私の第一印象は、言いようの無い『哀しさ』だった。彼らは最早悲嘆にくれてはいないし怒ってもいない。しかし、彼らの顔は喜怒哀楽の感情を失ったかのように無表情だ。それが何とも言えず哀しい。顔面の深い皺は、この一年で刻まれたものなのだろか? 一人一人思いは違っている。だが、それぞれが違った体験をしていながら、多かれ少かれ共通の哀しみに堪えているように思える。
できることなら、何とか力になって差し上げたいと思うが、今私にできることは、彼らの哀しみを自分の哀しみとして理解し、友人たちと分かち合うことから始めたい。
編集:高橋 経
さとう・たみこ、86才:「もう私は家に帰りたくありません。最初に家に入った時、一階と二階の間に誰かの屍体が横たわっているのを見ました。その後、3度か4度家に帰ってみましたが、もうあの屍体が気にならなくなりました。あの人は多分この町で死んだ2人の内の一人だったと思います。」
こばやし・ちえ、87才:「地震の最中、私は102才になる夫を助けることで精一杯でした。壁が崩れてきた時、私は夫を必死で助けようとしていました。」
すずき・かつみ、72才:「私は車椅子を使っています。あの津波の最中、私は二階へ逃げましたが、水が喉まで上がってきて、体はずっぷり浸かってしまいました。」
やませ・しげお、63才:「私たちは原発事故の予防対策を常に研究する必要があります。原発を全面的に廃止するという主張には賛成できません。私たちは原発を賢明に利用すべきです。」
さとう・きよこ、74才:「地震が始まった時、私は夫と義妹の家にいました。あの晩、石巻へ行きましたら、高校の校舎へ避難するよう指示され、その後4日ほど、妹たちと連絡がとれませんでした。」
いたみ・こうへい、77才:「私はいい話には飛びつかないことにしている。あまり先のことは考えない。毎日を無事に過ごすことの方が大事だからね。」
あだち・さちこ、81才:「今、私は何か楽しんでできることをやりたいと思っています。もう二、三十年も手をつけなかった編み物をしています。それと絵を描き始めました。」
ももせ・たかし、69才:「津波の後、気味が悪いほど静かでした。私は独り暮らしですが、社会福祉委員会の人が食べ物を届けてくれた時は、心から感謝しました。私は表へ出るのが怖かったので、家の中で細々と食べていました。四ヶ月も後になって、私が鬱病だったことを知りました。」
たてやま・まさひろ、73才:「私は今、仮設住宅の生活を楽しんでいます。住人たちや他の人達と集まってお話をし始めてから、気持ちが安らぐようになりました。誰も私のことを気にかけず、隣人がいなかったら、私は自殺していたでしょうね。」
うじいえ・ともこ、77才:「こんなことになる前、私は福島にいる娘と暮らしたいと思っていました。それを20年前に約束したのです。その夢を諦めなければならないなんて、こんな辛いことはありません。」(編集注:夢を諦めた理由が、娘さんが犠牲になったためか、家を失ったからか、いずれにしてもお気の毒です。)
いしもり・きよこ、66才:「私は夫と4日間ずっと、家の二階に閉じこもっていました。津波の海水が引いた後、下へ降りてみたら、冷蔵庫が倒れていました。でも扉が閉まっていたので中の食べ物が無事でした。お蔭で私たち夫婦は生き延びられたのです。」
はやさか・かつよし、71才:「私たちは、これから目に見えない敵、、、放射能と戦わなければならない。」
昨年の10月現在、原町は依然として廃墟のままだ。残された数本の木は、人々に生きる望みを与えた松であろうか?
1 件のコメント:
この人達の言葉を聞きながら、天災に襲われることなく安穏に暮らしていられることが、どれほど幸せであるかを思い知らされた。
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