

(註:文中に挿入した写真は、本文とは直接関係ない。上:鄧小平(とうしようへい Deng Xiaoping)左と胡燿邦(こようほうHu Yaobang)右。左の写真は当時のソ連書記長ミカイル・ゴルバチョフと握手する鄧小平。)

北京の銃声
ニコラス D.クリストフ(Nicholas D. Kristof)
NYタイムス、寄稿者

低い地形の端まで逃げ、音がかき消されて静寂になった所で立ち止まり振り返って見た。両者の間にできた100メートル程の空間地帯に、兵隊に撃たれたのであろう、死傷者が何人も横たわっていた。

兵隊たちは負傷者を回収しようとしている救急車にも発砲したので、他の救急車は遠くに離れたまま近付こうとしなかった。その時、思い掛けない救いの手が現れた、、、数台の人力車。

一人の逞しい人力車夫は、頬を流れる汗を拭いもせず、運んでいる重傷を負った学生を私に見せてから走り去った。(右の写真:タンクの前に立ちはだかる反抗者)
そのお陰で、私は写真を撮り、事件のレポートを書くことができた。あの人力車夫は多分デモクラシーの理念など弁えていなかっただろうが、身の危険を冒してまでも自分の信念を実行していたのだ。
このような光景は北京中で起こっていた。その夜、古い飛行場からの道路を兵隊を満載したトラックが東から市内に侵入してきた。それを見た中年のバスの運転手は、車を道路の真ん中に横付けにし、軍用トラックの行く手を遮ってしまった。
「道を空けろ!」と叫ぶ兵隊に向かってバスの運転手は、 「あんた方に学生たちを攻撃させる訳にはいかないんだ!」と頑固に言い返した。
兵隊たちは銃口をバスの運転手に向け、再び道を空けるよう命令した。それに対して運転手は車の鍵を抜き、道ばたの草むらに放り捨ててしまった。もう誰もバスを動かすことができなくなった。彼は逮捕された。その後、その頑固な男がどうなったかは判らない。
事件から20年経ち、あれほど強硬に要求したデモクラシーはどうなったのだろうか?何故中国は政治的に凍結してしまったのだろうか?この20年間、中国は経済的に急成長したにも拘らず、何故政府は1980年代以上に報道を厳しく抑えているのだろうか?そして何故、今日それに対する不満や抗議の声が聞かれないのだろうか?
だだ一つ考えられるのは、あの抗議を叫んでいたエネルギーが、遥かに安全な金銭欲へのエネルギーに変換されてしまったのではあるまいか。私の知る中国人の友人は「大声で抗議すれば逮捕される。抗議を胸の中にしまっておくのは無駄なことだ。私はむしろ気楽に海賊版のDVDでも観ていた方が無難だと思うよ」と本音を吐露していた。
他に考えられる答えは、あの1989年代に人力車夫、バスの運転手、そして他の諸々が要求していたのは政治的なデモクラシーではなく、今日獲得できた『より良い暮らし』だったのではなかろうか。その点、中国共産党は中国の経済発展という多大な業績を挙げたことになり、同時に政治的に弾圧した人々の経済生活も向上させてしまったのだ。
北京の市民の生活水準は飛躍的に向上した。彼らに投票権はないが、幼児の死亡率はニューヨークのそれを遥かに下回る27パーセントを示している。
何もかも良いことづくめではない。生活環境は無惨そのものだ。醜い国粋主義から一部の若者たちや、政治に無関心な一般人でさえ、組織の腐敗やウェブサイトの厳しい検閲制度(今週のTwitter、 Flickr 、 Hotmailなどが遮断された)などに対して不安感を隠し切れない。それを償うかのように、今の生徒の教育は前の世代に比べて著しく向上し、アメリカの生徒よりも高い水準にある。
市民を教育し中産階級を増やすと、政治に参加する意欲が生まれる、というのが常識的な傾向である。そういった意味で、中国は1980年代の台湾や南朝鮮の足跡を辿っている。
1986年、台湾の馬英九(ま・いんじょう;Ma Ying-jeou)という野心満々な若い官僚が私に「強固な西欧型のデモクラシーは台湾人には当てはまらない」と言っていた。彼は彼が考えているデモクラシーに改訂したことで、今日では『民主的に』選挙された大統領になってしまった。
私の友人の何人かは共産党の幹部で現在の地位に甘んじている。我々外部の人間も彼らと同様に、状況を急速に変化させようなどと企むことなく、実質的な考えに立って辛抱しなければならないようだ。そんな風に我々が耐える時、20年前のあの人力車夫たちの行為を思い起こすことで我慢ができるというものだ。
1 件のコメント:
どれほど生活が向上しても、『自由』を失った人生は苦しみに他なりません。不景気でも何でも、自由を満喫できる今の生活に勝るものはありません。
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