カソリックに余り親しみのない方のため、要点をご参考まで:
◆ ヴァチカン・シ ティ(Vatican City):イタリア、ローマン・カソリックの本部(下の写真)
◆ 法王:世界中のカソリック教徒の頂点に立つ人物。現法王はベネディクト16世(Pope Benedict XVI)、枢機卿(すうききょう)時代の名はジョセフ・ラツィンガー(Joseph Ratzinger)
◆ オークランド教区:カリフォルニア州サンフランシスコの近く
女人禁制の聖(性)域
モーリン・ダウド(Maureen Dowd)
2010年4月10日、ワシントン発
2010年4月10日、ワシントン発
私(ダウド、右の写真) がサウジ・アラビアにいた時、教養の高い専門職に就いていた若い女性のグループと茶話会を持つ機会があった。
彼女たちに、私が普段から疑問に思っていたことを聞いてみた。サウジ・アラビアが近代国家でありながら、家系優先で専制的、さながら古代の男性優位の社会の如く女性の人権が極端に制約されていることに、何故かくも洗練された女性達が不満を持たないのか、という質問してみた。それに対して、サウジ・アラビアは、国なりのペースで近代化に移行しているので、外部から見たら遅々として捗らないように思えるのであろう、と彼女達の、やや弁護的で受け身な答えが返ってきた。
何故、かくも芯の強い利発でそれぞれの分野でしっかりした職業を遂行している女性達が、従属的な地位に甘んじているのだろうか?と疑問に思っていたが、その答えを聞いてから、カソリック育ちの私自身が、彼女達と大差ないことに気が付いた。
私自身も、近代化に背を向けて家系優先で富裕な男性専用クラブがある閉鎖的な社会に属しているではないか。
私自身も、温存世界の中で女性を排除し、その発展を無視する専制的な社会の一部だったではないか。
私自身も、男性達と同様、わが宗教王国の崩壊に備えて、時代遅れな女性排除の儀式にしがみつき、男どもの古典的な友愛精神に、女性の叡智、才能、心情を、採択して得られるであろう利益には目もくれない冷淡な態度は当然である、と受け入れていた。
女性と一線を画するため、サウジ・アラビアでは、ムハマッドの教えではなく、極端なイスラム教の道徳法典と正教を適用した;カソリックの教会はイエスの教えではなく、極端なカソリック独自の道徳法典と正教を適用した。新約聖書によると、イエスはしっかりした女性達に囲まれていたが-----それが母であろうと娼婦であろうと-----女性を劣等人間として扱い、彼女らの誰一人としてイエスの使徒として登用しなかった、とある。
女性の存在を否定することは、教会での忌まわしい、そして罪深い根本思想で、僧侶が少年少女の福祉に関する扱い方にも顕われている。最近のニューズウイーク誌で表題となったリサ・ミラー(Lisa Miller)の評論の中で、教会が聖母マリアを創立の中心としている反面で女性を排除し続けることは、その教会が自体を辱しめているに他ならない、と指摘している。
すなわち「ローマン・カソリック教団の内部で、千年も続いている伝統に従って生き働いている上層幹部たちが、結婚だけでなく女性と性的な関係をもつこと-----家族を持つことで起きる生活の煩雑さは言うまでもない-----などを避けてきた」ことを指している。彼らが女性や懐胎に関する全てを避けるため、閉鎖社会の壁の中に隠遁(いんとん)し、子供たちを『付随的な厄介もの』扱いにし、聖母マリアの教会の面目を保ってきた訳も納得できないことはない。
そして神父たちの罪悪が次々と浮かび上がってきた。金曜日のAP通信(The Associated Press)が発表した最近の記事では、ローマ枢機卿ジョセフ・ラツィンガー(Joseph Ratzinger:現在のPope Benedict XVI:法王ベネディクト16世:右の写真)を名指しで非難していた。つまり、カリフォルニア州で或る神父が子供たちを性的に犯した事件の処断について、本来なら神父という聖職を剥奪すべき採択を拒否したラテン語で書かれた手紙の一部を引用したものである。
永年に亘ってヴァチカンの法律を遵守させる枢機卿の立場にあり、現職が法王ベネディクト16世として、彼は積極的に違法者の告発をすべきだった。にも拘らず、法王は断を下すどころか温情さえ示していた。
AP通信の報道によると、オークランド教区は、1981年に(性犯罪者)神父スチーブン・キースル(Stephen Kiesle:左の写真)の聖職剥奪を進言している。この神父は、遡って1978年、司祭館内で二人の少年を椅子に縛り付け性的に犯したことで訴えられたが、証人喚問なしを嘆願し、3年間の執行猶予となっていた。
1982年、オークランド教区の進言に対して、ヴァチカンからは『素っ気ない』返答が返ってきただけだった。1985年、最終的にカリフォルニア司教の問題として取り上げられた。司教は教区に『神父の若年さ』を考慮し、38年間に及ぶ少年への性的倒錯行為に対し『でき得る限り父親らしい処遇』をとるよう勧告書を送った。法王になる以前のラツィンガーは、むしろ『神父の犠牲者たちの若年さ』考慮すべきだったのではあるましか。そして(父親だけでなく)母親の愛情が伴うべきだった。
他に同様な事件が数多く浮かび上がっているが、常に『教会のスキャンダル』を隠蔽することの方を優先していたようだ。オークランド教区の司教がヴァチカンに勧告書を送った時、罪深い神父を罰しないことのスキャンダルの方が、神父自体のスキャンダルより深刻な問題になるであろうとも警告していた。にも拘らず、法王になる前のラツィンガーは司教に答えて、罪を犯した神父が自発的に聖職を放棄することを認める以前に『国際的に教会の為になる』ことを先ず考慮するよう伝えていたことには、肌寒く、腹立たしくなる。
ヴァチカン(上の写真はヴァチカン・シティの全景)が事件に関わっていた間、教区では事件のファイルを紛失したからと再提出することを要請し、キースル神父はオークランドの北にある教会で勝手に牧師を務めていた。AP通信は又、同神父は、最終的に聖職を剥奪された後でも、オークランド教区で子供達を取り扱い続け、彼に関する教会への警告は常に無視されていた、と報道している。
教会側の国際的なスキャンダルに対する怯えた反応が、因習に固執し、反抗的で、何の役にも立たないことをヴァチカンが認識し、確固とした立法システムと協力し、法王は犠牲者たちと対面して話し合う必要があるのではなかろうか。それが殆ど実行されず、また手遅れでもあるが、、、。
私が他の子供達と共に成長する年頃に教会で教えられた『善悪のわきまえ』は、こと子供たちへの性的な暴行となると『善悪』の判断ができなくなるらしい。犯罪というゴミは司祭館の絨毯の下に掃き込んで隠され、性的な犯罪者は『国際的な見地から教会の為に良い』からという理由で保護され、また同じ罪を繰り返させる。それは本当に悪い仕組み、、、ひどく悪い伝統、、、まさに道義の退廃だ。
教会は神学的に混乱してしまった。この場合は感覚的な混乱。法王は道徳的に妥協しているようだ。尼僧から道義を教えてもらったら如何だろう?
1 件のコメント:
「体面、面子を重んずる、、、」何か他人事ではないような気がします。よくある話です。反省の余地ありですね。
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