2011年3月4日金曜日

悪女ではなかった女優の死

はじめに:ジェーン・ラッセルの名は戦後の1950年代、私の青春時代の記憶に強烈に残っている。それはグラマーで官能的な女のイメージであり、西部の荒くれ男を手玉にとる女のイメージでもあり、また日本人にとっては、戦後の混乱がやや落ち着きを見せ始めた希望の時代でもあった。ジェーンの出演で記憶に残る映画は『ならず者』であり、『腰抜け二挺拳銃』であり、そして『紳士は金髪がお好き』である。

去る2月28日にジェーン・ラッセルの死が報道された時、正直なところ「まだ生きていたのか」という驚きが先にたった。彼女は半世紀以上昔の存在だったからだ。だが、彼女の略伝を読み、盛りを過ぎた30代で、いさぎよく銀幕から去っていった女優の生涯を知り、改めて特筆に値いすると確信し、ここに追悼の意をこめてお送りする次第。編集:高橋 経

1940年代から1950年代にかけての大スター、
ジェーン・ラッセル死亡

AP通信、ジョン・ロジャーズ(John Rogers)とボブ.トーマス(Bob Thomas)の記事から抜粋

今を遡る60数年前、第二次世界大戦の前後から1950年代にかけて、映画女優ジェーン・ラッセル(Jane Russell)は、最も人気があったピン・アップ女優の一人で、何百万人もの若い男性の胸をときめかせた。

彼女の容姿が際立っていたことは勿論だが、その魅力を発掘したハリウッドの異端児で億万長者の航空産業人、ハワード・ヒユーズ(Howard Hughes 左の写真スプルース・グース 右の写真Spruce Gooseというあだ名を持つ飛行機を設計して成功した)の眼力と共に天才的なスター売り込みの企画によるものでもあった。

ジェーン・ラッセルならず者(The Outlaw:左の写真)』に主演しスターダムの乗ってから70年、去る2月28日、西沿岸の小都市サンタ・マリア(Santa Maria)の自宅で近親の家族に囲まれ、呼吸器不全で息を引き取った。当年89才だった。

ジェーンは1960年代を最後に派手な女優稼業を放棄し、静かな生活に入った。しかし隠遁してしまった訳ではなく、教会活動や慈善事業をはじめ、サンタ・マリア地域の歌唱グループのメンバーとして舞台に立つなど、誠心誠意を注いで積極的な活動を続けていた。

ジェーンの義理の娘エタ・ウォーターフィールド(Etta Waterfield)の言によると、ジェーンは「私はおとなしく年を取るタイプの女じゃないから、馬上で死ぬことになるでしょう」と口癖のように言い、その通りになったとのことだ。

賛否こもごもだった問題作の西部劇ならず者では、相手役のならず者ビリー・ザ・キッド(Billy the Kid:伝説的な実在の悪玉)に納屋で犯されるシーンが刺激的で、それが売り物となり評判の映画になった。ロサンゼルス・タイムズ紙の批評は「こんな変な西部劇を公開するとは非常識だ」と手厳しかった。

当時は性的なシーンは検閲の対象となり、その部分を削除するしないでハワード・ヒューズを交えて論争が巻き起こった。その一件がかえって逆宣伝となり、益々評判を高めて観客を動員した。

問題シーンの焦点は、ジェーンのはだけた胸元に集中し、そのブロマイドだけに止まらず、ジェーンの水着姿や、肌を限界まで露出させるドレスのピン・アップのポスターが飛ぶように売れたものだ。おまけにヒューズが、ジェーンの豊かな乳房をさらに強調すべく下から押し上げる仕掛けのブラジャーを考案した。
ジェーンそれを、ポスター用写真の撮影時に着用されたが、彼女は以後「着心地が悪いから」とそのブラジャーを拒否している。

ヒューズは当時経営困難に陥っていたRKOのスタジオを買収し、ジェーンを週給1,000ドルという破格な報酬で20年間の契約に署名させた。

その契約の下でジェーンが出演した映画は:ボブ・ホープ(Bob Hope)と共演した腰抜け二挺拳銃(The Paleface: 右の写真)』;ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum)と共演したHis Kind of Womanフランク・シナトラ(Frank Sinatra)と、グルーチョ・マルクス(Groucho Marx)と共演したダブル・ダイナマイト(Double Dynamite)』;ヴィクター・マチュア(Victor Mature)と共演したラス・ヴェガス物語(The Las Vegas Story)』;再びミッチャムと共演したマカオ(Macao)』:などがある。

ジェーンの官能的で扇情的な容姿を話題にして、酒場などでは可成り淫らな冗談が交わされていたにも拘らず、彼女は、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)、リタ・ヘイワース(Rita Hayworth)など当時の他の人気ピン・アップ女優たちが巻き起こしていたようなゴシップとは全く無縁な私生活を過ごしていた。

その頃ジェーンは、 UCLA(University California, Los Angeles: カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のフットボール選手ボブ・ウォーターフィールド(Bob Waterfield)と結婚していた。

ならず者への出演がジェーンをスターダムへ導いたのだが、皮肉にもそれ以来2年間も悶着が付きまとっていた。ならず者は、ハリウッドでは最も有力な映画監督だったハワード・ホークス(Howard Hawks)が製作に当たっていたが、ヒューズから事毎に高圧的な意見や注文を付けられてうんざりし、最後に辞めてしまった。

「ヒューズの言いなりに映画を作っていた酷い9ヶ月間だったわ」とは、ジェーンが40年後に漏らした告白である。

ジェーン・ラッセルが出演した映画の中で思い出に残るのは1953年の紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』であろう。マリリン・モンローと共演したミュージカルだったが、題名が金髪のモンローを売り出すのに有利だったようだ。(註:ジェーン・ラッセルは黒髪に近いブルネット)

