『核家族』という言葉が使われるようになってから久しい。その本来の意味は、夫婦とその子供(もし有ったら)という家族の基礎的な単位である。しかし転じて祖父母や孫に至る2世代、3世代が一つの屋根の下で暮らすことなく、個人あるいは夫婦単位で離れて別居する現象を『核家族』と称するようになった。----編集:高橋 経
日本の家族構成(2010年秋の国勢調査による)
■ 所帯数が5,000万を超過した。その内訳は;
■ 一人暮らしが全体の31パーセントで首位、
■ その内訳は、65才以上の独居人口比は23パーセントで世界で最高、最悪、
■ 15才未満の人口比は13パーセントで世界の主要国で最低
■ 夫婦と子どもの所帯は29パーセント、
■ 夫婦だけの所帯は20パーセント
■ 家族の人数は 平均2.46人と最少記録を更新
■ 経済的な理由で20才から39才までの未婚の男性は83パーセント、女性は90パーセント。
その結果、少子高齢化が進み、社会保障制度が破綻の危機にあり、孤独死などの現象が増加した。『未婚の若者たち』と『孤独な老人たち』を併せ、独居1,600万人に達した。
アメリカの家族構成
アメリカでの
『核家族』現象は日本より前に始まっていた。若い男女が結婚すると親の家から別居するのが当然の習慣である。ただし
『核家族』という言葉に相当する言葉はなぜか見当たらない。多分、日本で創られた言葉であろう。
そうした『核分裂』家族の現象をよそにして、稀に例外な家族構成がある。
あるイタリア移民
19世紀に遡る。ローマから160キロほど東南、
アペニン山脈(Apennine Mountains)の麓に
ロセト・ヴァルフォルトーレ(Roseto Valfortore)という寒村がある。中世期風の村で、その一帯の地主は
サギーズ家(the Saggese family)。村の一郭のアーチから突き当たりに
教会(Our Lady of Mount Carmine)があり、狭い石階段を登りつめると赤瓦屋根、二階建ての石造りの家々が建て込んでいる。
(右下の写真)
先祖代々、この村の人々は大理石を切り出す仕事を受け継ぎ、山沿いの段々畑で野菜を栽培していた。村人の生活は労働の連続、文盲で貧しく豊な人生は殆ど望むべくもなかった。
19世紀の末期、大西洋の彼方にアメリカという國があり、将来の希望が持てることを知り、11人の村人が渡航し、ニューヨークへ辿り着いた。到着の夜はリトル・イタリーにある宿場の床で仮眠をとり、翌朝、さらに西へ移動し、
ペンシルヴェニア州、バンゴア(Bangor, Pennsylvania)市の近くで石切り場の仕事にありついた。
これがきっかけで、
ロセト村の人々が次々とアメリカへ移民し、1894年だけでも1,200人が故国を脱出した。
このイタリア移民たちは、徐々に土地を買い求め、石切り場からバンゴア市まで馬車の交通を図って道路を拓いた。更に故国の村と同じ教会を建て、町を
ニュー・イタリー(New Italy)と名付けたが、間もなく出身村と同名、
ロセト村と改名した。
(左の写真)
更に作物を作り、家畜を飼い、商店やレストランが建ち並び、彼らの村は確実に発展していった。
(右の絵は、教会の伝説。スペインから)
ロセト村は、イギリス、ドイツ、などの移民村と隣接し、それぞれが集団を形成していたが、お互いに馴染める関係ではなかったようだ。特に
ロセト村の人々は現在でも、故国の、それもイタリア南部の方言をそのまま受け継ぎ、話し合い、結束している。
1950年代、そうしたロセト村の環境と偶然に係わり合ったのが、オクラホマ大学医学部の教授、胃と消化器官を専門とする内科医、
スチュアート・ウォルフ(Stewart Wolf)博士であった。彼は
ロセト村の住民を診療をしてみて、驚くべき事実を発見をした。
