2010年8月6日金曜日

敗戦、貧困、ララ物資:下

はじめに
前2回の挿話では、普連土学園の大津光男財務理事から、敗戦後日本人の大半が体験した貧困生活と海外の救護団体の救援活動をお伝えいたしました。
それに引き続き、ハーバート・ニコルソンの善意『ヤギのおじさん』に焦点を当てて完結といたします。戦中派はもちろんですが、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたい『風化させられない』日本人の悲惨な日々の一端と、それを救ってくれた善意の逸話です。編集;高橋経記;イラストも


大津 光男(おおつ みつお)


6. 山羊のおじさん

太平洋戦争中、アメリカ在住の日系人を助けるためにAFSCを辞め『トラックを運転する宣教師』として強制収容所に荷物を運んでいたハーバート・ニコルソン(Harbert Nicholson)は、ブレスレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)が設定した同教会の後援によるヘイファー救援プロジェクト(Heifers for Relief Project Organization, sponsored by the Church of the Brethren)に加わり、その責任者になった。当然その仕事はボランティアであり無給であった。

ヘイファーの救援プロジェクトは、未産の雌牛を送るのが常だったが、日本には山羊を送ることにした。ヘイファーの名は、ララの連名には現れていない。しかし、山羊を送ることによってハーバート・ニコルソンはララの活動の記録では、いつも「やぎのおじさん」として紹介されている。ハーバート・ニコルソンは、長男サムエル(Samuel)の作ったスライドを用いてプロジェクトを紹介しながら米国内で募金し、200頭の仔山羊を購入することができた。


昭和22年(1947)10月サンフランシスコを出港したハーバートサムエル・ニコルソン親子、クエーカーのテッド・ロバーツ(Ted Roberts)、ポール・マッククラッケン(Paul McCracken)等の一行は、貧弱な小型輸送船サイモン・ベンソン号(Simon Benson)の後甲板に設けられた山羊小屋と共に、太平洋の荒波を超え沖縄に着いた。那覇港には沈没船が多く、町も沖縄戦で破壊されていた。沖縄戦では昭和20年(1945)7月2日の米軍沖縄作戦終了宣言までに多くの犠牲者を出していた。集団自決に追い詰められたり、スパイ容疑をかけられて日本軍に殺されたりする島民もあり、12万人余が戦火に斃れ、壊滅的な打撃を受けていた。

終戦の後2年を経ても惨状はそのまま残っていた。そうした状態の中で、早速山羊小屋が作られ、当地のララの責任者エベレット・トンプソン(Everett Thompson)により、軍司令部の司令官クレイグ大佐(Colonel Craig)を紹介された一行は、滞在施設として将校宿舎があてがわれた。


ハーバート・ニコルソンは沖縄滞在中、島民に日本語で説教してもよいかどうかをクレイグ大佐に尋ねたところ、クエーカーに改宗させない限り説教しても差し支えない、という許可を得た。

その結果、山羊をつれて、軍政府農場、名護の病院、ハンセン病療養施設沖縄愛楽園、少年刑務所、その他多くの集落を訪ねる度に、罪もない沖縄の人々を苦しめることになった自分たちアメリカ人を赦して欲しいと謝罪し、アメリカのもたらした戦争による悲惨さを詫びたのだった。

筆者は本稿を書くに当り、息子のサムエル・ニコルソンに何度か電話で確かめた。彼の話では、沖縄訪問で6週間、宣教師のいない地域を回りながら、説教することよりも、戦争の贖罪として山羊を携え、沖縄の人々に詫びていた父ハーバート・ニコルソンの姿を是非記録に留めておいて欲しい、とのことであった。(左の写真はニコルソン一家:前列右から、ハーバート、妻マデリン、長女ヴァージニア、後列右はサムエル、左は次男のドナルド)

ハーバート・ニコルソンの沖縄への初航海は、軍の輸送船に乗ってアメリカへ戻ることによって終った。沖縄からアメリカに戻ったニコルソンは、再び山羊を買い求めた。今度は念願の日本本土への旅であった。
 

