『落書き』、『イタズラ描き』、『落首』、洋の東西を問わず巷の壁や電柱などに出現する。便所内に残された下品な『イタズラ描き』から、三十一文字(みそひともじ)の狂歌にいたるまで、全てに共通しているのは作者が不明であることだ。
狂歌の『落首』にはしばしば奇知に富んだ傑作がある。豊臣時代、太閤が頻繁に四国へ出向き、その都度大阪人は生活が中断されて迷惑した。公に発言すれば刑罰は必定だった。そこである日、誰かが狂歌を壁に貼った。曰く「太閤が四石(四国)の米を買い兼ねて、今日も五斗買い(ご渡海)明日も五斗買い」。
ペリー提督が4隻の黒船を率いて日本開港を迫った。時の徳川幕府は、開港か攘夷か決断が付かず苦悩していた。堪り兼ねた一市民が狂歌を貼った。曰く「泰平の眠りを覚ます上喜撰(高級茶を蒸気船にかけた)、たった四杯(四隻)で夜も眠れず」。
話は飛ぶ。1965年から1971年まで私はニューヨークで働いていた。到着当時、世界博が開かれていたフラッシング(Flushing)という町のアパートに居を定めた。そこを選んだ最大の理由は、地下鉄が他の路線に比べて新しくピカピカのアルミ製(ジュラルミン)で、地下鉄と言ってもマンハッタンからイースト・リバーの川底を潜り抜けると直ぐに高架線になり、窓から景色が眺められたし、終点から終点まで、というのが気楽だったからである。
1971年に、私はふとした理由でロアンゼルスに移転した。そして1年経ったある日、私はニューヨークの本社から救援作戦に呼び出された。半ば休暇気分で妻子を連れてニューヨークを訪れた私は、先ず電車のあちらこちらに描かれたグラフィティ(graffiti)に驚かされた。それは以前のニューヨークの記憶にはなかった現象で、私を言いようのない暗澹たる気分にした。一つには描かれた言葉が意味不明だったことと、その袋文字がコミック・ブックのように鬼気迫る脅迫的なエネルギーを持っていたからである。
さよう、ニューヨークのグラフィティは、1971年と1972年の間に勃興した『モノ言えぬ大衆』の爆発的な発言の象徴であった。『彼ら』は、怪盗の如く、忍者の如く神出鬼没(しんしゅつきぼつ)、多分人気(ひとけ)のない夜の闇にまぎれて町を駆け巡り、ビルの壁に、橋桁に、電柱に、車庫入りの電車やバスの内外に、描きまくった。公共物を汚す行為は刑事犯罪だ。『彼ら』は捕まらぬようスピード第一と、筆もパレットも要らないスプレー・ペイント(左の写真)を専ら利用した。
正しく言えば、グラフィティという行為は今に始まったことではなく、1920年代から1930年代頃の昔からヤンキー・スタジアム(The Yankee Stadium)などに残っていて、それなりに好事家たちが記録して集めている。
それから10年、私が再びニューヨークへ舞い戻った1982年、グラフィティは既に街中を覆っていた。初めてグラフィティを見た時ほどの嫌悪感こそなかったが、受け入れる気持ちは更に起こらなかった。
あたかもニューヨークはエド・カッチ市長(Ed. Koch:右の写真)の管理時代、腹に据えかねたカッチは、市の浄化運動に積極的に乗り出した。市の職員がグラフィティの消去に当たると同時に、捕まった『彼ら』も消去作業で罪の償いをさせられた。私の記憶はそこで中断しているので、以下、ニューヨーク・タイムズのランディ・ケネディ(Randy Kennedy)の記事にバトンを譲る。
ランディ・ケネディ(Randy Kennedy)探訪
撮影: Robert Wright, Henry Chalfant
撮影: Robert Wright, Henry Chalfant
カッチ市長の浄化時代の名残りが、今でもブルックリン、ゴワナス・カナル(Gowanus Canal:上の写真)の傍らにに遺されてている。(写真下はその部分)レンガ建ての持ち主が承認したので、このグラフィティは犯罪の対象にはならず、消去を免れて修復された。