その翌年紳士は、、、』と同じジャンルのミュージカルフランス航路(The French Line)』が制作された。船客たちがドンチャン騒ぎをするという趣向の立体映像にジェーンが主演した。これの宣伝文句がジェーン・ラッセルが立体映画で見られる、の一言に尽きるだった。

更に翌1955年紳士の続編がモンロー抜きで紳士はブルネットと結婚する(Gentlemen Marry Brunettes)』ジェーンが主演した。金髪に出し抜かれたブルネットに埋め合わせをする意図があったかどうかは不明。続いてクラーク・ゲーブル(Clark Gable)長身の男達(The Tall Men)』、そしてジェフ・チャンドラー(Jeff Chandler)狐火(Foxfire)』にそれぞれ共演した。

だが
1960年代に入ってからジェーンの女優としての存在感は次第に影が薄くなっていった。

「それはそうでしょう、女優も30才過ぎると色香が褪せるからね。だから映画出演は辞めたの」と、後年ジェーンは淡々と振り返る。

映画界から去ったと言っても、その後のジェーンはナイトクラブ、テレビ、ミュージカル劇場などに出演し、コニー・ハインズ(Connie Haines)ベリル・ディビス(Beryl Davis)等とコーラス・グループを編成し、ゴスペル・ソング(註:黒人間で生まれた賛美歌)のレコードを制作したりしていた。

またプレィテックス製(Playtex)ブラジャーのテレビ・コマーシャルにも永年登場していた。1980年代には、テレビ・ドラマ黄色いバラ(The Yellow Rose)』シリーズにゲスト出演もしていた。

ジェーン・ラッセルが書いた私の人生と寄り道(My Paths and Detours)』という自伝によると、彼女は1921年6月21日、ミネソタ州のベミジ(Bemidji)で生まれ、家族はやがてロサンゼルス郊外に移転した。母親は信仰深く、家族を説得して裏庭に教会を建てた。ジェーンは信仰深いな母親の薫陶に反して奔放な娘に育ち、高校生時代に妊娠し、モグリ医者の手で堕胎したが、その後遺症で一生妊娠できない体になってしまった。

その頃のジェーンの望みは、ドレスまたは家屋設計のデザイナーになりたかったのだが、それはお預けにして受付け係りの仕事をしている内にスカウトされ、ヒューズに抜擢された。その時のプロデューサーは仲々の好色漢で新人から現役女優まで片っ端から手を付けていた男だったが、ジェーンだけは一目置き控えていた。ヒューズに遠慮していたか、彼女が前述のウォーターフィールドと結婚していたからかも知れない。

ジェーンはハリウッドのスタジオ内では、聖書の勉強や善行を目標とするクリスチアン・グループのリーダー格だった。それに関連して彼女は孤児を3人引き取った後、世界養子縁組国際代理協会(World Adoption International Foundation: WAIF)を設立し、海外から4万人以上も孤児の縁組みを果たした。ジェーンは過去40年間に亘り協会の委員を務め、推進役として数限りなく一般に呼びかけた。

自伝『私の人生と寄り道』の表題の通り、ジェーンの私生活には可成りの紆余曲折があった。
最初の夫ウォーターフィールドとは24年間連れ添った後、離婚した。彼らが育てた孤児は、男子がトーマス(Thomas K. Waterfield)ロバート(Robert "Buck" Waterfield)、女子がトレーシー(Tracy Foundas)の3人である。その年、俳優のロジャー・バレット(Roger Barrett)と再婚したが、その3ヶ月後に新夫は心臓マヒで死亡してしまった。

1978年、ジェーンは開発会社のジョン・ピープルズ(John Peoples)と再婚し、アリゾナ州、セドナ(Sedona)に住み、後にカリフォルニア州、サンタ・バーバラ(Santa Barbara)に移った。そのジョンも21年後の1999年に心臓マヒで死亡した。

こうした過去における人生の間中、ジェーンは飲酒習慣のある人々や生活に囲まれていた。しかし、敬虔で信仰深い母親に感化されたお陰で、ジェーンはアルコール中毒にならずに済んだ。

最後の夫が死んで数ヶ月経った頃、ジェーンは「私に信仰がなかったら、こうして浮かばれることはなかったでしょう。世の中に大勢の人々がいろいろな生活問題で苦悩していますが、もし信仰がなかったら、もし神様に愛されていて他に道があることを信じられなかったら、救われることはないでしょうに」と述懐し嘆いていた。(右の写真はサンタ・マリアの教会)

ジェーン・ラッセルの遺族は、3人の養子、6人の孫、そして10人の曾孫である。

一般公開の葬儀は、来る3月12日の午前11時からカリフォルニア州、サンタ・マリア(Santa Maria)のパシフィック・クリスチアン・チャーチ(Pacific Christian Church)で執り行われる。

なお、遺族としては香典を受けないが「もしご喜捨なさるお気持ちがあるなら、下記の団体にお送りくだされば故人も喜ぶことでしょう」とのことだ。

サンタ・マリア妊娠相談救済センター(The Care Net Pregnancy and Resource Center of Santa Maria)或いは;
サンタ・バーバラ郡法廷指定特別代弁者協会 (the Court Appointed Special Advocates of Santa Barbara County)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

観客は往々にして、スクリーン上の役柄と俳優の実像を重ねていまい勝ちです。
時には、良いにつけ、悪いいにつけ、俳優自身が役柄の人格と錯覚してしまうことも事実です。
そんな意味で、ジェーン・ラッセルが役柄と私生活を区別して善行を遂行していたことに喝采を送ります。