2012年3月5日月曜日

座頭市はほんとうに盲目だったか?

志知 均(しち ひとし)

2012226

左:勝新太郎; 右:ビート・タケシ
勝新太郎やビート・タケシが演ずる盲目の「座頭市」は仕込杖の刀を危なっかしい腰つきで振り回して、悪いやくざやさむらい達を斬り倒す。痛快な映画である。しかし座頭市は本当に盲目だったのだろうか? 少しは見えたのではないかと疑ったのは私だけではないだろう。

全盲でも少しは見える場合があるのではないかという疑問は100年も前から問われてきた。たとえば、第一次世界大戦で負傷して盲目になった兵隊が何かを見たというケースが1917年に報告されている。その後同じようなケースが報告されたが、視覚が少し残っていたのだろうと一般には信用されなかった。それから半世紀以上たって全盲の患者でも光の方向に目が動くケースのあることが確認され、詳しい研究が始まった。このように本人は見ている自覚がないにもかかわらずものが見える現象は盲視(blindsight)とよばれる。


ものを見る」ということは、目に入った光の刺激が網膜の神経細胞で電気シグナルに変えられ、大脳へ送られて、皮質の一部でほんの数センチの大きさの視皮質(visual cortex、以下VCと略す)で処理され、視覚として成立する過程のことであるが、盲視はこの常識では説明できない。MRIなどを使って盲視の患者の脳を調べると、VCが機能してないことがわかった。百聞は一見に如かず。最近、全盲で盲視能力のある患者が、障害物が散乱する通路を、杖を使わずに障害物にぶつかることなく通り抜ける様子を記録したビデオ・テープが、オランダの研究者ビートリス・ディ・ゲルダー(Beatrice de Gelder)によって公開された。(下のビデオをご覧ください。39秒)このような疑う余地のない盲視現象をどう説明できるのだろうか?

われわれが「ものが見える」という場合、見えるものが何かの認知が含まれている。目は光の刺激を大脳へ送るだけで、認知することはVCで行われる。言いかえれば、われわれは目でものを見るのではなく、大脳で見る!従って上述の患者は障害物を避けて通っているが、障害物の存在は全く認知していない。どうやって障害物にぶつからないように歩いたのかと質問されて、患者は「自分にもよくわからない」と答えている。しかし自覚がなくても光の刺激は大脳へ届いている筈だから、それがVC以外の組織で処理されていたことは間違いない。
それが大脳のどの組織であるかはまだ十分に解明されていないが、VCとは別の、中脳(midbrain)にある上丘(superior colliculus; SCと略す)と呼ばれる組織が関係しているらしい。ヒトの場合は目から入る光刺激のシグナルは主としてVCで処理されるが、一部はSCでも処理される。例えばものを見るときの目の動きや頭の動きのコントロールにはSCが関与する。

左から:カエル、金魚、ハト;左下はコウモリ

視覚の進化の点からみればVCよりSCのほうが古い。VCのない魚、カエル、鳥などの場合は、SC(これらの動物では視蓋、optic tectum ともよばれる)が光シグナルをすべて処理している。SCは更に、音のシグナルを処理する。例えば、暗い洞窟に住んでいるため音波を出して生活環境を確認しているコウモリ(bat)では、SCは光シグナルより音の反響の感知に重要な役割を果たしている。

ビート・タケシの座頭市
さて、この小文を書く動機になった座頭市は本当に全盲だったのだろうか?盲目であったとしても、盲視の能力があり、独特の剣法を習得していたとすれば、修羅場で目明き以上に活躍することは不可能ではなかっただろうと思う。興味あることに、盲視の患者に恐い顔のイメージを見せると顔の筋肉を緊張させる。しかもその速さは目明きの人より早い。従って、危険な敵が襲ってきた場合、座頭市は目明きより早く刀を振るうことが出来たかもしれない。こんなことを頭において、もう一度座頭市の映画を見直してはいかが?

SCに話を戻して、上述したようにSCはものの存在を感知するが認知はしない。しかし鳥も魚も仲間やエサを認知しているのではないかと反論されるだろう。人間がモノや活字を見て認知する場合はそのモノの名前(椅子とか花とか)や文字(天気とか散歩とか)の意味を認知する。すなわち『概念』が伴う。鳥や魚がものを『認知』するとしたら、それは概念のない認知であり、いろいろな感覚器官から集めた情報の集積にもとずいている。人間は進化した大脳皮質をもっているおかげで、ほかの動物よりも進化した認知をすることができるわけだ。

だからといって人間がこの認知能力を十分に使っているとは思えない。辞書によれば『認知(cognition)』とは、注意を集中したり、記憶したり、言語を理解したり、問題を解決したりする精神活動の過程をさす言葉だそうだ。


ところが日常生活を振り返ってみると、我々は感覚器官に異常がないにも拘らず、何か考えごとをしたり心配ごとで頭がいっぱいな時や、リラックスし過ぎてぼんやりしている時は、見ても認知せず、聞こえても認知できないことが多い。極端な場合、奥さんが旦那さんに何か大事なことを言っても聞いていなかったり、夕食後しばらくして、今夜何を食べたか訊かれて旦那さんがきちんと答えられないことがある。(こんな経験は読者の中にもあると思うがどうでしょう?)


考えてみれば、我々は一日の内かなりの時間、ものごとを認知しないまま過ごすことが多いのが現実のようだ。正常人でも盲目やアルツハイマーの人達とたいして違わないということか。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

目は人間の眼(まなこ)なり、などと落語家が大真面目に冗談を言いましたが、「ものが見える」ということは素晴らしいことですね。