2010年8月11日水曜日

広島:怒りの文学へ

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう)
2010年8月5日付け、NYTに掲載、全文

東京発: 沖縄、普天間のアメリカ海兵隊飛行場基地は、東アジア最大の米基地の一つで、人口が密集した市街の中心地に設置されている。日米の政府はその危険性を15年前から認知しながら移動させる気配は全く見当たらない。(右は、筆者大江健三郎)

2009年に就任した鳩山由起夫首相は、沖縄市民から嫌悪されていた基地を移動すると公約しながら、その要望を棚上げにしたまま期待に反して実行できないまま失脚した。その後継となった管直人首相は、日米安全保証条約を尊重すると表明し-----それと米軍が日本に駐在するという基地問題とは直接の関わりはなく、その立場は時の風向きに依存しているようだ。


最近の報道によると、政府閣僚は、日本で核兵器を製造、所有し、または使用して限定した条件でアメリカを援護することは賢明ではないとし、核兵器を運搬する際、日本の領土を通過させることによって、いわゆる核兵器傘下の事情を向上させるという非核兵器3原則案に関する提案を含んだ方針書を管首相に提出する事になっているそうだ。


私がその記事を先週読んだ時、限りない怒りを覚えた。(その言葉が私にとって重要性を持つ理由については後段で説明する。)今年、同様な激怒に襲われた他のニュースがあった。それは過去何十年もの間に亘る沖縄問題に関連し『非核兵器3原則』の3番目である核兵器を日本へ持ち込む(通過も含め)ことを禁止するという原則に違反する密約が日米間で交わされていた、という記事を読んだ時である。


原爆が落とされてから今年で65周年目を迎え、年中行事である広島平和記念祭で、イギリス、フランス、アメリカの代表達が初めて出席することになった。これは民間の行事でありながら政府の指導者たちが演説をするが、同時に、被爆者や生存者たちが近親の犠牲者を追悼するという個人的に重要な意義もある。近代日本で過去200年来、全ての公的な行事の内で、平和の祭典は道徳上、最も真摯(しんし)執り行われるべき行事である。

私はここで道徳上、真摯にという表現を、オバマ大統領が2009年4月、プラハで行った演説から意図的に引用して使った。大統領は原子力を核兵器として応用するとしたら、アメリカはその行動に道徳上の責任があると言っていた。大統領の呼びかけには、特定の強大な国家が無制限に核兵器を所有してしまう以前に、効果的な核武装禁止行動を起さない限り、核兵器の生産を促すという新たな危機の発生が感じられる。


オバマ大統領のプラハでの演説は、2007年のウオール・ストリート・ジャーナル紙(the Wall Street Journal)に掲載された評論核兵器のない世界(A World Free of Nuclear Weapons)』ジョージ・シャルツ(George Shultz)、ウイリアム・ペリー(William Perry)、ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)、サム・ナン(Sam Nunn)等の発言を反映していた。彼らは「多数の国々が他国からの脅威に対して、(核兵器製造を)不能にするよう適切な対策を講じ続けねばならない。しかしながら、その脅威を妨げるために核兵器に依存するという考えは著しく危険であり、むしろ効果がない」としていた。


非核武装の意識は、アメリカやヨーロッパで広がり始めているようだ。事実、日米仏の代表たちが平和の祭典に出席したことは、非核武装世界へ僅かながら第一歩を踏み出した象徴として映るであろう。しかしながら、現在の状況を展望する限り、日本(政府)は一向に国内の米軍基地を移動させる具体案を持っていないようだ。それどころか、我々は、アメリカの保護に依存する代償として、核兵器が日本へ持ち込まれたり通過するのを許容黙認する可能性が強い。


国連の安全保障委員会の会議で、退陣前の鳩山首相は、オバマがプラハ演説で言及した「日本も道義上の責任がある、、、」に対して「唯一の被爆国であるから」と応えていた。

しかし、こうした非核武装案への美辞麗句に対して、一体どのような行動が計画され用意されているのだろうか?もし管首相オバマ大統領の演説について考える余裕があったとしたなら、何と解釈しただろうか?もし彼が祭典で演説するとしたら、核兵器が日本へ持ち込まれたり通過するのを容認する閣僚の一人として、適切な発言をする言葉の用意は持ち合わせていないのではなかろうか。


でももし彼が発言するとして、オバマの側である諸外国の代表たちは、どう受け止めるであろうか?そして平和会場に占める被爆者たちがどのように感じるであろうか?世界で唯一の被爆国国民として、核兵器傘下の保護の元で生きることが道義上の責任であり、自由を獲得するために傘下にあることを放棄したがるのは、責任を放棄するという反抗的な行為だと非難されたら、被爆者たちは激怒するのではなかろうか?


