高橋 経(たかはし きょう)
イラストも2010年8月15日;65年目の敗戦記念日にあたり、、、
敗戦以来、毎年この時期になると必ずと言ってよいほど、昭和20年8月6日の広島、8月9日の長崎へ投下された原爆についての評論が、日米ともにマスコミの片隅に現れる。
8月6日付けの朝日新聞の天声人語子はその評論の中で[、、、米国のオバマ大統領は去年、核を使用した自国の道義的責任を語り「核なき世界」を訴えた。それを機に、涸(か)れて いた核軍縮の泉がわき出し、川となって流れ始めた▼さらなる水流となるのだろうか、広島での平和記念式にルース駐日米大使が出席する。65年を経て初めての大使出席になる。とはいえ米国では今なお、原爆投下を正当化する考えが常識だ。、、、]と、暗にトルーマン大統領以下、歴代のアメリカの為政者を非難していた。
同日、毎日新聞の余録子はその評論の中で、戦後15年以上経った1960年代に企画されたドキュメンタリー映画製作に当たって、作家の マール・ミラーが原爆投下を決定したトルーマン大統領をインタビューにかつぎ出そうとした経緯を紹介している。[トルーマン元大統領は神経質そうにまばたきし、しばらく沈黙した後「お望みなら日本に行こう。けど、やつらにおべんちゃらをいうつもりはないからね」(R・タカキ著『アメ リカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社)▲汚い言葉*での感情的反発は、いつも原爆問題で身構えていた彼の動揺を示した。内輪では子供らの犠牲への心痛を語ったトルーマンだが、公には原爆投下は戦争終結のためで、少しも後悔していないと繰り返していた。国家や大統領は過ちをなしえないというわけだ▲今なお原爆投下の肯定論が世論の6割を占める米国である。、、、]
率直な所、私は上記の評論を読んで筆者たちのアメリカに対する偏見を感じた。*特にトルーマン大統領の答えにあった[them]を『彼らに』とせず『やつらに』とし、[flattering]を『外交辞令』とせず『おべんちゃら』など、故意に『汚い言葉』を使った翻訳を紹介しているのが気に障った。
お断りしておくが、私はアメリカを弁護する気持ちは毛頭ないし、筆者たちの評論が間違っていると指摘する根拠も持っていない。しかし、群盲が象を探った比喩と同じで、断片的な事実だけを取り上げ、アメリカ人を類型化し、軽卒に評価する過ちは避けてもらいたい、と主張したいのである。
私は今日まで在米47年、ケネディ大統領の暗殺事件に始まり、キング師やロバート・ケネディ上院議員らの暗殺、ベトナム戦争中から今日のイラク、アフガニスタン侵攻を通じての反戦運動、平和運動、の数々を見聞してきた。そうした動きと並行し、戦争を憎み、平和を望み、原爆投下を恥じているアメリカ人が年々増加し、毎年8月6日には各地で各種の『ヒロシマを悼む集会』が民間団体や宗教団体によって開かれ、日本人並みに千羽鶴を折り続けているアメリカ人が大勢いることも知っている。天声人語、余録の双方ともに「原爆投下の肯定論が世論の常識で6割を占める米国」という断定的な評価をしているが、片手落ちの偏見という誹りは免れまい。
一方、アメリカの新聞や雑誌にも原爆投下を反省する評論が毎年のように掲載され続けてきた。それらの論調を総合すると「1945年当時には、日本は戦いを続けるだけの戦力を失っていた。軍艦も飛行機も失い、日本軍隊の兵隊は大半が戦死し、日本の都市は殆んどが空襲で破壊され、国民は生活に必要な食料や必需品の欠乏に苦しみ、ただ生きるのが精一杯で戦意を失っていた。だから原爆を使わなくても、遅かれ早かれ降伏せざるを得ない状態だった」という論理が骨子となっている。
これはうなずける常識の上に成り立った理論だが、常識で割り切れない信条が存在していたことには全く気付いていなかったようだ。
では原爆投下の責任の所在はどこにあったのであろうか?結論を急ぐ前に、昭和20年(1945)、日米戦争の終盤にあった戦局を駆け足で回顧してみよう。
■ 7月15日:ニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験が成功。
■ 7月17日:ドイツ、ポツダム市で連合国の4首脳:(上は左から)スターリン書記長、蒋介石首席、トルーマン大統領、チャーチル首相と後任のアトリー、らの会談が始まった。
■ 7月26日:日本に対する無条件降伏の勧告『ポツダム宣言』が作成された。勧告書には「降伏しない場合には『強大な破壊』の用意がある」と原爆投下を警告していた。
■ 7月27日:大本営は『ポツダム宣言』を受領。降伏勧告を受諾するかどうかが検討された。東郷茂徳外相が「降伏する絶好のチャンス」としたが、阿南惟幾陸相(右下)は『本土決戦』を主張、鈴木貫太郎首相(左)は『宣言』に回答する決心がつかず『黙殺』してしまった。
