引き続き普連土学園の大津光男財務理事から、前回の挿話を受け、敗戦後日本人の大半が体験した貧困生活を、海外の救護団体によって救われた実情をお伝えします。『ララ物資』という言葉は、空腹を抱えていた当時に日本人にとって大きな福音の響きを持っていました。戦中派はもちろんですが、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたい『風化させられない』日本人の悲惨な日々の一端です。編集;高橋経記
3. ララの構成
前記のような状況下、昭和21年(1946)6月、アメリカン海外事業運営篤志団(American Council of Voluntary Agents for Work Abroad)は、日本、朝鮮及び沖縄における救援事業を特に行うため、民間の特別委員会設置を決定した。同特別委員会をアジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia:LARA)と命名。その頭文字をとって『ララ(LARA)』と略称した。ララは民間組織とはいえ、アメリカ大統領の公認団体だった。
ララを構成していたのは:
- アメリカン・フレンズ奉仕団、以下AFSCと略称(American Friends Service Committee)
- 教会世界奉仕団、プロテスタント各派連合(Church World Service Committee)
- カトリック戦時救済奉仕団(Catholic War Relief Service)
- 救世軍(Salvation Army)
- 男子キリスト教青年会、YMCA(Young Men’s Christian Association)
- 女子キリスト教青年会、YWCA(Young Women’s Christian Association)
- ブレズレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)
- ガール・スカウト(Girl Scouts)
- ルーテル教会世界救済団(Lutheran World Relief)
- ユニテリアン奉仕委員会(Unitarian Service Committee)
- クリスチャン・サイエンス奉仕委員会(Christian Science Service Committee)
- アメリカン労働総同盟(American Federation of Labor)
- 産業別組合会議(Congregations of Industrial Organization)
こうして、アメリカ合衆国、カナダ、中米、南米の教会関係者、そして日系人達から食糧、衣類、医薬品類、日用品、学用品、さらに牛や山羊まで集められて日本へ贈られてきた。けれども、実際にはララのこの活動は、何時、誰が、どうして考えつき、働き始めたかを断定することができないところに、この活動がキリスト教の隣人愛に根差した、大きくより大衆的な精神的活動でもあった、とされている特長がある。『ララ記念誌』の25頁に「各地各国によって、多少の遅速や経緯の相違はあったろうが、大体において、終戦の年、即ち昭和20年(1945)の冬から翌年にかけて、故国難民救済の活動が始まり、それらはいずれも皆ララに合流して、莫大な物資がララ第1船以来、続々と日本に送り届けられた」とある。
4. 救済活動の準備
アメリカでの日本救援の気運がいよいよ熱し、物資輸送の手はずも整った頃、被災国日本における受入体制準備のため、AFSCのエスター・ローズ(Esther B. Rhoades、右の写真:戦前から普連土女学校勤務、戦後は普連土学園中学、高等学校校長<1949~1955>、理事長<1955~1960>、現在の天皇明仁が皇太子だった頃、家庭教師となったエリザベス・グレィ・ヴァイニング夫人[Elizabeth Gray Vining]の後任として皇室家庭教師兼務)、カトリックのマイケル・マキロップ神父(Michal J. Mackillop)と前記のジョージ・アーネスト・バット博士が、物資発送に先駆けて、ララの代表として来日した。昭和21年(1946)6月のことだった。