昭和23年(1948)5月、250頭の山羊をフライング・スカッド号(Flying Scud)に積み込んで出帆した。横浜入港を控えた晩、ハーバート・ニコルソンは、山羊の産室で逆子の仔山羊が産まれる報せを受け、直ちにその場に出向き、母山羊から足を引きずり出した。母山羊は、婦人クリスチャン禁酒団体(Women’s Christian Temperance Union)から贈られた山羊だったのでテンペランス(禁酒)と名付けられていた。ニコルソンは、新たに生まれた仔山羊の名前を、自分の長女バージニアの日本名と同じキヨコ(清子)と名づけた。こうして、横浜港に着くまでには、船内で合計15頭の仔山羊が生まれ、総数は265頭に増えていた。
 

横浜に着くと、検疫所で歓迎会が開催された。この歓迎会でハーバート・ニコルソンは、4頭の仔山羊を育てた日系人サトミ・ヤスイの話をした。すると、その場に居合わせた農林次官からこの話をNHKのラジオで全国放送をしてみてはどうか、と勧められたのである。ところが、ニコルソンがNHKに出かけて問い合わせてみると、ラジオに子供の時間帯を設けるには6ヶ月を要するとのことだった。当時、まだテレビはなかった。


一方、ハーバート・ニコルソンのその話を少し脚色し、子供の雑誌記事とすることも決まった。けれども、最終的には、物語は時間や場所、人物も脚色されて二世の少女サトミ・ヤスイは、父親が太平洋戦争で戦死した『ハリーという少年に変えられた。そして、下記、小学校五年生の教科書に載せられることになった。こうしてハーバート・ニコルソンやぎのおじさんとして日本全国に知られるようになった。そして、カメラマンのディック・クラーク(Dick Clark)、腹話術師のアル・ブロワー(Al Blower)らと共に、山羊を連れながら全国を行脚
することになった。

普連土学園を訪問したのはもちろんのこと、ある時は、御殿場にあった秩父宮殿下の別荘で、また、ある時には皇太子明仁(現天皇)の家庭教師をしていたエリザベス・グレイ・バイニング(Elizabeth Gray Vining:左のイラスト)の招きにより学習院を訪問して話をした。さらに、江ノ島の少年院その他全国を訪問して、多くの人たちを前に、沖縄での話と同様に、戦争でアメリカが犯した罪を許して欲しいと詫び、且つ祈った。この姿勢は生涯変わらなかった。

7. 1頭のやぎ

昭和28年1953に学校図書で発刊された小学校五年生の『国語・上』教科書には、次の文が載せられた。

ニコルソンさんは、日本で教会の牧師をしていました。

動物がたいへんすきで、やぎをかっていました。近所に病人があったり、ちちのたりないあかちゃんがあったりすると、ニコルソンさんはさっそくやぎのちちをしぼって「どうぞ、これを飲ませてください」と言って、持っていってあげるのでした。ですから近所の人たちはみんな、ニコルソンさんのことを「やぎのおじさん」とよんでいました。

ところが、昭和16年に、太平洋戦争がおこりました。ニコルソンさんは、すきな日本にいることができなくなってしまいました。しかたなしに、30年も住みなれた日本の土地と、たくさんの日本人の友だちに別れをつげてアメリカへ帰っていきました。日本をひきあげたニコルソンさんは、カリフォルニア州のコロラド川のほとりで果樹園を経営して、メロンや夏みかんを作ることになりました。また、日本での生活を思いだして、ここでもやぎをかいました。

長かった戦争もやっと終わりました。久しい間、世界の人々が心から望んでいた平和が、ふたたびおとずれてきました。けれども、勝った国も、負けた国も、物資がたりなくなってしまいました。とりわけ、負けた国は損害も大きく、国民の苦しみようはたいへんなものでした。そこで、そういう国の人々を、1日も早く助けようという運動がおこり、アメリカにその本部ができました。少しでもゆとりのある人から衣類や食料を出してもらって、きのどくな外国の人々に送ってあげ、戦争ですさんだ心をなぐさめてあげようというのです。ニコルソンさんもその委員に選ばれました。


