2011年8月23日火曜日

『アイ♥ルーシィ』陰の人

昭和30年の頃、私は東京、池袋に住んでいた。ある日電気器具のセールスマンがテレビを売り込みに来た。当時テレビはNHKの独占で番組も不十分、誰もが自家用にする決心がつかず、街頭とか電気器具店のショーウインドーでプロレスの放映を立ち見するのが関の山だった。

「今お買いにならなくても結構です。2週間置いておきますからご覧になってから決めてください」という提案に「渋々と」合意した私、セールスマンが帰るや否や、テレビにかじり付いた。その時スクリーンに現れたのが、日本語に吹き替えられた『アイ・ラブ・ルーシー』だった。私がその羽目を外した、しかし罪の無いドタバタ・コメディに笑いこけ、テレビの虜になったことは言うまでもない。それは、日本の経済が爆発的に発展する転機でもあったようだ。


以来、民放が出現し、日本全国の家庭がテレビ・セットを保有し、カラー・テレビが生まれ、番組が充実し、映画産業を窮地の陥れたたことは衆知の通りである。


あれから半世紀余り、あの『アイ・ラブ・ルーシー』はコメディの古典となり、今でも、世界中の言葉に吹き替えられ、どこかの局で綿々と再放映を続けている。


さて、これほどヒットした傑作コメディの主人公二人、、、ルシール・ボール(Lucille Désirée Ball)やデジ・アーネツ(Dési Arnaz)の名は世界中で知られているが、その筋書き台本を書いた脚本家の名を知っている人がどれほどいるだろうか。かく言う私も、迂闊なファンの一人で、最近その脚本家の死亡が伝えられるまで知らなかった。----- 編集:高橋 経
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『ルーシー』の笑いを創った女性

デニス・ヘヴェシ(Dennis Hevesi);トム・ギルバート(Tom Gilbert);
4月21日および8月5日付け、NYTより抜粋

その人の名は、マデリン・プゥ・デイヴィス(Madelyn Pugh Davis)、もし或る日ふとその人に対面したら、誰もアイ・ラブ・ルーシー初期からの脚本家だなどとは思いもよらないであろう。マデリンは、もの静かで優雅、話し声はあくまでも優しい。去る4月20日、ロサンゼルス郊外、ベル・エァ(Bell Air)の自宅で90才の生涯を閉じた。(写真は『アイ・ラブ・ルーシー』のセットで、左からルシール、マデリン、デジ)

奇しくも今年は、『ルーシー』こと、ルシール・ボールの生誕100年記念に当たる。(1911年8月6日生まれ、1989年4月26日死亡;77才)

ルシール・ボールの人柄には、二つの面があった。『ルーシー』の役柄では、おかしな女、不安定な女、不運な女、可愛い女、すぐにバレる愚かな嘘をつく女の肖像を、あたかも女優自身でもあるかのように演じた。そのため、真面目で、慎重で、言葉を尊重し、完全主義者という本当のルシールを知らない人が大半だった。本人と役柄が共通した名前、実際の夫、染めた髪色、その他微々たる事実を除けば、殆どが架空の人柄を創り上げたことによって『ルーシー』が大成功したのである。


1950年代の視聴者すべては、単純に、女優ルシール・ボールが自身の個性を気ままにおおらかにさらけ出しているのだと思い込んでいた。こうした演出をするには、マデリンやその協力者ボブ・キャロル・ジュニア(Bob Carroll Jr.)など脚本家たち、製作者のボブ・シラー(Bob Schiller)、ボブ・ウエイスコフ(Bob Weiskopf)達の少なからざる創意工夫や努力が注がれ、仕事に厳しい一人の女優を、世界中の視聴者たちから愛好されるやんちゃな女像に変身させたのである。

こうした創作過程には製作者と俳優の間で常に意見の違いや悶着がつきまとっていた。

そうしたギャップを埋め、悶着をおだやかに解決していたのが、ルシールの夫で役柄でも夫役を務めていたキューバ生まれのバンド・リーダー、デジ・アーネツ(Desi Arnaz)だった。(1917年3月2日生まれ、1986年12月2日死亡;69才)


マデリンも問題解決の機智を身に付けていた。


ある場面でルーシーが牛の乳しぼりをするシーンを撮ることになった。その演技を不快に思ったルーシーマデリンに向かって「この筋は貴女が書いたんでしょ。貴女が搾ったらいいでしょ」と言い捨てた。マデリンは、とっさに何が優先するかを判断し、ちゅうちょすることなく牛の乳を搾り、事を収めた。


ことほど左様で、ルシールマデリンは全く正反対の人柄だったが、目的を達成する、という一つの目標に向けて、お互いの長所を生かすことには協力を惜しまなかった。


そうした不調和がしばしば起こったにも関わらず、ルシールは公的の場でも私的の場でも脚本家の功績を賞讃することを惜しまなかった。1954年、コメディ部門でエミー賞を授賞した時、「脚本家に与える賞があっても良いのじゃないかしら。私なら脚本部門の賞を作るけどね」と公言した。それまで、脚本部門の賞はなかったが、次の年から新設された。皮肉にも、マデリンの脚本は2年続けて候補に上ったが、授賞を逸し、それきりとなってしまった。


マデリンの著書『ルーシーと共に笑う(Laughing With Lucy)』ボブ・キャロルの協力を得て数年前に出版された。その本で、当時は珍しかった女性として、脚本ひと筋で生きたことを叙述している。序文に「自慢する積もりはない。また、すでにこの世にいない人々の弱点を書き連ねることはヤボなこと」と断っている。


従って、読者が有名俳優たちのスキャンダルを期待していたら、当てが外れるであろう。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

よき時代の無邪気な笑い、どんなに「陳腐だ」とけなされても、暴力やセックス過剰の映像に比べたら、『アイ・ラブ・ルーシー』のようなコメディの方がはるかに、はるかにマシだ。