私も考えさせられる-----今や前首相が当初バラ色の公約をした普天間基地を沖縄の辺野古村へ移動させる筈だった計画が有耶無耶に消滅してしまったことを-----2千日以上も座り込んで抗議していた村の老人男女達が、度々変更される政府の方針をどう受け止めたであろうか。


65年前、昭和20年8月、(私の母の)友人の一人が広島で被災した後行方不明とされていたが、現地の病院に収容されていたのが判り、四国の家にいた母は、ささやかな援護の品々をまとめて見舞いに出掛けた。母はその旅から帰宅してから、その友人の模様を話してくれた。


それによると母の友人は、原爆が投下される直前に、真夏の焼けるような太陽を避けるためレンガ塀の陰で凉を求めていた。その日陰から彼女(友人)は遊んでいた二人の子供たちを眺めていた。その時原爆が炸裂し、彼女の目の前でその子供たちが蒸発してしまった。彼女は「私はただただ怒りがこみ上げて、、、」と母に語りながら涙ぐんでいた、ということだ。


私はその話を聞いた時点で、その実態を明確に把握していなかったにも拘らず、その恐怖に満ちた話を聞きながら(彼女の「怒りが、、、」という言葉と共に、すっかり私の胸にずっしりと重く心の底に根を下ろしてしまった)、作家になって書き残さねばならぬ、と痛感したのであった。その思いがずっと脳裏に去来していながら、その後今日までの50数年『核時代』と呼ばれる世界に生き、私は一向に、原爆を体験した人々を叙述する筈の『一大文学』を書き上げることができなかった。今こそ私は、その文学を書き上げることだけが、私自身に与えられた使命であると考えている。


イドワルド・ワディ・サイード(アラビア読み:Edward Wadie Said*下段の註を参照)の最新の書熟年の文体について(On Late Style:2006年版)』の中で、彼は数々の芸術家たち(作曲家、音楽家、詩人、小説家)の例を挙げ、彼らの作品が年令を重ねる毎に、奇妙な形で緊迫感が集約され、破滅の縁の上を彷徨い、そして彼らが晩年になるとその緊迫感を利用して、その年代なりに、彼らの世界、彼らの社会、彼ら自身を表現するようになった、と分析している。

先週の或る日、私が核兵器傘下のイデオロギーが復活していると知った時、人気(ひとけ)のない深夜、私は書斎で独り坐り、自分自身を見直していた、、、私が見たものは年老いた、無力な人間、激しい怒りの重みの下で身動きもせず、まるでそうしていること自体が(何もしないでいた間が)文学の形式(文体)そのものでもあるかのように、ただ奇妙に集約された緊迫の気配を感じていた。


そして、その老いた日本人の男が、多分そこに独りで坐って黙々と抗議していること自体が、彼の晩年の作品になることであろう。
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イドワルド・ワディ・サイード(アラビア読み:Edward Wadie Said:1935年11月1日生まれ〜2003年9月25日死亡):エルサレム生まれ、パレスチナ/アメリカ文学の理論家で、パレスチナの人権擁護活動家でもあった。


[お断り:以上は、筆者の日本語で書いた評論が英語に翻訳され、それを再び日本語に訳し直したものです。当然原文と違う表現が随所にあると思いますが、筆者の意図は充分に掴むことはできたと確信しております。編集責任:高橋 経]

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

核兵器だけに止まらず、世の中のあらゆる殺人器具-----爆弾、魚雷、大砲、長短大小あらゆる銃-----をこの地球上から追放したいものです。