圧を上げる話、の三題話である。番組の内容は面白かったが題名がちょっと変だと思った------病気になるのは理由ではなく原因があるからだ。
とはいっても、ガンにしろ、糖尿病にしろ、高血圧にしろ、病気の原因を究明するのは難かしく、ほとんどの治療は対症療法になるので、病気の理由と原因の言葉の混乱があっても仕方がないかもしれない。病気になる原因には病原体の感染、有害環境因子、傷害、遺伝体質などいろいろあるが、この小文ではバクテリアに焦点を合わせて、病気の原因になるバクテリア(病原菌)とヒトの身体との『攻防戦』について書いてみる。バクテリアの名前その他で聞きなれない用語が出てくるがご容赦されたい。
われわれの周りの空気、水、土、動物、植物すべてがバクテリアに満ち満ちている。ヒトの身体は10兆の細胞でできているが、その外側(皮膚)と内側(呼吸系、消化系など)の表面は100兆のバクテリアで覆われている。バクテリアは肉眼で見えないから我々は平然としているが、もし見えたら握手もキスもしなくなり、刺身(さしみ)や握り鮨(にぎりずし)も食べなくなるだろう。(右の写真手前の水が、バクテリアで緑色になっているニュージーランドの湖)
幸い、身体に寄生する4万種類近くのバクテリアの内、病気を起すのは100種類ぐらいで、ほとんどのバクテリアは無害か有益な種類である(有益バクテリアはビタミン合成や、不消化物を消化してくれる)。肺は一日に1万のバクテリア細胞を吸い込み、腸には食物と一緒に膨大な数のバクテリアが入ってくるので、1千億のバクテリアが寄生しているといわれる(糞の乾燥重量の1/4がバクテリア!)。
そのため呼吸器系と消化器系は特に病原菌に侵され易い。生まれたての赤ん坊は無菌状態だが数時間で腸内バクテリアの集落(colony)ができ始める。当然病原菌も入ってくるが、幸い母親が新生児に与える初乳の中に免疫抗体(lgAと呼ばれる)が含まれており防いでくれる。成長につれ免疫系が完成し、病原菌に対する抵抗性ができれば、感染しても必ずしも発病はしなくなる。
実際『健康人』の1/3が結核菌(Mycobacterium tuberculosis)の保菌者で、その半分が胃潰瘍を起すピロリ菌(Helicobacter pylori:右の電子顕微鏡による写真)や食中毒を起すスタフ菌(Staphylococcus aureus)の保菌者である。感染から発病までの期間を潜伏期と呼ぶが、一生潜伏期のままで過ごす病原菌も多い。
病原菌にせよ、有益菌にせよ、身体の中へ入ったバクテリアは免疫系に殺されることなくどうやって寄生するのだろうか?肺や腸などの臓器(ホスト)に入ったバクテリアはホスト組織の表面を覆う粘膜に付着する。それを通り抜けて外皮細胞層に達するとホスト細胞に『針』を刺してバクテリアが増殖し寄生するのを容易にする多数の因子を『注射』する。ホスト細胞はバクテリアの到来を探知して防御態勢をとるが、ホスト細胞にとって有益なバクテリアの場合は殺さないで寄生させる。ホスト細胞が探知に使う道具の一つが特別な探知器(Toll-like receptor: TLRと呼ばれる)で、バクテリアの細胞外膜にある糖脂質(Lipopolisaccharide; LPS)を探知するTLR4とバクテリアの鞭毛(べんもう:flagella:左の分解図の7)の構成蛋白フラジェリン(flagellin)を探知するTLR5が特に重要である。ホスト細胞は病原性バクテリアの侵入を探知するや否や、免疫系を活性化し、バクテリアを殺す免疫食細胞(phagocyte)を召集する。この防御システムが常にうまく働けば病気にならない筈であるが、現実はそうはいかない。その理由はホストの免疫系に殺されないために病原菌はいろいろ巧妙な手段を講じてくるからである。そのいくつかを紹介しよう。
まず、TLRに探知されない手段の例。食中毒をおこすサルモネラ菌(Salmonella enteritidis:右の写真は電子顕微鏡で撮影)はTLRに類似の蛋白をつくりホスト細胞のTLR作用を混乱させて探知されるのを免れる。ピロリ菌はTLR4やTLR5に探知されないためにLPSとフラジェリン蛋白の両方の構造をかえる。
