私が20代半ばだった頃、よく一緒に呑み歩き、激しく議論を交わした悪友がいた。飲酒の話ではない。ある時話題が読書のことになり、あの本この本の棚卸しを始めた。突然彼が真顔になり「何が面白いって『六法全書』ほど面白い本はないぜ」と断言した。「法律の本が何で面白いんだ?」と訝った私に彼は「人間が持っている弱点全てを残酷なほどムキ出しにしてくれるからさ」と答えた。
私は疑わしく思いながらも、法律というものはそんなものかも知れない、と半ば納得しかけ、数日後『六法全書』を買い求め、読み始めた。お恥ずかしながら、私は1ページも読み切れなかった。『全書』は未だに本棚で埃をかぶっている。
『禁酒法』のビデオを鑑賞し成り行きを見ている内に、旧友の言葉が蘇ってきた。「アレをしてはいけない」とか「コレをしてはいけない」といった禁止令は、人間の持つ弱点を封じ込める役割を演じるために制定されたのに他ならない。にも拘らず、その法律が有効に忠実に守られるかどうかは全く別の問題だ。ここに小説より奇にして予想外な一大ドラマが展開され汚辱と誤算のアメリカ近代史が残ったのである。編集:高橋 経
『禁酒法(PROHIBITION)』
第2部:法がある無法国家 (A Nation of Scofflaws)
製作:ケン・バーンズ/リン・ノヴィック(Ken Burns & Lynn Novick)
アンハウザーのトラックと、モルト・シロップの樽 |
1920年1月16日、世界で初めての『禁酒法』がアメリカで発効した。以来、禁酒運動を推進してきた各団体の思惑通り、アルコール飲料の消費量は少なくとも従来の3分の1に減少した。ビール会社の大手、アンハウザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)は、企業の体質を変更し、ビールに代わってチーズのような酪農品の生産に切り替えた。またアルコールを含まない飲料の生産も試みた。しかし、その分野ではコカコーラ(CocaCola)が既に出回っており、同社の販売高は文字通り倍増した。
夫婦むつまじく、、、。 |
禁酒派は『サルーンの滅亡(Death of Saloon)』を祝う喜びのパーティがあちらこちらで繰り広げられた。飲酒の付き合いで帰宅が遅かった夫は家で妻と夕食を摂るようになり、家庭の平和が復活した。
しかし、こうした現象は一時的であり、また表面的なものでしかなかった。
(左から)ブドー採取、醸造、リンゴ酒、医療用、密造 |
また、『禁酒法』は全面的ではなく、例外が認められていたのである。例外とは、自家製の酒を自宅で呑む限り許されていた。また医師は『医療用』の酒が入手できた。リンゴのサイダーは除外されていたので、それを発酵させるか何らかの方法でアルコール分を混入させ、サイダーと称したリンゴ酒が出回っていた。
飲酒を身に付けた人々の中には禁酒を実行した人々もいたが、大半は酒を諦めず何らかの方法でそれを入手する手段を講じていたし、こうした機微に聡い商人は、醸造業者と連携をとりながら、着々と法の裏をかくことにしのぎを削っていた。彼らは本能的に経済の原則である『需要と供給の必然性』を心得ていたのである。『需要』者になるか『供給』者になるかの選択は自由だった。
ニューヨークはマンハッタンのド真ん中にあるイエール大学同窓会が設立したイエール・クラブ(The Yale Club)では『禁酒法』が発効する以前から、将来の会合に必要と思われるワインやウイスキー14年分を貯蔵していた。
(右上から時計回り)客をノゾキ窓から確かめる、 ダンスに興ずる会員、スカートの下に隠した酒 |
消滅した筈のサルーンは『スピーク・イージー(Speak-Easy)』と名を変え、住宅地帯に潜入し会員制度で密かにバーやダンスホールを設備し経営していた。もちろん無免許である。マンハッタンだけでもそうしたクラブが推定1万軒を下らなかったという。従って『禁酒法』発効以来いちじるしく減少したはずの酒の消費量は、事実上増加していたのである。
ミルク車を装った酒の配達 |