ララ代表は、その後、事業の途中、ヘンリー・フェルセッカー(Henry J. Felsecker)がマキロップと交替し、バットは不幸にして59歳で、超多忙な活動により昭和27年(1952)3月急逝した。それは殉職というに等しく、夫人のエディス・バット(Edith E. Bott)がその後を継いだ。
その他、教会世界奉仕団のカール・クリーテ(Carl D. Kriete)、AFSCのトーマス・E・フォークス(Thomas E. Forlks)、ハワード・テーラー(Howard J. Taylor)も臨時的にララ代表として活躍した(『ララ記念誌』59~60頁、同記念誌にハロルド・フェルセッカー及びハロルド・テーラーとあるのは誤記)。 これらの代表の中、ローズ、フォーク、テーラーの3名がAFSC関係者であり、フィラデルフィアのクエーカーだった。ハワード・テーラーは、昭和42年(1967)9月~昭和44年(1969)7月、普連土学園で英語を教えたキャサリン・テーラー・水野(Kathryn Taylor Mizuno)の祖父である。
一方、日本国内で直接社会事業に深い関心と経験をもち、国際事情に精通していたことにより、ララの代表に協力して企画運営に当たったのが中央委員であった。中央委員会が帯びていた任務は、救援物資の割当及び配分に関する一般方針の企画、立案、実施などであった。一般社会情勢、施設の実情を常に考慮し、必要な要求に即応できる輸送に関する具体案の作成、輸送物資の受領、記録、倉庫収納、そして配分に関しては厚生省との協力を緊密にとった。その他、ララ代表を通じて在米寄贈団体に報告書を提出し、在米寄贈団体に日本の困窮の実情、受領者からの謝意などを伝え、更に救護促進を依頼する、などを実施した。
当該中央委員32名中、澤田節蔵(さわだ せつぞう)と鮎澤巌(あゆざわ いわお)の2名が日本のクエーカーで、普連土学園と関係のあったことを銘記しておきたい。普連土学園が戦後学校法人となり、その初代理事長に就任したのが澤田節蔵、2代目がエスター・ローズ、3代目が鮎澤巌であったからである。このように普連土学園とララとはおそらく日本国内のどの学校よりもはるかに縁が深かった。
ミス・ローズやヴァイニング夫人の母校、フィラデルフィアのジャーマンタウン・フレンズ・スクール(German-Town Friends School)では、生徒が昼食を抜いて、その昼食代で日本への援助を行っていたからでもある。
5. 救済活動の実施
さて、昭和21年(1946)6月21日、マイケル・マキロップとエスター・ローズは、厚生省の葛西嘉資(かさい よしもと)社会局長室を訪れ、ララの基本構想を打ち明けた。その懇談の内容は、GHQのガリオア援助(Government and Relief in Occupied Areas:GARIOA)とは別に、戦後の困窮時、民間人によって送られた救援物資を「公平」に、「効果的」に、「迅速」に配分するための協力を求めた。(註:『クエーカーの足跡』葛西嘉資の『想い出集』では6月22日になっている)翌7月8日、バット、マキロップ、ローズの3代表とGHQ厚生課長ネフ大佐、救資軍デビッドソン准将(Lieutenant General Phillip Buford Davidson, Jr.)ら6名、日本側は厚生省の葛西嘉資社会局長ら14名が厚生省に集まった。そして、日本側の適当な受入態勢・配分先・今後送付を希望する品名等につき、一般的な討議を開始した。
その結果、8月30日、GHQから「ララ救援物資受領並びに配分に関する連合国軍最高司令官総司令部の日本帝国政府に対する覚書」(昭和21年(1946)8月30日SCAPIN-1169)が交付された。この覚書に対して厚生大臣は、9月20日付で「計量に関する計画、保管に関する計画、配分に関する計画、警備に関する計画」を回答、心構えを明らかにした(『ララ記念誌』56~58頁)。