一般にアメリカでは『心臓病』が波及し、それが65才以下の男性間で死因の最高を示していた。ところが、
ロセト村で65才以下の村人を診察した結果、『心臓病』患者に殆ど出会わなかったのである。1961年、
ウォルフ博士は、医学生や住人の調査協力を得てその理由を解明することにした。
ロセト市(村から市に昇格した)の市長も協力を惜しまなかった。
ナイナイ尽くし、ロセト市民の人生
綿密な調査と分析の結果、55才以下の
ロセト市民で心臓病で死亡した者はおろか、その気配を見せた者は一人もいなかった。
ロセト市民の内、65才以上で心臓病で死亡した数はアメリカの平均死亡率の半分でしかなかった。他の死因を調べた結果、これも一般の死因統計より33パーセントも低かった。
そこで、
ウォルフ博士は市民の健康を生活態度から調べるため、社会学者の
ジョン・ブルーン(John Bruhn)博士を招聘した。
ブルーン博士は医学生などの協力を得て、戸別、個人訪問を開始した。博士はその当時を回顧し
「市民の間にアルコール中毒や麻薬常習者は皆無、犯罪は無し、社会保障に頼る人無し、自殺者無し。そこで消化性潰瘍を調べてみましたが、これも全く無し。市民の死因の殆どは『老衰』でした」と驚いていた。
解答を求めつつ、
ウォルフ博士は
「もしかしたら」食生活が違うのではあるまいか、という仮説を立ててみた。その結果は徒労に終わった。
ロセト市民の食生活は、一般と変わりなかった。それどころか、彼らはピザを作る油に、健康に良いと言われている植物性のオリーブ油でなく、動物性のラードを使い、脂肪の多いソーセージや卵を好み、祝祭日にしか使わない筈の甘味
(biscotti and taralli)を一年中使っていた。栄養士の計算によると、
ロセト市民が消費するカロリーの41パーセントは動物性の脂肪によるものであった。のみならず、
ロセト市民はヨガとかジョギングなどの運動をするわけでもなく、タバコは吸い放題、その挙げ句肥満症に悩まされていた。
それでは、又
「もしかしたら」民族的な遺伝かも知れないと思った
ウォルフ博士は、他の地域に住むイタリア移民を調べてみた。これも徒労に終わった。彼らは
ロセト市民ほどの健康を維持していなかったのである。
それでは、又々
「もしかしたら」地形や気候の影響かも知れないと思った
ウォルフ博士は、近隣のヨーロッパ移民の村々を調べてみた。これも徒労に終わった。彼らも
ロセト市民ほどの健康を維持していなかったのである。
思いがけない鍵、ロセト市民の『違い』
ロセト市民と他のアメリカ人とどこに
『違い』があるのだろう。
ウォルフ博士と
ブルーンは
ロセト市の街路を歩きながら考えていた。そして最後に、二人は或る
『違い』に気が付いた。それは:

■ 多くの所帯が2世代、3世代の家族と共に一つ屋根の下で生活していたこと。
■ 誰もが年長者を尊敬し、その教訓を守っていたこと。
■ 皆が教会へ行き、信仰に篤く精神を平静に保っていたこと。
(左:スペインに在る同種の教会)
■ 2,000人の市民の間に22団体が存在し、それぞれが共同体の平等精神を守っていたこと。それは、ズバ抜けた富豪を出さず、富を貯え、必要に応じて貧者を扶助するために保管ししていたことなど。
こうして、
ロセト市民はイタリア南部の伝統的な気質をそのままアメリカ、ペンシルヴェニアの小さな共同体に移入し、近代社会の圧力を妨げるだけの強力で保護的な社会機構を築き上げていたのである。
ウォルフ博士とブルーンは『医学と健康』について従来の常識から外れた、全く別の要素があることを
ロセト市で発見し、学びとった。
ブルーンは
「ロセト市の人々の生活ぶりを眺めていると、奇跡を目の当たりにする思いがします」と感歎していた。