この上塗りされた『ジョアン・オブ・アーク(日本では仏名ジャンヌ・ダルクで通っている)』は、1980年代に暗躍したグラフィティ画家が描いた『ハンド・オブ・ドゥーム("Hand of Doom"「破滅的運命の手」下の写真;電車1車両分の側面)』のスタイルを踏襲している。作者の名はシーン(Seen)としか判っていない。
作者の意図には、歴史的に二つの要素が基盤となっている。先ず第一に、グラフィティ勃興の初期、ニューヨークという地域社会から発生したアートの形体を賛美する姿勢が読み取れる。第二に、地域の教育事情が貧困で、先生も生徒もあらゆる悩みを抱え悶々としている実情の顕われでもある。
ブルックリン、サンセット・パーク(the Sunset Park)近辺に修復された作品。作者の名は通称ブレード(Blade)、それはプラトー(Plato)の名に置き換えられた。
ブッシュウイック(Bushwick)にある喫茶店の横に描かれたグラフィティ。1980年に活躍した通称ドンディ(Dondi)の作品を改作。署名はガンジー(Gandhi)の名に置き換えられた。
マンハッタン南部東側の屋上で『イン・ザ・ビギニング(In the Beginning)』と題した作品を制作中のグラフィティ作家。
こうしたグラフィティの主立ったものを集めニューヨーク市の歴史として記録し発表しようとする気運が見えている。中には、地下鉄のグラフィティだけを集める企画も進んでいるようだ。社会的な名声を獲得している第一線の美術家たちの作品とは創作意欲の源点が根本的に異なっているが、それなりに回顧的な価値が認められ、副次文化への渇望もある。作家の側にも、既成の権威に反抗する態度が明白に存在している。
32才になる往年のグラフィティ作家の一人は「グラフィティは、十代の少年がする悪戯です。親父のようにはなりたくない、皆と同じ事はしたくない、なんて力んでいる内に、いつの間にか自分がその親父になってるんです」と複雑な面持ち。そう突っ張っていながら、彼は10人ほどの仲間と同好会を作っている。かつて『暗躍した画家』らしく、姓名は公表したがらない。警察を恐れているからではない。自ら『(社会の)奴隷』みたいな集団だと自認し、自己顕示を避け、密かな『悪戯描き』行為に没頭していたいからだ。
その『32才作家』は、フィラデルフィアの西区域の商業地区に壁画を描いている、スチーブ・パワーズ(Steve Powers)という作家の制作態度に大きな影響を受けた。パワーズの壁画が沿道の高架線を走る電車の窓からよく見える位置に並んでいるのが魅力だ。
『32才作家』は、今では教職にあり、しばしば問題児を抱え、その矯正に努力ている。彼の説明によると、グラフィティ作家がジャンヌ・ダルクとかキリストを題材として選んだのは、自己を犠牲にしてでも庶民を救おうとした行為に感動、あるいは憧憬しているからだそうだ。
また、終局的な計画として、現存のグラフィティ100点を選び、ポスターにして販売し、その売り上げの10パーセントを国立乳ガン基金(The National Breast Cancer Foundation)に献金したい、という夢もある。
写真家でその道の歴史家でもあるのヘンリー・シャルハン(Henry Chalfant )もこの計画に賛同し「素晴らしい計画です。無名の作家たちの肩にかかっていた過去の汚名を返上し、社会福祉の貢献ができる最上の機会でもあります」と意気込んでいる。
1 件のコメント:
グラフィティを嫌悪する気持ちは今でも変わりません。でも『彼ら』の言い分を聞いてみると、何となく判るような気がします。だからといって、矢張りグラフィティは否定します。それにスプレー・ペイントは肺に有害で大気を汚染します。
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