
『落書き』、『イタズラ描き』、『落首』、洋の東西を問わず巷の壁や電柱などに出現する。便所内に残された下品な『イタズラ描き』から、三十一文字(みそひともじ)の狂歌にいたるまで、全てに共通しているのは作者が不明であることだ。
狂歌の『落首』にはしばしば奇知に富んだ傑作がある。豊臣時代、太閤が頻繁に四国へ出向き、その都度大阪人は生活が中断されて迷惑した。公に発言すれば刑罰は必定だった。そこである日、誰かが狂歌を壁に貼った。曰く「太閤が四石(四国)の米を買い兼ねて、今日も五斗買い(ご渡海)明日も五斗買い」。
ペリー提督が4隻の黒船を率いて日本開港を迫った。時の徳川幕府は、開港か攘夷か決断が付かず苦悩していた。堪り兼ねた一市民が狂歌を貼った。曰く「泰平の眠りを覚ます上喜撰(高級茶を蒸気船にかけた)、たった四杯(四隻)で夜も眠れず」。
話は飛ぶ。1965年から1971年まで私はニューヨークで働いていた。到着当時、世界博が開かれていたフラッシング(Flushing)という町のアパートに居を定めた。そこを選んだ最大の理由は、地下鉄が他の路線に比べて新しくピカピカのアルミ製(ジュラルミン)で、地下鉄と言ってもマンハッタンからイースト・リバーの川底を潜り抜けると直ぐに高架線になり、窓から景色が眺められたし、終点から終点まで、というのが気楽だったからである。





ランディ・ケネディ(Randy Kennedy)探訪
撮影: Robert Wright, Henry Chalfant
撮影: Robert Wright, Henry Chalfant







32才になる往年のグラフィティ作家の一人は「グラフィティは、十代の少年がする悪戯です。親父のようにはなりたくない、皆と同じ事はしたくない、なんて力んでいる内に、いつの間にか自分がその親父になってるんです」と複雑な面持ち。そう突っ張っていながら、彼は10人ほどの仲間と同好会を作っている。かつて『暗躍した画家』らしく、姓名は公表したがらない。警察を恐れているからではない。自ら『(社会の)奴隷』みたいな集団だと自認し、自己顕示を避け、密かな『悪戯描き』行為に没頭していたいからだ。
その『32才作家』は、フィラデルフィアの西区域の商業地区に壁画を描いている、スチーブ・パワーズ(Steve Powers)という作家の制作態度に大きな影響を受けた。パワーズの壁画が沿道の高架線を走る電車の窓からよく見える位置に並んでいるのが魅力だ。

また、終局的な計画として、現存のグラフィティ100点を選び、ポスターにして販売し、その売り上げの10パーセントを国立乳ガン基金(The National Breast Cancer Foundation)に献金したい、という夢もある。
写真家でその道の歴史家でもあるのヘンリー・シャルハン(Henry Chalfant )もこの計画に賛同し「素晴らしい計画です。無名の作家たちの肩にかかっていた過去の汚名を返上し、社会福祉の貢献ができる最上の機会でもあります」と意気込んでいる。
1 件のコメント:
グラフィティを嫌悪する気持ちは今でも変わりません。でも『彼ら』の言い分を聞いてみると、何となく判るような気がします。だからといって、矢張りグラフィティは否定します。それにスプレー・ペイントは肺に有害で大気を汚染します。
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