はじめに:フミエ・ミホ(三保文江)はいわゆる『有名人』ではない。だが、知る人ぞ知る、彼女は敬虔なクリスチアンで、その生涯の殆どを社会奉仕に捧げ、昨年10月31日(ハワイ時間)に96才で亡くなった。以下はハワイのカマカマカ紙(Ka Makamaka)に掲載されたフミエ・ミホの略伝である。編集:高橋 経
三保文江の一生は非凡な信仰と勇気の伝記に満ちてる。彼女はその生涯を奉仕に捧げた。彼女は伝道師であり、教育者で学校長であり、ヒロシマ原爆投下の目撃者であり、その生存者であり、世界平和と無暴力の支持者であり、そして人道主義に情熱を捧げてきた。
文江は、1914年(大正3年)マウイ島のワイルク(Wailuku)で生まれた。両親は父カツイチと母アヤノ・三保、当時人口が増加の一途をたどっていた日系人たちに日本語を教えるために広島から移民してきた。文江は、8人兄弟姉妹の5番目であった。
文江は少女時代をワイルク/カフルイ(Kahului)地区で育ち、1933年、マウイ高校を卒業し、2年後ハワイ大学に入学した。彼女はイースト・ウエスト・センター(The East-West Center)の前身であるオリエンタル・インスティチュート(The Oriental Institute)に参加し積極的な活動をしていた。
文江が高学年になった頃、ハワイ大学で最初の国際哲学会議が開催され、その席上で有数な哲学者、高倉淳二郎(名前の漢字は未確認)と知り合い、東京帝国大学(現東大)で仏教を学ぶことを薦められた。その薦めに従って文江は1940年に渡日した。残念ながら、当時の大学は女性に対し教育の道を閉ざしていたため、文江は止むなく、女子大で英語を教えることに計画を変更した。
翌1941年、日米戦争が勃発し、文江は帰米できず、その後7年間抑留され、挙げ句の果てにアメリカ市民権を剥奪されてしまった。後年、文江はその当時の身辺を「あの戦争中は我が家族は散り散りに分断され、不協和、不統一、絶望に揺すぶられた日々だった」と回想している。
1945年、文江と姉(妹?)月江の家族は東京の住居を引き払い、広島県に疎開することにした。時は正に原爆投下の8月6日、偶然、文江たちは広島行きの汽車に乗り遅れてしまい九死に一生を得た。あの瞬間、(乗り換えの)駅は広島市から僅か16キロしか離れていなかったので爆発音が聞こえ、目が眩むほどの閃光が見え、続いてパステル色のキノコ雲が、巨大なチューリップのように高く高く上空に広がっていった。原爆の実態を知らなかった文江は、その不思議な光景を見ながら「あのアメリカ軍は何て美しいカモフラージュを発明したんだろう」と思っていた。
広島に着いた文江は、それから何日も何週間も、数え切れないほどの被爆屍体や、重軽傷を負った 被爆者たちを次々と焼け跡から運搬していた。その作業をしている間中、文江は「何で私だけが命拾いをしたのだろうか?」と自問し続けていた。
こうした自問を繰り返している内、文江は心の中で、一生を平和と正義に捧げようという気持ちが固まり始めていた。開戦以来、心ならずも日本に抑留状態になりハワイへ帰れずにいたアメリカ市民の文江だったが、1947年にやっとホノルルへ戻ることができた。
帰国3年後、文江は仏教を捨て、通称『クエーカー(Quaker)』のキリスト教友会(The Religious Society of Friends)に入会し、YWCAが後援する奨学金を得て、イエール神学校(Yale Divinity School)で学んだ。文江は校外実習としてニューヘイヴン(New Haven)の貧民街や、ノース・カロライナ州の孤児院で働いた。1953年に学位を得て神学校を卒業し、ニュー・ハンプシャー州、ニュー・ロンドンのコルビー・ジュニア・カレッジ(Colby Junior College)で宗教学を教えた。
1954年から1956年まで、アメリカン・フレンズ奉仕団(The American Friends Service Committee)に採用され、東京で難民救済事業のディレクターとして働いた。その後マウイに戻り、ラハイナ・メソジスト教会(The Lahaina Methodist Church)で日本語の牧師を2年間務めた。
1960年、東京へ宣教師として赴任し、1967年までフレンド・センター(The Friends Center)の会長を務めた。その後、ウッドブルック・カレッジ(Woodbrook College)で4学期だけ修学し、1968年、再び東京へ戻り、普連土学園(フレンドがくえん:右下の写真)その他の学校で英語と聖書教育に携わった。(左の写真:左が文江、学園の教師、役員と) 同時に1991年に引退するまでYWCAでも活動を続けていた。
1992年、文江の兄弟で故人となったポール・カツソ・ミホが、生前平和と正義の社会運動に捧げていたことを記念し、イェール神学校の平和樹立奨学金のためにカツソ・ミホ基金を設立した。基金は文江の日本の友人から寄付を受けたものであった。
文江は、国際的にも活躍し、しばしば、平和、正義、人道主義、そして無暴力の立場を強調するクエーカーを代表していた。彼女の発言は核武装や大量破壊兵器に反対する声として反響を呼び大きな影響を与えている。
1 件のコメント:
三保さんとは個人的に知遇を得る機会はありませんでしたが、彼女の話しは日米二人の友人から伺い、感動いたしました。
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