この需要を満たすため暗躍していたのが、俗にブートレッガー(Bootleggers)と呼ばれていた酒の密造者や密輸入業者だった。隣国のカナダやメキシコでは、依然として酒の製造販売が許されていたので、密輸入業者たちは外国で酒を仕入れ、さまざまな工夫をこらして運送し、目立たない田舎の納屋などに貯蔵し、それぞれが偽装した販売ルートを通して末端の私設クラブや消費者たちへ配達していた。運送は馬車、トラック、大型スクーナー、から、偽装ミルク配達車に至るまで多様、思いつく限り官憲の目を欺く手段がとられていた。こうした密輸入の元締めが巨額の利益をむさぼっていたことは言うまでもない。しかも取引はいずれも現金だったから、『脱税』という余禄までついたので「濡れ手で粟」とはこのことであろう。
外国産の酒に依存しているだけでは需要を満たし切れず、俗にムーンシャイン(Moonshine)と呼ばれる密造酒の生産も活発に発生した。特にケンタッキー州の山林で醸造されたバーボン(Bourbon: ウイスキーに近い)は酒飲みたちに愛好された。今日のジャック・ダニエル(Jack Daniel)などの元祖に当たるのではあるまいか。
押収された粗悪酒の数々 |
こうしたドサクサに紛れて、紅茶に工業用アルコールを混ぜて瓶詰めにした怪しげな密造酒も出回った。それを飲んで命を落すという事件が数々起こり、新聞種になった。
『禁酒法』の違反である「酒の需要と供給」に関する限り、殺人、強盗、窃盗などの犯罪に見られるような『罪悪感』は皆無だった。
その上、『禁酒法』違反者を取り締まる連邦政府の係官が全国で僅か1,500名、違反者の推定数100万人に対して「手薄す」の一語に尽きる。しかも、州によって法律の解釈や実施法が違っていたため、メリーランド州やミシガン州などの地方政府は『禁酒法』に消極的だった。
そうした現実を強化させる意図があったのであろうか、法務省の最高法務官補佐(U.S. Assistant Attorney General)にメィベル・ウイルブラント(Mabel W. Willebrandt:右の写真)夫人が推薦された。夫人は後に『法のファースト・レディ(First Lady of Law)』という異名を授かったほど厳格で実践的な法律態勢をとった。第1部で紹介した『キリスト教婦人節制同盟(Women's Christian Temerance Union: WCTU)』を支持し、税務、監獄制度、そして『禁酒法』などの違反取締り強化を担当する責任を与えられた。
私設クラブ、密輸入者の酒蔵の手入れ、違反者の逮捕、酒樽の破壊、などがしばしば実行されたが、彼らにとっては「軽い」罰金を払い、ほとんど入獄は免れていた。また、街頭で立ち売りを装って酒を売っていた男が捕まらなかったが、彼がその地域を担当していた警官に賄賂を渡していたからだ、という公然の秘密も明らかにされなかった。
左はアル・カポーン、右は縄張り抗争で殺されたギャング |
こんな世相の最中、イタリアや東ヨーロッパから『一攫千金』を夢にした逞しい若者たちが『希望の國(The Land of Opportunities)』アメリカへ渡ってきた。文無しだが腕っ節と度胸だけが身上、失うものは何もない、といった命知らずの面々だ。その内の一人、アル・カポーン(Al Capone: カポネとも発音する)は、酒の密輸を始め、ギャンブル取り次ぎから売春斡旋まで手を広げ、巨万の現金を稼ぎ、縄張りを広げ、ギャングのボスとして汚名を残した。
ギャング達はシカゴやニューヨークなどの大都会にそれぞれ縄張りを持ち、お互いに不可侵条約を結んでいたが、必ずしも守られるとは限らず、血なまぐさい抗争がしばしば起こり、一般市民を震駭させた。
婦人キリスト教節制同盟(WCTU) |
政治家たちもこうした世相とは無縁ではなかった。
禁酒時代が始まった1921年に就任し『禁酒法』を支持していた共和党のウォーレン・ハーディング(Warren G. Harding)が1923年8月、任期中に死亡。後を継いだ同じく共和党のカルヴィン・クーリッジ(Calvin Coolidge)も『禁酒法』を支持した。
さて『禁酒法』を廻って泥仕合を繰り返す需要、供給、取締、政治、などの行く末は?
(第3部につづく)
1 件のコメント:
酒は飲まないに越したことはない。面倒な煩わしさから解放され、懐の負担もなくなる。
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