■ 7月27日:アメリカの参謀本部で、日本への最終的攻撃は『九州侵攻』か『原爆投下』かで意見が真っ二つに分かれた。ウイリアム・リーハイ長官とアイゼンハワー元帥は『原爆投下』に反対。片やトルーマン大統領は先年のノルマンディ侵攻の経験から予測し『九州侵攻』で起こり得る60万から100万人に及ぶ人的損害を避けるため『原爆投下』に傾く。
■ 一方、日本では『本土決戦』に備え、小中学生、女生徒まで含め、竹槍で防戦する訓練を受けたいた。
■ 7月27日以降、8月2日まで、アメリカの爆撃機が日夜、日本の大小都市を空爆し続けた。
■ 8月3日:天皇裕仁は陸軍士官学校の卒業式で「勇気をもって勝利を、、、」と檄をとばした。
■ 天皇は降伏を避けるため、不可侵条約を交わしていたソ連(ロシア)の仲裁を当てにしていたが、何の回答もなかった。
■ 8月6日:世界初の原子爆弾が広島に投下され、一瞬にして12万人の市民が焼死し、3万人が不治の重軽傷を負った。(その年末までに死者は20万人に膨らんだ。)阿南陸相(上右)は「原爆の2発目を作るにはあと半年かかる」と多寡をくくり、『本土決戦』を主張し続けていた。
■ 8月8日:天皇が『仲裁』を頼りにしていたソ連が不可侵条約を破棄して日本に宣戦を布告した。
■ 8月9日:2発目の原爆が長崎に投下され、3万5千人が焼死。(その年末までに被爆被害者は7万4千人に膨らんだ。)
■ 8月10日:大本営は『無条件降伏』でなく『条件付き』の受諾をワシントンに通達。米国側は受領は確認したが『条件付き』の項に触れるのは避けた。
■ 8月11日から14日まで、大本営では夜を徹して『無条件』を呑むか呑まないかでもめていた。
■ 8月15日:天皇裕仁の遅過ぎたきらいのある決断で、録音『敗戦の詔勅』がラジオを通じて全国に放送された。『詔勅』文には『敗戦』または『降伏』という言葉は見当たらない。
以上、日本が国家の運命を左右した重大な20日間である。ご注目いただきたいのは『ポツダム宣言』の降伏勧告を受領した7月27日から、広島へ原爆投下の8月6日まで10日も猶予があった点である。
前掲、アメリカの評論家は「、、、原爆を使わなくても、遅かれ早かれ降伏せざるを得ない状態」にあった日本、と常識で分析して『原爆不要論』を主張していたが、日本の戦争指導者が『本土決戦』に固執し、最後の一人が殺されるまで戦うことを国民に強制し、『降伏』を拒否していたいたことには気が付いていなかったようだ。
話が昭和16年に遡るが、武士道の作法に、寝ている敵を殺す時は、相手の枕を蹴飛ばし、起してから刺す、という教えがあった。真珠湾攻撃を計画した山本五十六司令長官はそれに習い、攻撃の直前に宣戦布告書をワシントンに渡す手筈だったが手違いで遅れた。それを知った司令長官は烈火の如く怒ったと伝えられているが、仮に計画通りのタイミングで宣戦布告状をワシントン政府に手渡していたとしても、真珠湾の急襲が正当さを欠いていたことは否めない。
それに反して、原爆投下は少なくとも10日も前に予告されていたのだ。『ポツダム宣言』を受領してから広島の被爆まで10日間、ソ連から宣戦を布告されるまで12日間、長崎の被爆まで13日間、大本営は何ら対策を講ずることもなく非生産的な評定で時を徒らに過ごしていたのである。もし(仮説で歴史を覆すことはできないが、、、)、東郷外相の提案『降伏する絶好のチャンス』を採択していたら、原爆投下やその他大小都市の破壊は避けられていたのだ。
あくまでも『本土決戦』に固執し、小中学生まで巻き添えにし、自国民の最後の一人が殺されるまで戦うと言い張っていた戦争指導者の狂気な頑迷さを知った時、私は(戦後何年も経ってから)大江健三郎や広島の生存者が感じた、あの『激しい怒り』がこみ上げてきた。そしてそれが原爆投下を正当化する口実にもなり得たことについて、良識ある新聞人たちが全く触れていないのに不満を感じたのは私だけであろうか。
最後にもう一言。トルーマン大統領は『九州侵攻』で60万から100万人の人的損害が予測されるとして『原爆投下』を選んだ。その人的損害の数はアメリカ兵だけだから、防戦する側の日本国民-----軍人ばかりでなく竹槍を持たされた未成年者も含め-----の人的損害を加算せねばならない。
もしアメリカが『九州侵攻』を選び実行していたら、世間知らずで戦争指導者を信じ切っていた16才の私自身も、勝ち目のない『本土決戦』で無駄死にしていたに違いない。
(右上の人々は戦争犯罪人として起訴された戦争指導者たち。内、東条英機以下7人が絞首刑になり、上記の阿南陸相は敗戦放送直後に自刃し果てた。)
1 件のコメント:
核兵器の無い世界、、、平和への理想です。でも核兵器以外にも殺人兵器は無数に存在しています。『核廃絶』と共に『全ての殺人兵器の廃絶』も実現させ、究極的に戦争のない『平和』をもたらしたいものです。
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