同年11月30日午後5時、横浜港に到着したハワード・スタンドベリー号(Howard Standberry)に積み込まれた第一便の配分は、最も困窮していた乳児院、児童養護施設、結核、ハンセン氏病などの療養施設、老人ホーム、広島、長崎の被災者とされた。地域別では東京地区へ35%、大阪18%、横浜8%、名古屋8%、広島7.5%、京都6%、神戸6%、長崎2.5%、その他14%に配分された。(右は辛うじ走り出した東京の都電:昭和26年)
こうして、昭和21年(1946)12月から昭和27年(1952)3月まで足掛け7年間、当時の日本人の推定6分の1にあたる延べ1400万人が救援物資の恩恵を受けることになったのである。昭和22年(1947)にはララ物資が全県に配付されるようになり、秋ごろからララ物資の配付先が保育所、国立病院、療養所、学校給食にまで広がった。
ペニシリンなどの薬の配給は入院患者の死亡率を激減させたが、同年4月、茨城県下の小学校に入学していた私は、5年生の終わりまで、まるまるこの恩恵に浴していた。それは、学校給食時のコッペパンであったり、脱脂粉乳であったり、時には上着やズボンなどの衣類であったり、その他の日用雑貨品であったりした。
葛西嘉資は、厚生省の社会局長時代を回想して、ララについて「暖かい援助であった。ご存知のように社会施設に収容されている戦災孤児や一人ぼっちの老人などは、闇市で品物を調達する術が全くないので、もしあの時、ララの援助がなかったとしたら、と考えると、今でも肌に粟を生ずる思いである」と書いている(『一クエーカーの足跡』第2版166頁)。
昭和21年9月、ララの事務所が東京駅に近い「三菱中十三号館」に開設されたが、エスター・ローズが担当したAFSCのララ物資配分場所となったのが、現在のフレンズ・センターだった。AFSCは、戦後日本支部の再設立に際して、拠点事務所を東京都港区のフレンズ・センターに設けたからである。ここは、幸運にも近隣住民の必死の消火活動により戦災を免れ、戦災で焼失した普連土学園の仮校舎として使われていたところだった。その3階が倉庫兼作業場とされた。
そして、例えば、衣類が送り先ごとに分類されて、サラリーマンには背広やネクタイなども提供された。その作業は夜を徹して行われたほど厳しい仕事であった。かつて、関東大震災の被災者に対して、基督友会奉仕団が行った救援活動のワーク・キャンプ、すなわち日本における実質的なワーク・キャンプの端緒となった深川公園においても、ララの物資が配給されていた。(左は東京新宿の焼け跡。道路を隔てて三越と伊勢丹のビルが焼け残った。昭和20年秋)
AFSCは、ララの救援活動を続ける一方、その拠点を活用しながら昭和24年、東京都新宿区戸山ハイツと茨城県水戸市備前町に、さらに、昭和26年には東京都世田谷区下馬にそれぞれネイバフッド・センターを作った。そして、その近郊に住む人たちが自分の持っている裁縫、珠算、書道等の特技を分かちあったり、子供たちの面倒を見たり、あるいは小さな図書館や勉強用の小部屋、安全な遊び場になるような便宜を与える場所を提供したのであった。
水戸市備前町では幼稚園(現少友幼稚園)が再開され、世田谷区下馬には、昭和24年(1949)12月に、おともだち保育園を開いた。これが現在、普連土学園の奉仕活動対象施設でもある社会福祉法人日本フレンズ奉仕団所属の保育園の端緒となっている。
また、一方でAFSCは、国際学生セミナーや国際学生ワーク・キャンプをフレンズ・センターで企画していた。だが、さらに、国内におけるワーク・キャンプの事務所を、世田谷ネイバフッド・センターや戸山ハイツ、ネイバフッド・センター内に置いた。その初代の主事となったのがジャクソン・ベイリー(Jackson Bailey:アーラム大学Earlam College元教授・普連土学園元理事)であった。普連土学園を何度か訪問、援助してくれた日系二世のクエーカー、ジョージ・オーエはフィラデルフィアで、AFSCの援助物資担当責任者となった(『ララ物資50年感謝の集い』資料集)。
(『下』につづく)
1 件のコメント:
今日の『空腹』は健康の証拠です。65年前の『空腹』は生きるか死ぬかの瀬戸際でした。食べ物にありついた時、そのありがた味をじっくりと噛みしめたものです。
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