ダニの媒介で白血球に感染してアナプラズマ病をおこすアナプラズマ食細胞菌(Anaplasma phagocytophilum)の場合は極端でTLR4の探知を逃れるためLPS合成の遺伝子を全部捨ててしまう。LPSがなくなって弱くなった細胞膜はコレステロールで補強する。そのためコレステロールの要求性が高くなり、高ステロールのホストを感染に選ぶようになる。アナプラズマ食細胞菌はTLR4の探知を免れても結局探知されて食細胞に取り込まれる。ところがこの『殺し屋』は、食細胞の中で生きのびる手段をもっており、最後は逆に食細胞を殺してしまう。
このような病原菌は他にもいくつか知られているが、もう一つ例をあげれば、14世紀に、蚤(ノミ)の媒介による腺ペスト病(bubonic plague)でヨーロッパ人の三分の一を死亡させたペスト菌(Yersinia pestis)がある。この菌は血液中の食細胞に潜んで全身に広がりリンパ節へ入って増殖し脹れ(bubos)を起こす。免疫食細胞の中に隠れて生存するような驚くべき適応性をアナプラズマ食細胞菌はどうやって獲得したのであろうか?在郷軍人病(Legionella disease)はこの疑問にヒントを与えてくれる。
これは1976年、フィラデルフィアで開かれたアメリカ在郷軍人(American Legion)会に出席した人達の何人かが呼吸疾患を起こして死亡したケースで、病原菌はホテルの部屋の通風孔からひろがったアメーバに寄生していた菌(Legionella pneumophila)であった。この菌は土中でアメーバに食べられていたが、そのうちに『進化適応』してアメーバの細胞の中で寄生する能力を獲得した。アメーバと免疫食細胞(phagocyte)は性質がよく似ているので、この菌はヒトの食細胞に入っても殺されないで寄生できる能力を発揮できると考えられる。
ホストに寄生するために使う手段は、この他にも土中での長い生存の間に獲得したものなど、いろいろあるであろう。例えば、ヒトの体内で抗生物質の攻撃を受けた場合、多くの病原菌はバイオフィルム(biofilm)とよばれる『テント』を造って隠れる。この性質は数種のバクテリアが土中で共生していた時お互いの自己保存のための『情報交換』に『抗生物質』を使っていたことの反映だといわれている。バイオフィルムを造って共存する時は少量の抗生物質を分泌し、相手を殺す必要がある時は大量に分泌する。それにしても病原菌が示す自己防衛の秘策の数々には驚く外はない。敵もさるものである。
抗生物質は病原菌に対する強力な武器であるが、その使い過ぎは危険である。例えば、先進国では広汎な抗生物質使用のため過去10年間にピロリ菌保菌者の数は減少した。そのお蔭で胃潰瘍や胃ガンは激減した。その反面、食道ガンが増えている。胃酸分泌が増えて酸性が高まるとピロリ菌は自己防衛のため胃酸生成を抑える物質を分泌する。ピロリ菌がいなくなると胃酸調節が狂って胃液の逆流(acid reflux)で酸が食道へ出て起す炎症が、食道ガンを増やした原因であろうと解釈されている。
また、ピロリ菌が減ると食欲を高める因子(ghrelin)が増え、抑える因子(leptin)が減って肥満の原因になる。したがってピロリ菌は身体に有益なバクテリアでもある。この例で判るように、消化系の寄生菌には有害か無害かが決め難いものが多い。腸内細菌を抗生物質で絶滅させたマウスに、肥満マウスの腸内細菌を導入すると肥満になると、いう報告がある。肥満は代謝病(metabolic disease:左はその図解)といわれているが、この結果は腸内細菌による感染が肥満の原因であることを示している。残念ながら、腸内バクテリアとヒトの身体との共生関係については、一部のバクテリアを除いてあまり判っていないので、肥満に関するバクテリアについては今のところ何も言えない。この小文の始めに触れた糖尿病も高血圧も一般に代謝病として薬物による対症療法されることが多い。
しかし代謝異常が何によって起きるか判らなければ、バクテリアの感染も関係している可能性は否定できない。そう考えることが病気の理由ではなく原因の追究につながる。
1 件のコメント:
赤ちゃんは母乳で育てましょう。バクテリアに抵抗する最高の防御作戦です。
手をよく洗いましょう。バクテリアとの付き合いを減らすためです。
おフクロの味を愉しみましょう。外部からバクテリアの侵入を閉め出す手段になります。
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