地獄で仏、、、武士の情け
第二次大戦中のヨーロッパ戦線の出来事。1943年(昭和18年)12月『空の要塞(Flying Fortress)』のニックネームで知られるアメリカの爆撃機ボーイングB−17のパイロット、チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)は、ドイツ、ブレーメン(Bremen)にある工場を爆撃する使命を遂行していた。使命をおおむね果たしてから、ブラウンはイギリスの基地キムボルトン(Kimbolton)に駐屯している379爆撃隊の元へ帰ろうとした。それまでに、ブラウンのB−17は防御するドイツの対空高射砲や迎撃に遭い、可成りの損傷を受けていた。4個のエンジンの一つは不能、尾翼、水平翼、機首は大破、尾部銃座の射撃手は重傷を負い、天井銃座も破壊され、機体の至る所に銃弾の穴だらけ、機内は血まみれだった。コンパスが機能しない状態のまま、逆の方角に向かってドイツ空軍基地の上空を飛び続けていた。
地上のドイツ軍司令官は、そのB-17を認め、戦闘機ルフトワッフェ(Luftwaffe)BF-109のパイロット、フランツ・スティグラー(Franz Stigler)に撃墜を命じた。命を受けたスティグラーは飛び立ち、B-17に近付いたが、その傷だらけのまま飛び続けている爆撃機を見て信じられず息をのんだ。
スティグラー(左)は機をB-17と並ばせ、パイロットのブラウンが見える位置に近づけた。それに気が付いたブラウンは必死の思いで追跡から逃れようとした。スティグラーはその様子を見て、ブラウンが方角を間違えていることを知り、方向転換するよう手を振って指示した。
後年、スティグラーはその時の心境を「あんなに傷だらけの飛行機と勇敢な兵隊たちを撃ち落とす気持ちにはなれなかった。彼らは必死の思いで基地へ戻ろうとしていたんだ。私はそのB-17に長いこと付き添って帰り道を指示してやった。あの時の私は命令された通り彼らを撃ち落とすことが出来る立場にあったけれど、それは撃墜された飛行機からパラシュートで脱出して降りていく兵隊を撃ち殺さないのと同じ動機だ」と述懐している。
ブラウンの爆撃機B-17とスティグラー戦闘機BF-109が海へ出て、イギリスの南端が遥か彼方に見えてきた地点で、二人のパイロットはお互いに敬礼を交わして北と南に別れた。
スティグラーは基地に戻り、上官にB-17を洋上で撃墜したと報告し、以後その件については誰にも真実を話さなかった。一方、B-17のブラウンと生存者たちは、ドイツのパイロットから攻撃される代わりに救助された顛末を全て報告したが、上官から、以後その件について一切口外しないよう警告され、口を固く閉ざしていた。戦争が終わり、時たま集まる旧戦友の会合でも上官の命令を守り続けていた。
戦後40年以上が経過し、チャーリー・ブラウンは、あの日のルフトワッフェのパイロットに会いたいと思って探していた。そして数年間の捜索の結果、遂にフランツ・スティグラーの所在を突き止め連絡することができた。ブラウンはスティグラーをアメリカに招待し、旧379爆撃隊の生存者の会合に出席させ再会を果たした。総計25名、あの日スティグラーが「撃たなかったため」その日まで生き延びられた人々だった。
フランツ・スティグラーとチャーリー.ブラウン、共に昨2008年に他界した。
[編集後記:武士道の信条よると、敵味方に分かれて戦い、一方が敗れた場合、その瞬間から勝者にとって敗者は『敵』ではなくなる、とされています。又、『川中島の合戦』で名高い武田信玄と上杉謙信が対立した際、塩不足で悩んでいた武田に上杉が「我々は弓矢で戦っているのだから、食料を戦略に使うわけにいかない」と言って塩を送ったという挿話があります。いずれの場合も『武士の情け』の発露に他なりません。このエピソードは、正に武士道と通じる心情です。]
1 件のコメント:
国と国の戦いに、人と人が知らない間柄なのに殺し合っています。どう考えても道理に合いません。戦争ほど非条理で、醜悪なものはありませんね。
コメントを投稿