2012年1月5日木曜日

最後の『ノー・ノー・ボーイ』逝く


追悼:日系人立ち退きに反抗したゴードン・ヒラバヤシ
1918年4月23日~2012年1月2日

真珠湾奇襲で始まった日米戦争の翌年、1942年2月19日、ルーズベルト大統領(Franklin D. Roosevelt)の署名により「西海岸諸州に住む在米日系人の撤去」の法案が実効となった。ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州、それにアリゾナ州の一部に住んでいた11万人余りの日本人移民とその子供達の殆どは、不服ながら政府の方針に従った。

しかし、法令に従わなかった者も何人かいた。ゴードン・ヒラバヤシは、その一人だった。他にフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイなどアメリカ生まれの二世達が、それぞれ市民権を主張し、法的な手段を行使し撤去法令を、平等の精神に基づくアメリカ憲法に違反するとして立ち退きを拒んだ。

当時、ヒラバヤシワシントン大学(the University of Washington)の学生、両親の信仰(多分仏教徒)に従っていた平和主義者で、後に入会したクエーカー教団と共通した思想を持っていた。戒厳令下のワシントンで午後8時以降の外出は禁じられていたが、それを無視したヒラバヤシは逮捕され投獄された。時に1942年5月、11万人余りの日系人は既に収容所に送られていたが、ヒラバヤシは、500ドルという保釈金の支払いを拒み続け、シアトル連邦裁判所が彼に出頭命令を発した同年の10月まで入獄していた。

法廷でヒラバヤシは「政府の法令は、正に人種差別の偏見に基づくものに他ならない」と主張したが、戒厳令および撤去令を拒否したことで3ヵ月禁固という判決が下された。それに不服だったヒラバヤシは再審要求をしたが保留され、更に4ヵ月禁固が延長された。保釈後は同州のスポケーン(Spokane)に送られ収容所の同胞たちを移動する作業をしていた。

1943年、ヒラバヤシは、戒厳令違反で9ヵ月入獄していたオレゴン州フッド・リヴァー(Hood River)の法律家、前記のミノル・ヤスイと共に最高裁判所に再審要求を提訴した。しかし法廷は「戒厳令は、政府が戦時下の事情における憲法の遂行である」ことを譲らず、更に3ヵ月間アリゾナ州ツーサン(Tucson)近くでの強制労働を申し渡した。

他の二人、ヤスイコレマツ両名も同様に敗訴していた。

日系二世が抱いている、国家アメリカへの忠誠心を計るため、国防省の徴兵部門では幾つかの質問書を用意した。その一つに「日本国天皇への忠誠を破棄するや否や?」というのがあった。両親との絆以外、日本とは無縁な二世からすればバカげた質問で「外国の元首に対する忠誠なんてあり得ないことだから、破棄するもしないもない。こんな質問は他國の移民にはしていないのだから、これは正に日系人差別の顕われに他ならない」と、ヒラバヤシは、平和主義と併せて徴兵も拒否した。以上の質問書には上記の「天皇云々」ともう一つ混乱を招く質問があった。ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツ、いずれも二つの質問に「ノー」と答えたことから、『ノー・ノー・ボーイ』の異名が与えられれた。

かくして三人の『ノー・ノー・ボーイ』達は、頑なに自己の主張を守り通し、戦後も上告を諦めなかった。一方、裁判所側では、この一件に関わることを避け続けてきた。

1980年代の初頭、カリフォルニア大学サン・ディエゴ分校(the University of California, San Diego)の政治学科のピーター・アイアンズ(Peter Irons)教授が上記の裁判記録を検索している内、西海岸諸州の日系米人たちが「国防上、危険な存在ではない」ことを実証した文書を発見し、それを最高裁判所が故意に公表しなかったことが明るみに出た。これが、『ノー・ノー・ボーイ』達の上告を復活させるきっかけとなった。
左から:ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツ:1985年頃

19879月、サンフランシスコの連邦裁判所で、ヒラバヤシの戒厳令違反、収容所への登録不履行、などの罪状は、陪審員三名が一致して覆すことに同意し、一転して無罪の判決が下された。既に同様の無罪判決は、他の二人にも下されていた。

収容所政策の謝罪と補償書に署名するリーガン大統領

かくして『ノー・ノー・ボーイ』達は青天白日の身になったわけだが、11万人余りの収容所入りした日系人たちも戦争によって大きな犠牲を強いられていた。この人達のために、多くの日系法律家や政治家が奔走したお陰で、翌1988年、アメリカ政府が公式に謝罪し生存者には補償金が支払われた。

ゴードン・キヨシ・ヒラバヤシは、日本人移民を父に、1918年シアトル市で生まれた二世アメリカ市民だった。戦後、ワシントン大学で社会学を専攻し学位を得て卒業、ベイルートのアメリカ大学(the American University of Beirut)、カイロのアメリカ大学(the American University in Cairo)、カナダ、エドモントンのアルベルタ大学(the University of Alberta in Edmonton)でそれぞれ教鞭をとり、同地で夫人スーザン・カァナハン(Susan Carnahan)と暮らしていた。


波乱の生涯を終え、ヒラバヤシは去る1月2日、93才で永眠。最近は認知症だったようだ。
遺族は、妻、先妻の娘二人、息子一人、妹一人、弟一人、孫九人、曾孫九人。
なお、ヤスイは1986年に、コレマツは2005年にそれぞれ亡くなっている。

ヒラバヤシは生前、彼の法的闘争について「われながら感心するのは、私が敗訴した時でも自分の信条の価値を信じ、諦めなかったことだ。この反抗は、自分のためだけじゃなかった。また、日系米人のためだけでもなかった。人種を問わず、全てのアメリカ人が、基本的人権の大切さを守らねばならなかったからだ」と繰り返し語っていた。
高橋 経 (巻頭ヒラバヤシの写真は、1988年FGC総会にて)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

在米日系人の歴史を伝えることは、私の悲願です。1991年に出版した既刊の改訂補足版『還らない日本人』を目下編集中です。ゴードン・ヒラバヤシの概伝も補足する記事の一つです。ご期待ください。