日本へは、学校給食の材料を送ろうとか、いろいろの相談が始まりました。

ニコルソンさんは「そうだ。日本にいる時、わたしはやぎのおじさんといわれたのだ。ひとつ、日本のこどもたちにやぎを送ってあげよう。おいしいちちをのんで、こどもたちはじょうぶに育つだろう」と考えました。


ニコルソンさんは、やぎを買うお金を集めるために、方々をまわって歩きました。お金を集めるだけのことならば、お金持ちから寄付してもらう方がたやすいことだったかもしれません。けれども、日本の少年少女へやぎを送ってあげるのには、同じぐらいのこどもから集めたお金で買いもとめた方が、どれほどとうとくもあり、またおたがいのまごころが通ずることだろうか。そう思ったニコルソンさんは、アメリカ各地をまわって「日本のこどもへやぎを送りましょう。こどもたちのこずかいの中から、ほんの少しでも出しあって、やぎを送ってあげましょう」と説いて歩きました。


その日も、ニコルソンさんは、コロラド川をずっと山おくへさかのぼって、あちこちの学校をたずねました。


「日本のこどもたちへやぎを送ってあげましょう」


ニコルソンさんは、ねっしんに説いてまわりました。そして、また、つぎの村へと急ぎました。ところが、いつのまにか、空はどんよりくもり、夕日もしずんでしまいました。めざすイーストン村まではまだ遠いのです。

「どこか、この辺でひとばんとめてくれる所はないかしら」
こう思って、1けんのみすぼらしい農家をたずねました。

その家には、おかあさんと3人のこどもがいました。上の子はハリーといって12才ですが、足が悪いとのことです。つぎがジョンで9才、いちばん下のかわいい女の子はメリーといって、5才でした。おとうさんはこんどの戦争で戦死してしまい、今ではおかあさんの手一つで、小さな果樹園を経営して、まずしいくらしをしているのでした。


それを聞いて、ニコルソンさんはすっかり同情してしまいました。カバンの中から、いろいろなおかしを出して、こどもたちに分けてあげました。すると、いちばん上のハリーが
「おじさんはイーストンへ行くの」とたずねました。ニコルソンさんは「うん、ちょっと、あそこの学校に用事があってね」

「では、おじさんは先生ですか。」「いや、学校の先生じゃない。わたしは長い間日本に住んでいたのだが、じつはこんど、、、」と、日本の友だちへやぎを送ること、やぎを買うお金を、アメリカのこどもたちから集めていること、そのために、イーストンの学校へ寄付のお願いにいくとちゅうであることなどを話しました。


3人のこどもたちは、じっとニコルソンさんの顔を見上げて聞いていましたが、やがて、ハリーは洋服の内ポケットから何かくちゃくちゃになった小さな紙包みをとりだしました。その中には、1ドルの銀貨がはいっていたのです。 「おじさん、これはたんじょう日のお祝いに、おかあさんからいただいたのです。本でも買おうと思って、たいせつにしまっておいたのですけれど、どうか、やぎを買うお金に使ってください。そして、日本の友だちに、1頭でも多く、やぎを送ってあげて下さい。」

それに続いて、ジョンもメリーも、だいじにしていた1ドルの銀貨をもちだしました。なみだが、ニコルソンさんのほおを伝わって流れました。


「いいんだよ。おじさんには、もう、たくさんのお金が集まっているんだから、そのお金は、さ、しまっておきなさい」


けれども、ハリーたちは「このお金もぜひ使ってください」と言って、どうしてもききいれません。ニコルソンさんはこまってしまって「それでは、この3ドルはありがたくいただくことにしよう」と、いったんそれを受け取りました。そうして、自分のさいふから2ドルのお金を出して、それに加えました。

「さあ、これで5ドルになるね。5ドルあれば、子やぎが1頭買える。だから、お母さんに買っていただいて、大きく育ててごらん。そうしたら、おじさんは、ほかのやぎといっしょにして、日本へ送ってあげるから」


