2012年4月18日水曜日

夜の銀座で見かけた人


[はじめに:今回はある音楽家のお話で、作曲家の服部公一さんがその人を回顧した随筆を再録したものです。実のところ、編集としては『その人』より『その人が乗っていた車』に惹かれたのです。服部さんは、当編集者の「敵は本能寺」なる意図をご承知の上で、再録を許可してくださいました。編集:高橋 経 (イラストも)

夜の銀座で見かけた人
服部 公一(はっとり こういち)

あれは昭和40年頃のことだった。木枯らしの吹く夜9時すぎの銀座、資生堂のかど、ちょうど信号のかわり目にAさんを見かけた。
今日の銀座。昭和40年代にはまだ都電が地上を運行していた。
かのフランスの名優シャルル・ボワイエそっくりの顔立ち、決して大柄とはいえぬが、がっちりした身体を皮ジャンパーできっちりつつみ、左脇にははだかのバイオリンをかかえ同じ手先には弓をひっかけている。右手を軽く腰にあて、つかのま舗道にたちどまったその姿は、なんともキマっていたのである。かたわらにいる相棒の歌手らしき男が、なんとも矮小にみえて困るという図であった。

信号がかわり、彼ら二人は私が声をかける間を与えず、急ぎ足に銀座の華やいだ紅燈の小路へ消えていってしまった。バイオリンと銀座と皮ジャンパー、、、この組み合わせは、モーツァルトやバッハの音楽とはなじまない。明らかにこれは、もっと大衆的な音楽と相性がよいわけで、あの時彼らは、流しの音楽家であったはずだ。

しかしそれにしても、このボワイエの颯爽たる雰囲気、流しさんたちが共通に持っている何がしかの薄暗さがまったくなく、あのままパリのステージにのせてもそのまま通用する堂々たる貫禄であった。

私はAさんを認めた瞬間「あっ、悪いところをみたな、彼もだいぶ困っているのかな、、、」と思ったが、すぐに彼の相変わらずの意気軒昂ぶりを発見、ニヤリとしてしまった。

これが私のAさんを見かけた最後であった。その後二、三年たって、彼は亡くなった。どの新聞も小さな記事ではあったが、彼の死亡を紙面に掲載したのである。(註:昭和43年2月5日、享年66才。)

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Aさんは、主に私の叔父の親しい友人であった。共に山形が故郷であり、叔父は舞踊家、彼はバイオリニスト兼作曲家であったから、お互いご同業に近い存在であった。芸の上でこの仲間同士が切磋琢磨し合ったかどうか知らないが、十代からの遊び仲間で、いわゆる悪友だったのはまちがいない。大正末期、山形の活動小屋(映画館)『旭座』界隈にたむろして、不良少年めいていたのは叔父のはずだし、Aさんはそこの楽隊でバイオリンを弾いたり、活弁氏のカバン持ちをしたり、種まわし(フィルムを運搬する係)をしたりしていた勤労少年(?)であったのだから。

私がAさんを直接知ったのは、昭和13年頃の東京であった。その頃彼は大スターであった。アストラカンだかラッコだか銀狐だか、幼児の私にはわからなかったが、とてつもなくゴージャスな毛皮のオーバーをガバっと着込んだ外人風のおじさんが、ある日拙宅に現れたのである。そのおじさんは私におみやげと称して、金二円也をくれたのだった。生まれて初めて一円札二枚もらった私は、嬉しいより先にはなはだ当惑した。
またある日は、アメリカ車で最もカッコイかったパッカードの新車に乗って現れた。どうやら徹夜でバクチをやらかしての朝がえりで、叔父を送ってくださったらしいのである。この頃までがAさんの最盛期であったようだ。戦争になってしまっては、運転手つきのパッカードも毛皮のオーバーも不可能。Aサんも叔父も兵隊になるか、慰問団を組織して中国や南方諸島に前線公演をやりに行くしかなかった。

やがて終戦、叔父は舞踏はあきらめ、器用にまかせて寸劇グループ、、、今の何とかトリオ』とか『何々グループ』とかいうコミック・ショーをやる集団、、、などで細々と暮らしていた。その頃Aさんが何をやっていたか知らないが、奥さんが駅裏の闇市の一隅でスイトン屋兼飲み屋を開いていた。私は叔父につれられて、そこに行ったことがある。もっとも叔父はそこの客であると同時に、従業員であったらしい。その時、私は高校生だったのだが、それから十何年たって、前述の銀座街頭のシーンになるのである。

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若い頃の東海林太郎
テレビ華やかな1960年代にはいり、往年の名歌手たちがリバイバルの名のもとに、再びわれわれの目のまえに現れ始めた。なかでも東海林太郎さんはその目玉であった。彼が歌う『国境の町』、『妻恋道中』などは、若い世代に耳なじみ歌ともなり、日本国中に流れていた。

これらの作品こそは、あのAさん、、、つまり阿部武雄氏の作曲になる名作だったのである。東海林太郎氏があのリバイバル・ブームによって何程の大利益を上げたかは知らないが、作曲者阿部氏を再び十分にうるおすに至らなかったことは確かなようである。まあ、作曲者とはいつでもそんなものだが、、、。

阿部武雄の作品は、今でも夜ごとどこかのカラオケ・バーで流れている。それを聞くたびに、私はあのパッカードと毛皮と、最後の銀座での邂逅を思い出すのである。ちなみに、彼は混血だったそうで、それが彼のメロディの哀感と関わっていたように私には思われる。
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阿部武雄作曲の代表作品

  • 国境の町(昭和912月)[大木惇夫作詞、歌:東海林太郎]
  • 母を捧ぐる歌(昭和102月)[サトウ・ハチロー作詞、歌:東海林太郎]
  • むらさき小唄(昭和105月)[佐藤惣之助作詞、歌:東海林太郎]
  • 丹下左善の唄(昭和107月)[藤田まさと作詞、歌:東海林太郎]
  • お柳恋しや(昭和111月)[佐藤惣之助作詞、歌:東海林太郎
  • 江戸前みやげ子守歌(昭和113月)[時雨音羽作詞、歌:高田浩吉]
  • 吉さま人形(昭和115月)[土方喬作詞、歌:東海林太郎]
  • 妻恋道中(昭和124月)[藤田まさと作詞、歌:上原敏]
  • 蛇の目のかげで(昭和125月)[並木せんざ作詞、歌:日本橋きみ栄]
  • 流転(昭和127月)[藤田まさと作詞、歌:上原敏]
  • 裏町人生(昭和128月)[島田磐也作詞、歌:上原敏、結城道子]
  • おしどり道中(昭和131)[野村俊夫作詞、歌:上原敏]
  • 関の弥太っぺ(昭和136月)[藤田まさと作詞、歌:高田浩吉]

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

筆者は歌手の人気に比べて目立たず恵まれない境遇を「作曲家とはいつでもそんなものだが、、、」と嘆いています。実はそんな『ひがみ』はグラフィック・デザイナーにもあり、裏方として有名になることを恥としています。