ニコルソンさんはこう言って、ハリーたちに5ドルのお金をわたしました。その夜は、ハリーたちの家にとめてもらい、あくる朝早く、こどもたちとなごりをおしみながら、ニコルソンさんはイーストン村へたっていきました。おかあさんは、そのすぐあと、町へ出て、めすの子やぎを1頭買ってきました。3人のこどもは、なかよしの家族がひとりふえたので、たいへんな喜びようです。ジョンとメリーは、毎日、草をかってきて、食べさせました。

夏が去り、秋も過ぎて、やがて新しい春を迎えました。ある日のこと、ニコルソンさんのところへ1通の手紙が届きました。

[おじさんがわたしの家へとまられてから、もう1年以上にもなります。おじさんに買っていただいた1頭の子やぎも、いまではりっぱなおかあさんやぎになって、こどもを4頭もうみました。やぎのせわは、ぼくとジョンとメリーでしています。ぼくは毎日、やぎのちちを飲んでいます。おかげで、悪かった足がとてもじょうぶになって、このごろはひとりで歩けるようになりました。それから新聞で見ましたが、方々の学校から集めたお金で買ったやぎが、もう2回も日本へ送られたということですね。この次送る時には、ぜひ、ぼくたちのやぎも連れていってください。そして、日本のお友だちに、やぎのちちを少しでも多く飲ませてあげてください。お願いします。

ハリーより
ニコルソン様

ニコルソンさんはいく度もいく度もこの手紙を読んでいるうちに、むねいっぱいにこみあげてくる喜びを感じました。


ニコルソンさんはハリーたちに会いたくなりました。さっそく自動車をとばして、遠いハリーの家をたずねていきました。ニコルソンさんをむかえたハリーたちの喜びはどんなだったでしょう。自分たちがいっしょうけんめいに育てた親子のやぎを、ニコルソンさんの前にひっぱってきて見せました。ニコルソンさんは、ハリーたちに「こんど送る時には、きっときみたちのやぎも送ってあげよう」とやくそくして、ハリーたちをいっそう喜ばせました。


昭和24年の1月16日、250頭のやぎが、はるばる海をこえて横浜に着きました。にぎやかなやぎの伝達式が行われました。その時、同じ船に乗ってやぎを送ってきたニコルソンさんは、ハリーの手紙を声たかだかと読みあげました。

日本のお友だちのみなさん、どうかぼくに代わって、このやぎをりっぱに育ててください。アメリカのぼくたちと、日本のみなさんと、このやぎをとおして、ほんとうのなかよしになりましょう。これらのやぎは、日本中のこ児院へ分けられました。今ごろは、両親を失ったこどもたちにおいしいちちをあげたり、いい遊び相手となってかわいがられているでしょう。

8. 敗戦後の生活
 

広島に原子爆弾が投下される4日前の8月2日未明、水戸市にあった我が家は空爆で灰となった。その少し前、何度も防空壕にかけ込まざるを得なかった身重の亡母は、男の双子を早産したが死産に近く、実家に戻っていて被災を免れた。子供の命と引き替えに自分の命の助かった辛い苦しい思い出は、晩年はすっかり忘却の彼方にあった。彼女の頭にかすかに残っていたのは、亡父が傷痍軍人であったため敗戦後、水戸市で焼け残った弘道館の僅か6畳の小さな番屋に、県営住宅が建てられるまで幸運にも住むことのできた短い期間だけだった。

現在弘道館は史跡となり、この番屋はそのチケット売り場になって存在している。が、弘道館の歴史上そこに住んだのは我が家だけだった。しかし、記録は何も残されていない。私の学んだ小学校も戦災で焼失し、一時は弘道館を仮校舎としたこともあった。


そのような時期に、弘道館の番屋前の僅かな斜面を耕して野菜を植え、山羊を飼って糊口をしのいだ。それが、自分の年令さえ忘れた亡母の唯一の記憶だった。当時、水戸市民の多くもララ物資の恩恵に預かれたことは幸いだった。

私は、毎年終戦記念日の来る度に、戦争が終わった敗戦後の生活を思い出さずにはおられない。それは、ララによって助けられた日々のことである。


1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

ハーバート・ニコルソンの善意に満ちた行動は、いつ読んでも、いつ聞いても胸が熱くなるのを禁じられません。